第4章 闇夜に輝く光のような



 蒸し暑い体育館に缶詰のように押し込められたまま話を聞くだけの終業式を終え、返却された悲惨すぎる期末テストの結果を抱えながら、誰にも見つからないようにそそくさと教室を後にする。


 ただでさえ暑いのに、またしても担任教師の長い話に付き合わされ、予定よりも帰る時間が遅くなってしまった。終わったらすぐに叶音の病室に行くと約束していたので、今頃は怒っているかもしれない。なんて考えながら歩いていると、突然後ろから声をかけられる。


 「今日も叶音のところに行くの?」


 声がしたほうを慌てて振り返ると、そこには叶音の親友である秋山 香織が立っていた。秋山は普段からあまり感情の読めない表情をしているが、今の秋山の感情を言い表すことは不可能だろう。それほど複雑な表情をしていた。


 とはいえ、僕に話しかけてきたことと、最近の秋山の様子を見ていると何を言いたいのか、ある程度は想像できる気がした。


 というのも、最近の秋山は普段の優等生という印象らしからぬ行動ばかりしており、遅刻に始まり授業中の居眠り、果てには無断欠席ときたもんだ。

 ただまぁ、状況が状況だけに、そんな風に荒れてしまうのもわかる気がする。


 誰よりも元気だった親友が、自分には何も言わず突然入院したと聞けば普段通りの生活を送るというのは難しいだろう。


 「そうだけど。秋山さんから話しかけてくるなんて珍しいね」

 僕が他人とあまり関わらないこともあり、クラスメイトであるにもかかわらず、叶音を介してでしかまともに話したこともないのだ。

 「うん、ちょっとね……」


 やはり感情の読めない目でこちらを見つめる秋山。このまま秋山が話し始めるのを待っているとらちが明かないだろうと思い僕から話を切り出してみる。

 「秋山さんも一緒に叶音のとこに行くか?」

 僕がそう問いかけると、秋山はうなずきそうになるが途中で止めてかぶりを振る。

 「今更、会いに行ってもいいのかな」


 俯きがちに弱々しい声でそう零す。

 今まで一度も叶音のもとを訪れなかったことを気にしているのだろうか。

 「きっと大丈夫だよ。あいつも秋山さんに会いたがってると思うから」

 そういって笑いかけると、よほど安心したのか、珍しく安堵ととれる表情を露わにした。

 「それなら、会ってみようかな。今からついて行ってもいい?」

 「あぁ、もちろんだよ」


 そういうことで、二人で叶音の病室へ向かうことになったのだが、あまりにも話題がなさ過ぎてお互いに沈黙が続き気まずくなってきたところで、秋山がおもむろに口を開いた。

 「ずっと気になってたんだけどさ、翔飛くんって叶音ちゃんと付き合ってたりするの?」


 あまりにも突然の話題に吹き出しそうになる。

 そんな僕を見て秋山は怪訝な顔をする。

 「叶音ちゃん、全然そんな話題出てこないし気になるのは仕方ないじゃん。毎日一緒に帰ってたし、私より翔飛くんばっかり優先するからそうなのかなって思って」

 なるほど、確かに今までの僕の行動を見ていると学校中の男子に恨まれても文句は言えないことをしているかもしれない。


 ただしかし、ここは僕の身の安全と名誉のため否定させてもらおう。

 「僕と叶音はそんな関係じゃないよ、ただの幼馴染。高校になってまで仲がいいのは珍しいと思うけどね」

 「ほんとに?」

 秋山はそういって僕の目をじっと見つめてくる。

 少し気まずくなって目を逸らすと、ここが好機と思ったのか一気に攻め立ててくる。


 「ほらやっぱり!前からおかしいと思ってたんだよね!叶音ちゃんずっと翔飛君の話ばっかりするし……。あっ、やっぱり今のなしで……」

 先ほどまでの勢いはどこへやら。自分が失言をしたとわかるや否や、とたんに消え入りそうな声で弁明を始める。

 慌てふためく秋山を前に、僕はどんな反応をすればいいのかわからず、ただ苦笑を浮かべるだけだった。




 あのあと、どうにか秋山を落ち着かせ、バスに乗り、叶音の待つ病院へと向かった。先ほどのこともあり、両者無言を貫いていたため、少しは打ち解けたと思っていた空気も振出しに戻り、なぜか重々しい空気が流れるようになってしまった。

 とはいえ、僕から振る話題も特にないし、秋山も極力失言を避けたいからか、ずっと窓の向こうを見ていた。


 バスが着く頃には、二人の間に漂う静寂がなぜか心地いいものになり、うとうととしてしまっていた。それは秋山も同じだったのか、左肩にわずかな温もりを感じそちらを見ると、目を閉じた秋山が僕にもたれかかってきていた。

 どこを触ればいいのかわからず、指先で肩をつついてやると、一瞬ぼんやりとした目をこちらに向ける。しかし、自分が寝起きであることに気づいたのか、すぐに顔を隠し下を向くと震えた声で「着いたんなら早く降りてよ、ばか」と吐き捨てる。


 そんな様子があまりにも面白くてもう少しからかってみたかったが、本気で怒らせると取り返しがつかないことになりそうなのでこの辺でやめにしておく。

 バスを降りてからも会話は一つもなかったけれど、恥ずかしそうに俯きながら隣を歩く秋山を見ているだけで十分に楽しめたのでよしとしよう。


 エントランスで受付をし、最近毎日のように通い詰めているのですっかり顔見知りになってしまった看護師さんに会釈しエレベーターに乗り込む。

 叶音の病室がある階で降りると、秋山が突然動かなくなってしまった。

 見かねた僕が

 「どうかした?」

 と声をかけると、悲しそうに笑いながら

 「緊張してきちゃった」


 なんて零す。今まで向き合おうとしてこなかった罪悪感というのが秋山の中で肥大化してきているのか、自分が叶音に咎められるとでも思っているのだろうか。せっかくここまで来たのに叶音に合わずに帰るというのももったいないだろう。


 「さっきも言ったけど、叶音はそんなこと本当に気にしてないと思うよ。今日は会いに来たんだからそれでいいじゃんか」

 そういうと秋山は決心したのか、黙って僕の後ろに寄ってきた。

 「病室の場所わかんないから案内してほしいな」


 ぽつりとこぼす秋山に「もちろんだよ」と返し歩き出す。

 そういえばもうお昼を回ろうとしている。待たせすぎると機嫌が悪くなるけど大丈夫かな、なんて考えつつ扉を開ける。


 「来たぞー、元気かー」

 「ちょっとー、いったいいつまで待たせれば気が済むのよ……って香織⁉なんで⁉」

 最初こそ文句を垂れ流そうとしていたのだろうが、秋山の姿を見ると急いで顔ごと布団に潜り込む。


 「なんで香織がいるの⁉聞いてないんだけど⁉」

 「うーんとまぁ……、サプライズ?」

 いつも通りわいわいしていると、この場にそぐわないような深刻な声が聞こえる。

 「やっぱり、会いたくなかった………?」


 叶音は一瞬ぎょっとした顔を見せたがすぐに引っこめるとすぐに弁明を始める。

 「いや違うの!すっごく会いたかったけどね?でも髪の手入れだってできてないし、入院着なんて見られたくないじゃない?だからなんていうか……」

 慌てて言葉を放ち続ける叶音を見て満足したのか、秋山はふふっと笑いを漏らすと

 「焦りすぎだよ叶音ちゃん。冗談に決まってるでしょ」


 といって叶音を落ち着かせる。

 「なんだよもぉー、焦ったじゃんかー」

 そういいつつ、心底安心したような笑顔を咲かせる叶音。秋山に会えたことがそれほど嬉しかったのか、今日はやけにテンションが高い気がした。

 「そうだ!香織も花火一緒に行こうよ!」


 いったいどれほど楽しみなのか、最近の叶音が話すことはもっぱら花火大会のことでもちきりだった。

 確かに叶音の子守をしてくれる人が増えれば僕の負担も減るから楽なのだが、まだいけると決まったわけではない予定に人を誘うのはどうなのかと思ってしまう。

 そもそもの問題として、僕は人混みが嫌いだから依然として花火大会に行くことは断固拒否派なのだが、叶音のお願いであればどうしても叶えてあげたくなってしまう。


 「花火大会ってあの長瀬川のところの?」

 秋山もそういう夏っぽいイベントには興味があったのか、案外乗り気な様子で話に乗ってくる。

 しかし、肝心の叶音はといえば

 「え、そうなの?」

 と呆けた顔で僕に聞いてくる始末だった。


 「あのなぁ、ちょっとは自分で調べるくらいしろよ。だいたい、あれだけ楽しみにしておいてなんで開催場所も知らないんだよ」

 「仕方ないでしょー⁉毎日検査やらなんやらで忙しいんだからー!」


 嘘つけ、この前僕にメッセージで『暇すぎ。おすすめの漫画持ってきて』なんて急に送って来たくせに。漫画十数冊を抱えて病院に入っていく気持ちがわからないからそんな鬼畜なことが言えるんだ。そして僕が苦労して持ってきたその漫画たちは今は叶音のベットの横の棚に重ねられている。


 「まあとにかく、誠也の話を聞いた感じは長瀬川のやつで間違いないみたいだよ」

 「その日なら特に予定もないし行けると思うよ。ただ、吉岡も来るなら話は別」

 なぜ秋山がこんなにも誠也を嫌っているのかはわからないが、聞くところによればこの二人は同じ中学校出身らしく、きっとその時に何かがあったのだろう。


 とはいえ、過去に何があろうと僕の知ったことではないので、予定が空いているのであれば来てもらう以外に道はないだろう。

 「じゃあまあ来れるということで」

 「ねぇ待って話聞いてた?今明らかに吉岡嫌いアピールしたと思うんだけど」


 そんなことを僕に言われてもどうもできないので、それは個人の努力でどうにかしてもらうことにしよう。

 「あー、それ香織がツンデレなだけだから無視していいよ」

 「叶音ちゃんは余計なこと言わないで⁉」


 叶音のお墨付きも出たことだし、花火大会はこの四人で行くことになりそうだ。

 ここまで話が進んでしまえば、今更行かないといっても許容されるはずがないというのは今までの長い付き合いで分かっている。

 「まあいいや。時間とか決まったらまた教えてね」


 誠也が原因で渋っていたが、やはり秋山も花火に行きたかったのか、今ではまんざらでもないような顔をしている。

 「ところで翔飛くん。ちょっと叶音ちゃんと二人で話したいことがあるんだけど、いいかな」


 なんか前にもこんなことがあったなと思いつつ、他人に聞かれたくない会話なのだろうと思い「うん、いいよ」と言い残し病室を後にする。

 すっかり暇になってしまい、どこに行こうかと考えていると、なぜか脳裏にあの談話室が浮かんできた。自分から進んで会いに行くのはなんだか癪だが、行く当てもないので話し相手にでもなってもらうとしよう。


 そう思い談話室のある方向へと歩いていく。いつもは夕方に来ていたからお見舞いに来ている人も多かったが、今日は平日の昼間なので人の動きが少なかった。

 それは談話室も同じなようで、ちらほらと入院着を着た患者さんがいるだけで、一般の人はいないように見えた。


 その中に、足を組みながらパソコンと向かい合っている看護師を見つけ、その正面の席に腰を下ろす。僕の気配を感じたのか佐藤さんは顔を上げ、嬉しそうに笑うと口を開いた。

 「久しぶりだね、少年」

 「お久しぶりです、今日もサボりですか?」

 「いーや、立派なお仕事の途中だよ」


 そういって佐藤さんの手元で開かれたノートパソコンを顎で指す。そのパソコンで何をしていたのかは定かではないが、仕事と言っていたのでまさか動画サイトなどは見ていないだろう。

 「そうでしたか、それはお疲れ様です」

 「どうも。それにしても……君がここに来るとは珍しいね。なにか相談かい?」

 前に会った時には付けていなかった眼鏡をとりながら聞いてくる。


 「いえ、そういうわけではないのですが、叶音の友達を連れてきまして。僕は邪魔かなと思い二人にしてきたんです」

 「叶音……あぁ、笹原さんか。君、あの子の知り合いだったのか」

 「まあ知り合いというか腐れ縁というか……」

 「なるほどねぇ、幼馴染ってやつだ」


 そういってニヤッと笑う佐藤さん。なんだかすごく不当な想像をされていそうだったので何かを言われる前に訂正しておく。

 「別に、佐藤さんが考えているようなことは何もありませんよ」

 「おや、そうかい?」

 そうは言いつつも、ニヤニヤとした笑みを崩さない佐藤さん。

 「そんなことより、普段の叶音の様子ってどんなのかわかりますか?」


 僕は話題を変えるためにも以前には聞けなかったことを思い切って聞いてみる。

 「ふーむ、普段の様子か。君の前での様子とあまり変わらないと思うよ。明るくて、礼儀正しい子だよ、本当に」

 「礼儀正しい……?」

 叶音の名前と絶対に並立して使われない言葉が出てきて少し混乱してしまう。だがすぐに叶音は外面だけはいいことを思い出し納得する。


 「私は診察の時くらいにしか関わらないからね。まだあまりあの子のことを知らない。君の印象が違うのはそういった理由もあるだろうね」

 「いえ、僕に対しては性格が悪すぎるっていうだけの話ですから。印象が違うっていうわけではないですよ」

 そういうと佐藤さんはお腹を抱えて笑い出す。


 「それはずいぶん気に入られているようだね。羨ましい限りだ」

 「他人事だからそうやって笑えるんですよ。あいつの本性はほんとに面倒くさいですからね」

 「それは気を付けておくよ」

 目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら心底楽しそうに笑う。そんな表情を見ていると、まるで自分の年上とは思えなくなってくる。雰囲気はしっかりとしたお姉さんって感じなのに、どうして中身はこんなのなのか。はなはだ疑問である。ただ、親しみやすさという点で見てみればこの人以上の看護師はいないだろう。


 「それはそうと、君は話に混ざらなくてもいいのかい?」

 「ええ、僕がいてはしたい話も満足にできないでしょうし。邪魔ものですからね、僕は」

 少し冗談交じりにそう語ると、佐藤さんは驚いたような顔をして

 「おや、そうかい?まあ、これでも飲んで元気を出すといいよ」

 そういって佐藤さんはテーブルの上に置かれていたココアを僕に手渡してくる。突然のことで思わず受け取ってしまうが、タブが開けられていたので「飲みさしか……?」なんて考えていると、顔に出ていたのかにこりと笑いながら

 「まだ飲んでないよ。タブを開けてからなんだか気分が変わってしまってね。処理に困っていたわけさ」


 なるほど、要するに残飯処理と。ただまあ、甘いものが飲みたい気分だったのでありがたく受け取っておく。

 「……ありがとうございます」

 「何かあったらまたおいで。私は仕事に戻るとするよ」

 僕がココアを口にするのを見ると、そういってご機嫌な様子で手をひらひらとさせながらどこかへ行ってしまった。

 その時のココアの味は、今まで飲んだどのココアよりも甘い気がした。





 香織が二人で話がある、といい翔飛が出て行った後の病室。気配が一つ減っただけなのに、ずいぶんと居心地の悪い静けさが横たわるようになった。ただそれは、香織の纏う雰囲気にも原因はあるのだろう。

 「香織、久しぶりだね。何か用でもできた?」


 内心を読み取られないように、いつも通りを心がけできるだけ明るい笑顔で訊ねる。だが香織は対照的に、何か思いつめたような表情で私をじっと見つめてくる。こういう時、感情が読みづらいと会話がしにくい。

 だが引き締められた唇の端からほんのりと怒りの色を感じた。


 「叶音ちゃん。まずは今までごめん。全然お見舞いに来れなくて」

 何を言われるのかと身構えていたから、予想外の角度から切り出された話に一瞬戸惑ってしまう。

 「ああ、そんなこと?全然大丈夫だよ、翔飛が毎日来てくれてたし。香織も色々忙しかったんでしょ」

 どうにか取り繕ってそう返事をする。


 「違う、違うの……。私が言いたいのはそういうことじゃなくて。私はずっと……逃げてきたから……」

 「逃げてきた?」

 話し始めたかと思うと突然泣き出した香織に困惑しながらも、話の内容があまり見えてこなかったので続きを促す。


 「叶音ちゃんが倒れたって聞いて、私、すごく心配だった。でも、叶音ちゃんに会うことで、その事実を知らなくちゃならないって思うと、どうしても会いたくなかった。……いなくなっちゃうってわかったから」

 香織には絶対に事情を話さないようにって翔飛には言っていたはずだから、香織は恐らく翔飛の様子から気づいたのだろう。

 「そんなー、居なくなるなんて大袈裟だよ」


 そこまでわかっていながらも私は、今まで通りを演じるために嘘をつく。

 「嘘だ……。ほんとはもう長くないんでしょ。私は叶音ちゃんの考えてることなんて全部わかる。そうやって嘘を言えば、私が安心するって思ってるんでしょ」

 自分の考えを言い当てられ、少し苛立ちを覚える。

 「だから違うって!そんなんじゃ……」

 「馬鹿にしないでよっ!」


 香織に心配をかけたくなくて。香織には最後まで笑っていてほしかったから。だから私は香織のために嘘をついた。どうにか信じてもらおうと発した声は、どこか棘を含んでいた。

ただそれよりも、今までに聞いたことがないような香織の大声を聞き呆気に取られてしまった。


「叶音ちゃんはいっつもそう!私には何も教えてくれない!一人で全部抱え込んで、笑ってれば周りは気にも留めないって思ってる………!───ねえ、私ってそんなに頼りないかな……。私はいつだって叶音ちゃんの力になれるようにしてきたつもりだよ。そのために横に立ってきたんだよ。それなのに、なんで私じゃだめなの?」


 初めて明かされる、香織の本心。香織が、まさかそんなことを考えて私と接してくれていたなんて。けど今は、そんな言葉なんて聞きたくはなかった。今まではろくに会いに来ようとしなかったくせに。今更現れて、偉そうに。


「そんなこと知らないよ!知るわけないじゃん!私はいつだって香織を一番に考えてきた!だから今回だって、香織には教えたくなかった。同情されるのが嫌だから!香織には最後まで、私を『可哀想な人』じゃなくて、ただ一人の人間として扱ってほしかった!余計な心配なんてせずに、最後まで一緒に笑っていてほしかった。だから私は、香織には言おうとしなかったのに……」


 あぁ、もうだめだ。せっかく会いに来てくれたのに。やっと話せたのに。これが最後かもしれないし、何があっても隠し通すって決めたのに。全部自分でばらして、挙句八つ当たりまでして。本当に最低だ。

 私は一体、何のために今まで生きてきたのだろうか。わざわざ通院までして、未練がましく生に縋り付いた結果、生き恥を晒しているだけじゃないか。醜い自分の奥底までさらけ出して、いったい何がしたいんだろうか。


 顔を上げてみると、そこには涙でぐちゃぐちゃになった香織の顔があった。本当にひどい顔。それはまあ、私も一緒か。

 思えばこんな風に、香織とぶつかり合うのは初めてかもしれない。一年と少しを一緒に過ごしてきて、初めての喧嘩がこれ。つまんないなぁ。


 「私は、悲しかった!叶音ちゃんが悩んでるときに私に相談してくれなかったことが!いつも隣にいたのに私を頼ってくれなかったことが!私は叶音ちゃんがどんな状態だろうと、いつも通り接する!いつまでだって笑いあってあげられる!変な同情なんてせずに、何度だって会いに来る!それでもだめかなぁ⁉」


 そういって必死に語る香織をみていると、「あぁ、なんて愛されているんだろうか」と思ってしまう。そこまでいうなら、と気を許しそうになってしまう。ひょっとすると、ここが最適な諦め時なのかもしれない。

 「もう、仕方ないなぁ。今まで言わなくてごめんね。ただ、これだけは信じて」

 私はまっすぐに香織の目を見つめる。交錯した視線の先には、はっきりとわかるほどに真剣な、決意の色が見えた。


 「私は本当に、香織とただの友達で終わりたかったから教えなかったの。香織が力不足とか、全然そんなことじゃないからね」

 そういって微笑みかけると、香織は真っ赤になった目をこすりながら「うん」と小さく頷いた。私は香織の頭をなでると話し始めた。


 初めて発作があった日のこと。

 私が患っているのは肺癌の一種で、もう長くはないこと。

 薬の投与なしでこれまで生きていれたことが奇跡だということ。

 香織のことが大好きだということ。

 最後は少し照れ臭かったけど、どうしても伝えておきたかった。


 私が話し終えると香織は「大変だったね」と言ったが、それが同情になると思ったのか、慌てて口元を抑えた。そんな香織を見て小さく笑いをこぼすと、変な気遣いさせちゃったなと思いつつ「ありがとう」と返す。私たちはどちらからともなく笑いだす。もう言葉はいらなかった。

 そんな風にして、私たちの最初で最後の喧嘩は幕を閉じた。





 僕が病室に戻ると、秋山はもう帰ってしまったようで、そこにいたのは目を真っ赤に腫らした叶音だけだった。何かあったのかな、なんて内心びくびくしていると「どしたー?元気ないぞー」といつも以上のテンションが飛んできて、なんやかんや平和に終わったみたいだな、と安堵した。


 「お腹でも空いたかー?」なんて冗談交じりに聞かれ、自分がまだココアしか口にしていないことに気付く。

 「ああ、そうだな。少し長居しすぎたし、そろそろ帰るとするよ。叶音はもう食べたのか?」ほんの好奇心。ただそれだけだったのに。これほどまでに後悔してしまった質問は後にも先にもないだろう。


 「………私はお昼抜きなんだー、おかげで痩せちまうよー」

 そう言ってへらっと笑う叶音に、僕はうまく笑みを返せただろうか。僕は自責の念に駆られながら、逃げるように病院を後にした。



 それからはなぜか秋山も病室に来ることが多くなり、誠也が来る日と被った時には本当に賑やかになり、教室でバカ騒ぎしていたあの頃が懐かしく感じるようになった。

 ただ、秋山とのわだかまりがなくなったことで安心したのか、僕が病室に行っても、叶音は眠っている日が多くなった。疲れているのなら起こすのが申し訳なくなり、少し待っても起きる気配がないようであれば話さずに帰るという日も珍しくなくなった。


 そんな日々を送っていると、あっという間に花火大会の日が近づいていた。最近の叶音の様子を見ていると心配になることも多いのだが、当の本人は何の問題もないと言ってきかなかった。

 本人がそこまで言うのならと、僕は特別強く確認することはなかった。叶音がずっと楽しみにしていたこともあったし、普段は自由がない叶音がようやく病室を出られる機会ということで僕は甘く見ていたんだ。



 けれど、花火大会の三日前。

 叶音が急に体調を崩した。咳が止まらなくなり、ひどい吐き気を訴えてきた。苦しそうに胸を押さえ悶える姿を見ていると、以前叶音が話していたことが現実になるのではないかという暗い想像が頭をよぎる。

 急いでナースコールを押すと、慌てた様子で入ってきた看護師さんたちに病室から出るように言われ、扉を閉め切られ隔離されてしまった。少しの間呆然としていたが、やがて思い直したように歩き出すと、僕の足は無意識のうちにあの談話室へと向かっていた。


 談話室で夏の西日に照らされ顔をしかめている佐藤さんの姿を見つけると、僕は一目散に駆け寄った。僕の今までになく必死な様子に初めは驚いていたが、やがて何かを察したのか「どうぞ」と自身の前の席に促す。

 僕は佐藤さんの体面に座るや否や

 「どうすれば癌は治りますか」


 なんてバカみたいな質問を投げかけていた。こんなことをしたって意味はないことはわかっているのに、何もせずにはいられなかった。

 「それはまた……急な相談だね。ただまぁ、末期癌で、しかも転移があれば、完治させることはほぼ不可能といっていい。それに、本人の希望で薬の投与も手術も行わないとなれば、もはや治そうとも思っていないのかもしれないね」

 「は……?末期がん……?いったい何の話ですか」


 そう訊ねる僕を佐藤さんは横目で見ながら可哀想なものを見る目で答える。

 「おや、聞いていないのかい?君の前では性格が変わるというのは、どうやら本当みたいだね。いったい何がそうさせているのやら」

 「質問に答えてください‼」

 遠回りな話ばかりで要領を得ない内容に苛立ちが募る。

 「まぁまぁそう怒らないでくれたまえ。私も口止めされていてね。踏み込んだ内容は話せないのさ。どれ、一つ昔ばなしでもしようか」

 「だから質問に……!」


 そう言って声を荒げる僕に構う素振りすら見せず、佐藤さんは淡々と話し始める。

 「昔々。それはそれは元気な女の子がいました。その女の子には、物心がつく前から母親がいませんでした。子供のころは「お母さんは遠いところにいるよ」と父親から聞かされていたので、海の向こうにでもいるのかと思っていました。しかし、実際は女の子を生んだ時に亡くなってしまっていたのです」


 突然話し始めたが、その内容が一体何を表しているのかがわからず困惑する。だが彼女は話すのをやめようとしないので黙って耳を傾ける。


「女の子の母親はもともと体が弱く、医者には出産のときに死亡するリスクがある、と忠告を受けていたそうです。しかし、長らく待ち望んだ自分たちの子供という存在を前に、一人の人間の命を奪うに等しい行為をすることに母親は後ろめたく思ったのでしょう。父親は出産することをやめるよう母親に言いましたが、母親は断固として生むと言い張り、遂には父親が折れる形となりました。そして出産した結果。母親は亡くなってしまったのです。父親は嘆き悲しみました。あの時自分が本気で止めていればと。時には女の子さえも恨みました。しかし父親は、自身が息を引き取る瞬間まで、確かな愛情をもって女の子を育てました。

女の子が母親の話を聞いたのは、高校生になる前でした。そして女の子は、医者になろうと決意します。もう二度と母親のような被害者が出ないように。自分のように苦しむ子供がいなくなるように。そんな志を持って勉強に励み、ようやく念願の医師免許を手に入れました。そこからは、一人でも多くの患者を救えるようにと必死で働きました。しかし、飛び降り未遂で運ばれてきた男性を手術し、無事に一命をとりとめることに成功したとき。女の子はてっきり感謝されると思っていました。しかし彼女に浴びせられた言葉は、彼女の想像とは全くの別物でした。

「どうして見殺しにしてくれなかったのか」「生きているだけで辛かったのに」

それらはまるで、生をこそ憎むような、死こそが救済とでもいうような言葉でした。彼女は「患者を救うこと」というのを「より長く生きさせること」だと思っていましたが、彼の言葉により、自分の考える救済は、あるいは人をより苦しめることにつながるのではないかと考えるようになりました。それからというもの、女の子は自分の仕事と向き合うことが怖くなりました。自分が手術をすることで、また誰かを苦しめるのではないかと。そう思うと、もう働くことができなくなりました。そして、談話室で休憩をしているとき、一人の少女と出会ったのです。

 その少女はとても明るく元気で、いつかの自分を見ているような錯覚に陥った。だからどうしても、少女には幸せになってもらいたいと思うようになった。かつて自分が手にすることができなかった幸せを、少女に味わってほしいと思ったのです。少女が生きたいと願うのならばメスを取るし、早く去りたいと願うのならメスを捨てようと決意したのです。結果、女の子は医者としてのプライドや常識というものをすべて捨てることにしたのです。だって少女がそう願ったから。

 そうしてまた働く機会を逃した医者は、いつものように談話室で読書をしていると、何やら思いつめたような表情で歩き回る一人の少年に出会います。そして、その少年に声をかけ───あとは君も知っての通り。

 私は、間接的に母親を殺し、母親のような人を救いたいと思い目指した医者になり患者の心を殺した。君は以前、私に「働かないほうが迷惑だ」といったね。けれど私の場合は、働くほうが迷惑になりうる。自分の能力を過信しすぎないことも、人生を上手に生きるコツの一つさ。だから私はこうして、今は看護師として働いている」


 悲しげにそう語る佐藤さんを前に、僕は何も言葉を発することができなかった。何を言えばいいのかすらわからなかった。


 「ああでもこれじゃ、君の質問の答えになっていないね。少女、笹原叶音は、私の患者であり、末期癌を患ったにも関わらず一切の治療を拒否した。これが真実だよ。さすがにここまで長生きしたのは奇跡としか言いようがないけどね」

 今、この人が何を言っているのか僕には全く理解ができなかった。叶音が治療を拒否した?まったく意味が分からない。


 「あんたはっ……!医者なんじゃないんですか。なのにどうして、救えるはずの命を救わない?悲しむ人を減らしたかったんじゃないのか。苦しむ人を救いたかったんじゃないのか。あんたがかつて語った希望は、いったいどこに行ったんだよ!」

 「彼女は、あまりに綺麗だった。そして、どこか私に似ていた。自分の中の正解が、必ずしも誰にとっても正解とは限らない。ただ寿命を長引かせるという行為は、患者にとって時に無駄な苦しみを与えるだけの行為になる。だから私は、彼女が治療を受けないといった時にはそれを受け入れた」


 「そんなのはただの言い訳だ!詭弁じゃないか!あんたはただ人の命に責任が持てなかっただけだろ⁉人の人生を左右して、それを一生背負っていく覚悟がなかっただけだ!」

 あるいは、僕も同じなのかもしれない。こうして医者のせいにして、叶音の死と向き合いたくないだけだ。こうして自分を客観視してみると、本当に汚い人間だと再確認させられる。


 すると突然、正体のわからない電子音が鳴り響く。佐藤さんはポケットから端末を取り出すとそれを耳に当て、何度か短い会話をしたかと思うと、僕に向かって「意識はあるようだ」と言ってきた。一瞬何のことかわからなかったが、それが叶音の様態を指しているのだと理解すると、一目散に叶音の病室へと向かった。後ろから佐藤さんの「廊下は走るんじゃないぞー」という声が聞こえたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。今すぐにでも無事を確かめたかったから。



 「若さというのは、羨ましい限りだねぇ……。しかし私も、落ちぶれたものだ。母さん。私は医者失格かもしれない。もうこれ以上、人の命を背負える自信がない」



 「叶音‼」

 病室に着くなり、そのままの勢いで中へと入っていく。

 「わ、びっくりしたぁ。なになに、ユーフォーでも見つけた?」

 そう言って何でもないように笑う叶音をみると、心の底から妙な温かさがこみあげてくる。


 「いや、それはどこにもいなかったけど………大丈夫なのか?」

 こうして何か叶音の体調に関することはできれば聞きたくないので、どうしても俯いてしまう。しかし、いつかは必ず向き合わないとだめなんだ。そう思い震えた声で恐る恐る訊ねると、叶音は

 「ん?あぁ、咳のこと?最近よくあるんだよねー、ほんと嫌になる」


 なんて、まるで自分の体調なんて気にしていないような返答があった。

 先ほど佐藤さんから聞いた話について聞こうと思ったが、叶音が僕に何も言ってこないということは隠しておきたいのだろうと思い、確認しておきたいという気持ちをぐっと押さえつける。

 「そっか……まあ、お大事にな」


 僕が叶音のほうへ目をやると、彼女は悲しそうに笑っていた。

 「まぁー、そうだね。そういえば、もう花火には行けないかもしれない。今日のこともあったし、なによりもう………もう長くはないみたいだし」

 彼女が途中で言いよどんでいたのは、彼女の中にまだ生きたいという希望があるからなのか、はたまたまったく別の理由からなのかは定かではないが、少なくとも叶音の中で何か変化があったのは間違いないだろう。


 「そうか。なら誠也たちにも伝えておくよ」

 「え、待って!?」

 「大丈夫だよ、病気のこととかは何も言わないから」

 「いや、そうじゃなくて……」


 僕には一体叶音が何に対して驚いているのかがわからなかった。

 「どうしたの?」

 そう訊ねると、叶音は少し気恥しそうに髪を触る

 「あの、怒らない……のかなって」

 何かもっと重大なことを言われるのではと身構えていたのでなんだか拍子抜けしてしまう。


 「なに、怒られたいの……?」

 「いやっ!そうじゃないけど……。ドタキャンしたから」

 「そんなことでいちいち怒ったりしないよ。叶音の体調が一番大事に決まってる。それに僕は、今回の花火大会はそんなに乗り気じゃなかったしね」

 僕がそう言って返すと、彼女は安心したように笑って「ありがとう」とつぶやいた。



 後日、学校にて叶音が花火大会に行けなくなったという話を誠也と秋山に伝えると、二人は残念そうにしていたが、誠也が「じゃあ三人で行くか?」という申し出をしてきたので丁重に断らせてもらった。

 そのあとの話を聞いていた感じ、どうやら誠也と秋山は二人で花火大会に行くことになったようで、秋山は心底嫌そうな顔をしていたが、それでも二人で行くあたり相当仲が良いのだろう。


 僕が二人に背を向けて歩き出した時、秋山が小声で「今回は遅れないでよね」と言っていたのを僕は聞き逃さなかった。前々からそうなのだろうとは思っていたけれど、改めてその事実を認識するとこれからの関わり方について少し悩んでしまう。

 僕が誠也の誘いを断ったのは、単に面倒くさいという理由だけでなく、秘かに計画を立てているからである。その計画というのが、いつか何かの映画で見た、こっそり抜け出して屋上で花火を見る、という何ともありきたりなやつである。


 とはいえ、実行前に叶音にばれてしまっては元も子もないので誠也たちには言わないでおくことにした。



 そうして迎えた花火大会当日。僕は放課後になるや否や急いで帰宅し、今夜のことに備えて事前に仮眠を取っておくことにした。花火は確か20時30分から打ち上げられるらしいので、叶音の病院に行く時間も考えると、19時には家を出ておくべきだろう。


 そんなことを考えているうちに睡魔に襲われ、気が付くと深い眠りに落ちていた。その眠りの中で僕は叶音ではない女の人と、夕方の屋上にいる夢を見た。

 次に目を開いた時には19時を少し過ぎていたくらいで、アラームを設定していたはずがうまく作動しなかったようだ。そのことに首を傾げつつも、僕は着替え外出の準備をする。


 ふと外を見ると、今は夏だというのにすっかり日は落ちていて、とても花火が映えそうな夜空が出来上がっていた。これからのことに胸を震わせながら家を出る。玄関の扉を開けた途端、生温い風が吹き込んでくる。


 バス停に向かう途中で、浴衣を着た高校生らしき集団とすれ違う。誰かと花火に行くなんて経験は、僕の人生では起きなかったイベントだからか、いつもは煩わしく見えていた大人数での行動もなんだか楽しそうに見えてくる。今頃は誠也と秋山も合流しているころだろうか。そんなことを想像すると思わず口元が緩んでしまう。


多くの人が長瀬川へと向かう中、僕は人波をかき分けて逆方向へと向かっていく。

 僕がバス停に着いたときがちょうどバスが来る時間だったらしく、いつもとは打って変わって利用者の少ない車内に吸い込まれるように入っていく。運転手とは対角となる後方の席に腰を下ろすと、同時にポケットに入れていた携帯電話が振動する。


 普段はめったに通知を鳴らさないので、少し怪訝に思いつつその内容に目を通すと、どうやら叶音からのものだったようで、病室から撮ったと思われる長瀬川と辛うじてわかる写真とともに、「今日は来ないのか」と一文だけが添付されていた。

 今向かってるよ、と内心で思いながら「花火大会だから」とだけ送る。

 その後しばらくして「今日のご飯」というメッセージとともに一枚の写真が送られてくる。


 そこには本当に女子高生が撮ったものなのかわからないほど絶望的な画角で収められた白米やら味噌汁やら焼き魚やらが映っていた。

 画角について触れるのはなんだか可哀想だったので「病院のご飯ってこの時間なの?」と送る。するとすぐに「あんまりお腹空かないからゆっくりめ」と返ってきて少しの間後悔してしまう。何言っても地雷じゃねぇか。


 返答に迷いつつも、ここで変に時間が空いたら余計な心配をしていることが悟られそうだったので、「僕はなんにも食べてない」とその場しのぎ的に送っておく。するとすぐに「なんか食え」と返ってきた。僕の心配をしてくれるのはありがたいのだが、さすがに返信が速すぎて困ってしまう。


 迷った挙句、この後会うし、ととりあえずは返信せずにいることにした。

 なんやかんやで時間が経っていたらしく、バスが到着のブザーを鳴らす。

僕は慌ててバスを降りると、なるべく人目につかないように足早に病院内へ入る。僕の記憶が正しければ、この時間にはもう最終面会時刻を過ぎているはずだ。どのような対応をされるのかがあまりわからないが、もし病院関係者に見つかってしまえば、花火を見れなくなることは確かだろう。


 エントランスにはまだ看護師さんが何人か残っていたので、まばらに光が残っていた。その光に照らされないように、なるべく柱に身を隠しながらエレベーターのほうへと向かっていく。

 そうしてなんとかエレベーターに乗り込むと、緊張が解けたのか無意識にため息を漏らした。


 エレベーターがいつものように間の抜けた音を出したので顔を上げ降りようとすると、エレベーターの扉の先に一つの人影があるのを見つけた。

 僕がどうやってこの状況を乗り切るかを考え始めた時、暗闇で閉ざされた廊下には場違いなほどに明るい声が響いた。


 「おや、少年じゃないか。何か忘れ物かい?」

 止まりかけていた心臓が一気に脈打ち始めるのを感じた。

 「佐藤さん……驚かせないでくださいよ」

 「いやー、全くそのつもりはなかったのだけれどね。暗闇というのはどうやら恐怖心を増大させるものらしい」

 「では、急いでるのでこれで……」

 「して、少年。この病院には最終面会時刻というものがあるのは知っているかい?」


 やはりこのまま見逃してはくれないか。

 「いくらサボりとは言え、私もこの病院の従業員の一人だ。さすがに見逃すわけにはいかないだろう。ただ生憎、私には急ぎの用があってね。今は非行少年の相手をしている暇はないのだよ。今日は一階の会議室で会議があるみたいだ。私もそれに出席しなければならない。聞くところによると、いま病院にいるすべての人が参加するらしい。それじゃあ、夜遊びもほどほどにね」


 全てわかったうえでここまでの情報を教えてくれたんだろうか?

佐藤さんの真意はよくわからないが、とにかく見逃されたらしいので急いで叶音の病室へと向かう。こういう時、個室というのは便利だなと思う。

 なるべく音を立てないように病室の扉を開けると、そこにはベットの上から遠くの空を眺めている叶音の姿があった。


 「そんなに花火見たかったのか?」

 そう声をかけると叶音は大きく肩をはねさせこちらを振り向く。

 「びっくりしたー……。急に声かけないでよ。じゃなくて。え、待ってなんでいるの⁉」

 表情がころころと変わっていく様子を見るのはとても面白いのだなと人生で初めての感想を抱きつつも、僕は叶音に説明する。


 「花火見ようよ」

 「いやだめでしょ」

 真顔で即答されると少しは来るものがあるな……。

 「屋上、空いてるでしょ?」

 「え、ほんとに言ってるの……?」

 「冗談でこんなことしないでしょ」


 僕がそう返すと叶音は何かを考えるように黙り込んでしまう。静寂がすべてを包み少しして、意を決したように頷くと

 「うん、いこう」

 と笑顔で了承が下りる。

 なんだかんだ言っても、子供っぽい一面もあるんだよな、と夜に咲き誇る桜のような笑顔を前に再認識させられるのであった。



 いくら夜とはいえど、やはりどこかから夏のうんざりするような暑さが運ばれてくる。

 辺りを見渡しても真っ暗で、正体のよくわからない虫の鳴き声以外は何も聞こえない。

 こうして何もない屋上から空を見上げてみると、自分たちだけが世界から切り取られてしまったかのような錯覚に陥る。


 「すごい……きれいだね」

 病室から出ること自体が珍しいのか、叶音はいつもよりテンションが高いような気がした。

 こうして屋上に上がってきたが、花火が上がる時間まではまだ余裕があるようだ。

 僕は長瀬川の方向が見えるようにフェンスへもたれかかり座り込む。

 満天の星空の下ではしゃぎまわる叶音をみていると、なんだかこちらまで元気になってくるような気がした。


 ただ、すぐに息が切れたようで、その場に座り込む叶音の姿に、なんだか言いようのない不満感が募ってしまう。でもそれは叶音が悪いわけではなくて。誰かを恨めば済む問題ではなくて。だからこそ僕はまだこの不快感を消化できずにいる。

 それは僕だけでなく、誠也や秋山、もちろん叶音も同様なのだろう。


 何でもないようには装っているが、みんなどこか無理をしているような印象を受ける。確かに明るく振る舞うことも必要なのだろうが、まずは現実を受け止め悲しむべきなのではないのか。そうは思っていても、どうしても張り付けた笑顔は簡単には離れない。

 彼女の前ではなおさら。


 空を見上げそんなことを考えていると、何かを察したのか叶音は大声で叫ぶ。

 「何考えてんだばかー‼」

 こいつ、今この状況が分かっているのか?

 「うるさいよ、バレたらどうするんだ。笑い事じゃすまされないだろ」

 「せっかく楽しいイベントだっていうのに、そんな辛気臭い顔してるからじゃん。花火が見られるのなんて年に数回だよ⁉今日楽しまずにいつ楽しむのか!」

 「わかったよ、わかったから静かにして」


  そういうと叶音は二本の指を立ててこちらに向ける。暗くてあまりよくわからないが、どうやらピースサインのようだ。

 僕が叶音のことで余計なことを考えるよりも、叶音のためにできることを全力でしたほうが、彼女のためにもなるだろう。無意識かどうかはわからないが、また彼女に元気づけられてしまったようだ。

 そんなことを考えていると、叶音は僕の隣へきて腰を下ろし、少しの間黙り込んでしまった。


そうして少し時間が経ったとき、おもむろに叶音が口を開いた。

 「ねぇ、翔飛。覚えてる?あの公園のこと」

 それは、僕もずっと引きずっている思い出の一つだったからすぐに見当が付いたが、なぜ今、叶音がその話をするのかが分からず、真意を測る意味も込めて質問には答えず先を促す。


 「公園?」

 「そう。小さいころ。私たちが出会ってすぐだったっけ。いつも一緒に遊んでた公園があったじゃない?」

 「ああ、あの家の裏側にあるとこ?」

 「そうそう。最近はあまり行かなくなっちゃったけど」

 そう言って彼女は、遠い日を懐かしむように空を見上げた。

 「まぁ、高校生にもなってまで公園で遊ぶほうが稀でしょ」

 僕がそういうと、叶音はふにゃりと表情を崩す。


 こうして至近距離で横に並ぶと、暗闇の中でもはっきりと感情が読み取れる。

 「それもそうだね。ただあそこは、私にとってはすごく思い入れが深い場所なんだ。私が私になった場所でもあるし、なにより……私が私でなくなった場所でもある」

 叶音にしては珍しく抽象的で要領を得ない話に混乱してしまう。

 「えっと、つまり……?」


 「私、一度あそこのジャングルジムから落ちかけたでしょ。翔飛が助けてくれなかったら、今こうして笑えてなかったかもしれない。だからね、あの時のことは本当に感謝してるの。ありがとう。でもね、それと同時に後悔もしてる。私が無茶をしたから、翔飛が怪我をした」

 「いいよ、僕は全然そんなこと……」

 「私が気にするの‼」


 今までに聞いたことがないくらい、感情のこもった叶音の声。

 それは驚くほどに強く、隠しきれないほどに震えていて、触れれば消えてしまいそうな、ガラス細工のような声だった。

 「翔飛はいつだって、私が何をしても笑って許してくれる。それじゃダメなの。だからいつも君に甘えてしまう。だから迷惑をかける」

 「いや、迷惑だなんて思ってないよ、本当に」


 「君が迷惑だとは思わなくても、私の中では罪悪感が積み重なっていく。いまやどうやってかき消せばいいのかわからないくらいに膨らんでる」

 「そんなこと、気にしなくていいんだよ。僕だって叶音に何度も迷惑をかけてきた。そういうのって全部お互い様だよ」

 どうにか落ち着いてもらおうと、僕は冷静さを保ちつつゆっくりとした口調で話しかける。


 「でも、私のせいで怪我したんなら、せめて怒るくらいはしたっていいんじゃないの」

 「あのとき、叶音が無事でよかったって思ってて。だから安堵ばかりが先に来て、怒りとか、そういうのは全く感じてなかったような気がする。あんまり詳しくは覚えてないけどね」

 たぶん、あの時からなのだろう。僕の人生の中心に君がいるようになったのは。


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 あの時のことのお礼を言えたことと、あの時の翔飛の気持ちを知れたことで、私はもう思い残すことが少しもなくなったかのように心が軽くなるのを実感した。

 ただひとつ、後悔を上げるとするならばそれは、最後まで素直になれなかったことだろう。


 こんな状況になってまで本心を告げることができない自分の性格には心底うんざりするが、これも私の人生だ。

 数多の星にさらされながら、私はこれまでの人生を振り返る。

 決して楽なものではなかったけれど、それでも確かにいいものだったと胸を張って言える。そんな身勝手な充実感であふれている。


 短いものではあったけれど、私は私を楽しめただろうか。

 疑問点を上げれば尽きることはないが、最後に笑っていられることがこんなにも幸福なことなのだとわかったから。

 ───私はもう何も怖くない。


 「あのさ、翔飛……」

 私の呼びかけに彼が反応しこちらを向いたとき。

 世界は突然光に包まれた。

 眼が眩むほどの閃光に、少し遅れてやってくる体の芯に響くような轟音。

 周囲の空は数えきれないほど多くの色で染め上げられていた。


 私がそれを花火によるものだと気づいた時には、もう目が離せなくなっていた。

 いったいいつぶりなのかもわからないほど遠くの日に見た花火を思い出す。あの頃はまだ人並みに元気で、ちょっとの外出なんかじゃ疲れもしないような時代だった。

 ふと、隣で息を呑む音が聞こえた。

 そちらの方向を見ると、花火の光に照らされた翔飛の顔があった。そこにはなんだか、いつもより美しく、儚く、私が触れてはいけないような清廉さの色が浮かんでいた。

 あぁ、やっぱり私は───。


 彼のもとにいるべきではない人間だ。

 そんなことはとうに分かっていたはずなのに、こうして自分で再認識すると、どうしても心の奥が締め付けられるように痛んでしまう。

 まるで私が話しかけたことなんて忘れてしまったかのように花火に夢中になっている翔飛の横顔を見ていると、今まで悩んできたことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。


 今までだって、彼の隣にいれば悩みなんてどうでもよくなると思っていた。でもそれはただ問題を先送りにしているだけだった。いつかは向き合わなければならなくなることから、一時的に目を逸らしているだけだったんだ。

 けれどもう、目を逸らしている暇なんてないから。

 現実と、自分の選択の責任との落とし前をつける時が来たから。


 だから私は、君の手を離すことにした。今までずっと強く握られてきたその手を。

 「ねぇ、翔飛」

 花火の轟音にかき消され、彼のもとへ届くのかどうかも分からない声で必死に訴えかける。

 「もう、私に会いに来ないで」


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 花火の音にもまれながらも、僕の耳に届いたそれは、自分の耳を疑ってしまいたくなるほどに信じがたいものだった。

 思わず叶音のほうを向くと、その顔にはすべてを割り切ったかのような、まるで闇夜に輝く光のような笑顔が浮かんでいた。

 僕の目をまっすぐに見つめながらそう言った叶音の本意は全く分からなかったが、その目元を伝っていった雫には、幾色にも染められた光が煌々と反射していた。

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