パンドラの横笛

音海澄

パンドラの横笛


壁は鈍く白い。スポットライトがちらつく。寂寞とした、けれど混沌としたここに、そいつは立っている。古ぼけ角は擦り切れ、皮が剥げた黒く細長い箱。


「これ?この中身はね、多分、不安と、執着と、嫉妬と不安。僕ももう随分と開けていないんだよ。見るのが怖くてね。」


また酷くくさいことを言うもんだ。酔っているのか。そいつは続ける。どうやらそれが何か定かではないが、捨ててはいけないのだと。


何だかわからない?時間が経って忘れてしまったのか。薄情者め。


「だって、お前も分からないのだろう?」


否、そんなことはない。私は確かに知っている。


「じゃあお前が開けてくれよ。」


乱暴にそれを突きつけた。そう粗雑に扱うな。抗議を込めて見つめるが、はやくと逆にせがまれる。受け取りつつも触る手がどうにも震えて仕方がない。


「ほら、お前も怖いんじゃないか。」


違う、そうじゃない。ただ私は、これを。空気にさえ触れさせずずっとしまっておくべきだと思うのだ。そうしなければ、いつかは劣化してしまうから。特有の凹凸さえ摩擦で消えてなくなった。蓋のストッパーはもうずっと甘かった。黒い革が汗で滑る。持つ手が僅かに力む。

相手はにたりと意地悪く口角を上げ、煩わしい黒髪からねっとりとした視線を覗かせた。


「いいや、お前は怖いのさ。その中身がね。」


違う。否定する心と裏腹に視線は下へ落ちてしまう。ゆっくり、コツンコツンと足音を響かせながら饒舌に語り始める。私の周りを練り歩き、こうして全てを見透かすのだ。


「手に負えないものばかり。捨てるのも捨てられるのも、想像するだけで悍ましい。軽薄で上等なあいつらにも忘れ去られて、最後にゃ腐ってしまうのにさ。」


やめてくれ。私が大切にしているこれは、そんなんじゃ。

足音が止まった。影が目に入り、私とそいつの距離がゼロになる。頬に添えられた手には何故か抗えなかった。珍しく摯実な濡羽色が射抜く。


「お前を苦しめるなら僕がそれを捨ててやる。もともと他人のことなんて嫌いじゃないか。劣った君をいつもせせら笑う。パッとしない君に、興味はあれど好感はないぞ。」


違う!頭と喉がどんどんと熱を持ち、昂った私は勢いよくそれを開いた。途端光が溢れてきて視界が明るくなる。汗が伝うほどの照明。高く設置された反響板。闇で仕切られた向こう側には臙脂色の客席が広いがっていた。


音を導く風がふく。箱の中に目をやる。その銀色のキイに反射する黒い瞳には、焼き付いて離れない仲間たちの笑顔が映っている。怖くなんかない。私が怯えていただけなんだ。私の初めての世界。閉じ込めておきたいほど焦がれて、失うのがあまりにも怖かった時間。


ああ、開いてしまった。私にはこれしかないのに。もう戻れない時間たちが、眩しく輝き、絡まり合い、照明と空気に溶ける音となって耳を掠めた。記憶が一気に駆け巡る。


あの日に花丸がついたホワイトボードを横切る。意味をなさない防音扉を開けると、半円形に並べられた譜面台と椅子。指揮台の向こうの、見慣れた青い春を祝福するようなあの空に、精彩な掛け声がひしめくその校庭を抜けて。私たちの音が届くような気がしていた。

胸につかえる不安があった。きっとここに相応しくない。

でも、管に息を吹き込む時だけは、あの春の舞台だけは、私はここの一員で、皆一様に音に生きている確証があった。胸が躍って止まらなかった。幾重にも重なる共鳴で脳を突き刺される高揚に眩暈すらした。もういっそ、あの夢のような舞台でみんなで一緒に一生を。


吹いた音も、過ぎ去っていく感情も、時間も。全て私を置いていってしまう。私はそんな形のないものたちに告げる。引き留める声でも、別れでもない。


ただ、愛していると。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パンドラの横笛 音海澄 @otomisumi66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ