第2話

 ベッドの上で目を覚ます。清潔な白い布団がタロウにかぶせられていた。それは宿舎の粗末な寝台に備わるざらついた布切れとは異なり、肌触りが良く柔らかで信じられない程温かかった。

 タロウは身を起こす。どうやら自分は建物の中にいるらしかった。部屋にはベッドの他には木製の本棚と一対の文机と椅子があり、どちらも良く整頓されている。装飾こそ簡素だがいずれも高級な品に見えた。

 ここはどこだろう?

 戸惑っていると部屋の扉が開いた。警戒して思わず懐に手をやったが短刀はなくなっていた。仕方がなく素手で身構えていると、やって来たのはローブを身に着けたナガミミの女性だった。

「起きられましたか?」

 タロウに乾パンと干し肉をくれた女性だった。女性はタロウを安心させる為の微笑みを浮かべると、こちらへどうぞと部屋の外へと手を差し出した。

 言う通りにする。

 部屋の向こうにあったのはテーブルと簡素な台所の備わった空間である。テーブルに備え付けられた椅子の一つを勧められたタロウがそこに腰かけると、女性はパンとミルク、そしてソーセージに温かいスープと言ったメニューの載った盆を差し出して来た。

「どうぞ」

 それを見た途端にタロウは空腹を思い出した。空っぽに近い胃の中で粘膜がヒリヒリと疼くかのようだった。たまらずにパンを齧ると仄かな甘さがありたまらなく美味であり、流し込むミルクとスープは腹だけでなく全身に染み渡るようだった。

 朝食を平らげるタロウを女性は微笑みを浮かべて見守っていた。それに気付くとタロウは照れ臭くなり微かに視線を落とした。女性の赤い瞳に浮かぶ母性的な優しさには、全身の力がとろけるかのようだった。

「ごちそうさまなのだ。おいしかったのだ」

「いいえ。こちらの方こそ、襲われているところを助けていただいてありがとうございます」

「いいのだ。おいらはタロウ。エスキナ国の訓練生で、今は最終試験の途中なのだ」

「わたしはマリアと申します。グロウズマウル国の魔導士です」

 そう言ってマリアはぺこりと頭を下げる。揺れる黒い髪の隙間に大人の中指程の長さの尖った耳が見えた。白い肌と赤い目を持つ美貌は何度見てもタロウ達人間とはかけ離れていた。立ち振る舞いは大人びていたが顔立ちにはあどけない可憐さも残り、十代と二十代の境界程の年齢に見えた。

「この御恩は一生忘れませんのだ。ところで、おいらの短刀はどこなのだ?」

「念の為預かっています。失礼でしたか?」

「全然。普通はそうすると思うのだ。でももうこの家を出ていくから返して欲しいのだ」

「あら? どうして」

「これ以上お世話になる訳にもいかないでしょー」

「そう言わず」

 マリアは瀟洒な笑みを浮かべてじっとタロウの顔を覗き込んだ。

「せめて雪の降る間だけでもこの家にいれば良いのです。わたし達、お友達になれそうでしゃないですか?」

 タロウは逡巡した。部屋に備え付けられた窓を眺めると、外は一面の銀世界で見ているだけでも凍えそうだった。昨日までの疲労は不思議な程に癒えていたが、タロウの乏しい体力で平野を超えて街まで辿り着けるかは疑問なところだ。

「それに今から外に出てあなたはどうやって生きていくというのです? こんな冬には食料となる動物もほとんどいません。街に行っても仕事なんて貰えませんから、野盗になって誰かから略奪をして生きるしかないのではないですか? 」

 その通りだった。

「そうやって誰かから奪って、誰かを傷付けて生きるくらいなら、ここにいる方が神様もきっとお喜びになるのではありませんか? せめて冬を越すまではここで暮らしてください」

「でもおいらマリアさんに何もしてあげられないと思うのだ。ただ食い扶持を減らすだけの人間が家にいて良いのだ?」

「構いませんよ。それにここには定期的に水も食料も届くので、食い扶持の心配はいらないのです。代わりに、話し相手はひたすらに不足しています」

「ここは何なのだ? マリアさんはいったい何者なのだ?」

「結構な身分の者なのです。ね? 良いでしょう?」

 そう言ってほほ笑むマリアに、タロウは一瞬の躊躇の後、頷いたのだった。




 平野に立つ家でのマリアとの暮らしは、タロウには信じがたい程幸福なものだった。

 苦痛と屈辱と生命の危険に塗れた軍事訓練はなく、代わりに限りない平穏だけがあった。寝て起きて三度の食事をし家事を手伝う以外にはすることがなく、余った時間はひたすら思索に耽ったり、マリアと会話をしたりした。

「ねぇマリアさん。グロウズマウルがエスキナを襲おうとしているっていうのは本当なのだ?」

 ある日タロウが話しかけると、マリアは小首を傾げて答えた。

「いいえ。わたし達はむしろ、エスキナがグロウズマウルを狙っていると聞いています」

「そうなのだ? でも、エスキナでは敵情視察に来たナガミミが捕まって、戦争を仕掛けるつもりだと吐いたという噂があるのだ」

「確かに我々エルフはしばしばエスキナに偵察に行きますが、それはそちらも同じはずです。おそらく互いに出方を伺っているのでしょう。ただ、捕まった同族がエスキナを襲うつもりだと吐いたというのは、信じがたいですね。エスキナによるプロパガンダの準備だと思われます」

「それは本当のことなのだ?」

「分かりません。それぞれに真実があるとも言えますし、両方が誤りであるとも言えます。最早どちらが先に相手の国を襲おうとしていたのか、どちらにも分からなくなっているのだと思われます。いずれにせよ、長い緊張状態があることは確かです」

 雪の降らない日には家の外に出て遊んだ。雪の玉を作って投げ合ったり、大きなカマクラを二人でこさえたりした。

「楽しいですね。人生でこんな風に友達と無邪気にはしゃぐなんてありませんでしたから」

「それはおいらも同じだけれど、マリアさんもそうなのだ?」

「ええ。魔導士になる為に、毎日必死で勉強をするだけの日々でしたから」

「今もしょっちゅう机に向かっていると思うのだ」

「大した時間ではないですよ。一時期は今の何倍も勉強していましたから。ところでタロウさん、あっちを見てください」

「え? なんなのだ?」

「えい」

 マリアはタロウの首筋に雪玉をこすりつけた。震え上がるタロウから、マリアは無邪気に笑いながら走り去っていく。

「こ、このっ。やったのだっ! し返してやるのだ!」

 同じくらいに満面の笑みを浮かべながら、タロウは雪玉をもってマリアを追い掛けた。

 一面の銀世界の中央で、タロウはマリアとの日々に幸福を噛み締めていた。




 ある日のことだった。

 タロウは退屈していた。マリアはどこかへ出掛けていて家に一人だった。暇な時はたいてい一人で思索に耽っていれば事足りるタロウだったが、連日の平穏の中で考え事のタネも摩耗していた。

 そこでタロウは最初に目覚めたマリアの寝室兼書斎に侵入し、本棚に手を伸ばした。ここの本はタロウの知らない字で書かれている為読むことはままならないが、絵や図を眺めながら内容を想像するだけでも楽しいものだ。

 このようにしてマリアの本を覗くこと自体はタロウの生活で良くあることだった。時にはマリアに文章を音読してもらうこともあった。記された絵や図とマリアによる解説を組み合わせることで、タロウは何冊かの本については内容をおぼろげに理解していた。

 それは魔術の教科書であるようだった。

 あの日レオによって胸を貫かれた自分がどのようにして助かったのかを、タロウは既に理解していた。まともな医療では様態の絶望的な人物を助け出せるマリアの魔法に、タロウは深い賞賛と敬意を抱いていた。これほど素晴らしい力を扱えるグロウズマウルに攻め入るなど、エスキナは愚かな国だと思うようになっていた。

 同じ長い時間をかけて習熟するにしても、宿舎で闇雲に肉体を鍛えるくらいなら、自分もマリアのように魔法を勉強したかった。

 ほんの戯れのつもりだった。壁に立てかけられた杖を手にして、タロウは目を閉じて精神を集中させた。そして魔導書に描かれた手順に従い、マリアの真似をして口の中で呪文を唱えた。

 途端、大気中に存在する目には見えない何かしらの動体が、タロウの身体の芯に集まるのを感じた。それはタロウの知るあらゆる原子とも分子ともかけ離れた存在であり、その振る舞いは生命のようですらあった。

 マリアは言っていた。大気中には四つの元素を司る精霊がいて、世界中を覆うそれらは一つの生き物のように繋がっている。そして彼らの言葉で語り掛ければ、我々に力を貸してくれるのだと。

 タロウは自分が今から魔法を使おうとしているのだと理解した。まさか本当に成功とは思わず焦燥した。

 動揺して詠唱をやめると、身体の芯に集まっていた動体がタロウの中からあふれ出した。その振る舞いはタロウの身勝手さに怒るようであり、闇雲に飛び出したそれらは周囲の色んなものを吹き飛ばしながら大気へと帰った。

「ぎゃ、ぎゃあっ」

 タロウの持っていた魔導書と杖が壁へとぶち当たった。魔導書のページのいくつかが破け、杖は真っ二つに破損して床に転がった。タロウの身体も弾き飛ばされたが、肩を痛打した以外は目立った外傷はなかった。

「……どうしましたかっ?」

 ちょうど家に帰って来ていたマリアが慌てた様子でタロウのところへ駆け込んだ。そして状況を目の当たりにするなり、信じられないといった表情で口元に手を当てた。

「まあ」

「ご、ごめんなさいなのだ! 本と杖を壊して部屋を散らかしちゃったのだ!」

 タロウは痛む身体を引き摺って立ち上がるとマリアに詫びた。マリアは目くじらを立てて怒るのを見たことはなかったが、初めてそうなってもおかしくはない状況だと感じた。

 しかしマリアの行動は意外なものだった。

 マリアは感動したように真っ赤な瞳をきらきらと輝かせると、笑みを浮かべてタロウに歩み寄った。そして細い腕を伸ばしてタロウの背中に回すと、柔らかな身体をタロウに押し付け、抱き締めた。

「の、のだ?」

「驚きました! 最高のサプライズです!」

 マリアの心臓の鼓動を感じた。タロウは何が何だか分からないまま、ただ突然のことに沸騰しそうなアタマを抑えるのに必死だった。

「良いのです。杖はそもそも消耗費ですし、本だって貴重なものではありません。それよりも、何よりも、あなたが魔法を使ったことが重要なのです。本当に頭が良いのですね。あなたは本当に素晴らしい」

 マリアはタロウの肩を掴んで、ガラス玉のつもりで拾ったのが価値ある宝石だった時のような、満面な笑みでじっと顔を覗き込んで来た。

 最早タロウにはどうして良いか分からなかった。




 散らかった部屋を片付ける時も、夕飯を作って二人で食べる時も、マリアは普段よりも上機嫌だった。就寝前のおしゃべりもいつもより遥かに楽し気であり、その上明かりを消す時間になるとこんなことを言い出した。

「ねぇタロウさん。今日はわたしの布団で一緒に寝ませんか?」

 タロウは最早恐れおののいた。女性と同衾するなどとタロウには生まれて初めての経験だった。そもそもタロウの青春時代はむさくるしい男所帯の宿舎生活にあり、女性と一つ屋根の下にいるこの状況も異常中の異常であると言って良かった。なので当然マリアに対する感情にも生臭く湿ったものがあった。それは恩人への感謝と敬意に、男児としての情欲をある面では複雑にある面では単純に交えた、混沌としたものだった。そんなマリアと同じ布団で寝るなどこの世の出来事とすら思えなかった。

「ででででもそんなことしたらだだだだめだめだめ」

「良いですから。来てくださいタロウさん」

 流されるままに同じ布団に入った。マリアの体温はタロウよりは低かったが、それでも同じ布団の中で感じるぬくもりは生々しかった。

 マリアは遠慮なくタロウに抱き着いて来た。抱き枕か人形にでもするように柔らかな力を込め、その全身をぎゅっと押し付けて来た。この家においてタロウがマリアに果たしている役割の一つが、愛玩具的なそれであることを薄々察していた。とは言え不躾に撫で回されて傷付くようなプライドは持ち合わせていなかった。むしろ気持ち良かった。タロウはひたすらされるがままになるに任せていた。

「あなたって本当に可愛い顔をしていますよね。女の子みたい」

 タロウは線が細くあどけない顔立ちをしていた。背丈の低さも相まって幼い印象を人に与えた。それは宿舎では嘲りの対象であり、『女の腐ったような顔』という揶揄は聞き飽きる程だった。それを好意的にとは言えマリアに指摘されてタロウは羞恥を感じていた。

 しかしその羞恥を上回る程の事態がタロウに生じた。タロウの頭を抱き締めていたマリアが、今度はその耳に息を吹きかけて舌を這わせて来たのだ。突然のことにタロウは慄いて逃げ出しそうになったが、マリアが全身に絡みついていてそういう訳にもいかなかった。

「まさか、本当に一緒に寝るだけなんて思ってないですよね?」

 まずい状況だと思った。何がまずいのかは女のことも性のことも何もしらないタロウには良く分からなかったが、とにかくとてつもないことが起きようとしているのは理解が出来た。頭は状況を理解していなかったが肉体の方は何かを感じているようで、全身の血が沸騰するような興奮が主に下半身を中心に渦巻いていた。

 そこからタロウの身に起きた混沌について具体的に記すのは憚られる。

 翌日、朝日と共に目を覚ましたタロウは、隣で眠っている半裸のマリアの寝顔を眺めていた。全身を異様な倦怠感が包み込むと同時に、精神のある部分は奇妙な程にさっぱりとしていた。マリアの長いまつ毛や整った鼻筋を見ていると、昨日この布団の中で起こった出来事が生々しく思い出された。

「……起きられましたか?」

 マリアが目を開いて言った。タロウが頷くと、マリアは笑顔を浮かべてその鼻先を細い指先でつついた後、挑発的に問いかけて来た。

「もうすぐ春になりますけど、どうです? この家を出ていくつもりはまだありますか?」

 タロウは震えながらどうにか首を横に振った。

「ならずっと一緒にいてください。春になってからも、一年経ってエスキナの最終試験が終わってからも、ずっとずっとわたしの傍に」

「だ、ダメなのだ。おいらの手の甲にはエスキナの刻印があるのだ。これがある限りどこにいっても鼻つまみ者。あそこ以外では生きられないのだ」

「ならば。わたし達の仲間になれば良いのです」

 マリアはタロウの小さな体を絡めとるように抱き締めて来た。

「グロウズマウル国の一員になってください。わたし達はあなたを歓迎します。あなたはきっと役に立ちます」

「ど、どういうことなのだ? 役に立つって、どうすればよいのだ?」

「あなたはエスキナに生まれ、エスキナの刻印を施され、エスキナの戦士としてやがて成人を迎えます。そんなあなたがエスキナに潜り込めば、誰も警戒することができません。あなたは賢いですから国の中枢にも食い込むことが出来ます。そこで得た情報をわたし達に伝えてください」

「す、スパイになれということなのだ?」

「その通りです。一緒にエスキナを打倒しましょう。そして戦争に勝った暁には、あなたはグロウズマウル女王の勲章を授与され、正式に国民として受け入れられるのです。そうしたらまた、いつまでも一緒に暮らしましょう」

 宝石のような赤い瞳がタロウに決断を迫っていた。タロウは迷っていた。しかしその迷いはタロウの精神の変遷の始まりでもあった。

 タロウはエスキナに何の愛着も抱いていない。宿舎では毎日のように虐げられ同輩からは生命すら狙われた。教官もタロウを助けなかった。むしろ言外にタロウに間引きをするよう同輩達に促していた。あの国ではタロウは生きていることさえ咎められる存在だった。

 愛する者もいない。両親はいるが父はいつもタロウに暴力を振るい、何故こんな軟弱な男が自分から生まれたのかを嘆いた。母は優しくしてくれることもあったが、七歳になった時には泣き喚くタロウを容赦なく宿舎に放り込んだ。それは掟であり仕方のないことだったが、幼いタロウの実感としてそれは裏切りであり、確かに備わっていたはずの絆と愛情の終焉を意味していた。姉もいた気がするが、今では良く覚えていない。

 そうだ。タロウは思う。自分はエスキナのすべてを憎んでいる。エスキナに復讐したいと願っている。そしてその為の方法は、世にも美しい女の形をして、タロウの眼前に横たわっているのだ。

「……分かったのだ。おいらはグロウズマウルに忠誠を誓うのだ」

 一瞬だけ司書のおっちゃんの顔が瞼に浮かんだが、タロウはそれを注意深く心の奥底にしまい込んだ。そして仰向けに寝転んでから、冷ややかでも温かくもない声で言った。

「最初から、スパイにする為においらを連れて来たんでしょー?」

 マリアは眉を動かすと、微かに傷付いたような表情を作った。

「でも、別に良いのだ。一緒にエスキナを倒して、ずっと一緒に暮らすのだ」

 タロウは体の向きを変えてマリアの胸に顔をうずめる。

 エスキナに復讐をしてマリアと共に生きる。

 それが、タロウの人生の目標となった。




 スパイになる為の学習が始まった。

 諜報活動には単純な軍事訓練とは違う鍛えが必要だった。エスキナで行われたような体力的な訓練とは異なり、座学が中心となる。しかしそれはタロウの得意とするところであり、毎日机を挟んでマリアから教わるうちに、みるみるうちにそれらを習得していった。

「こうやって毎日この家で座学しているけど、それで良いのだ? 何か専門的な訓練所のようなところで、実践的な訓練を受ける必要はないのだ?」

 マリアの用意したテキストで学習をしながら、タロウはそのような疑問を口にした。

「それが必要になるのは最後の一か月か二か月だけです。そもそもあなたの軍人的な素養はエスキナで十分に鍛えられていますので、座学以外でそこまで真剣に教えることは多くないのですよ」

「でも今やってる座学がスパイ活動に有用だとは思えないのだ」

 タロウの知る文字で描かれたテキストに描かれているのは、グロウズマウルの歴史についてだった。平行して他に勉強させられているのはグロウズマウルの政治や法律の他、普遍的な倫理や哲学の授業もあった。どれもスパイ活動とは直接関係のなさそうなものばかりだ。

「今のあなたに必要なのは、スパイとしての能力云々よりよりも、グロウズマウルに対する忠誠心を養うことです。その為に、まずはグロウズマウルについて学んでいただきます。我々の国の文化や成り立ちについて学ぶことで、これまで住んでいたエスキナという国がどれだけ愚かであるかを、実感していただく必要があるのです」

 それは洗脳教育という奴なのではないかと思ったが、口には出さなかった。エスキナが愚かな蛮族の国であることは、洗脳されるまでもなく明白だった。グロウズマウルという国の実態も、このテキストに描かれている内容が真実である保証はないが、それでもエスキナに劣る国が他所にあるとは思い難かった。

 そう言った座学をみるみる吸収する傍ら、タロウはマリアから魔術も教わっていた。それは本来、スパイ育成のカリキュラムにはないことだとマリアは言った。

「本来、魔法はエルフ以外には扱えるものではありません。体質がどうとかそういった理由ではなく、そもそもアタマの作りが異なるのです」

「それって、ナガミミの頭がおいら達より良いって意味なのだ?」

「どちらかがどちらかより優れている訳ではありません。わたし達の何もかもが人間に勝るなら、あんな辺境の山奥に押し込められる道理はないと思いませんか? 数学が得意な人がいれば言語学が得意な人がいる。それと同じように、魔法の原理を理解するのに、適した者とそうでない者がいて、我々エルフは適した側だというだけのことです」

「でもおいらは魔法が使えたのだ。使えそうになったのだ」

「その通りです。ただ、それはあなたがエルフに近い思考体系を持つ、特殊な人間であることを意味しません。不向きな人間でありながら魔法を使えてしまう程、単純にアタマが良いだけなんですね」

 マリアはタロウに気に入りの家具を見詰めるような視線を向けた。

「それはあなたの光り輝く長所です。長所なら伸ばしておくべきです。諜報活動でもきっと有利に働きます。何よりも、人でありながら魔法が使えるあなたは、グロウズマウルに新しい風を吹き込むに違いありません。わたしはそれを確信しています」




 数か月の修練により、タロウはいくつもの魔法を習得していった。それはマリアが瞠目する程の早さであり、タロウ自身自らの成長に戸惑う程だった。

 手を触れずに物を動かす。燃料を使わずに火を起こす。傷付いた身体を癒す。風や水を操り、空を飛び、時には天候を書き換えてすら見せた。

 術を一つ習得する旅に、マリアは心からの賞賛と共にタロウを抱き締めてくれた。子供扱いのようにも思えたが、虐げられて来たタロウにはその単純な優しさが染みた。

 日々学習に励むタロウの元に、マリアの上官を名乗る女性が訪れた。

「やあやあ。この子が報告にあった魔法を使える人間かな?」

 金髪碧眼の女性だった。細身のマリアと比べるとメリハリの効いた体格で、胸や尻に付いた肉が豪奢な青いローブを盛り上げていた。信じられない程高く尖った鼻を持っていて、切れ長の瞳は女性でありながら精悍かつ怜悧で、見ているだけで自然と畏怖の感情が呼び起された。

「ええ。タロウさんというんです」

 マリアの視線を向けられると、タロウは立ち上がって頭を下げた。

「タロウと言いますのだ。今の身分はエスキナの訓練生だけれど、やがてグロウズマウルの国民となる為に頑張ってますのだ」

「それは良いことだね。それじゃ、少しだけ話をさせてもらえないかな?」

 ヘレナと名乗った女性は向かいの席に腰かけて、口元だけに笑みを浮かべ、冷ややかな程落ち着いた瞳でタロウを見すくめた。

「エスキナをどう思う?」

「平民に重税と過酷な労働を強いて、その反乱を抑え込む為に四苦八苦しておりますのだ。その為の方法は戦士階級を肉体的に強くすることと、平民を無学なままにしておくことですのだ。戦士にも平民にも学問を収める時間もその機会もなく、よって技術的政治的に他国に後れを取っておりますのだ。やがて亡びる国ですのだ」

「ではグロウズマウルをどう思う?」

「魔法の技術が素晴らしいと思いますのだ。おいら自身胸を短刀で刺された状態から救われたことがありますのだ。これほど素晴らしい技術を扱えるエルフという種族には敬意を覚えますのだ」

「君は何故グロウズマウルに忠誠を誓うんだい?」

「エスキナに復讐をする為ですのだ。おいらは身体が貧弱で、エスキナの軍事訓練では、教官にも同輩にも何度も殺されかけました。あの国で戦士としてこの先生き延びられるとは思えないし、またそうしたいとも思えませんのだ。それに比べると、グロウズマウルで魔術や文化を学びながら生きる方が、遥かに素晴らしい人生ですのだ」

「マリアをどう思う?」

「人生の恩人ですのだ」

「君の習得した魔術をいくつか見せてくれないかな?」

「分かりましたのだ」

 タロウは机の上に置かれていたペンを触れずに持ち上げてみせ、ノートに字を書いて見せた。自ら空を飛んで見せ、家の外に出てから掌から火炎を放って見せた。

「信じがたい。人間が魔法を使えることもそうだが、勉強を始めて数か月でここまで練度を高めるのは、より大きな驚きだね」

 ヘレナの表情は変わらなかったが、その声には確かに驚愕が滲んでいるようだった。

「ありがとうございますのだ。これもマリアさんの教え方が良いお陰なのだ」

「彼女が立派に君を教育していることは確かなんだろう。でもね、何よりも君に才能があるんだよ。マリアはとんでもない拾い物をしたね。お手柄だよ」

 ヘレナが視線を向けると、マリアは恐縮ですと口にして瀟洒に頭を下げた。

「タロウくん」

「はいのだ」

「君が順調にスパイとして育っていることは理解が出来た。この調子で励んでもらいたい。君ならばグロウズマウルの国民になった後、魔導士にだってなれるかもしれないよ?」

「その魔導士というのは何ですのだ?」

「優れた魔法を使える者に与えられる称号さ。私やマリアがそれに該当するが、グロウズマウルのエルフでもその称号を与えられるのは一握り。人間の身で魔法を使えるだけでも極めて珍しいのに、魔導士にまでなれば間違いなく歴史に残るだろうね」

 口元に微笑みを浮かべたエレナはそう言うと、マリアの方を向き直った。

「教育が順調に進んでいることが良く分かった。来月から国の軍事施設で最終調整が始まるけれど、マリアもタロウくんも頑張りなさい。それが終わればとうとう諜報活動が開始される。仲良くやってるようだけど、お別れの日に泣くんじゃないよ?」

 言い残し、へレナは颯爽と立ち去って行った。




 最後の数か月、タロウはマリアと共にグロウズマウルに渡った。軍事施設でスパイとしての最後の訓練を受ける為だ。

 グロウズマウルの風景は教科書で見た通りだった。山奥の自然そのもののような空間に、驚くほど簡素な家々が並んでいる。技術的な意味ではエスキナとどっこいどっこいだったが、エスキナのような粗野さはなく、むしろ自然と調和した清貧さを感じさせるものだった。

 軍事施設で行われる最終訓練では、これまでのような座学は少なく、実践的な訓練が中心となった。諜報の対象となる施設や空間に入り込む為の身のこなしや、効率的な破壊工作の技術、本国であるグロウズマウルと円滑かつ秘密裏に通信を取る方法などを学んだ。

 それらの中には苦手な体力を使う課題も多かったが、マリアの励ましによって乗り越えられた。タロウは懸命にそれらの課題をクリアし続け、やがて一人前のスパイとして認められていった。

 そしてついに、その日がやって来た。

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