第4話 幽冥の月に見初められし者10

『そこまでして己を殺すとは、愚かしいものよ』

 神狩尊はそっと耳元で囁く。

『だが、よく吾が袂に来れくれた。それだけあの屋敷から逃げ出したかったのであろう』

「…………」

 そうだ。私は――私は、あの屋敷から逃げ出した。

 屋敷の役に立てていない事実に――その不安から逃げ出した。

 幸せを享受していたい。

 なのに屋敷の様子をただ見ているだけだと、役立たずな自分を再認識させられる。

 頭の奥底にこびり付いた記憶が、嫌な感情だけを掬い上げてしまう。

 そんなこと思いたくはない筈なのに、グルグルと感情が渦巻いてしまう。

『怨めしいのだろう』

「…はい」

『憎らしいのだろう』

「……はい」

 一つ一つ、私の中に蓄積された負の感情の欠片を、神狩尊は丁寧に掬い上げていく。

 言葉という形で、顕現させる。

『それでいい。自己を殺す必要など何一つない。その感情も、おまえの一部なのだから』

「でも、それじゃあ嫌われてしまう……そんな私を、見せられない」

『ククッ、嫌われるか。なら、今まで己を押し殺していた結果はどうだ? 何も変わっていないだろう。嫌われ、疎まれ、損な役回りばかりしてきていたのではないか?』

 神狩尊の言葉に、胸が痛む。

 何一つ、間違っていない。まるで私の記憶を読んでいるかのように、嫌な記憶すら掬い上げていく。

『泣け。喚け。叫べ。そのすべてを吾が受け止めてやろう。受け止めて――救い出してやろう』

 無理に正しくある必要などない、と神狩尊は囁く。

 自分の負の感情に正直であれ、と神狩尊は甘美な言葉を囁いてくる。

「本当……に?」

 すべてを曝け出しても嫌わないのだろうか。

 怨み辛みのすべてを言葉にだしても、構わないのだろうか。

『そうだ。そのために、吾が傍にいる。幽冥の月の花嫁よ』

 神狩尊の長い指が、目元を拭う。

 他者に嫌われる不安――そんな不安が一切ないなんて、なんて甘美な誘惑だろう。

 それなら――。

「私のすべてを、受け止めてください」

 神狩尊の手に、そっと私は手を重ねた。

「私は……優しく在ろうとしたんです」

 それはまるで戒告をするかのようだった。

 訥々と、言葉が口唇から零れ落ちる。

 嫌なことも閉口して過ぎ去ることを良しとしたのか。

 何故、理不尽な目に遭っても我慢をしていたのか。

 それら全ては、優しい自分だけを見せたいと――醜い感情を露見させてはいけないと願うエゴだった。

「そんなこと、なんの得にもならないのに……!」

 気づけば、語気が荒くなっていた。

 胸の内に溜まっていた鬱憤の数々。憎悪と呼ぶべき醜い感情。

 それらを顕わにしても、神狩尊は私をなお愛おしそうに見つめてきた。

 髪に指を通し、優しく梳いては頬に掌を添える。

 初めは〝人外〟だと思い恐ろしく感じていた筈なのに、気づけば心の全てを曝け出していた。

「憎い……」

 胸の内から湧き上がる感情。それは暗い、昏く……黒い。

「でも、この憎しみを誰にぶつければいいの?」

 今まで他人を害することを知らなかった弊害か――怒りのぶつけ方が分からなかった。

 まるで、狩りの仕方を親猫から教えられなかった子猫のような、脆い憎しみ。

 けれどその子猫であることすら問題ではないというように、神狩尊は私の身体を優しく抱き寄せると首筋に口唇を寄せてきた。

「ククッ、随分と簡単なことに頭を悩ませるのだな。吾が花嫁は」

 だがその姿も愛らしい、と神狩尊は笑った。

「ぶつける相手ならいるだろう……?」

「え……。でも、私は何も……」

「……そうか。未だ使い方すら教えずに放っておいたとは、業腹だな。吾が花嫁よ、〝コレ〟を使うが良い」

 そう言って差し出されたのは黒い紙面に朱色の墨か何かで図絵を描いたモノだった。

「これは……?」

「この符はお前の感情を顕現するための依代だ。願え。お前はどうしたい?」

 神狩尊からの甘美な誘惑。

 今まで流され続けてきた私が初めて、心の底から願っていいのだと思えた。

 符と呼ばれる紙切れを受け取ると、目を瞑る。

 すると嫌でも記憶の奥底から浮かび上がってきた。

 私を蔑ろにしてきた人達の顔が、言葉が泡沫のように浮かんでは弾け、消えてゆく……。

「……お願い……」

 符を握る手に力が籠もる。

 他力本願と言われてしまえばそれまでだ。

 でも、力もなにもない。

 何も生み出せず、何の成果を上げられない。

 結局のところ、他人を憎むことが私が自分自身を赦す一番の近道なのだろう。

(上辺だけの優しさなんて……無意味なのかもしれない)

 そんなことを思っていても、何故だろう。

(冥一郎の顔が、屋敷の皆の顔がチラつくのは……どうして)

 現世にいた人達よりもずっと優しかった人達。

 幽世で初めて出逢った、優しい人の笑顔が黒い感情を塗り潰そうとしてくる。

「……っ」

「どうした?」

「なんでも、ないです……」

「憎い奴らの顔は浮かんできたか」

「はい……」

(本当に、いいの……?)

 自分自身に問いかける。

 取り返しの付かないコトにならないか。

 初めて、自分で選び取る道は正しいのか。

 そんな不安に身体が震え出す。

 けれどそんな私を後押しするかのように、神狩尊は私の手に手を重ねると囁いた。

「ならば疾く」

「……は、い」

(もう、どうなってもいい……)

「私の憎しみを、形にして……」

 目を開くと、両手で握った符に言葉を刻んだ。直後、

「あ……んっ、ぐ……!」

 私の魂魄うつわという名の魂そのものを引き裂くような痛みが、全身を貫いた。

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幽冥月下の婚礼 櫻木いづる @sakuragi-izuru

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