昼下がりと蝉

@inumani

第1話

夏の暑い日だった。じいじいと蝉の声が煩い縁側で氷粒の粗い宇治金時をほお張る。脳みそが溶け出しそうな暑さの中、キンキンに冷えた宇治金時の甘くほろ苦い味が口内を喉を、胃を冷やし、あと一歩まで出かかった魂を体の中に留めているみたい。そんなだらだらとぬるく過ごしている夏の昼下がり。氷で冷えたアルミニウムのスプーンを咥えながら、中庭の植木に掴まりじいじいとけたたましく鳴くアブラゼミを見つける。

「お前、そんなところで暑くないのか」

 シャクと一口宇治金時を頬張り、蝉に問いかけてみる。当然ながら答えなど帰ってこない。とうとう自分も頭を暑さでやられたか、と思い深緑の水が溶けだした宇治金時をかき込む。急な冷たさに頭をガツンと殴られているような痛みに襲われる。ガンガンと除夜の鐘を頭の中で突かれているようだ。痛みが治まってきたと思ったら、入れ替わりのように空っぽになった頭の中に蝉の声が雪崩込んでくる。それが余りに暴力的で、木の幹に呑気に留まっているこげ茶色のてかてかと木の幹でも目立つアブラゼミに急に腹が立ってきて、縁側の下に落ちていた色褪せた青いバケツに蓄積された雨水を木にバケツごとぶつける。じじっと短く鳴いたかと思うとバケツが当たる瞬間、びいと排泄物を出して入道雲の沸き立つ烈々とした空に飛び立っていってしまった。

 俺はそれをただ呆然と見ていた。がこん、ばしゃ、と液体が落ちる音で現実に戻された。結局水はさっき蝉がいたところをかすりもせず庭木の根元に撒かれ、バケツは元々ヒビが入っていたのだろう、日光による劣化で脆くなっていたのか無様に破片が飛び散る。自然の色が濃い庭に、不似合いな人工プラスチックを拾う。茹だるような暑さが背中をじりじりと焼く。いつか友達とやった干からびたミミズの様な肉だけが残ったバーベキューを彷彿とさせた。

 身を屈めて無心で破片を拾う。あらかた取り終わりバケツの破片と、冷たさが逃げた硝子の宇治金時の器を持ち台所へ向かう。そこには顔を出す度に背骨が曲がっていく小さくなったばあさんが、前の畑で採れたトマトときゅうりを水に晒していた。

「ばあさん。かき氷の皿、ここに置いておくぞ」

 数秒おいてああ、分かったよと返事が来る。俺が小さい頃よく近所の友達といたずらをしたときに般若のような顔で怒鳴ってきたばあさんの面影はなくなっていた。

「ああ、懐かしいねぇ。そのバケツあんたが小さい頃特に気に入ってたもんだよ。」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の記憶の片隅に追いやられていたセピア色の記憶が堰を切ったように流れ出してくる。濁流のようなそれは嫌な記憶も楽しかった記憶もごちゃ混ぜになって今も止めどなく俺の思考を満たしていた。その中に未だに色褪せない鮮烈な色を放っている記憶があった。それは記憶を体現したようにぎらぎらと目に痛い。

 

 その日は今日のように暑く、焼けるような日だった。三日連続の冷やし中華に文句を言っていた昼下がり、幼少の俺は面白いものを見た。いつもの様にうだる暑さの中虫取り網と小麦色の麦わら帽子をかぶって、近くの公園で友達数人と遊んでいた。公園でひとしきり遊び、大きなプラタナスの木陰で休憩しようとした。

 しかし先客がいたようだった。それは一匹の蝉だった。俺らが知っているような黒やこげ茶色のてらてらとした体ではなく、乳白色と翡翠色の中間みたいな彫刻のような生き物は紛れもなく蝉だった。俺たちの知る姿とはかけ離れたそれに見入っていた。暫くそうしてじっと白色を眺めていたが日が傾き、そろそろ帰ろうかという話になった。俺はまだ羽の半分くらいが緑の蝉を眺めていたかったので友達を見送り暫くぼうと蝉を眺めていたが、とうとう日が暮れ始めて帰らなければ怒られる時間になった。俺はそのまま立ち去ればいいものを、あろうことか羽化後それほど経っていないまだ柔らかい蝉をお気に入りの青いバケツに、白とくすんだ茶色のプラタナスの幹から引き剥がしてそうっと入れる。抵抗する力は残っていなかったようで青いバケツのそこにちょこんと座っていた。それを俺は宝物のように抱えて帰る。家族に見つかるのを恐れて縁側の下にもうほとんど緑が消えてしまった蝉とバケツを隠す。

 次の日、縁側の下の薄暗い所から蝉を出してみると腹のことろが不自然に凹んだ蝉がいた。昨日少し乱暴したからだろうか、うまく飛べないようで三枚の羽をひっきりなしに動かして飛ぼうとしている。それを見て庇護欲がかきたてられたのか、家族に秘密で飼うことにした。しかし蝉の食べ物など知るはずもなく、日に日に弱っていく蝉を見兼ねてカブトムシのゼリーを友達がくれた。それも食べるわけでもなく、次の日には小蠅がたかっていた。もう打つ手が無くなった俺は時々弱々しく羽を震わす蝉を家の庭の木陰にはなした。その後は一度も腹が不自然に凹んだ蝉は見なかった。



 麦わら帽子の隙間から差し込むぎらぎらとした西日からゆっくりと意識が浮上して元の台所に戻ってくる。もう八年前ほど前になるだろうか、今もあの蝉の行方は知らない。放たれた庭でそのまま野垂れ死んだか、子孫を残したかは分からない。俺はふと昔が懐かしく思えてスニーカーを履いて八年前の白い蝉を捕まえた公園に足を運ぶ。

 日の陰った公園には人も蝉も見当たらず、遠くでひぐらしが鳴いているだけだった。子供の頃塗りたてのペンキの匂いがしたブランコや滑り台はペンキが禿げ所々酸化鉄に覆われ、俺が頂上を占領していたジャングルジムはその安全性からか黒と黄色のテープが巻かれ使用禁止になっていた。

 結局蝉は見つけられずこんな田舎ではほかに行くところもないので家に帰ろうと歩き出す。ひび割れたアスファルトから目を離し遠くの景色を見る。山際から見える空からは暮色が迫っていた。

「あちゃあ、早く帰らないと日が暮れるなぁ」

 誰に聞かせるでもなく呟きまたアスファルトに目を落とす。

「あ」

 蝉が死んでいた。

 危うく踏みそうになった左足を慌ててどける。

足を広げて転がっている蝉が面白くなり浮かしたままの左足でちょいちょいとおちょくってみる。その刹那、飛び上がり靴に透明な尿を撒き防砂林の中に飛んでいってしまった。蝉の飛んで行った防砂林の方からは、頭がぐらつく蝉時雨が絶え間なく降り注いでいた。

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