第5章 遠く描いた明日の景色



 もう、私に会いに来ないで───。

 あの時、叶音に言われた言葉が何度も頭の中を反芻していた。

 あの言葉は、本心だったのか。あの時浮かべられた笑顔にはどのような意味があったのか。


 考えれば考えるほど、叶音の真意が遠のいていくような気がした。

 思い返してみれば、今までだって叶音の考えを正しく理解できたことなんてなかったのかもしれない。

 あるいは、理解しようなんて思ってもいなかったのかもしれない。

 いちいち深く考えなくても、自分の考えがすべて相手に伝わっているし、相手の考えもすべて理解できているなんて慢心していたのだろう。


 しかし実際は、お互いに表面しか見ていなくて、奥底にある本音を知るのが怖かっただけなんだ。少なくとも僕はそうだった。

 やっぱりもう、会わないほうがいいのだろうか。それを叶音が望むのならば。


 「……と。……いと!おい、翔飛!」


 肩をゆすられながら呼びかけられ、ようやく今が授業中だったことを思い出す。


 「あれ、誠也?何でここにいるんだよ」

 「はぁ?弁当食べに来たんだよ」


 誠也にそう言われ、辺りを見回してみると、確かに教室のいたるところで机の上に弁当を広げ、昼食に夢中になっている人が散見された。


 「あれ、じゃあ授業は……」

 「もう5分も前に終わったよ。お前なんかあったのか?今日はおかしいぞ」

 考え込んでしまうと周りが見えなくなるのは僕の悪い癖だな。

 「そうか、じゃあ僕たちもご飯を食べようか」


 そういって先ほどまで受けていた授業の教科書を片付け、周りと同じように弁当箱を机の上へ乗せる。

 「あー、そうだ。今日からメンバーが増えるんだが……」


 そういって少し気恥しそうに俯く誠也を前に嫌な予感を覚えつつ、そのメンバーとやらを連れてくるように促すと、全くの想像通りに秋山が誠也の隣に腰を下ろす。

 3人ということもあり、昼食会は僕の机を囲む形で開始された。


 「違うんだっ!」

 平和かと思われたそれは、誠也の開幕の叫び声で台無しにされてしまった。

 「うるさいな、いちいち叫ぶなよ」

 「なんでそう叫ばないと気が済まないわけ?」


 二方向から一気に責められ少し萎んでしまう誠也。しかしすぐに勢いを取り戻すと、何に対してかよくわからない弁明を始める。

 「違うんだ翔飛!」

 「だから何がだよ」

 いい加減このテンションもうんざりしてくるな……。


 「お前が想像しているようなことは何もなかった!いいな⁉」

 「いやしらんし。じゃあなんで二人で花火なんか行ったんだ」

 「そこは私から説明させてもらうけど、実は私たち幼馴染なんだよね」

 それは前から分かってたけど。

 「それは前から分かってたけど」

 いけない!つい本心が漏れてしまったようだ。


 「あれ、そうなの?それで、毎年花火は行くんだけど、お互いの家族全員で一緒に行くからなんか気まずくて。なら適度に仲良しアピールもできるしついでに行こうかなって」

 「おい、ついでってなんだ、ついでって。むしろそこがメインだろ」

 「は?なに思い上がってんの?勘違いしないでほしいんだけど」

 秋山、たぶんそういうとこがツンデレだと思われる原因だよ。


 「で、じゃあなんで今日から秋山さんも昼ご飯一緒に食べることになったわけ?」

 「いやほら、笹原がいないから昼一人じゃん?それが寂しいっていうから仕方なくだな」

 そういってごにょごにょと言い訳じみた弁明をする誠也。


 やましいことが何もないのならば言い訳なんてしなくてもいいと思うのだが、なぜこうも必死になって何かを隠そうとしているのか、少し理解に苦しんでしまう。

 「それはそうと翔飛、なんで今日はそんなに元気がないんだ?」

 話の逸らし方が下手すぎて、もはや何も誤魔化せてはいないのだが、そうまでして隠すということは、人には聞かれたくないことなのだろうと思い今回だけは見逃してやる。


 「あぁ、ちょっとそのことについて相談しようと思ってて……」

 「叶音ちゃんと何かあった?」

 こういう時の秋山ほど恐ろしい人間は他にはいないだろう。なにせこちらの考えていることを、まるで見透かしたかのように見事に言い当ててくるのだから、彼女を相手に隠し事なんて一つもできないだろう。


 「えっ!笹原と喧嘩でもしたか⁉」

 そう言ってすごい勢いでこちらに顔を寄せてくる誠也。なんでちょっと嬉しそうなんだよ。

 「喧嘩っていうのかはよくわからないんだけどね。叶音に、もう会いに来るなって言われて」


 あの言葉を思い返すと今でも頭の中が混乱の嵐に包まれる。

 考えることが次々と湧いてきて、膨大な思考量に押しつぶされ息ができなくなるような錯覚に陥る。


 「冗談だろ」

 「私は真剣に相談に乗ってあげようとしてたんだけど」


 そういって二人はまるで信じていないような様子で僕にジト目を向けてくる。なんでだよおかしいだろ。

 何よりなんで僕がこんな嘘をつかなきゃダメなんだよ。

「冗談でもないし僕も至って真剣だ」


 僕のその答えを聞いてもまだ納得していない様子でため息をこぼす二人。君らほんとに息ぴったりだな。そういうとこは感心するよ。


「だいたい、翔飛くんのことが大好きな叶音ちゃんが会いに来るな、なんて言うわけないでしょ」

「そうだぞ、何かにつけていっつも笹原は翔飛とのこと気にしてたからな」

「だから僕もこうして悩んでるんだ。今まで叶音から僕を拒絶したことなんて一度もなかったから」


 僕がそう返すと、なんだか妙な空気が流れる。そうして僕は少し失言してしまったことを自覚する。

 何か考え事をしながら人からの質問に答えるって相当難しいなこれ。次からは気を付けて発言しよう。


 「仕方ないなぁ。私が会って話してくるよ」

 僕が羞恥心から穴を掘って頭を埋めようとしていると、天から舞い降りた救世主かのような声が降り注ぐ。

 「お、じゃあ俺も行こうかな」

 「誠也は来ないでよ、普通に迷惑」

 「おーう、辛辣ぅ」


 人が目の前で悲しんでいるときにコントを繰り広げるのはどうかと思うが、力になってくれるというのであればぜひお願いしたい。

 だが、僕の頭の中に叶音以外にもう一つの懸念が生まれ、自分で病院に行こうと決意する。


 「そうしてくれるのはありがたい。でもいいや、自分で行く」

 僕がそういうも、秋山は確固たる決意の目で僕をまっすぐに見つめてくる。

 「私だって叶音ちゃんに会いたい。だからこれは私の意思。君たちの喧嘩なんか関係ない」

 「まぁ、それなら僕が止める義理はないけどさ。叶音を元気づけてやってよ」

 僕が苦笑を浮かべながらそう返すと、秋山はほっとしたように表情を緩め、「うん、そうする」とこぼした。


 今思えば、あの二人は元気のない僕を元気づけようと、あえて明るく接してきてくれたのかもしれない。そう思うとなんだか無性に恥ずかしいような、嬉しいような気持がこみあげてきた。

 そんな内心を隠すように僕は俯いた。




 放課後、いつかのように秋山と隣り合い叶音の病院を目指していく。

 今回はどちらもバスで眠ることなく、けれどもやっぱり会話はなくて。そんな前と変わったようで何も変わっていない時間を過ごした。

 唯一変わった点を挙げるなら、緊張しているのが秋山ではなく僕であるという点だろう。


 すっかり顔見知りになってしまった受付の看護師に挨拶を済ませ、足早にエレベーターへと乗り込む。

 いつからか、ここのエレベーターの到着音を聞くことが僕の日課になってしまっている。


 いつもの階でいつもとは違う人数で叶音の病室へと向かう。

 その病室の前で秋山とは分かれ、僕は少し足取りを重くしながらも例の談話室へと歩いていく。

 日が傾き始めているようで、談話室一帯は淡いオレンジに染められていた。

 この前来た時とずいぶん印象が変わったような気がするが、それも恐らくは太陽の光の仕業なのだろう。


 いつもより少し暖かく感じたその談話室では、しかし目当ての人は見つけることができなかった。

 どうしようかと考えたが、ほかに行く場所もないので、いつも佐藤さんが座っていた席に腰を下ろし少しここで待っていることにした。


 佐藤さんと話しているときには気が付かなかったが、どうやらここには小型テレビが設置されているらしく、その液晶の奥で名前もよく知らない評論家が我が物顔で結婚率の低下について真剣に語っていた。

 いつもなら興味もないし聞き逃していたであろうそれに、僕はなぜか聞き入ってしまった。

 というのも、僕は自分の将来についてうまく想像できていないことが主な要因なのだろう。


 叶音がいなくなった世界でまともに生きていける自信が、今の僕には全くと言っていいほどなかったのだ。そして、それをする理由も。

 だから結婚なんて言う将来を想像させられる話題を耳にして少し関心を持った。果たして成長といっていいのかもよくわからないこれを、僕は一体どうとらえればよいのだろうか。


 そんな時にふと、以前佐藤さんに言われた言葉を思い出した。

 あの時は人に聞かせるものではないと一蹴してしまったが、叶音の主治医というのであれば、少しくらいは相談に乗ってもらうのもいいのかもしれない。

 そんなことを考えていると、不意に後ろから声をかけられる。


 「君、もしかして……」


 まったく聞き覚えのない声に、もしかしたら要件があるのは自分ではないのかもとは思ったが、真後ろから聞こえたものなのでつい振り向いてしまった。

 するとそこには眼鏡をかけひげを生やし、白衣を着ている長身の男性が立っていた。


 目横まで垂れさがっている長い髪は、整髪料を使っているのかぴっちりとした七三分け。眼鏡の奥からは凛とした瞳がこちらを見つめている。鼻が高く彫が深いうえに、全くの無表情だったので少し強い印象を与えられる。


 「佐藤って看護師知ってるかい?」

 こちらに少し目をやりながら男性は僕の対面の座席に腰を下ろした。

 「看護師……。はい、そうですね。いつもお世話になってます」


 僕がそう答えると、白衣の男性は少し驚いたようにこちらを見つめた後、その相貌を崩すと納得したように何度か頷く。

 「あぁ、そうかやっぱり君が……。いやね、美香から聞いていた特徴の子に似ているなと思って」

 「はぁ……。美香?」

 「ん、あれ聞いてないの?佐藤の名前」


 こんなことを言うのは失礼極まりないと思うのだが、正直あの性格から美香なんて名前は想像するほうが難しいだろう。

 「ははっ、まったく似合っていないよね」

 僕が思っていることを察したのか、男性はにかっときれいな歯を見せ豪快に笑う。

 人のことは言えないが、この人まじでデリカシーないなと思いつつ、ふと男性の胸元へ視線を移すと、そこには「渡辺」と書かれたプレートがあった。


 僕がネームプレートを見たことを気にしたのか、男性は自分から名乗ってくれた。

 「私は渡辺 亮太。この病院の医者の一人だ。それで、今日はどうしたんだい?」

 「えと、その佐藤さんを探していたんですが、今日はここにいなかったのでどうしようかと悩んでいるところです」

 「あー、美香なら今は診察中だろうね」

 「え、診察?佐藤さんどこか具合悪いんですか?」


 まさかとは思いつつもそう訊ねると、想像よりもはるかに意外な事実を告げられる。

 「まさか。なんだか最近やる気になったみたいでね。また医者として働きだしたんだ」

 頭の中がなぜ今になって?という疑問であふれかえったが、むしろ今までが特殊だっただけで、現在の業務が本業なのだと思いなおす。


 それにしても、今までずっと働いているところを見てこなかったからか、あの人がサボらずに働いている姿をうまく想像できない。

 そんな僕には構わず男性は机の上で両手を組み話を続ける。

 「ただまあ、一日に数人が限度らしいがね。検査によれば、一種の心的外傷後ストレス障害らしい」


 まったく聞きなれない言葉が飛び出してきたので、一瞬にして頭の中が真っ白になる。

 「心的……?」

 「一般的な言い方をするならまぁ、PTSDってやつだ。彼女なりに苦労して、傷ついて。それでもなお、前を向こうとしている。それがどれだけ辛いことなのかは当事者にしか分からないのだろうけど、せっかく持ちなしたんだ。世話焼くほうが邪魔だろうと思ってね。今は好きにやらせている」

 「そうだったんですね……」

 「私にも、向き合いたくない過去の一つや二つくらいある。けれどそれは、他人からしたら特に思いつめるほどでもない出来事だ。記憶だとか過去って言うのは、案外そういうものらしい」


 そこまで彼女が深い傷を負っていたとは知らずに、僕はなんて無責任で身勝手なことを言ったのだろうか。

 思い返してみると、彼女に合わせる顔すらないように思えてきた。

 今日はこのまま、佐藤さんには会わずに帰ろうかな、なんて考えていると、突然聞きなれた声が降ってくる。


 「おや、珍しい組み合わせだね。私も混ぜておくれよ」

 そう言いながら佐藤さんは白衣を翻しながら僕と渡辺さんの間の席にどかりと座った。

 「おお、美香じゃないか。今日の診察はもう終わりかい?」

 渡辺さんがそう語りかけると、佐藤さんは露骨に嫌な顔をして反応する。

 「渡辺君。一体何度言えば君が私を名前で呼ぶのをやめるようになるのか、私にはもうわからないよ」


 いつもは呆れられる側であろう佐藤さんが心底他人に呆れている姿を見るのはなんだか新鮮な気がした。

 「お嫌いなんですか?自分の名前」

 僕は佐藤さんの機嫌や状態を確かめるためにも、少し軽めの話題からどんどんと突っ込んでいくことにした。


 「嫌いじゃないよ。父が私にくれた名前だ。ただ少し、私には似合わないような気がしてね……。苦手ではあるのだろう」

 「佐藤君。他人に何かをお願いするのであれば、それなりの誠意は見せるべきだ。そうだろう?」

 「冗談もほどほどにするんだな。私はまだ君を院長と認めたわけではないぞ」

 なるほど、渡辺さんは院長だったのか。

 「えっ、院長⁉」


 驚きのあまり思わず大声を出してしまい、周囲からの視線が集まるのを感じ慌てて口元を手で押さえた。

 「おや、聞かされていなかったのかい?相変わらず君は悪趣味だねぇ」

 「人聞きの悪いことは言わないでくれたまえ。私はこの少年の驚く顔が見たかっただけだ。すぐにネタ晴らしをしてしまっては驚きが薄れてしまうだろう」

 「そういうところが悪趣味なのだと一定いるのだが……」


 佐藤さんはまだ渡辺さんに向けグチグチとボヤいていたが、僕は構わずずっと気になっていたことを聞いてみる。

 「あの、お二人はどういった関係で……?」

 そう訊ねると二人は少しの時間見つめあい、小首をかしい下腕を組みながら熟考を始めた。


 関係性を訊ねられただけでそこまで答えに窮することがあるのだろうかと何か勘ぐってしまいそうになるが、この二人に限ってまさかそんなことはないだろう。

 僕がそんなことを考えていると、ふと顔を上げた佐藤さんが渡辺さんを一瞥すると、ため息をこぼし口を開いた。

 「表面上で言えば、ただの仕事仲間だ。同じ病院の同僚。それ以上でも以下でもない」


 少し気になる言い方だったのでもう少し詳しく説明してもらうことにした。

 「表面上は?では、正式にはどのような関係で?」

 佐藤さんが眉を寄せ心底嫌そうに口を開き、何かを言おうとした途端、渡辺さんが割って入ってきた。

 「簡単に言えば、旧友だよ」

 「ほう、旧友ですか」


 あまり簡単な言い方ではないよな、と思いつつ先を促す。

 「そうは言っても知り合ったのは中学のころなんだけどね」

 なるほど、それは確かに定義の難しい関係性かもしれないなと納得してしまう。

 「中学のころは全然勉強なんてしてなかったんだけど、性格はひねくれてないし運動も出来るしで、同級生からすごい人気だったんだ。それなのに急に『医者になる』なんて言い出すもんだからあの時は本当にびっくりしたなぁ。今ではこうも立派になって」

 「今はひねくれていて悪かったね。でもだからと言って君が私と同じ高校に進学することはなかっただろうに」

 佐藤さんは不服そうに横目で渡辺さんを見ている。


 「それは君が心配だったんじゃないか。その難儀な性格のせいで高校で苦労するんじゃないかと思ってね。いわば僕は保護者のような存在だったわけだ」

 「いったいだれがどの口でそんなことをほざけるのやら。高校で話せる人が一人もいなくて私に付きまとっていただけじゃないか」

 突如明かされる渡辺さんの変態的すぎる過去に驚きを隠せないでいると、それを見かねた渡辺さんが急いで保身に走る。


 「勘違いしないでおくれ、少年。私は何も話し相手に飢えていたわけではない。ただ同年代の人間とコミュニケーションをとることが煩わしかっただけだ」

 どこかで聞いたような言い訳に思わず吹き出しそうになってしまう。

 「渡辺さん、それはさすがに無理がありますよ」


 僕の言葉にきまりが悪そうな顔を浮かべると、渡辺さんは何も言わずに笑みを浮かべて逃げるように去っていった。

 そんな様子を見て佐藤さんは横でけらけらと笑っている。

 「君、案外きついことを言うねぇ……」

 佐藤さんの中で僕の存在というのは一体どのように認識されているのか少し気になった。

 ただ、今こうしてまた医者として働き始めた理由も同様に知りたいと思ってしまう。


 「あの、佐藤さん。少し質問なんですけど」

 僕のその呼びかけに、佐藤さんは僕の目の奥をじっと見つめながら応えてくる。

 「あぁ、どうしたんだい?」

 「なんで今になってまた医者としての仕事を始めたんですか?」

 先ほどの渡辺さんの話もあったし、あまり触れられたくはない話題なのかもしれないとは思っていた。だがどうしても、ここで佐藤さんの本心を聞いておきたいと思った。


 「それはね、私が一人の医者である前に一人で大人だからだよ」

 抽象的であまり要領を得ない返答に思わず首をかしげてしまう。

 「もう少し簡単に、現実的に言うと、そもそも私の措置は特例だったんだ。病院側としては、働けない医者を手元に残しておく必要はない。それを、あの院長が権力を乱用して私を看護師にすることで病院に席を残してくれた。私を信頼してくれたわけだね。必ず働けるようになると」


 そう言って笑う佐藤さんの顔には、先ほどまで渡辺さんに向けられていたような表情とはまるで違う慈愛と感謝の感情が浮かんでいた。

 「けど、いつまでもそうして甘えているわけにはいかない。その間にも給料はもらっていたわけだしね。私はその期待に応える必要があったんだ。そんなときに、君は言ってくれたね」

 突然僕に焦点が当てられ驚いてしまう。僕は何か佐藤さんの意識を変えるような言葉をかけることができていたのだろうか?

 「僕が、ですか……?」


 僕がそう訊ねると、佐藤さんは満足げにうなずき話を続ける。

 「あぁ、君は私に『私の希望はどこに行ったのか』といったね」

 佐藤さんのその言葉にいつか自分が佐藤さんに浴びせた無責任な言葉を思い出した。

 「あのときは、すみませんでした。叶音のことでパニックになってて、身勝手なことを言ってしまい……。」

 僕のその言葉に佐藤さんは小さく笑うと俯きながらかぶりを振った。

 「まぁ確かに、あの時は「君にいったい何がわかるんだ」なんて思ったりもしたけどね。今では感謝しているよ。君のおかげで私はもう一度、誰かの命と向き合う覚悟ができた」


 その言葉を口にした時の佐藤さんは、何かのしがらみから解き放たれたかのような、透き通るような強い顔をしていた。




 翔飛くんと別れ、その後も少し私は叶音ちゃんの病室の前でたたずんでいた。その行為の理由としてはいろいろあるのだが、何よりも私は叶音ちゃんの意図を理解できる気がしたからだ。そしてその話を本人に聞くことで、わずかな希望を潰したくはなかった。


 私としては、このまま何の話も聞かずに帰ってしまいたかったが、私から付いていくといってしまった手前、彼の望みを聞かずに帰るというのは身勝手すぎる気がしてしまい、こうして保身と良心のはざまで迷い続けている。

 ただ、こうして迷っているだけでは何も始まらないし、とりあえず叶音ちゃんと話をすることにした。


 恐る恐るといった感じで扉をスライドさせると、そこにはベッドに横たわり窓の外を眺めている叶音ちゃんがいた。思えば、私一人でここを訪れるのは初めてな気がする。

 叶音ちゃんは驚いたようにこちらを振り向き、訪問者が私であることを確認すると、安堵と寂しさをごちゃまぜにしたような笑顔を浮かべた。


 「いらっしゃい。一人なんて珍しいね」

 叶音ちゃんはいつもと変わらない声と笑顔でそう言った。

 私は、そんな姿をもう見ていたくはない。

 「うん、ちょっとね」

 私のはっきりしない返答に何か感づいたのか、小さくため息を吐きながら話しかけてくる。


 「なになに、なんか相談?こっちおいでよ」

 私はそう促されるままに扉の前からベッドの横の椅子へと移動する。

 「それで?今日はどうしたの」

 私の内心なんてすべて見透かしているはずなのに、こうして自主的に話させてくるような叶音ちゃんの性格はいまだに好きになれない。

 彼女相手に隠し事がほとんど意味をなさないことは今までの経験で思い知っているので単刀直入に切り出すことにする。


 「もうだいたいわかってるんでしょ。翔飛くんから聞いたよ。私は、二人にそんな風にして離れてほしくない」

 「そうはいってもねぇ……。今更もう、どんな顔して会えばいいのかもわからないよ」

 全てを諦めたように、自虐気味に笑う。それは、かつての笑顔とはかけ離れたものだった。

 「翔飛くん、悲しんでたし、悩んでたよ。本当にこのままでもいいの?」

 私は必死に訴えかける。


 二人の関係を、こんな風に簡単に終わらせていいわけがないと思ったから。

 「そんなこと、私が一番わかってる!でも………、仕方ないの。私は翔飛の負担になりたくない。私は彼の隣に立てるほど綺麗な人間じゃない。そのことに気付いたから、せめてきれいな思い出が残っているうちに彼の前からいなくなりたかった。失望されたくなかった」

 「そんな言い訳聞いてない‼私はただみんなで笑いあえていればそれでよかったのに!あの時間が何よりも愛おしくて、大切だったのに……。わかってる、わかってるよ。今更私が何かをしたところでもう時間が足りないのは知ってる!でも、だからこそ残された時間を私たちと一緒に生きてほしい!せめて最後くらいは、何も隠さず素直になってよ!」


 私がここに来た理由はこんなことを言うためじゃなかったのに。今の私の気持ちをぶつければ、叶音ちゃんが困るのは私が一番理解していたはずなのに。

 でも、いつまでも他人のことばかりを気にして自分はどんなに苦しい思いをしたっていいなんて言うくだらない考えを持つ叶音ちゃんを前にして、私の子の不満を爆発させずにはいられなかった。


 「私、前に言ったよね⁉叶音ちゃんの力になるって!最後くらいはわがまま言ってよ!」

 そうやって訴えかける私を前に、叶音ちゃんは小さく肩を揺らすとこちらに満面の笑みを向ける。

 「しょーじきね!さっき香織が扉を開けたとき、翔飛なんじゃないかって一瞬期待しちゃった。ほんと馬鹿だよね、自分から突き放しといてそれでも会いに来てほしいなんて。でも、こんな私の身勝手で壊れていいほど私と翔飛の関係は浅くないと思いたい」


 私はここで初めて叶音ちゃんの本音を聞いたような気がした。

 今までは本心を閉じ込めて、周りの評価ばっかり気にして自分が犠牲になればいいなんて思っていた彼女が、ただ一人私にだけ胸の内を明かしてくれた。今はその事実だけでどこまでも満たされてしまいそうだった。

 そのテンションのまま、私は叶音ちゃんに胸を張りながら言った。

 「わかったよ。じゃあ後のことは私に任せて!」

 「うん、ずっと待ってるよ」

 てっきり止められると思っていたからいつになく素直な叶音ちゃんを見て、私も少しは信頼され始めたのかな、と関係の進展を感じより心が満たされたのだった。




 あの後、佐藤さんは今から会議があるとのことだったので、白衣を風になびかせながら歩いていく佐藤さんを見送った後、僕はこの後の行動についてずっと悩んでいた。

 もちろん秋山を迎えに行くために病室に行かなくてはならないのだが、叶音のあの発言のせいでどんな顔をして会えばいいのかわからなくて、どうにも足が病室のほうへは向かなかった。

 だからといって、このまま談話室で何もせずに秋山を待ち、これからも叶音に会わずに生きていくという選択肢も取りたくはない。

 そんな答えの出ない葛藤にさいなまれていると、背後から突然声をかけられる。


 「こんなとこにいたんだ。探したよ」

 そういって僕の肩を後ろからつつく秋山は、なんだかいつもよりテンションが高いような気がした。

 「それで、叶音はなんて言ってた?」

 僕が肩に当てられた手を振りほどくと、秋山はスキップでもしそうな勢いで僕の対面の席へと腰かける。

 「まー、だいたいは私の予想通りかな」


 秋山が何か叶音の真意について考えているような発言はなかったので、素朴な疑問としてその秋山の予想とやらの内容について訊ねてみることにした。

 「へぇ、予想って?」

 すると秋山は少し悩んだように顎に手を当て数秒の間唸ると、何か面白いことでも思いついたかのような純粋な笑顔を浮かべる。

 「教えなーい。自分で確かめてみてね」


 最近は秋山の表情から考えていることをある程度予測ができるようになってきたかもとは思っていたが、考えが読めたところでこんな性格をしていたら厄介なことに変わりはないだろう。

 「勘弁してくれよ……。自分で聞きに行けるんならこうやってお願いしてないよ」

 僕がそうして困ったようにため息をこぼすのを見て満足したのか、秋山は仕方ないなぁといって今日の話の内容を話し始める。


 「大枠としては、本心ではなかったみたいだよ。実は結構会いたがってるみたいだったし。だから怖がらずに会いに行けばいいんじゃないかな。他は詳しくは言えないよ。自分で確かめてね」

 本心でなかったのかと安堵すると同時に、ではなぜ叶音はあんなことをいったん丘という疑問で頭が埋め尽くされてしまう。いくら嘘とはいえ、少なからず本心が混ざっていた可能性だって捨てきれない。

 そんな風に考えていると、僕の考えを察したのか秋山は机に身を乗り出し僕に言う。


 「いいから早く病室行けば?叶音ちゃん待ってると思うよ」

 その言葉に勇気づけられたわけではないが、確かにここで変に考えているよりは本人に直接確認したほうが速いだろうと思い席を立つ。

 「ありがとう、いろいろ」


 僕が去り際にそう言うと、秋山は大きく胸を張り「いいってことよ」なんて言った。

 その姿が妙に似合わなくて思わず吹き出すと、秋山は正面から手を伸ばし僕の腕をつねってきた。

 思わぬ反撃に平謝りしつつ、なんだか打ち解けられたような気がして無性にうれしくなった。

 「なんか、変わったね。秋山」

 「え、そうかな」

 周りからしてみれば大きすぎる変化なのだが、当の本人は気付いていないらしく、きょとんとした顔をしていた。


 「まぁ、環境とかに慣れたんじゃないかな。私って実は人見知りなんだ」

 そういって恥ずかしそうに笑う秋山にもう一度感謝を述べると、僕は叶音の病室へと歩き出した。




 病室の前についてからも、僕はこの扉を開けるべきなのかについて悩んでいた。先ほどまでは決心ができていたような感覚だったが、いざその扉を目の前にするとどうしても怖気づいてしまった。

 ただ、先ほどの秋山の言葉を思い出しもう一度決意を固くすると、思いきって扉をスライドさせた。


 「うっわぁ、びっくりしたぁ。なんだ、翔飛か。どうしたの、そんなに急いで」

 僕が危惧していたような対応はされず、扉の先には突然の来客に驚いて目を丸くする叶音の姿があった。

 「いや、ちょっと……。会いたくなって」

 自分でも意識せずに口からこぼれたその言葉は、果たして僕の本心なのだろうか

 「そうなんだ。今日は香織だけしか来ないんだと思ってた。あんなこと言っちゃったし」


 そう言って視線を落とす叶音の目には後悔と寂しさの色が浮かんでいる気がした。

 「僕も来るかどうか迷ったけどね。……けど、このまま終わりなんて絶対に嫌だから。叶音の本心を聞きに来たんだ。あの時の、あの言葉の意味を」

 僕がそういうと、叶音は顔を上げ、僕の目をまっすぐに見つめてきた。そうして少しの間視線を交わしていると、叶音は呆れたように、自嘲気味に笑いながら言う。

 「実は、あんまり私もよくわかってない。───けど、私がこのまま君の時間を奪い続けていいのかって考えていたら、私は君の隣にいていいような人間じゃない気がしてきた。君は私なんかにとらわれずに、自由に生きていくべき人間なんだ。だから、もうこれ以上、君の時間を私のために使ってほしくない」


 「今更、何言ってるんだよ。僕の人生には、ずっと叶音がいた。僕の生活の中心は、いつだって叶音だったんだ。それなのに今更、僕の時間を僕のために使えなんて、僕はそんなこと望んでない」

 僕はもう、何もわからなかった。目の前にいる少女が何を考えているのかも、何がしたいのかも。

 今までは、言葉なんてなくても通じ合っているような気がしてた。けどそれは、ただの僕の思い違いで。所詮は、ただの僕の願望でしかなかった。誰かとつながっていたい。誰かに大切に思われたい。


 そんな汚い僕の望みが、僕と叶音の関係を歪ませた。こんなのは、僕が望んでいたものではなかった。いわば共依存のような、お互いの汚い欲望をごまかすためだけにお互いを錯覚させただけの何の感情もない空虚な関係。

 いったい僕は、何をするために今まで生きてきたのだろうか。

 「私はでも、いつまでも君に頼ってるわけにはいかないの。これからは、お互い別の人間として生きていかなきゃならない。別の道を選ぶんだよ。その時期がちょっと早まるだけ」

 「そんなこといったって、僕は一人で生きていくつもりなんてない。最後の時まで一緒にいるって決めたんだ。僕には君しかいないから。だから今までだって、君の隣で生きてきた」


 まるで空っぽだった。今の言葉のどこを探したって、僕の本心は隠れちゃいない。出来合いの言葉で口を満たし、相手にとっても自分にとっても都合のいい言葉を並べ立てるだけ。そうして生きてきたからこそ、こんな状況になってまで本心が明かせない。

 自業自得としか言えないが、それにしたってもう少しやりようがあったんじゃないかと今になって過去を振り返る。

 いったいどこから間違えたのだろうか?なんて、あまり興味もないような事柄で頭を埋め尽くす。

 ほかの重要なことを考えなくても済むように。何かを考えていると自分を錯覚させるために。自分に嘘をつき続ける。


 僕がこの17年間で培ってきたことというのはそれだけであり、ただ上手に現実から目を逸らす方法でしかなかった。

 だから叶音がこんな状態になっても妙に冷静でいられるし、これが現実なんて認識していない。

 こうして自分を客観視してみれば、いかに自分が薄情で、つまらない人間なのかを再認識できた。

 「いい加減わかってよ!私はもうすぐ死ぬの!それでも君は変わらず生き続ける。私がいたことなんて忘れて、昨日と変わらず生き続ける。そんななら、私にこだわる必要なんてないじゃない!君は別に誰でもよかったんでしょ?自分に優しくしてくれる人なら、別に私じゃなくても構わなかったんでしょ⁉だったら私は、別に君の記憶に残ろうなんて思わない!だから早く忘れてよ‼」


 彼女は、とうの昔から僕の本心に気付いていたのだろうか?いや、それが本心なのかもわからないが、もしそうなのであれば、彼女に僕の本心を説明してもらいたかった。

 幾度となく嘘を重ね、嘘を嘘で塗りつぶし、その下にあったはずの言葉なんてものはとっくの前に見えなくなっていた。

 僕という人間を形作ってきたはずのそれらは、判別できなくなるまでに形を変えられ、捻じ曲げられ、踏みつぶされてきた。周囲の環境に適合できるように。僕という自我を出さないように。


 そうして作り上げられた今の僕は、はたして僕といえるのだろうか?

 僕はもう、考えるのをやめた。

 「そうか。それなら、これで最後だ」

 そう言うと僕は、叶音の病室を後にした。

 我ながら、惨めすぎて泣いてしまいたい気分だった。




 スライド式の扉が閉まると、そこはまるで世界から切り取られたかのような静寂に包まれた。

 驚くほどに音がなく、ただひたすらに、私の呼吸だけが響いていた。

 最近は息もしづらくて、時々わけもなくむせ返りそうになるし、胸の痛みが自身の存在を嫌というほど主張してくる。


 何のために息をしているのかもわからず、今すぐにでも息を止めてしまいたいのだが、自分の置かれている状況から目を背けるようなことはしたくなかった。残り少しの命だ。せめてそれが尽きるまでは生きてやろうと心に決めていた。

 心が弱っているときは、ほんの少しでも誰かの心に触れていたかった。誰かの声が聴きたかった。

 さっきの彼の言葉。あれは、嘘に塗れていた。私のことを特別に思う気持ちなんてどこにもなかった。けれどそれはあの時だけではなくて。花火大会の時だって、映画に行った時だって、───初めて会った時だって。彼の心に、言葉に、私を特別だなんて思う心はどこにもなかった。


 だからこそ、私は彼に惹かれたんだ。

 私は昔から、相当に愛されて生きてきた。ただ顔がいいというだけで、生まれた瞬間から周りの人間よりも楽に生きることを許されていた。異性はみんな私を特別扱いしてきたし、これまで生きてきた中で話し相手に困ったことなんて一度もなかった。みんなが私の周りに集まってきた。

 けどまぁ、やはり人間というのは醜い生き物で、そんな私を気に食わない人も大勢いた。それは仕方のないことだと思うし、自分の顔の良さにかまけて生きてきた私に、文句をいう筋合いはないのだと理解はしているけれど、私の周囲の人間は、私に好意のある人か、私を憎んでいる人しかいなかった。


 そんな人生を歩んできたからこそ、私は、私に無関心を貫く人がとても面白く思えた。

 今になって考えてみると、とても自意識過剰な考えではあるのだが、私は当時、すべての人間が何かしら私に対し感情を抱くのだと思っていたのだから、彼との出会いはとても衝撃的だった。

 普段から、他人の評価を気にして生きていた私は、いつの間にか他人の感情や考えがなんとなくわかるようになっていた。だからこそ自分に好意を持つ人間にすり寄ったり、そうでない人間を避けたりしてきた。

 今でこそ便利な能力だと思うようにはなったが、当時の私にとってそれは恥ずべき十字架のようであり、私という人間が歩んできた人生の罪の象徴でもあった。というのもそれは、他人の評価に縛られて生きてきた証であり、何よりも私という個人の意思がないことの現れでもあったからだ。


 しかし、私に何の感情も抱かない人間を目の当たりにしてからは、つまり、翔飛に出会ってからは、私はその十字架の存在をあまり気にしなくなった。それを気にしなくても、まっすぐに接してくれる存在がいると知ったからだ。

 彼は当時の私にとっての希望だったのだ。誰かの目に覚える必要なんてなく、彼はただ私という人間の存在だけを認識しているのだと。

 そうして彼と接しているうちに、私は彼の私に対する評価がいつまでも変わらないことに疑問を抱き始めた。いや、この際言ってしまうならばそれははっきりとした不満だった。今までの人生で私と話した異性はみな私に好意を持った。

 しかし彼にはその兆候がみられなかった。


 今までは他人の評価が怖くて仕方がなかったのに、誰が私のことを嫌っているのかばかりにおびえていたのに、私は初めて誰かに好意を抱いてもらいたいと思った。これはむしろ私の意地であり、プライドをかけたものだった。

 私からしてみれば、認められなかったのだ。私に何の興味も抱かない人間が。もちろん、それが果てしなく傲慢で、とてつもなく醜いことは自覚していた。しかしそれ以上に、私という人間の威厳が傷つけられたような気がしてならなかった。

 どうにかして彼と仲良くなりたいと考えた私は、その日を境にあるいはストーカーとも思われるような行動を始めた。登校時には家の前で待ち構え、下校時には教室まで迎えに行く。その副産物が、今になってまで登下校を共にしている理由になっていたりするのだが、彼はそんな昔のことは覚えてはいないだろう。


 ほかにも、放課後の時間こそ親交を深める時間だと思いしつこく彼の後を追いかけたり。冷静になって考えてみれば通報案件なのだが、相手が良かったのか私の生活は守られたままだった。

 いくら小学生だったとはいえ、許されることと許されないことがあるだろう。これらの行動はもちろん後者だとわかってはいるのだけれど、どうしても私の探求心は抑えられなかった。いわば未知との遭遇なのだ。熱中してしまうのも無理はなかっただろう。

 そうして多くの時間を共にするうちに、彼は私に、私は彼に依存するようになる。初めからこれを狙っていたわけではないのだが、結果的に見れば私の尾行は実を結んだことになる。


 私たちは常にお互いを求めあい、自身の心の穴をどうにかして埋めようとした。いつから欠落してしまった穴を、自分よりも醜いと思っている人間の傷をなめることで癒そうとしたのだ。そのせいもあってか、同級生が近寄ってくることは少なくなり、より一層二人の世界へと没頭していった。

 依存とはいってもそこに恋愛感情はなく、あったのは醜い嫉妬心と自己顕示欲のみだろう。その点で言えば、一般的な共依存よりはまだましな未来を目指せたのだろうけれど、もとより依存の先にあるものは破滅のみと相場が決まっている。

 実際、私たちの長い共依存の物語も終わりを迎えようとしていた。

 「結局、何の救いもなかったなぁ……。私の描いた結末は、こんなんじゃなかったのに」


 いったいどうして、私は救いがあると思っていたのだろうか。いつかは彼が、私に対して何らかの感情を抱くと思っていたのだろうか。

 あぁ、視界がぼんやりと、霞んで……。


 「神様なんて…くそくらえだ」


 ぽつりとこぼした私の負け惜しみは、ただ一人、私の鼓膜しか揺らすことはなかった。




 あれから、叶音の病室を去ってから、僕は無意識にあの談話室を目指していた。もはやこの病院に留まる意味なんてものはないのだけれど、なんだか無性にあの看護師さんに会いたかった。いや、今はもう医者だったか。

 とはいえ、先ほど会議があるといってどこかへ行ってしまってからそんなに時間もたっていなかったので、談話室を覗いてみて姿がないようであればすぐに帰ろう、なんていう軽い心持だったのだが、あの人はどうも僕の人生の大事な局面では必ず僕の前に現れるらしい。


 窓際の西日に照らされる座席でパソコンと睨み合っている佐藤さんに声をかける。

 「こんにちは、佐藤さん」

 「やぁ、ごきげんよう、少年」

 僕の声に反応し振り向いた佐藤さんはうれしそうに笑いながらそう返した。

 「ご機嫌なのは佐藤さんのほうでは?何かいいことでもありましたか?」

 「どうだろう、私からしてみればいいことではあるが、周囲にとっては迷惑になりうることだ」


 佐藤さんは僕の質問にいつもこうして回りくどい方法で答えてくる。

 「はぁ、どういうことですか?そういえば、会議があるって言ってましたよね。もう終わったんですか?」

 僕のその質問に佐藤さんはにやりと笑うと突然拍手を始める。

 「素晴らしい質問だ。やはり君は頭がいい。いや、聡明だというべきか。私はもともとこんな性格だからね。会議なんて言う格好だけを気にしたお偉いさんの自己満定例会なんてものがはっきり言って嫌いなわけだ。だが、私は精神的な観点から見てまだ療養が必要ということで、会議の参加が任意になってね。喜ばしい限りだよ。その分事務仕事やらなんやらが増えるわけだが、精神的負担で見れば大きなコスト削減だ。働き方改革というのは素晴らしいものだね」


 今日はやけにしゃべるな、なんて思いつつ、口が回るというのは総じて機嫌がいい時に決まっている。気取った口調の割に佐藤さんは案外感情が表に出やすいらしいということをようやく理解した。

 「それはよかったですね。お取込み中申し訳ないのですが、少し相談したいことがありまして」

 そう言うと佐藤さんは驚いたように目を見開きながら僕を見つめる

 「君が私に相談?それはあまりいい内容ではなさそうだ」

 「えぇまあ、会わり面白い話でないことは確かです」

 佐藤さんはふっと息を短く吐くと、薄い笑みを浮かべる。


 「だがまぁ、一人の大人として、迷える少年の悩みを解決するくらいのことはさせてもらうことにするよ」

 「ありがとうございます、それで相談のことなんですが、いつものように叶音のことでして」

 「ほう、笹原さんの……。悪いが、君の甘酸っぱい青春の手助けをしてくれという話なら聞けないよ。私は医者なんだ。あまり患者に肩入れしてはいけないんだよ」

 いったいこの人は僕たちの関係をなんだと思っているのだろうか。一度しっかりと誤解を解いておかないといけないな。

 「そういった相談ではなくてですね、っていうかそもそもそんな関係でもないですからね?僕とあいつは。それはそれとして、僕は一体どうすればいいんでしょうか?」


 佐藤さんは僕の質問の真意を測りかねているようで、眉にしわを寄せていた。

 「どう、というのは?告白すべきかどうかという話かい?」

 「いえ、そうではなくてですね。僕はもう、あいつと向き合う自信がないんですよ。あいつの最期を、見ていたくない。怖いんです。あいつがいなくなってしまうことが。あいつがいないことが当たり前になってしまうことが」

 結局、これが僕の本心なのだろう。震えながら、怯えながら。強く噛み締めた唇から血が滴るまでになってようやく、僕は自分の気持ちに向き合うことができた。

 「それがどうして怖いんだい?生きていれば別れもあるし、君だっていつかは死ぬだろう。いなくなる人なんて年を重ねるほど多くなる。君はそのたびに毎回、そうやって心を痛めて悩んで泣きながら生きていくのかい?」


 たとえば、今あのベッドに寝ているのが叶音ではなかったとして。それでも僕は同じように、こうして涙を必死にこらえながら別れを悔やむだろうか?

 「そんなことはないと思います。だってあいつは特別だから。だからいなくなってほしくないんです。こんなにも別れがつらいんです」

 そう答えると、佐藤さんは嬉しそうに笑った。

 「そうだろう。私はもう、その特別を持つことはない。母親はとうにいなくなってしまったし、父もすでにその後を追っている。咽び泣くほど人の死を悼むことはないだろう。でもそれは、決して薄情なわけだはないと信じたい。私にも、かつてはその心があったからだ。まあ何が言いたいかといえば、特別には限りがあるということだ。先着何名かはわからないが、人の心のキャパを超えてからは、他人に順位なんてものはなくなる。でも、だからこそ特別なんだ」


 「たぶんきっと、僕は十年もすればあいつのことを忘れてしまいます。あいつがいないことにも慣れて、その思い出に涙をこぼすこともなくなるんでしょう。それが果てしなく怖いんです。あいつは、僕にとって憧れなんです。いつも明るくて、楽しげで。弱いところなんて少しも見せないで、いつだって笑顔だった。そんなあいつを忘れてしまう自分が、…………どこまでも憎い」

 そうだ。そうなんだ。忘れたくない、いつまでだって覚えていたい。だから、いつまでも一緒に生きていたい。

 「僕はあいつに、生きてほしいんです。嘘でもいいから、生きたいって言ってほしかった」

 自分の気持ちを覆い隠して、自分の弱い部分には蓋をして。そうして逃げてきたから、こんなにも純粋で、単純なたった一つの願いすらも忘れてしまっていた。


 「この際だ。本当は絶対に教えてはならないんだけどもね。彼女が治療を行わないことを選んだ時、彼女は泣いていたよ。きっと彼女なりに悩んだんだろうね。そこにどんな葛藤があったかは私には知る由もないが、彼女は「このまま、彼の記憶のままの私で死なせてくれ」と、そういっていたよ。抗がん剤の副作用を嫌ったわけだね。当時の私はその「彼」が誰だか分らなかったから、自分の命を縮めてまで容姿を保つ必要はないと考えていたのだが、今なら少しは、彼女の気持ちもわかるような気がするよ」

そう語る佐藤さんは、どこか遠くを見つめ、かつての輝きに思いをはせているようだった。


 「まあ言ってしまえばこれは結果論にはなるのだが、彼女の選択は概ね正しかったといえよう。だってこんなにも、自分を思ってくれる人間がいることに気付けたのだから」

 彼女は、いったいどこまでが計算だったのだろうか?あの、僕を突き放した言葉は、果たして本心だったのだろうか?あるいは、そんなことを考えても無駄なのかもしれない。だって、本心なんてものは、絶対にその人にしかわからないんだから。

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君に少しの温もりを 時燈 梶悟 @toto_Ma

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