第3話 気持ちが見えない。〔1〕

快晴の金曜日・12月の6限目。この授業をやり過ごせば下校、という場面において、時間割変更が起き、やってきたのは御年72歳の化学の先生だった。冬の太陽が優しく降り注ぐ窓側、一番うしろの通称「神席」で、私は、先生のしわがれた優しい声が誘発する睡魔に負けて睡眠学習へと移行するクラスメイトたちをぼんやりと眺めていた。要するに私も真面目に授業を受ける気はさらさらなかったわけだ。


ふと、斜め前に座る男子生徒と目が合った。小首をかしげて少し微笑んでみせて、すぐにノートを取る作業に戻る。授業を聞いていたのかという驚きと、最近よく目が合うな、という薄桃色の感情が頭をよぎって、すぐに打ち消した。


この人は、弓月昂弥という。よくありがちな、幼馴染で腐れ縁というのがぴったり当てはまる関係。小学校からずっと同じ学校に通い、よくクラスも一緒になった。一時期ダンスを習っていたこともある。

ただし、昂弥が熱中したのはダンスではなくて、中学から始めたバスケだった。抜群のフィジカルとリーダーシップを発揮し、出身中学を全国ベスト8に導いた。でも、当時飛鳥がダンスで活躍し、昂弥もそこまでの偉業を成し遂げて、気後れしていた私に対して、この人の振る舞いは全く変わらなかった。


『お前のダンスだってすげぇじゃん』『十分頑張ってるって』

ときには即興でペアダンスを踊ってくれることもあった。昂弥がいたから、私はここまでやってこれた、それを認めざるを得ない大切な存在。でも、私は昂弥の”大切”ではない。


昂弥は、飛鳥のことが好きだった。多分、恋愛的な意味で。

それに気づいたのはいつ頃だっただろう。小学校高学年のときには、薄々感じ取っていた気がする。明確には思い出せないけれど。

ダンズを始めたきっかけも飛鳥だと思う。その証拠に、彼の最初で最後のダンス大会で、飛鳥と昂弥はペアを組んだ。昂弥の熱烈なアピールが功を奏したらしい。

あのときのダンスは、一生忘れられない3つのダンスの一つだ。鮮烈に刻み込まれて、忘れたくても忘れられないくらいに。

私が昂弥にペアダンスをせがむようになったのもそれからだった気がする。ただ、何度踊ってもだめだった。あの、飛鳥とのダンスにかなうものを、私は得られなかった。

つまり、昂弥の心を。この人を魅了させられるダンスを。


飛鳥が死んだとき、真っ先にうちに来たのも昂弥だった。一晩中私以外の家族と同じように泣き続ける昂弥を、乾いた瞳で見つめ続けた。あのとき、昂弥はずっと私の背中を支えていた。だけどその実、支えてほしかったのは本人だったように思う。

私は、”大切な人を失った”『大切な人』を支えられなかった。ただひたすら、私は悲しみの波に揉まれながら、心を真っ白にしていた。




「…ねぇ、聞いてんの?」「っ、」

いきなり聞こえたとげとげしい声に、現実へと引き戻された。とっくに授業は終わっていたらしい。周囲にはまばらに帰宅部の子がいるだけで、他のクラスメイトは教室を出ていた。

声で何となく分かっていたけれど、一応顔を上げる。今のところ全く話をする気はない相手だ。

「部活。来て。」「…」

燐はその場に仁王立ちして、あの日と同じように私を睨みつけていた。本当に厄介だ。勝手にやればいいのに。私は教材を適当にまとめてリュックに突っ込み、それとスポーツバッグを持って立ち上がった。

「今日も逃げるの?」「…」

教室の出口に向かって早歩きで進む。燐は本当にしつこかった。私の真横に張り付いて、ここのところずっと言っている言葉をオウムのように繰り返す。

「何とか言いなさいよ。」「…」「そうやってだんまりのまま卒業までやり過ごすつもり?」「…」「ねぇ、おど」

「うるさいっっ」


流石にうざったかった。足を止めて、地面に向かって声を上げる。

「はっきり言うね。燐がセンターなんでしょ?こんなところで油売ってていいの?あなたがいないと部活が始まらないんじゃないの?それってセンター失格じゃない?そりゃ降ろされた私が言うのは信憑性ないだろうけどさ、ちゃんとした方が身のためだって考えられない?」

早口でまくし立てた。ほとんど言いたくない言葉だった。

ゆっくりと顔を上げた私に対して、燐の瞳はまっすぐだった。矢のようにこちらを見て、私の心をぐりぐりと抉る。なんだかその視線が羨ましかった。

「つばめが本当のことを言うまで、私はやめないから。」

そう告げて、燐は部活棟に走っていく。認めたくない気持ちと、もうどうしようもない現実が、私を襲っていた。


燐は、あのセンター決めが終わった次の日から部活に来なくなった私を、いつまでもああやってけしかけてきた。毎日、毎日。行ったって、選抜チームである燐とは全く違うメニューで部活をやらなくてはならないのに。選抜外の私が、自分のポカリを作るのが見たいんだろうか。『旧センターだ』って私を笑いたいんだろうか。燐の本心が全く分からない。気持ちが見えない。




「めずらしっ。」「へ、」

いきなり声がして、私はまた考え込んでいたことに気が付いた。男子の声。あれ、今は部活の時間じゃ、


「昂弥。」「おつかれっ。部活じゃないん?」

現れたのはロンティーにバスパンの昂弥だった。癖のない髪が細長い指でくしけずられる。昔からよくやる仕草だった。

「今日は、休み。昂弥こそ今部活じゃない?」

「休みぃ?ふーーーん。こっちはもうミーティングで終わり。筆箱忘れちゃってさ。」

そう言ってごそごそと自分の机を漁っている。きっとこの人は、私の嘘に気づいている。早く離れなくちゃ、


「じゃあ下駄箱で待ってて。」「は?」「一緒に帰ろ。15分で終わらせるわ。」

「…え?」


状況を解せないまま、約束なと彼は私の肩に手を置いて行ってしまった。



『わからない』。今日は本当にそれしか言うことはない、という具合だ。燐も昂弥も一体どうしたんだろう。疑いの心はだんだん純粋な疑問になっていった。ここ最近ずっとうるさかった燐はともかく昂弥まで。いや、これまでも偶然会ったら一緒に帰ることもあったし、私の考え過ぎ、かな。

それはともかく、多分昂弥は、私が嘘をついたことに気づいている。そこに重点を置くと、この状況は全く思わしくないわけだ。正直に白状すると、昂弥にはいい顔をしていたい、それが私の願望だった。部活をさぼっていることがばれたら、見捨てられる気がする。そういうの、とても嫌いだから。


そんなことを考えていたら、部活棟の方から制服姿の昂弥が走ってきた。

「…待った?」

さらさらの髪の毛は冬なのにしっとりとしていて、それを見ているだけでなぜか”青春”という単語が脳裏をよぎる。眩しい。

リュックのほかに大きなスポーツバッグを2個もぶら下げて、それでも全力で走ってきた相手に、さすがの私も何も言えない、ところではあったけれど、可愛くない女なので、そっぽを向いて「待たされた。」と一言だけ言った。

「ごめんって」

流石に長年の仲だから、私が本気で怒っていないことがわかっているんだろう、いたずらっ子のような笑顔で謝って見せた。

「いいよ。…帰ろ?」


カフェでも寄る?そう言った昂弥に、私は今日はそういう気分じゃないの、と言った。本当は行きたかったけど、それ以上に早く離れたいという気持ちが先走った。じゃあ駅までだ、と割と真面目に肩を落としたので、うぅむ、どうしよう、

「…ちょっとだけなら、いいよ。」

「あ、まじ?」

「ちょっと、ってとこ大事ね?」

「はいはい」

「奢ってくれてもいいよ?」

「えぇ…」


そんなこんなで、結局私はチェーン店のカフェに来てしまった。

学校の人に会いたくないので奥まった席、私は甘いカフェラテ、昂弥はもっと甘いフラペチーノ、つくづく大人になりきれない私達だった。

周りから、私達はどんな風に見えているんだろう。この人と幼馴染を続けていくうちに、何度もこねくり回した疑問を、今日もまた考える。でも大事なのはさ、他人からどう見られているかじゃなくて、私の気持ちも、まぁ考えなくちゃいけないところではあるけどさ、それ以上に、昂弥の…


「最近どうよ?」

色々落ち着いてから、昂弥は何気ないふうに聞いた。ただ、狙って聞いてきたのは明白だった。居心地が悪そうに少しだけこちらを覗き込む。

最近?最悪です。センター降ろされて、選抜にも漏れて、しまいにはダンスそのものも踊れなくなっちゃいました。部活も行ってません。


「別に。ふつーだよ。」


不自然な笑みが顔に張り付く。言えない。そんなこと言ってしまったら、きっと軽蔑される。

昂弥は遠慮がちにこちらを一瞥して、ずぞぞと飲み物を口に含んだ。また髪の毛をかきあげて、くしゃくしゃ。そのあと、制服の学ランについた毛を、何故か今いじりだした。動揺し過ぎ、正直すぎる。でも、それが羨ましい。

「じゃあさっきの中元とは?何か、揉めた?」

だいぶ小さな声でまた聞く。疑いながら伺われている。今日は諦めが悪いな、少し苛立ちを覚える。

「なぁに、今日は尋問の気分?」

「や、何かつばめにしては珍しく気が立ってたからさ、」

「なにもないよ、」

いたたまれなくて下を向く。ほんと嘘ばっかりだ。


「ならいいけど、」

昂弥はそれだけ言った。私にも口を開く道理がなくて、無言になる。とても居心地が悪い。私がそうしたのに…


「なんかあるなら、話聞くからさ、」

いや、なんか違う。小さい子供に気を利かせるように言うから、さっきまでの反省が色を消して、めきめきと赤黒い何かがせりあがってくる。

「昂弥、」

昂弥と話していると、気持ちが変になる。燐のときとはまた違った、いくつかの感情がぐちゃぐちゃになった感じ。自分でも自分の気持ちが見えない。

「別に何もないって言ってるじゃん。燐とは昨日今日でちょっと意見が合わなかっただけ。自分の人間関係くらい何とかできてるよ、」

「つばめ、」

「なに、」

思わずカッとして、昂弥を睨みつける。そんな私に対して、下を向いている間、ずっとこちらを見つめ続けていたように透明な瞳で受け止めるような素振りを見せるから、もうどうすればいいのかわからなくて。怒りの勢いがしゅんと消えて、逆に縋ってしまいたくなる。でもそんなこと許されない。

「何焦ってんだよ。どうしたの。」

「やだ。こっち見ないで。」

そんな労わるようなこと言わないで。私を助けないで。私は昂弥が想っているあの人みたいにはなれないよ。


「何だよ。」

だんだん険悪になってくる空気。昂弥が呆れたようなため息をついた。何でつばめはいつもこうなんだろな、吐き出された声。泣いちゃいそうになって、何とか抑える。

「帰る。」

机に3000円を置いて立ち上がる。歩き出そうとしたら、がっちりと腕を掴まれた。

「やめてよ」

「こっちが”やめてよ”だわ。

俺はお前と喧嘩したいわけじゃないんだよ。あと3000は多すぎだし、奢れって言ったのはつばめじゃん。落ち着けよ。」

そう一気にまくし立ててから私の肩をぐっと掴んで、体を椅子に押し付けた。

「ごめん、今のは言い過ぎた。」

なぜか私の隣に座りなおして、昂弥は頭を下げた。

自分の悪かったところをすぐに認められる時点で、既にこの人は私より人間として格が上だ。それが分かっているのに、なぜか『こっちこそごめん』が出てこない。本当に可愛くない。

「…別に。」

絞りだした私の声に、まだ少し不安そうな顔をしたまま、昂弥は自分の財布から二枚の細長い紙を出した。


「ほんとはさ、今日、これに誘いたかったんだよ。」

そう言って机の上を滑らせたのは、新設されるレジャー用のスケートリンクの招待券。

「…え?」

「ずっと元気なさそうだったからさ、久しぶりにスケート、どうかなって。

お節介かもしれないけど。」

照れくさそうな仕草でこちらを見る。

確かに、私達は昔、冬になると家族ぐるみでよくスケートをしに遠くのリンクへ行っていた。そこで少しずつ講習会に参加して、それなりに滑ることができる。

でもなんでいきなりそんなこと。

「つばめの好きなものっていったらこれくらいしか思い浮かばなくて、まじごめん。

別に全然行かなくてもいいんだけど、」

「行くよ、」


即答した。あんまり考えることではなかったから。

今日イチ自分の感情がわかる。私、浅ましく喜んでいるんだ。


「そっか、じゃあ、また今度行く日決めよ、」

はい、薄青色の紙が、私の手に乗る。まるで子供のように、それを手放すまいと握りしめた。

「な、つばめ、」

”こっち向いて”、目線を合わせられる。昂弥のまっすぐな瞳が私を貫く。

「なんでも言ってほしい。一人で抱える必要ないだろ、な?」


昂弥の優しさは暖かい。だけどそれには、必ず影がつきまとう。本来これは、飛鳥が手にするべきもの。昂弥にとっても、本来これは、飛鳥に渡すべきもの。


「また、ね。」

明確な返事をしないまま、今度こそ私は席を立った。昂弥も、今度は引き止めなかった。不安と顔に貼り付けた昂弥が、視界の端で揺れる。

「スケート、楽しみ。」

こんなの、いたたまれない。




家に着いて、一人きり、ぐったりと座り込んだ。

懐から取り出した券を電灯に透かす。その色も相まって、空気に溶けてしまいそう。


本当は、今日、授業中に目が合ったときから、全てぶちまけてしまいたいという願望が音を立てていた。誰かに、できたら昂弥に、”大丈夫だから”、”安心しろ”って言ってほしかった。ここ最近、ずっと思っていたんだ。

でも、実際目の前にすると、卑屈な感情が止まらなくなってしまう。


だって、だって、だって、

どれだけ私が背伸びしたって、所詮は”飛鳥の劣化版”、”想い人の廉価版”にしかなれない。飛鳥が消えてしまった以上、昂弥の想いは、本当に叶えられない。ずっと迷子になったまま。

だから私も、”飛鳥の妹”でしかいられない。この先ずっと。


そんなこと思ったって、私の弱い心は大きくて、今だって、こんなこと思いながら、楽しみにしている自分がどこかにいる。

ダンスはできずに、部活にも行けずにいるのに。




違う誰かを好きになりたかった。いや、飛鳥の妹じゃなければよかった。

そうだったら、こんなに昂弥と近づかなくて、すんだのに。

こんな苦しい思い、しなくてすんだのに。


また今日も、ベッドに行く力がないまま、とろとろと床で眠る。涙が流れてきたけれど、何でそうなったのかは、私にもわからない。
























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