犯人の謎

いよいよ明日に文化祭を控えた木曜日。

校内の活気はピークに達しつつある。九月の最終日から始まり、月を跨いで開催される文化祭は全部で三日間。明日金曜日は学校内で生徒たちのみで行われ、次の土日が一般公開日と定められている。

恐らくだけれど、天井知らずの生徒たちのテンションを、一旦校内だけで爆発させるクッションとしての役割が、明日の文化祭初日には込められているんだと思う。

そうでもしなければ、一般のお客さんを巻き込んでどんな事件、騒動、トラブルが起こってしまうのか、想像するだけで恐ろしい。

今でさえ大小さまざまなトラブルが、校内校外問わずに起きているのだ。

中でも今、体育館の舞台の上で全校生徒に見守られながら、体育の長田おさだ先生がその体躯に見合った大声で語っているのは、先日校内放送にまで発展した、苦情騒ぎについて。

集会が退屈だというのは何も生徒だけの感情ではない、私も、多くの人が狭い体育館に集められるこのイベントはあまり好きではないのだ。目の前で何やら雑談を交わす生徒が目に入るけれど、特に注意などはせず、舞台上に目を戻す。次の瞬間、私の右隣りの先生が、その生徒を注意した。残念だったね。


丁度先週の木曜日、九月二十二日の午後、この学校の近くに住む地域の方から学校に、一本の電話が入れられたところからこの騒動は始まった。そんなモノローグを語った後、長田先生は三枚に畳まれた紙をポケットから取り出し、実際の電話の内容だと宣言し、読み上げる。

『先ほど十五時三十三分頃、おたくの学校の制服を着た女子生徒が、我が家の前に停めてある車に傷をつけた。顔は薄っすらとしか見えないが、その制服を私が見間違えるわけがない、間違いなくおたくの生徒だ。故意ではないようだが、謝罪もなく逃げたことが私は何より許せない。今が文化祭準備期間であることはわかっている。調子に乗るのはいいが、人様に迷惑をかけるようなことをするな。犯人には絶対にうちに謝罪に来させろ。私は学校のためを思ってこの電話をかけているんだ』

苦情の電話が入っていたことは職員会議で聞いていたから知っていたけれど、その詳しい内容まで知ることができるとは思わなかった。その内容は、あの日私が蘇我さんに語ったものと概ね一致していて、私は胸を撫で下ろす。

先日新井さんとの図書室の件で、推理を語ることに軽くトラウマが植え付けられてしまったけれど、私も間違ってばかりはいなかったことがわかって、少しは自信を取り戻すことができた。

蘇我さんも今この体育館のどこかにいるはずだ、先生の言っていたことは正しかったんだなと、思ってくれているだろうか。

そこから長田先生が語った内容は、私も知っている通りだった。

苦情が入れられた翌日二十三日の午前、校内にアナウンスが流された。アナウンスでは、苦情の電話が入ってきた時間に学校にいなかった女子生徒、計八人が呼び出されたものの、アナウンスに従い職員室を訪ねてきた生徒は三人。三人に事情を聞くも、事件と関った旨はおろか、事件に関する些細な情報すら得ることはできなかった。

全校集会で話すにあたって多少情報はぼかされていたけれど、職員会議では職員室を訪ねてきてくれた三人の名前もしっかり出されていた。それでもその三人の中に犯人がいるようには、私は思えなかったけれど。少なくともあの放送の甲斐があまりなかったことは確かだ。

「学校側としては、このまま犯人が名乗り出なければ、文化祭の規模を縮小することも視野に入れる。私たちは犯人探しがしたいわけではない、ただ事情が聞きたいだけなんだ。心当たりのあるものは、正直に名乗り出てほしい」

そんな長田先生の言葉を聞いて、生徒たちからは不満の声が上がった。

ふざけんな 

私たちには関係ない 

犯人早く名乗り出ろよ 

体育館を非難の声が包む。生徒たちの言うことも最もだ。学校側は文化祭を人質に取って、犯人に口を割らせようとしている。こんな強行に出てまで犯人を見つけようなんて、あまり奇麗なやり方とは思えないけれど。

しかし、たった一本の苦情の電話で、学校がここまで話を大きくさせるはずもない。学校側の必死な姿勢の理由はまあ、何となくわかる。苦情の電話を入れた人物の正体まで、職員会議では明かされていたから。

その人はつい去年までこの高校で教鞭を取っていて、去年に定年を迎え退職をされたばかりの、ベテランの先生だった人だ。

確か二年生の学年主任を務めていた人で、発言力も相当なものがあった。私も一度注意を受けたことがあったっけ。生徒と一部の教師に怖がられていたものの、生徒への関心は高い人だった。自分が主任を務める二年生の生徒は全員の顔と名前を頭に入れていたくらいだ。

そんな人が高校の近所に住んでいて、その上苦情の電話まで入れてくるんだから、学校側としてはたまったもんじゃないだろう。

そんな事情があるから、学校側の焦りようも理解はできるのだけれど、かといって文化祭を人質に取って生徒に言うことを聞かせようとするのが、嫌なやり方であることには変わりない。長田先生や体育館脇に並ぶ他の先生たちが、静かにしろと呼びかけているけれど、一度噴き上がった生徒たちの不満はなかなか治まらない。


体育館内の騒がしさは依然収まらない。その時、ドッ、という音が、私の耳に入って来た。生徒たちの声に紛れて微かに聞こえただけではあったけれど、今の低い音は間違いなく人が倒れた音だ。

教師の列から抜けて、体育館後方へ向かう。音の出どころを探しながら辺りを見回しつつ歩くけれど、不満が治まらない生徒たちの中から、倒れた生徒を見つけ出すのは困難を極めた。恐らく倒れた生徒の周りにいる生徒が何か合図を出してくれるんじゃないかとは思うけれど、こう人が多くて騒がしい場所では、そんな合図も私には届かない。

どうしよう、軽い貧血だとは思うけれど、万が一という可能性だってある。


そうだ。

一つ思いついた。体育館を出て、階段を登る。この学校の体育館の入り口があるのは三階で、体育館の出口からすぐのところにある階段を登って四階に上がることで、体育館上部のギャラリーと呼ばれる細い通路に来ることができる。

先ほど出てきた体育館の扉よりも遥かに小さい扉を開けてギャラリーに入ると、そこからはたくさんの生徒たちが等間隔に並んでいる様子を俯瞰して望むことができる。

ここからなら先ほどよりも遥かに見渡しやすい。

この中のどこかに倒れた人がいるのなら、必ず等間隔に並ぶ生徒たちの頭の中に切れ目が、空白があるはず。どこだ、どこだ。

あった。一年生の、右から二番目、あれは恐らく二組の列。前方寄り。


またすぐ階段を下り、体育館に戻ってくる。さっき捉えた場所を忘れないように、体育館前方へ歩いていく。先ほど捉えた位置まで近づいたかなという時、声が聞こえた。

「先生!」

見つけた。一人の女子生徒が、その後ろの女子生徒の胸に抱えられるように倒れている。倒れている子は首元で綺麗に切りそろえられたボブヘアをしていて、それを介抱する子は明るい色の髪を肩下まで伸ばしている。倒れている子の顔色はあまり優れないように見えるけれど、果たして。

「こんにちは、私の声が聞こえるなら返事をして!」

呼びかけてみるけれど、返答はない。まだ周りの他の生徒がうるさいせいもあるだろうけれど、反応なしと考えて問題はなさそう。

彼女を保健室に運ばないと。しかし長田先生はまだ舞台上にいる、他に誰か頼れそうな先生は……ええい、もういいや。この子くらいのサイズの子なら、私でもなんとかなる。倒れている彼女の腰と腿の裏に手を入れる。彼女を庇ってくれていた女子生徒から、彼女の体を預かって、腰だけやらないように気を付けて。せーの

「……よっ」

「先生、意外と力持ちだね……」

「ま、まあね」

良かった、腰は無事だ。去年友達の引っ越しを手伝ったときに悲鳴を上げてしまったことがあったから少し不安だったけれど、不甲斐ない姿を晒さず済んでよかった。急病人を運ぼうとして怪我人を増やしていてはしょうがない。

女子生徒を抱えたまま、保健室へ向かおうとして、ふと声を掛けられる。声の主は、先ほどまで私が抱えているこの子を介抱していた子のようだった。

「先生、私もついていっていい?あやが心配なの!」

あや、というのは恐らく今私が抱えているこの子のことだろう。彼女の口ぶりから彼女たちの間にある程度の親密度があることがわかる。この子の症状が深刻なようなら、親しい人から話を聞けるのはありがたい。もう朝礼も終盤に差し掛かっているだろうし、この騒がしい体育館にこれ以上いる意味はあまりないだろう。声をかけてきた女子生徒の方を向きなおして、言った。

「わかった、この子のことについて聞くかもしれないから、ぜひ来てほしいな」

「おっけ!」

元気な返事と共に列を離れて、体育館端の、先生たちが並ぶところに向かう。一応体育館を離れるので、誰かに報告はしておかないといけない。

「すみません、二組の原先生ですよね!この子、体調が優れないようなので、保健室に連れていきます!」

「ありがとうございます……あ、」

私が抱えた子の顔を見て、原先生の表情が、少しほころんだような気がした。しかしすぐに原先生は深刻そうな表情に戻った。

「すみません、なんでもありません。よろしくお願いしますね!」

「はい!」

今のやり取りは少し不可解だったけれど、今はそこに構っている場合ではない。体育館の入り口を目指す。

私たちが体育館から出ようとしたときにも喧騒は止んでいなかった。あの場所を離れることができたのはささやかに嬉しい。今抱えているこの子には悪いけれど、体育館から抜け出すきっかけを与えてくれたことには、少しありがたく思ってしまう。

階段を二つ降りて保健室まで戻ってきて、そういえば両手が塞がっていることに気づく。そんな私に気づいたのか、後ろをついてきてくれた子が気を利かせてくれる。

「あ、扉、私が開けるよ」

「ありがとう」

彼女が付いてきてくれなければ、ここで手間取ってしまっていたかもしれない。付いてきてもらって正解だったな。

保健室に入って、三つ並ぶベッドのうち、唯一開いていた右端のベッドに、抱えていた子をゆっくり下ろす。実は下ろす動きも腰には結構危なかったりするのだ、ここでも細心の注意を払って、ゆっくり、ゆっくり。

セーフ

「先生、ありがとう。本当に助かった。誰にも気づかれなくて困ってたんだよー」

「いやいや、保健医だから当然だよ」

一息つく間もなくかけられた賛辞は軽く流す。思えば最近の私は褒められてばかりで、そんな状況にも慣れつつあるのかもしれない。褒めてくるのは主に蘇我さんただ一人だけれど。

落ち着いてみて気づく、どうして保健室のベッドが既に二つ埋まっているんだろうか。三つ並ぶベッドは、右端に置かれたベッド以外はカーテンが閉められていて、彼女をベッドに下ろした今、保健室のベッドはすべて埋まってしまったことになる。

左端の一つは村尾さんだとわかるけれど、もう一つのベッド、真ん中のカーテンが閉まっている先にいるのは誰なんだろう。

少し嫌な予感がして、保健室中央の机の上の、来室記録の名簿に目をやる。

一番最新の来室者は、一年四組、蘇我さくらさん。もうすっかり見慣れた名前だ。

しかし見慣れない文字もあって、体温の欄には37.5℃と書かれている。今日ばっかりはちゃんと具合が悪いみたいだ。ちゃんと具合が悪いと言うのもなんだかおかしな話だけれど。

彼女はこれまでも保健室に入り浸ることこそあったけれど、ベッドを占有したりする子ではなかった。本当に具合が悪いと言うのならまあ、今はさっき倒れた子の方に集中しよう。

「あやー!わかる?私の声、聞こえる?」

この声は、確か私についてきてくれた子のものだ。少し曖昧なのは、体育館があまりにうるさすぎたせい。寝ている子に呼びかけているようだけれど、反応はあるのかな。

「どう?返事はあった?」

私の言葉に答えたのは、今まさに目を覚ました様子の、ベッドに寝ているあやと呼ばれた子の方だった。

「……はい、聞こえてます。さやも、ちゃんと聞こえてるよ。先生がここまで運んでくれたんですよね、ありがとうございます」

「感謝は今はいいから、ゆっくり休んでてね。多分軽い貧血かな。ちょっとおでこ失礼するよ」

ひとまず意識はあるみたいで良かった。一安心したところで本来行うべき処置を済ませてしまわないと。

拳銃のフォルムをした体温計を彼女に向ける。絵面だけだと少々物騒だなと、この体温計を使うたびに思う。

ピピピと音を立てて、体温計に出た数字は37.5。蘇我さんと同じだ。

「どう?熱あった?」

付いてきてくれた子が体温計をのぞき込んでくる。この子は確かさや、と呼ばれていたっけ。

「七度五分、高めに見えるけど、あなたから見てどう?」

「普通に高めかなー。前に早退したときはもうちょっと高かったけど」

自分で尋ねておいてなんだけれど、あやちゃんの体調について、ここまでスラスラと見解を述べられるさやちゃんは何者なんだろうか。今の子たちはお互いの体調くらい把握していて当然なのかな。

ベッドに寝ていた子は体を起こす。彼女に体温計の表示を見せ、尋ねる。

「どうする?もう帰る?明日から文化祭だし、今日のうちに休んでおいた方が良いと思うけど……って、こんなこと教師が言うことじゃないね」

「ううん、先生の言う通りだよ!文化祭で校内全部見て回ろうって約束したじゃん!今日はもう帰ろう?ね?」

私の提案を後押しする友人の言葉を聞き、体温計の数字を見て、しかしあやちゃんは帰宅を即決できない様子で口を開く。

「……でも、今うちに親がいるかどうかわかんないんですよね。さや、今何時かわかる?」

さやちゃんはポケットから手帳を取り出す。手帳が開かれてそれがスマホであることがわかった。時計なら私たちから見える位置にも掛けてあるけれど、もはや時間を確認しようと思った時、今の子たちは咄嗟に上を向いたりしないんだな。

スマホケースが同じ手帳型であることに喜び、上を見上げないことを憂い。こんなに勝手に一喜一憂して、私は何をしているんだろう。

「九時か……あやの親はもうどっちも仕事行ってる時間じゃなかった?」

時間を確認したさやちゃんが、そう呟く。

やっぱり、さやちゃんはやけにあやちゃんに詳しい。普通友達の親の出勤時間なんて把握しているものだろうか?やっぱり、私が知らないだけで今の子はそれくらいの関係が普通なのかもな。

さやちゃんの言葉にあやちゃんは首をかしげているようで。

「うーん。微妙かも。お父さんもお母さんも、いつもこのくらいの時間に家を出るから」

「私が電話をかけてみようか?名前を教えてくれたら電話できるよ」

私がそう尋ねると、二人の、特にさやちゃんの顔が明るくなった。

「じゃあ今すぐお願い!この子は馬場ばば彩愛あやめ!私と同じ一年二組!」

名前を聞いて、思い出した。確か丁度一週間前にもこの子は早退していたはず。そうだ、あの時放送で呼び出されていた子だ。一年二組の馬場彩愛さん、やけに聞き覚えのあるクラスと名前をしているのは、私があの日、何度も放送内容について考えていたからだ。あの日調べたあやめの漢字は……確か彩るに愛だったはず。

名簿から馬場さんのおうちの電話番号を探して、電話をかける。

一コール、二コール、三コール、四コ……

『……はい』

低い声が聞こえてきた。おそらくお父様が電話に出られたのかな。

「突然失礼します……」

話していくうちに、電話の相手がお父様ではなく、あやちゃん改め馬場さんのご兄弟であることがわかった。

保護者ではなかったにせよ、おうちに誰か人がいるのは確かだ。その旨を二人に伝えると、一番に反応したのはさやちゃんだった。

「アイツ、また学校サボってんのかよ。まあ今はそれが助かるのか……」

「誰かいるなら、今日はもう帰ろうかな。先生、いいですか?」

馬場さんがこちらに目を向けて、そう尋ねてきた。明日のためにも、今は早く帰してしまった方が良さそうだよね。

「もちろん、本当は来室記録の名簿を埋めるのと、早退手続きのこの紙に担任の先生のサインをもらって欲しいんだけど……大変そうだし帰れるうちに帰っちゃった方がよさそうだね。手続きはこっちでやっておくから、もう帰ろうか」

「荷物、私今取って来るね!待ってて!」

私の言葉を聞くや否や、さやちゃんはそう言い残し、足早に保健室を出て行ってしまった。どこまでも行動の早い子だ。あれが若さの正体なのかもしれない。

あっという間に保健室を出て行ってしまったさやちゃんを見送った馬場さんが、ベッドから立ち上がる。

「ごめんなさい、名簿くらい書きますよ」

そう言って馬場さんは、机の上の名簿に手を伸ばす。立ち上がった瞬間に少しよろけたように見えて、私は思わず声をかける。

「だ、大丈夫?無理しなくていいよ?」

「いえいえ、ここから帰らないといけないんですから、名簿を書く元気くらいありますよ」

そう言ってさらさらと整った字で名簿を埋める馬場さん。やっぱり、彩るに愛で漢字は合っていた。奇麗な名前だなぁ。

名簿を埋めるだけというのも暇かなと思って、話しかけてみる。

「でも、おうちに誰かいてよかったね。馬場さんは確か、先週も早退していたんじゃなかった?」

私の言葉に、馬場さんは心底驚いたとでも言うような顔を浮かべている。

「……そうです、覚えてたんですね。あの日も弟が家にいてくれたんで、早退できたんですよ。なんですかね、私、木曜日アレルギーなのかもしれないですね」

「一度保健室に来た生徒の顔は、できるだけ忘れないようにしてるから。でも、毎週早退していたらやってらんないね」

一旦会話が途切れて、その時、良くない考えが浮かんだ。

今は苦情騒ぎのことを尋ねる、最大のチャンスなんじゃないか。先ほど体育館で聞いた話では、このまま苦情騒ぎが続いたら、文化祭を今まで通り開催することはできない。この一週間、頑張っていた生徒たちの姿は私もよく知っている。生徒たちの頑張りを無駄にしないためにも、苦情騒ぎについて少しくらいは考えを巡らせようと思っていたのだけれど。

しかしすぐに頭を振ってそんな考えは追い払う。

ダメだ。流石にダメだ。彼女は体調が悪いんだから。生徒たちのためなんて言って、体調が悪い生徒を思いやれないようでは本末転倒だ。

邪な考えを頭から追いやろうと必死な私に、馬場さんの方が声をかけてきた。

「そういえば、文化祭、どうなっちゃうんでしょうね……」

「ああ……犯人が名乗り出ればいつも通りになるらしいけど、なかなか難しいだろうね……」

正直な感想が口をついてしまう。実際学校側の姿勢は頑ななように思えるので、簡単に決着がつく気はしないけれど、ただこれはあまり言うべきではなかったかもな、とすぐに後悔した。

今は彼女の不安を煽りすぎるべきではない、嘘でも大丈夫と言っていた方が、この場では敵していたのかもしれない。しかしそんな心配は杞憂のようで、馬場さんは名簿を書き終え、机の上にそれを戻し、再び口を開く。

「そういえば、私、呼び出されてたんですよ。さっきの長田先生の話に出てきた、先週の金曜日の放送です。なんか怖かったから職員室には行ってないんですけどね……って、これ内緒でお願いしますね」

あの放送を聞いて職員室を訪ねてきた三人の生徒の名前は、職員会議で聞いていた。なので馬場さんの語る情報に新鮮さはないけれど、彼女が向こうから語ってくれているのは大きなチャンスだ。決して私から聞いたわけではない、馬場さんの方から話をしてくれているんだ。これを断る理由はないだろう。そんなこと今初めて聞きましたよという姿勢を崩さないよう、気を付けつつ尋ねる。

「そうだったんだね。じゃあ馬場さんがあのアナウンスと苦情の繋がりを知ったのは、今日が初めてだったのかな?」

アナウンスで自分の名前が呼ばれたのならそのことは覚えているはずだし、苦情の件もホームルームなどで耳にはしていると思う。ただそこの二つが馬場さんの中で繋がったのは、今日が初めてだったんじゃないか。そんな私の読みは、当たっていた。

「そうですね。まさかそんな騒動に関わってる放送だとは思いませんでしたよ。あの話を聞いて、あの日職員室に行かなくてよかったーって思いましたね。私には全然関係ない話でしたから」

「それじゃあ、馬場さんはあの苦情に関して心当たりはないんだね」

少し踏み込み過ぎてしまったか。そんな焦りを覚えたけれど、馬場さんには特に怪しまれていないようだった。

「はい、早退して家に着いた後は、制服も脱ぎ散らしてすぐに寝ました。その後もずっと寝てたんで、私にはなんにも関係ないんです」

馬場さんが嘘をついているようには見えない。そして、馬場さんがこの場所で私相手に嘘をつくメリットも特に思い浮かばない。というかこの子は今も絶賛体調が優れないんだから、そんなときに自分から始めた話でわざわざ嘘ををつくとは考えづらい。それにあの日馬場さんに熱があったのは確かだ、それを確かめたのはあの日の私なんだから。具合が悪くて早退した生徒がわざわざ外に出るとも思えないし、とりあえず彼女がこの騒動に一切関係していないのは間違いなさそうかな。

丁度思考にキリが付いた時に、扉が開いてそこにはさやちゃんが立っていた。

「とってきたよ!さあ帰ろ!」

そう言うさやちゃんの肩には、大きめのトートバッグが提げられている。今は文化祭準備期間ということもあって、生徒たちの装いは比較的軽装になりがちだ。馬場さんもそのタイプのようだけれど、もし普段からこのトートバッグを使っているのなら、毎日の授業を乗り越えるためには少し容量が不足している気がする。

「ありがとう、さや」

「なんのなんの!私はあやと一緒に文化祭を回りたいだけだから!」

「ほんとにありがとう。しっかり休んで、明日絶対学校来るね!」

その言葉を最後に、馬場さんは保健室を出て、家に帰っていった。

保健室には、眩しい友情に目を焼かれた私と、私の目を焼いた片割れのさやちゃんの二人きり。そういえばずっと気になっていたことを尋ねてみる。

「そうだ、さ……じゃなくて、あなたの名前を聞いてなかったね」

さやちゃんがなんてことない様子で答える。

ゆうだよ、優しいの、優」

「優、さん?あれ?馬場さんにはさやって呼ばれてなかった?」

「ああ、私の苗字が久山ひさやまなんだ。だから、真ん中を取って、さや。あやとさやでお揃いなんだ。いいっしょ」

「確かに、いいね」

その言葉を最後に、さやちゃんも教室に戻っていった。


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二人が帰って、また保健室が静かになった。

馬場さんの言う通り文化祭の開催に関してはとても気になるけれど、かといって犯人探しに積極的に乗り出すかと言われたら、やっぱり首を立てには振りづらい。先ほどは少し思考を巡らせようなんて思っていたけれど、先日の新井さんの件もあって、今の私は誰かを疑うことを恐れている。間違いなく苦情の元になった人物がこの学校にいて、その上、図書室の本がなくなったとかそういう話でもなく、しっかりと校外で起こったトラブルに関わっている。

そう思うと考えを進めてしまうのが怖いけれど、では苦情の件について私は無関係を貫いていていいのだろうかと問われると、私はそれにも首を縦には振れない。

文化祭の規模が縮小されて悲しむ生徒がいることは明らかで、その悲しみを解消するためには、苦情の元となった人物を探し出すのが一番手っ取り早いだろう。

そしてこれはただの自惚れかもしれないけれど、私にはこの騒動をどうにかできると、詳しく言うのなら、騒動の犯人を突き止めることができると思う。

謙遜することだってできるけれど、しかし自分の能力には自覚的であらなければいけないと、私は思う。自分の至らなさを知ることで、自分のキャパを理解できるのと同じように、自分の能力がどこまで優れているのかを自覚することもまた、同等に大切なことだと思うから。

下手に謙遜をして、避けられたはずの悲しい未来を黙って受け入れているだけでいいとは全く思えないけれど、しかしここで行動を起こすということは、誰かを疑うことと同義なのだ。

私はどうするべきなんだろう。今まで蘇我さんに頼っていたせいで、こういう時に一人で判断が下せない。蘇我さんが背中を押してくれていたから、これまで私は能力を発揮できていただけなんだ。いい加減、変わるときが来たのかもしれない。もう蘇我さんを言い訳にするのは辞めよう。

考える。私はこの騒動について考える。この一週間、生徒たちがどれだけ文化祭に向けて頑張っていたかは、私もよく知っている。保身のために自分の能力を騙って、その頑張りを無為にしてしまってはいけない気がする。


時計は十時を回って、保健室のベッドは依然二つが埋まったまま。蘇我さんがこれだけ静かだとなんだか不思議な気分になるなぁ。本当にこのカーテンの向こうには蘇我さんがいるんだろうか。実際私は名簿に蘇我さんの名前が書いてあるのを見ただけで、蘇我さんと会話をしたわけでも蘇我さんの姿を見たわけでもないのだ。向こうにいるのは蘇我さんの名を騙る不審者だったりして……


……くだらないことを考えている場合じゃない。苦情騒ぎに考えを戻さないと。


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まず、気になったところを整理しよう。

私が一番に気になったのは……そうだ、アナウンスの内容だ。

このアナウンスでは八人の女子生徒が職員室に呼び出されていた。その八人の共通点は恐らく、苦情の電話から判明した犯行時間に、学校にいなかった生徒、というものだろう。

これは先日私が蘇我さんに語った通りで間違いはなかった。

ただ、私が気になったのはまさにそこだ、呼び出された八人の生徒は、学年がバラバラだった。一年生も二年生も三年生も、その時間学校にいなかった女子生徒というだけで、すべての学年から万遍なく生徒が呼び出されていたのだ。私はこれが気になった。

苦情の電話を入れた人は、去年までこの高校に勤務していた元教師の男性だ。電話の内容から、彼が犯人の姿を見たことは間違いない。彼は犯人の顔や制服をうっすら見たと言っているし、実際彼が見た情報から、この学校の女子生徒というところまでは絞れている。

そう考えると、あの校内放送で呼び出された生徒の学年が三学年に渡っていたと言うのは、明らかに不自然なのだ。

苦情の電話を入れた人が犯人の顔や制服を見たのなら、胸元のリボンも確実に目に入っているはずだから。


この学校は学年ごとにリボンと上履きの色が分けられている。一年生が赤、二年生が緑、三年生が黄色を定められているそれを見れば、その制服を着る生徒の学年が判別できるようになっているはずなのだ。それなのに、放送では三学年すべてから生徒が呼び出されていた。これは明らかにおかしい。

苦情の電話を入れた人が、もっと言うなら、犯人の姿を見た人がこの学校に関係のない人であったなら、犯人の学年が絞れていないのは当たり前だ。しかし今回は話が違う。

犯人の姿を見たのは、去年までこの学校に勤めていた元教師の人なのだ。学年ごとのリボンの色の違いについては間違いなく頭に入っていたはずであり、犯人の正体を探るために重要になりそうな手掛かりを見過ごすとは思えない。


これが何を意味するのか。

犯人を目撃した元教師の人が偶然リボンを見逃しただけ、リボンは目に入っても学年の違いには思い至らなかった、苦情の電話で学年の話は出なかった。可能性は色々考えられるけれど、答えはもっとシンプルなところにあると、私は思う。

つまり犯人は犯行時、リボンをつけていなかったんじゃないか。


と、言うところまで思いついて、一旦思考を止める。ここから先があまりわかっていないんだ。

苦情の電話の内容から、元教師の方の、犯人への執念は良く伝わってくる。薄っすらとでも顔まで見ておいて、犯人に繋がりそうな手掛かりを見逃すとは思えないし、電話でそれを伝えそびれるとも思えない。犯人がリボンをつけていなかった可能性は高いと思うんだけれど、だからなんなの?

シンプルに考えるのなら、犯人が自分の学年を知られるのを嫌った可能性が一番高いと思う。実際アナウンスは三学年に渡って行われていた。犯人の目論見は成功している。

ただ、それならそもそも制服なんて着なければいい話なのだ。制服なんて着なければ、学年云々をすっ飛ばして、学生かどうかの判断すらぼかすことができる。犯人が本気で身分を隠したかったのなら、リボンだけを外す必要があるとは思えない。

制服は着ている必要があった?制服は着ないといけないけれど、少しでも自分の身分は隠したい、そんな状況があるだろうか。

あまり考えたくないけれど、もしかして、援助交際とか。この仕事をしていると、そういう話はよく耳に入ってきてしまう。そう考えると、制服を着ていた理由も、身分を隠したがっていた理由も説明がつくけれど、でも、まだ授業が行われている時間というのは流石に早すぎないかなぁ。

それに、援助交際と考えてもやっぱり、制服を着ているのは不自然だと思う。後でどこかで着替えればいい、で否定できてしまう気がするのだ。わざわざ学校の近くを、制服を着て歩く意味があるだろうか。これも却下かな。

ほんの少しだけ、それが真相でなくあって欲しいという自分の願望が含まれてしまっている気もするけれど。とにかく却下。


犯人像に想いを巡らせてみると、なんというか、これまで聞いた話から浮かべる犯人の様子から、どことなく後ろめたさを感じる。これは私の気のせいなんだろうか。

その後ろめたさが苦情に繋がったにせよそうでないにせよ、この犯人はなにかやましいことを心に抱えているんじゃないかと、ただの直観がそう告げている。犯人は何か後ろめたいことをしていた?

でも、後ろめたい気持ちを抱えた人間が、かなり詳細な身分を知られそうな、学校の制服なんて着るだろうか。ダメだ、犯人像が捉えられそうでイマイチ掴めない。ついさっき見た夢を思い出そうとしているみたいだ。


リボンに考え戻そう。リボンをつけていない状態が不自然でない生徒は、どんな人物だろうか。

あの日学校にいなかった生徒、放送で呼び出されていた生徒は、大きく三つに分けられる。

不登校気味な子、その日だけ学校を休んだ子、そして早退をした子。この三パターンの欠席理由の中で、リボンをつけていない状況が不自然にならない可能性が一番高そうなのはどれだろうか。

まず、早退をしたのは馬場さんだけだった。馬場さんが犯人である可能性は排除したのだから、早退の可能性は排除していい。


偶然その日だけ休んだ子の可能性を考える。

その日だけ休んだ子としてまず思い浮かぶのは、壱岐さんだ。あの放送があった日に保健室に来てくれた彼女は、確か前日に動けないほど弱っていたと言っていた。保健室で交わされる日常会話の中で嘘をついてまでアリバイを作ろうとするとは考えづらい。彼女の言葉に嘘がないことは間違いなさそうなので、彼女は候補から外していい。後に残るは二人、どちらも三年の志賀さんと楢崎さんだけれど、この二人はまず最初に外していい二人だ。

苦情の電話を入れてきたのは、去年までこの学校で働いていた元教師。その人は二年生の学年主任を務めていて、生徒の顔と名前をよく覚えていたのだ。当時二年生だった現三年生の二人の顔を見たのなら、それが防犯カメラの曖昧な映像であっても、苦情の電話は名指しで入れられていたことだろう。


じゃあ不登校気味な子だったらどうだろう。

頑張って学校に来ようとしていたんだと考えれば、その時間に制服を着て学校の近くを歩いていた説明はつく。

リボンをつけていなかった理由は思いつかないけれど、うちの学校のリボンは結ぶのが少々手間だと言う。他の学校では多く採用されているワンタッチ式のリボンでない分、制服を着慣れていない子が結ぶのは少々ハードルが高いんだろう。

不登校の子、という考えは悪くないように思う。大きな矛盾はない。ただそうなると、犯人を見つけて説得する、という私の目的を達成するのが遥かに困難になってしまう。学校に来ていない子を説得するにはお宅を訪問する必要が出てくるので、少々ハードルが高い。


ただ、不登校の子である可能性は、これまで挙げた中では一番可能性の高そうな考えだと思う。一応調べてみようか。あの日学校に来ていなくて、継続的に欠席していそうな生徒、そこまで調べるのに時間はかからないはず。

出席記録を確認して、挙がった名前は四つあった。

まずは蘇我さんと同じクラスの玉城さん。彼女の話は蘇我さんからも些細ではあったけれど聞くことができた。

そして一年の栃尾さんと二年の梨木さんと永野さんだけれど、この三人に関してはもう全く何の情報もない。情報が少ないで言えば玉城さんにも同じことが言えるんだけれど、流石に学年とクラスと性別くらいしかわかっていない相手に関して、犯人かどうか論じるのは不可能だ。

どうしよう、ここで終わりなの?私には犯人がわかるだなんて偉そうなことを思ってしまったけれど、このままではあれがただの自惚れで終わってしまう。

自惚れなら自惚れのまま、どうにか惚れたまま終わりたい。

なにかないか。他に引っかかるところは、何かなかったか。


気づけば時計は一周していて、時刻は十一時を過ぎている。私は思考に気を取られすぎるといつもこうだ、誰も来室しなかったのが幸いだったか。でもこのまま一人であーだこーだ考えていても何かを思いつく気がしない。思考に行き詰ったときに蘇我さんとなんでもない会話を交わせたのは、今になって思えばいい刺激になっていたのかもしれない。

なんだか失ってから蘇我さんのいた頃を懐かしんでばかりいる気がする。失ったなんて言っても、そこのカーテンを開ければ蘇我さんはいるんだけどね。


話を最初から振り返ろう。確かついさっき、今回の騒動の詳細がメールで共有されていたはず。

あった。ここに情報を纏めるほど、学校側も犯人を見つけようと必死ということだろう。

まずは前提を確認しておこう。騒動が起きたのは、先週木曜日、九月二十二日の午後。騒動が発覚したのは、同日学校に入れられた苦情の電話がきっかけ。

苦情の文面もちゃんと書かれている、これはありがたいな。

『先ほど十五時三十三分頃、おたくの学校の制服を着た女子生徒が、我が家の前に停めてある車に傷をつけた。顔は薄っすらとしか見えないが、その制服を私が見間違えるわけがない、間違いなくおたくの生徒だ。故意ではないようだが、謝罪もなく逃げたことが私は何より許せない。今が文化祭準備期間であることはわかっている。調子に乗るのはいいが、人様に迷惑をかけるようなことをするな。犯人には絶対にうちに謝罪に来させろ。私は学校のためを思ってこの電話をかけているんだ』

なるほど、長田先生が体育館で語っていたのと、特に違いは見られない。長田先生はあの時紙を広げてそれを読み上げる形を取っていたから、実際の内容との乖離がないのは当然なのかな。

この苦情を受けて、翌日の九月二十三日、校内アナウンスが流された。そこでは八人の女子生徒が呼び出された。しかしアナウンスを聞いて職員室を訪ねてきた生徒は、八人中三人。

二年六組 壱岐あか里、三年一組 志賀紬、三年八組 楢崎実憂。以上の三人。三人から事情を聞くも情報は得られず、アナウンスの結果も空しく進展は見られなかった。そして文化祭開催を明日に控える今日、緊急集会が開かれ、このまま犯人が名乗り出なければ、文化祭の規模を縮小する可能性があることが、全校生徒の前で示唆された、と。

振り返ってみて改めて、最初から最後まであまり気持ちのいい騒動ではない。気持ちのいい騒動とは何か、という話にもなるけれど、それは置いておいて。

しかし苦情の電話の細かな内容が、こうして文字として残っているのはありがたい。


おかげで思考が進みそうだから。



気になったのは苦情の電話の内容だ。

主に二点、詳細すぎる時間と、見えないと言う言葉。

なにかを目撃した時間を人に伝えるとき、仮に本当に十五時三十三分に目撃していたとしても、それをそのまま十五時三十三分ですと伝えるだろうか。もし私だったら、十五時半ごろ、という表現を使うと思う。その三分の違いにどんな意味があるのか。

そして、この苦情の電話では、犯人の顔が薄っすらとしか見えない、という表現が使われている。見えなかった、ではないのが引っかかる。犯人が車に傷をつけたのを目にして、その旨を学校に伝えようとしている電話であれば、犯人を見る行為は過去のものになるはずなのだ。しかし実際に使われているのは見えない、という言葉。この時系列の違いに、どんな意味があるのか。


その二つの違和感から考えられるのは、この苦情の電話を入れた元教師の方が、防犯カメラの映像を見ながら苦情の電話を入れていた可能性だ。

防犯カメラの映像には詳細な時刻が記されている、電話の最中も犯人の正体を突き止めてやろうと映像を確認していたのなら、やけに詳細な犯行時刻が語られたことも、見えないという現在進行形の言葉にも納得がいく。

二つの違和感が、防犯カメラの存在を浮かび上がらせてくれたのだ。

そして犯人の姿を捉えた防犯カメラの映像があるのなら、学校がその映像を確認した可能性は高いだろう。それだけ、この元教師の方の犯人への執念は凄い。直接謝罪に来させようとしている程だ、犯人を突き止めるための最大の手がかりを持っていて、それを学校側に見せない方が不自然だろう。

ただ防犯カメラの映像があるのなら、あんな放送を流さずとも、学校側は犯人の正体にたどり着いていそうなものだけれど。

学校は犯人の正体を突き止めている。ではどうして犯人だけを直接呼び出さなかったのか?

その答えはすぐに出た。その答えを私は持っているじゃないか。教師が生徒を疑うのには、大きすぎるリスクが伴うんだ。

一人だけを呼び出してお前が犯人だろと決めつけるようなことをする怖さは、私自信、身を持って味わっている。これだけ学校の不祥事が叫ばれているこのご時世、そんなリスクを学校が取るはずがないんだ。それにこれはただの想像だけれど、苦情の電話が入ってから防犯カメラの映像が学校側に渡るまでに、ラグがあった可能性だって、低くはないと思う。放送が流されていた時点では、まだ防犯カメラの映像の確認がされていなかったのなら、放送ですべての容疑者を呼び出したのにも納得がいく。

しかし、アナウンスの結果は空振りに終わって時間だけが過ぎていく。だからこそ、今日になって、文化祭の前日になって、学校側はいきなりあんな脅しをかけてきた。

文化祭を人質に取って、犯人よ、これを聞いているのなら、他の生徒のためにもさっさと名乗り出ろと、そんなやり方で犯人に自首を促していたのだとしたら。

学校側は防犯カメラの映像から、犯人の正体に辿り着いている。そして全校集会で犯人にだけ狙いを定めて、圧をかけていた。犯人が不登校気味の子であったのなら、学校側のやっていることは全くの徒労に終わるだろうし、そんなことくらい学校側もわかっているはずだ。つまり犯人は不登校気味の子ではない。少なくとも今日学校に来ている生徒と考えて問題はないだろう。

不登校の子である可能性も排除だ。



一人また一人と外れていって、とうとう犯人の可能性がある生徒は誰もいなくなってしまった。どこかで間違えただろうか。ここまでの思考に矛盾はなかったはずだけれど、その結果として、犯人である可能性のある人物は誰もいない、という結論がはじき出されてしまった。

どういうことなんだろう。

犯人は九月二十二日の十五時半ごろに学校にいなかった人物。その条件から八人に絞られていたはずの容疑者が全員犯人でないのなら、もう犯人なんて存在しないことになるけれど。

また学校側が、防犯カメラの映像から、八人の中の誰か一人を疑っていることは間違いないと思うんだけれど、その一人が誰なのかすら全く思い至れない。

学校側が疑っている生徒は誰か、それが犯人の正体を突き止める一番の方法だと思うけれど、それを知るためには、もはや他の先生に聞いてみるしか手はなさそうだ。

このまま思考だけで犯人を突き止めるには何かが足りない。私は何かを間違えているんだ、何が違う?



あれ?そう言えば、あの時のあの人の表情……


でも、それはおかしい、その可能性は私が一番に除外した。


そうだ、最初からもう間違っていたんだったとしたら。

これまで考えていたことが、一つ、また一つと繋がっていく。

見えた答えに疑いの余地はなく、しかしそれが更に私の頭を悩ませた。謎が解けてはいおしまい、とはいかないのが、現実と創作との大きな違いだろう。

さあどうしたものか、でもまあ大体は……

「……わかった」

その声はほとんど無意識に口から出ていて、そしてすぐに一人の生徒が私の声に反応した。

閉じられていた真ん中のベッドを囲むカーテンが勢いよく開けられて、久しぶりに見た、しかしもうすっかり見慣れたその顔は。

「蘇我さん!」

「ようやくわかったんですね!先生!では、さっそく先生の話を聞かせてください!」

ああ、この子はずっとこのタイミングを伺っていたのかな。私が声に出してわかったと呟かなかったら、この子はカーテンの向こうでずっとウキウキしているつもりだったんだろうか。

久しぶりに顔を見たささやかな感動とか、体調は大丈夫なのかとか、伝えたいことばかりだったけれど、まず口をついたのは、すっかり言い慣れたセリフだった。

「保健室では、お静かに!」


####################


私の話なんかより、蘇我さんの体調が最優先だ。

拳銃型の体温計を彼女に向けると、はじき出した数字は36.7℃。平熱みたい。

さっきは本当に七度五分を越してたんですよと必死に弁明していたけれど、別にそんなことは疑っていないから安心してほしい。

「とにかく、私はこうして元気なので、ぜひ話してください!」

「……わかった。でも、ベッドには寝ていてほしい。保健医として最低限のことはさせて?」

彼女の体をどこかに縛り付けておく必要がある、そんな気がした。

私の言うことをおとなしく聞いてくれた蘇我さんは、寝転んでもなお目の輝きを失わず、早く早くと私が話し始めるのを心待ちにしているようだ。私の話をする前に、私だって蘇我さんに聞きたいことは山ほどある。例えば。

「まず、蘇我さんはどこまで知っているの?さっきの集会にはいなかったんだよね?」

「はい、ここで寝ていたら、先生と数人の女子が入って来る声がして、目が覚めました。先生たちの会話を聞いている限りでわかったことだと、この前のアナウンスは、先生の言っていた通り、本当に苦情の犯人を捜すために流されていたものだったこと。そして苦情の犯人が名乗り出ないと、文化祭の規模が縮小されてしまうかもしれないこと。そして先生が文化祭を守るために推理を冴え渡らせていたこと、これくらいでしょうか!」

蘇我さんには何でもお見通しみたいだ。もしかすると、私がカーテンの向こうの蘇我さんの存在を疑っていたこともバレていたりして。今にも体を起こしてしまいそうなほど声を弾ませながら、蘇我さんは続ける。

「それでそれで、犯人の正体がわかったんですよね!八人の中の誰が一体犯人なんでしょうか!」

時刻は十二時に差し掛かろうとしている。蘇我さんに話さないといけないことは多い。それじゃあ、どこから話そうかな……



「……ということで、八人全員が犯人ではないことがわかったんだ」

「……え?誰も犯人じゃないんですか?」

長い長い私の話が終わって、結局は容疑者がいなくなっただけだけというオチだ。蘇我さんの呆気にとられたような表情は凄く良くわかる。自分で思考を進めていた私ですら、この結論には驚かされた。

「じゃ、じゃあ犯人は誰なんですか。学校側に犯人だと睨まれている人は?もう容疑者は誰もいませんよ?」

そう言えば、有名なミステリー小説にそんなタイトルのものがあった気がする。私はあまり読書に明るくないけれど、蘇我さんなら知っているんだろうか。みんないなくなった……だっけ?

蘇我さんの疑問に答えるのは簡単だけれど、一応考えの手がかりを与えてみる。

「八人の中に犯人はいない。でも、八人の中に学校側に睨まれている子がいる。これがどういうこと。わかる?」

突然言葉を投げかけられて、蘇我さんは一瞬面食らったように見えたけれど、すぐに持ち直した。

「学校側が犯人を確定させた手掛かりは、防犯カメラの映像です。つまり、防犯カメラに写っている実際の犯人と、学校側が犯人だと睨んでいる人は、見た目が似ているんじゃないですか?」

流石蘇我さんだ。

「うん、私もそうだと思う。そして人の見た目が似るのなんて、大体の場合は血の繋がった親族であることが理由のはず」

「つまり、犯人はあの八人の誰かの姉妹、ということですか?……なんで姉妹がこの学校の制服を着ているんでしょう?同じ学校に通う姉妹というならなくはない話でしょうけど、そしたらあのアナウンスで呼ばれていない時点で、その人物に犯行は不可能です。違う学校の生徒ならそもそも制服を着ているのがおかしいです。どういうことですか?」

最初は、早退でも不登校でも欠席でもないのなら、遅刻ではないかと思った。

騒動が起こったのは午後三時と、遅刻なのだとしたらあまりに遅れすぎている登校ではあるけれど、すべての可能性が否定されてしまった以上、それしか残らないと思ったから。リボンをつけていない理由は慌てていたからとか、そんなところだろうと。しかし違う。そもそも遅刻であってもあの放送では呼び出されていたはずだし、事件はそんなに複雑じゃない。もっとシンプルだ。

「どうして制服を着ているのかって、それはまあ、着たかったからだろうね」

また蘇我さんは呆気に取られている。少し意地悪な言い方をしてしまったな。

「ごめんね、変な言い方しちゃって。でもここで思い出してほしいのが、リボンのことなんだ」

「リボンですか?結ぶのが難しいリボンが、ここで関わってくるんですね?」

蘇我さんは自分のリボンをキュッと引っ張って、そう強調した。

「そう、私の考えでは、犯人はリボンを結んでいなかった。でもそうじゃない、犯人はリボンを結べなかったんじゃないかな」

「まあ、普段リボンを結んでいない子なら、うちの制服のリボンには手間取りそうですけど。でも女子ならリボンを結ぶことくらい生きてれば普通にあると思いますけどね……」

「……女子ならね」

それだけ聞いて、蘇我さんは今日何度目かわからない、呆気にとられた表情を浮かべている。すぐになにかを後悔したような顔に変わったのを見るに、どうやら私の言いたいことは伝わってくれたみたいだ。

「……ごめんなさい。って、先生に謝ってもしょうがないですね。でも完全に失念してました」

「私も、この結論に至るまで時間がかかりすぎたのは、制服から想起される性別に引っ張られ過ぎたから。しょうがない、で済ませてはいけないけど。思考にはどうしたって限界があると思う」

犯人の目的は、他でもない制服だった。制服を着ることのデメリットは上げていけばきりがないけれど、最大の目的が制服を着ること、であったのなら、制服だけを着てリボンをつけていなかった説明がつく。

「じゃ、じゃあ。犯人は……」

そこまで言いかけて、蘇我さんも気づいたみたい。さっきこの保健室で交わされた会話に。馬場さんの弟さんは、あの日、馬場さんが学校を早退した日に、おうちにいた。

「で、でも。他にもあの八人の中に、男兄弟がいる人がいるかもしれないじゃないですか」

「調べてみたら、八人の中で男兄弟がいたのは、馬場さんと栃尾さんの二人だけ。栃尾さんの弟さんは現在小学校低学年みたい」

流石に、小学生と高校生を見間違えることはないよね。蘇我さんは口をつぐんで、難しい顔を浮かべている。私は追い打ちをかけるような気持ちになりつつ、言葉を加える。

「それに、さっき倒れた馬場さんを私が担いで保健室に運んで来ようとしたとき、私が担ぐ馬場さんを見た担任の原先生の表情が、一瞬ほころんだような気がしたの。これは、学校側が犯人だと疑っている馬場さんが、集会であの話を聞いて倒れた、つまり図星だったと、あの時の原先生が考えていたからなんじゃないかと思う」

なんにしても嫌な話だ。自分の受け持つ生徒が倒れているのに、あの先生は犯人が見つかったとでも言わんばかりに微笑んだのだから。

「……矛盾点は、ないと思います」

蘇我さんは観念したようにそう呟いた。

よかった、納得してくれたみたいだ。とりあえず、蘇我さんに納得してもらうミッションの方は達成できたと考えていいだろう。しかし困るのはここからなんだ。

「ただ、私が言った通りなのであれば、この問題を解決するのはとても大変。馬場さんの弟さんとコンタクトをとらなければいけないからね。馬場さんの容体を尋ねるふりをして電話をかけようかなと思ってるんだけど、どうかな?」

「……じゃあ、その弟さんに謝罪に行かせるんですか?」

その質問は少し痛い。

「まあ、そうなっちゃうかな……」

「私はあんまり、それはしたくありません」

それはもちろん私もそうだけれど、しかしこの騒動に頭を突っ込んでしまった時点で、こうなる覚悟はしたはずだ。絡んでくる問題が問題なだけに、振る舞いには気を付けなければいけないけれど。思考を辞めなかった責任を、私は果たさなければいけない。

と、その時。

シャッ、と音が聞こえてきた。隣のベッドのカーテンが開けられた音だ。

そのベッドに寝ていたのは村尾さんのはず。そちらに目をやる隙もなく、一瞬人影が私の目の前を通り過ぎていった気がして、気づけば保健室の扉が開けられていた。

左のベッドを見ると、いつもは閉まっていたカーテンが開けられていて、ベッドはもぬけの殻だ。ベッドの脇の荷物置きには、通学用と思われるリュックだけが残されている。

「え?え?あそこの子、出て行っちゃったんですか?」

蘇我さんもこの保健室で過ごした時間は長い。村尾さんの存在も知っていた分、その驚きようは私と似ている。

「出て行っちゃったみたい……正直私も彼女の姿は見たことがなかったから、曖昧だけど」

「でもどうして急に……もしかして、私たちの話を聞いて、でしょうか?」

蘇我さんのその言葉に、胸騒ぎがした。これまでもこの保健室で繰り広げられた私と蘇我さんの会話を、村尾さんは全て聞いていたはず。しかし今日初めて保健室を出ていったということは、その原因は間違いなく先ほどの私たちの会話の中にある。

性別に捉われ過ぎていたことの言い訳をするために、私は人の思考には限界があると、そう言わなかったか。仮に村尾さんがそれと似たような悩みを抱えていたとして、その言葉を聞いて彼女はどう思うだろうか。

「……その可能性は、ある、かもしれないね……」

「ど、どうしましょう。怒らせちゃいました……」

村尾さんは怒っていたのだろうか。それも今となってはわからない、この部屋には、私と蘇我さんの二人しかいないのだから。

その後もしばらく、蘇我さんと、村尾さんについてあれこれ喋っていると、突然。

キンコンカンコーン

チャイムが鳴った。こんな時間に。校内放送の開始を告げるチャイムだ。

『えー、みなさん。今朝の学年集会でお話しした件についてですが、たった今、正直な生徒の申し出のおかげで、解決いたしました。文化祭は予定通り行われます。えー、繰り返します……』


は?

「え?」

あまりに驚きすぎると、人は本当に言葉を失う。蘇我さんの方に目をやると、蘇我さんもこちらを見ている。けれどお互いに言葉は発さない。というより、発せない。

しばらくの沈黙ののち、蘇我さんが口を開いた。

「えーっと、なんだかわからないことだらけなんですが……解決した、らしいですよ?」

「らしい、ね?」

状況が呑み込めていない蘇我さんにそう尋ねられるけれど、状況が呑み込めていないのは私だって同じだ。疑問形でしか返答はできない。蘇我さんはまた疑問を重ねてくる。

「誰かが自首したってことなんですかね?」

「そうだと思うけど、馬場さんの弟さんが学校に来たってこと?それとも私の考えは全くの的外れだったの?」

例えば早退した姉から事情を聞いて、騒動のことを知った弟さんが名乗り出てきた、とか。否定はしきれない考えだけれど、それにしたってあまりに突然すぎる。私の言葉に蘇我さんは異を唱えた。

「いえ、先生の言っていたことに矛盾点はなかったと思います。やっぱり弟さんが来たんじゃないですか?今日も家にいたみたいですし」

その時保健室の扉が開かれて、そこには見覚えのない女子生徒が、一人立っていた。

首元まで伸ばしたボブヘアで、リボンの色を見るに一年生のよう。顔立ちとリボンから彼女が女子であることはわかるけれど、彼女が下に着用しているのは、スカートではなくスラックスだ。確かにこの学校は、制服が選べるようになっているけれど、実際スラックスを履く女子生徒というのは、そこまで数が多いわけではない。こんな時に来客か、とは思ったけれど、私の仕事は謎を解くことではなく生徒の健康を守ることだ。私は保健医なのだから。

蘇我さんのベッドを離れて彼女の方に向き直し、声をかける。

「こんにちは。今日はどうしたのかな?」

「荷物を取りに来た」

「荷物?」

それだけ言って、その子は先ほどまで村尾さんがいたベッドに迷わず歩みを進みる。そんな彼女を指さして、蘇我さんが言った。

「も、もしかして、あなた、村尾さんでしょ!」

蘇我さんに言われて初めて気づいた。そうか、彼女が村尾さんなんだ。思っていたよりも健康そうな子だ。この子がずっと、あのカーテンの向こう側にいた子だったんだ。不思議な感動を覚える私を横目に、二人の会話は続く。

「は、あんた誰」

「なんか言い方キツイなあ。まあいいや、今、どこに行ってたの?」

「あんたに関係ない」

「あるね、おんなじ保健室の利用者でしょ」

「……」

村尾さんはそれきり言葉を続けず、バッグだけ回収して、足早に保健室を出ていこうとしている。私も慌てて声をかける。

「ま、待って!今日はもう帰るの?帰るならこの早退手続きの紙を……」

そんな私の言葉を村尾さんが遮った。

「馬場さんの早退手続きは済ませてた。私のもお願いしたい」

「それは、別に構わないけど……」

自分から手続きの話を出しておいて申し訳ないけれど、本当に聞きたいのはそんなことではない。いきなり保健室を飛び出した理由、保健室を出てどこに行ったのか。謎だらけの彼女について知りたいけれど、それを尋ねてみても答えてくれそうにないし、そもそも村尾さんは質問をする暇を与えてくれない。

とうとう再び保健室の扉が開かれて、村尾さんが保健室を後にする。と、最後に村尾さんがこちらを振り返って口を開いた。

「手続きの件はありがとう。そして、先生のおかげで、文化祭は開催される。おめでとう」

それだけ言い残して、村尾さんは保健室を出ていった。

そしてその言葉で、私は私の重大なミスに気づいたのだった。


####################


村尾さんが保健室を去って行ってから、蘇我さんはしばらく、軽い放心状態にあるようだった。今のはなんだったんでしょう、としきりに呟いていて、彼女の困惑具合が見て取れる。無理もない、あまりに多くのことが短い時間に起きすぎていた。蘇我さんがこうなってしまうのもしょうがないことだと思う。しかし私は、最後の村尾さんの言葉がずっと頭の中に響いていた。あの言葉の意味を考えていくと、とても嫌な予感がするのだ。

「先生?どうしたんですか。さっきから元気がないですよ」

私の憂いは蘇我さんにも伝わっていたようだった。

「あのね、蘇我さん。落ち着いて聞いてほしいの」

「……はい」

この子にこれを伝えるべきかどうか、とても迷ったけれど、それでも自分のミスは自分で方を付けなければいけないと思う。言おう。

「さっき私はこの部屋で、蘇我さんに今回の苦情事件の真相を話した。それは恐らくベッドで寝ていた村尾さんの耳にも届いていた。私の話を聞き終わったタイミングで、村尾さんは突然部屋を出ていった。しばらくしても村尾さんは帰ってこなくて、さっきの事件が解決しましたという校内放送が流された。そして放送のすぐ後に、村尾さんは戻ってきた」

蘇我さんは私の言葉をじっと聞いている。ここまで言ってしまえば、敏い彼女なら大体の想像はついているかもしれないけれど、これはちゃんと私の言葉にしないといけない、ような気がした。私は言葉を続ける。

「村尾さんが、保健室を飛び出して向かったのは、おそらく職員室だと思う。起こったことを整理してみれば、私が語った考えを聞いた村尾さんが、嘘の自首をした可能性が高い。なんでそんなことをしたのかはわからない、けれどこれなら矛盾なく説明がつけられる。偶然にも、村尾さんと馬場さんのシルエットは少し似ていた。あやふやな防犯カメラの映像くらいなら言い訳が付けられそう。もしかすると、村尾さんは保健室に来る生徒の姿を都度都度カーテンの隙間から確認していたのかもしれない。それに、保健室にいるのが常の村尾さんなら、事件が起きた時間のアリバイはあやふやだから、学校側を納得させることも彼女ならできると思う」

村尾さんのその行動の理由は全く分からないけれど、突然保健室を飛び出していった村尾さんと、そして事件は解決したと伝える校内放送の意味を考えるのなら、村尾さんの起こした行動としてはそれが一番自然なのだ。

そう思って村尾さんの行動を振り返ってみると、嘘の自首という手段を取れそうな人物は、村尾さんの他にはいないんじゃないかと思う。シルエットが馬場さんと似ていて、学校に来てはいるけれど教室に顔を出しているわけでもない生徒。そんな子が村尾さん以外に何人もいるはずがない。私の言葉を聞いた蘇我さんは、未だ驚きを隠せていない様子で言った。

「確かに村尾さんならそれは可能だと思いますけど、そん、な……何の得があってそんなことするんですか……」

その動揺っぷりは

「流石に村尾さんの心の動きの話だから、明言はできない。けれど少なくとも、文化祭が予定通りの規模で開催されることは確かだろうね」

これは私の想像だけれど、学校側は本当に苦情の原因を作った生徒を見つけ出そうとしているわけではないと思う。自分から犯人は私ですと名乗り出てきた生徒がいたのなら、その言葉の正確性など気にせず、間違いなくその言葉に縋るだろう。二人はシルエットが似ているとは言ったけれど、正直そんなことを学校側が気にするとはあまり思えない。彼女の言葉が正しいか否かは、学校側にとってそこまで大きな問題ではないはずだ。そしてそんな学校側の姿勢を、村尾さんは見抜いていた。だからこそ、嘘の自首なんて手段に出ることができた。

自分を犠牲にして多数の生徒の幸福を優先したのだろうか。それとも、私が語った考えを聞いて、真犯人を庇おうとしたのだろうか。

「……でも、村尾さんは最後に言っていた。先生のおかげで文化祭は開催される、って。文化祭が通常通り開催されるのは、村尾さんが嘘の自首をしたから。その原因が私にあると言うのなら、村尾さんがそんな行動に出た理由は、私がこの部屋で苦情騒ぎについての考えを口にしたから。そう考えるのが一番自然だろうね」

因果関係は未だに不明だけれど、私が安易に喋りすぎてしまったせいで、村尾さんに自分を犠牲にする選択肢を選ばせてしまった。もしかしたら、村尾さんも馬場さんの弟さんと似たような悩みを抱えていたのかもしれない。村尾さんのスラックス姿が頭に浮かんだ。

しかしそんなのも結局は仮定でしかなく、一つだけ確かなのは私の言葉が村尾さんの嘘の自首に繋がっていた、ということだけだ。

こういう時に蘇我さんなら、すぐに私の言葉を否定してくるかも、と思ったけれど。しばらく黙っていた蘇我さんが、重い口を開く。

「……残念ながら、今の話に矛盾しているところはないと思います。で、でも。こんなことになるなんて、誰も想像できないですよ!あまり気にしすぎるのも良くないですって」

蘇我さんのその言葉は、確かに正しい。

でも、保健室内に他の生徒がいることを失念して、センシティブな話をペラペラ口にしてしまったことは、言い逃れようのない私の落ち度だ。

村尾さんがいる景色に、左のベッドだけいつも閉まっているカーテンに、私は慣れ過ぎていた。そういえば村尾さんと会話をしようと思ったことが、私にはあっただろうか。

彼女の言葉を聞いて、彼女が教室に行けるよう手助けをするのが私の仕事ではなかったか。それをしないで、呑気に謎解きだなんだと現を抜かしていた結果が、今回のことに繋がったんじゃないか。そう思うと、私は自分を責めずにはいられない。


そうだ、もうこんなことを続けていてはいけないんだ。

私がするべきは推理などではない、生徒のケアなんだ。保健医としての仕事を、遂行しなければいけない。村尾さんの件で、私はミスをした。過去を振り返ってもしょうがないとは言わない。このミスは必ず次に活かす。また村尾さんが保健室に来てくれた時に、私はこれまで怠っていたことのツケを払うんだ。

そして、このミスを活かすべき先は、それだけではない。まだ私が向き合っていない問題が、たった一つだけ残っている。今ようやく、それに決着をつける決心がついた。

私はただの保健医に戻るべきなんだ。

ベッドに腰掛けている蘇我さんの方を向く。思えば、これほど謎に溢れていた日々は、この子と出会った時から始まっていたんだ。


突然顔を向けられた蘇我さんは少し戸惑っているみたいで、なんですか、と照れたように誤魔化している。

でももう誤魔化されない。蘇我さんから目線は外さず、語り掛けるように、私は言った。


「……蘇我さん、ううん。あなたは、あなたは誰なの?あなたは蘇我さくらさんではないよね?」



####################


怖かった。蘇我さん、いや、もう見慣れた顔の、しかし蘇我さんではない彼女の言葉を待つ。この沈黙が怖かった。新井さんの時でこの怖さは十分味わっていたはずだけれど、あの時とは比べ物にならないくらいに、怖かった。

軽い言葉で、何言ってるんですか~と返してくれと、強くそう思った。その言葉が私の推理が間違っていたことを告げる言葉だとわかっていても、いつもの軽い口調を待たずにはいられなかった。しかし彼女は一向に口を開こうとしない。

未知の謎に目を輝かせていた彼女も、声のボリュームを注意されて肩をすくめていた彼女も、今の無表情で微動だにしない彼女の姿からは、想像もできなかった。名前が与える存在の信頼性は、その名前の信頼が揺らいだ瞬間に失われるらしい。私が蘇我さんと呼んでいた時の彼女と、今の彼女は、とても同一人物とは思えなかった。顔は見慣れているはずなのに、私はこの子を知らない。本当の名前なんて知らなくても、私が彼女と過ごした時間は確かに長いはずなのに、私はこの子のことを何も知らないような、そんな気味悪さに襲われた。

いい加減沈黙が長すぎる。今度はできるだけ優しく聞こえるよう気を付けて、再び問いかける。

「私の言ったことは、間違っていたかな?」

間違っていると、そう言って欲しかった。ハッキリ言って欲しかった。しかし、帰ってきた言葉は。

「……いつからですか」

それは、私の言葉が間違っていないことを伝える言葉。私が一番聞きたくなかった言葉。彼女なら、たとえ自分が追及されている状況でも、私の考えを聞きたがるんだろうな。そんな嫌な予想は的中してしまった。

今はとにかく、彼女の質問に答えよう。

「まずおかしいなと思ったのは、この前に一年四組の劇の話をしていた時。脚本が私の語った通りなら、あの劇に警察や包丁は出てこないはず。でもあなたは小道具班で包丁や警察の捜査道具を作っていると言っていた。そこから少し違和感を持ったの。他にも気になるところはいくつかあった。例えば蘇我さんからクラスの話題をあまり聞かなかったこと。クラスラインでの話はよく出てきたけれど、クラスで実際に何かが起こったような話は一回も聞かなかったから。そう考えると、あなたが図書室の人混みをやたら嫌っていたのにも納得がいく。クラスの人に、もっと言えば本物の蘇我さんの目に触れる可能性は少しでも減らしたいよね。どうかな?」

私の話を聞いている間、彼女の目に少しだけ、いつもの輝きが見えたような気がした。一つ長い溜息が彼女の口から漏れて、そして言った。

「こんな時でも、先生の話は面白いですね……そんなに最初から疑われていたなんて……」

「でも、どうして?どうしてそんな嘘をついたの?」

「そんなに急がないでくださいよ。先生なら、私の本当の名前もわかってるんでしょう?もっと私に話を聞かせてください」

つい純粋な疑問が口をついてしまった私に、彼女はなだめるようにそう呟いた。こうして話していると、蘇我さんを思い出すようで少し心地がいい。でも今、私の目の前にいるのは蘇我さんではない。私は目の前の彼女を取り調べているようなものなのだ。追及の手を止めることはしない。

「あなたは、授業が行われている時間にもたびたび保健室を訪れていた。普通に登校している生徒がそれだけ授業から姿を消していたら不自然に思われるはずだから、あなたはあまり学校に来られていないんじゃないかと思った。そこで、例の放送が役に立ってくる。あの放送で呼び出されていた生徒の中で、不登校気味だった生徒は四人いた。玉城さん、栃尾さん、永野さん、梨木さん。あなたのリボンと上履きの色から一年生のものであることがわかるから、恐らくあなたが一年生であることは確か。つまりあなたは玉城さんか栃尾さんのどちらか。そして、劇の内容を知っていたこともあって、あなたが一年四組のライングループに所属していることは確かなようだから、あなたは一年四組の生徒、つまりあなたは玉城美里さん。合ってるかな?」

長々喋り終えて、放送以降の件は、最後のクラスラインの話だけしていればそれでよかったな、と気づく。蘇我さん改め玉城さんは、少し考えた後、おもむろに言った。

「でも、私は苦情の電話が入った木曜日にはここに来ていません。その日私がたまたま登校していたら、あの放送で名前が呼ばれることはなかったと思います。あの放送から私の正体を絞るのは早計じゃないですか?」

咄嗟に反論を言葉にできる彼女の能力を、こういう時に使ってこられるとは思わなかった。このまま彼女に本気で言い逃れをされると、少し追求に時間がかかりそうだ。これで納得してくれればいいけれど。

「あれは……先週の金曜日、ちょうどアナウンスが流された日。来室した与那覇さんの名前を聞いて、あなたは『こっちじゃ珍しい』って言っていた。ずっとそれが気になっていたけれど、玉城さん、は与那覇さんと同じで、沖縄に多い苗字だったはず。あなたが玉城さんで、沖縄で生まれ育ったんだとしたら、こっちじゃ珍しいと言う発言にも納得がいく。だからあなたは玉城さんだと、私は思う」

そこまで言って、再び長い沈黙が訪れた。ここまで私が語ったことに不自然な点はなかったはず。今は自分を信じて、彼女、玉城さんの言葉を待つ。一番速く動く時計の針が一周して、玉城さんはとうとう観念したように、軽く微笑んだ。

「……流石ですね。隠し通せるとは思っていませんでしたけど、こんなに早く正体がバレるとも思っていませんでした。まだまだ私は先生を見くびっていたみたいです」

その表情は、今日まで何度も目にしてきた、彼女が蘇我さんだった頃の楽しげなものに戻っていた。

その時だった。ああ、この子は本当に蘇我さんではないんだと、私の中でようやく決着がついたのは。

私はこんなに話した。今度は玉城さんが話す番だ。

「聞いてもいいかな?こんなことをした理由を。それだけが私にはわからないから、玉城さんの口から、教えてほしい」

これは、私が聞く玉城さんの初めての言葉だ。もう彼女は蘇我さんではない、今私は、玉城さんと会話を交わしている。今か今かと彼女の言葉を待つ。玉城さんは目を閉じて、とつとつと、語り掛けるように話を始めた。

「……さくらは、蘇我さくらは、私の友達でした。私とさくらは、中学のころからずっと仲が良かったんです。出席番号が近いところからよく喋るようになって、同じ高校に通えると知った時にはとても嬉しかったです。その上クラスまで同じになって、神様って本当にいるんだって、思いました。そしてもう一人、私とさくらには、仲のいい男の子がいました。彼も私たちと同じ中学校で、同じ高校に上がって、クラスまで一緒でした。私たち三人はとても仲が良かったんです。あの日までは。

あれは、三カ月前くらい、確か雨が降っていた日でした。二人が手を繋いで私の前に現れて、『私たち、付き合うことになったんだ!美里には一番最初に伝えたくって!』って。もちろん、彼らに悪気がなかったのは私が一番よくわかってます。でも私は、誰も悪くないはずなのに、友だちと好きな人を同時に失う辛さに襲われたんです。二人からその話を聞いてすぐは、私も祝福する気でいましたし、学校にも通えていました。でも、毎日仲の良さそうな二人を見るたびに、私だけが独りぼっちだと言われているようで、だんだん学校に行くのが辛くなったんです。あの子たちは、もちろん私と以前と同じ関係のままいようとしていましたけど、そんなの無理に決まってますよ。

ある日、私は風邪をひいて学校を休みました。しょうがない事情だったのでこれはただのきっかけに過ぎないんですけど、あ、学校に行かなくていいって、こんなに心が落ち着くんだ、って気づいちゃって。そこからです、学校に来られなくなったのは。二人は何も悪くないはずなのに、私は彼らが嫌で嫌でしょうがなかった。でもそんなに簡単に好きな人を諦められるはずもありません。もう少し早く、何かが違って私の方が先に想いを伝えていたら。何度そう思ったかわかりません。でもそれが相手に迷惑をかけることは明らかなんです。今タイムマシーンで二人が付き合う前に戻っても、私は想いを伝えられないでしょうね。これがただの言いがかりであることもわかってるんです。でも、私は何も悪くないはずの二人に悪感情を向ける、最低な人間だと思うと、さらに学校に行く気は失せました。こんなところですかね。しょうもないですよね、たかが恋愛で……」

「そんな、そんなことない!しょうもなくなんてない!でも、だからこそ、どうして友達の身分を騙るようなことをしちゃったの?友達のふりをして、何をしようとしていたの?わからないよ、私はあなたがわからないよ!玉城さん!」

私は咄嗟に言葉を返してしまった。玉城さんははっとしたような表情で、目線を天に注いだ。その目には涙が浮かんでいるような気がしたけれど、私がそれを確認する間は与えられなかった。

玉城さんは突然立ち上がって、そして呆気にとられる私を置いて、足早に保健室を出て行ってしまったのだ。

上を見上げた玉城さんが最後にボソッと呟いていた言葉が耳に入ったけれど、あれはどういう意味だったんだろう?


「……先生なら、分かってくれると、思ってたのに」


そんな言葉が、しばらく私の頭を離れてくれず、そしてこの日以降、玉城さんが保健室に顔を出すことはなかった。



####################


髪を派手に結んでいる女子生徒、クラスTシャツを着ている男子生徒、誰も彼もみんな楽しそうで、今日が文化祭であることを思い出させてくれる。

色々困難はあったけれど、何とか文化祭は予定通り三日間行われる。そして今日は、そんな三日間の命運を決める、初日の金曜日。


校内は騒がしいけれど、私の居る場所はいつもと変わりない。一応は救護室として開かれているけれど、今保健室には私以外誰もいないのだ。玉城さんも、村尾さんも、誰もいない。

三つあるベッドは全て空いている。三人までならどんな病人でもどんと来いだ。


扉の方からコンコンとノックの音が聞こえてきて、扉を開けたそこにいるのは、村尾さんだ。

文化祭だからと言ってはしゃいだような格好でもなく、昨日と同じように、スラックスを履き胸元には赤いリボンを結んでいる。

まさか今日もベッドを借りに来たのだろうか。昨日のことで聞きたいことは山ほどあるけれど、今はぐっとこらえて、保健医の顔をする。もう推理はしないと決めたはず。今私がすべきなのは、村尾さんが保健室から離れられるようにすることだ。

「おはよう、昨日ぶりだね。今日はどうしたのかな?」

「昨日の放課後、謝罪に行ってきた。先生には報告しようと思って」

その言葉を聞いて、もう私は質問を止められなかった。

「やっぱり、村尾さんは私の言葉を聞いてそんなことをしたの?」

「……そういえば、今日はあの子がいない。あの騒がしい子が」

一番知りたいところを尋ねた私の言葉は、簡単にはぐらかされてしまった。

玉城さんは今日はまだ保健室に来ていない。彼女のことを思い出すたびに、昨日の景色も鮮明に呼び起こされる。昨日この部屋を出ていくとき、彼女が呟いた言葉が今も頭から離れないのだ。私ならわかってくれる?なにを?痴情のもつれから来る辛さを?私が?

玉城さんにそんなイメージを持たれていたのなら、早急に改める必要がありそうだけれど。

「昨日、ちょっと色々あってね……」

簡単に誤魔化してみたけれど、村尾さんには通用しないようで。

「ああ、先生はあの子の本当の正体に気づいた。だから今ここにあの子がいない」

「知っていたの?彼女が蘇我さんでないって」

思わず疑問が口をついた。村尾さんは底が見えないところがあるけれど、一体彼女はどこまでを知っているんだろうか。

「入学したばかりの頃、体育の授業で本物の蘇我とはペアを組んだことがあった」

聞いてみればなんてことのない答え合わせだった。そりゃあ、蘇我さんを知っている人からしてみれば、玉城さんが蘇我さんでないことは一目瞭然だろう。

彼女なら、玉城さんの残した言葉の意味が分かるだろうか。そんな気がして、しかし踏みとどまる。昨日のやり取りは気軽に公にしていいような内容ではなかったから。

言葉を止めた私に、村尾さんが言った。

「先生、私に聞きたいことだらけって顔してる」

やっぱり私は顔に出過ぎる。もうこの癖は治せる気がしないな。治せないからこそ癖なのだ。大人しく観念しよう。

「バレた?」

「一目瞭然」

そう言って、村尾さんが微笑んだような気がした。村尾さんは言葉を続ける。

「それじゃあ最後に何か一つだけ、質問に答える。これまで興味深い話を聞かせてもらったお礼」

一つだけ、村尾さんはそう言った。何を訪ねるべきか一瞬迷って、しかしその質問は自ずと口から出ていた。

「どうして、馬場さんの弟さんを庇ったの?私があの時語った話を聞いて嘘の自首なんてしたのなら、あなたの行動の理由はそれしか考えられないけど」

私の語ったことが真実だったにせよそうでなかったにせよ、村尾さんが行動を起こしたきっかけは、間違いなく私の言葉の中にあった。私が語った話の中で、村尾さんが引っかかりを覚えそうなことをいくつも考えては却下していき、最後に残ったのが、馬場さんの弟さんを庇った可能性だった。もしかすると、私の知らないところで、村尾さんと弟さんにはなにか繋がりがあったのかもしれない。

しかし、帰ってきた言葉は、シンプルだった。

「他人事とは思えなかった、それだけ。私が履いているものを見れば、分かるでしょう」

本当に質問はその一回きりで、村尾さんは保健室を出ていった。


####################


時刻は十一時前。そういえば一年四組の劇がこのあと開演するんだった。ちょうどいいタイミングで保健委員の子がやってきたので、彼らに保健室を任せて、私は校内に繰り出す。そういえば、保健委員の子はこの文化祭準備期間中は活動していなかった。


保健委員の中に玉城さん、もしくは蘇我さんのことを知る人がいれば、玉城さんの正体にはもっと早く気づけていたはずだ。そう思うと、玉城さんはとことん運がいい。そもそも、玉城さんが保健室にいる間に、蘇我さんが保健室を訪ねて来ていたら、彼女の計画は一発でおじゃんだったわけだ。そこまでのリスクを取って、彼女はいったい何をしようとしていたんだろうか?

昨日のやり取りについて思考を進めつつ、活気の凄まじい校内を見て回る。


仮想をした生徒が大きなプラカードを持ちながら、二年三組いかがっすかと繰り返しながら、廊下を練り歩いている。窓に壁にポスターや装飾が所狭しと並べられていて、すれ違う生徒たちの表情は誰も彼もみな楽しそうだ。

ああ、良いなぁ。この雰囲気。これを味わうために、私は教師になったと言っても過言ではない。

楽しそうな雰囲気を少しでも多く味わいたくて、自ずと歩みもゆっくりになってしまう。思考にはこれくらいのスピードがちょうどいい。


玉城さんの目的はいったいなんだったのか。自分から好きな人を奪った相手の名を騙って、何か悪評を広めようとしていたとか。

でも、玉城さんが保健室で誰かに迷惑をかけていたようなことはないし、そもそも彼女が身分を騙っていたのは私と、あとは新井さんくらいだ。

それだけ少ない人間に、別人の名を騙るという大きなリスクまで取って、一体何をしようとしていたのか。そこが全く分からないんだ。


三階に上がってくると、活気が一層増したような気がした。先ほど歩いていた二階に三年生が多いことを考えると、二年生の多い子のフロアの方が活気があると言うのは、受験の存在が関係してきそうだ。体育館の入り口を目指して歩く。時間にはまだ余裕があるはず。

私が思考を進められないときは、得てしてなにかを前提から間違えていることが多い。どこだ、どこから私は間違えているんだ?

玉城さんの言葉を思い出す。私ならわかってくれると思ってた。どういう意味なんだろうか。私ならわかる、というのは、私であれば玉城さんの真意に思い至ることができたはず、という意味だろう。ではその真意とはなんなのか?リスクを取ってまで友人の名前を騙り、短くない期間私に嘘をついていた、その行動の真意は?

……あ。


体育館に到着した。玉城さんの話では倍率が高くなるとのことだったけれど、まだ比較的空席はあるみたい。薄暗い体育館の中を恐る恐る歩いて、後方右端の席に腰を据える。劇が始まるまであと十分少々。間に合った。


玉城さんの言葉を思い返してみて、気づいた。もしかして、私はとんでもない勘違いをしていたのではないか。玉城さんが私に分かって欲しかったのは、嘘をついたことに対する真意でなかったとしたら。玉城さんが語った、不登校のきっかけの話に対する真意なのだとしたら。

玉城さんは、好きな人と友人を同時に失った、と言っていた。私はてっきり、蘇我さんが当てはまるのは友人、という言葉の方だと思っていたけれど、そうでなかったとしたら?

背中から嫌な汗が噴き出たような気がした。これは体育館の暑さのせいじゃない。

私はあの時、玉城さんに何と言った?その話の前に、馬場さんの弟さんについて話していて、村尾さんの制服のことも頭の中に留めていたはずなのに、そこで私は、勢いのままに、玉城さんにどんな言葉をかけた?

やむを得ない事情から不登校になってしまって、学校に行こうと必死にもがいて、それでも保健室までしか顔を出せなくて、自分への情けなさや初めて顔を合わせる保健医への緊張に襲われて、咄嗟に友人の、想い人の名前を名乗ることで自分の身を守ろうとしていた女の子がいたとして、私がその子に放った言葉は、どれだけ醜いものだっただろうか。

玉城さんが私に気づいてほしかった真意、というのも、今となっては明らかだ。どうして昨日の私はそんなところまで思い至れなかったのか。決めつけて、普通という名の型に嵌めて、前提を疑うこともしないで、偉そうに推理を口にしていた自分が、あまりに情けなく思えた。

ここまで来たらもう、認めるしかなかった。


つまり私は、一番間違えてはいけないところで、間違えたんだ。


体育館の照明は全て消されて、舞台にスポットライトが当てられた。幕が上がる。

劇が始まった。

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保健室で謎解きを 太田 @yamaiuotani

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