第3章 君と世界と生きる意味
今日、僕は珍しく1人で登校している。
理由は至って単純で、叶音がいつもの待ち合わせ場所に来なかったからだ。
日直かなにかだったかなぁと思いつつも、それなら叶音が事前に連絡を入れるはずなのでその線は薄いだろう。
となると、やはり陰キャと一緒に登校するのが辛くなったというのが1番有力なのだが、どうも最近の叶音の様子を見ていると気になるところがいくつかある。
この前のショッピングモールの件もそうだし、どこか無理をしているような、強がっているような印象を受ける。
それにしても、1人で登校するのなんて、いつぶりだろうか。
なんなら初めてかもしれない。小学校に入学した時からずっと叶音と2人で登校していたから、1人で登校する時の寂しさというのが際立っている気がする。
もう全ての桜が散ってしまい、春の終わりを告げ始めた川沿いを1人で歩いていく。
今まで考えもしなかったけれど、叶音がいなければ僕の人生はずっとこんな感じだったのかなと思ってしまった。
そんな僕の哀愁を感じ取ったのか、場違いにも感じられるほど明るい声が背中側から響いた。
「おっす!珍しく1人だな!笹山に振られちまったか?」
「もし僕が振られたとしてそんなテンションで話しかけられたら失恋話も出来ないだろ……」
僕がそういうと、誠也は吹き出しながら言ってきた。
「まぁ、よっぽどお前が笹山に振られることなんてないだろうけどな!」
「一体どこからそんな自信が湧いてくるんだか………」
「だって陰キャに優しくする陽キャなんて確定演出すぎるだろ!!」
「それ、僕のこと陰キャって言ってないか?」
まぁ、自分でも認めてるから別にいいんだけど。
「まぁまぁいいじゃねーか。ところで、なんで1人なんだ?」
急に話題が戻ったことにため息を吐きながら答える。
「さぁな。僕にも全く分からないよ。叶音が待ち合わせ場所に来なかったんだ」
「それ、本格的に振られてねぇか?」
「僕が思っても言わなかったことを!!」
思わずといった感じで勢いよくツッコむと、誠也は口元に手を添えながらカラカラと笑う。
春の日差しを背景に肩を揺らすイケメンというのはなぜこんなにも絵になるものなのか。
「ところで、お前好きなやつとかいねーの?」
突然の質問に、僕は少し考え込む。
「なぁ、誠也」
「ん?どうした?」
先程までのニヤついた笑みを引っ込めながら、こちらを覗き込んでくる。
「好きって………なんだ?」
誠也の目が大きく見開かれたと思うと、そのままの表情で固まる。
どれくらいの時間そうしていただろうか。ようやく僕の言葉の意味を理解した誠也が破裂したかのように笑いだした。
「いやいやお前っ、好きがなにか分からないなんてっ……!くふっ……、ちょっとませ始めた中学生じゃあるまいしっ………ふはは!」
「うるさいな、今までそんな機会なかったんだから仕方ないだろ」
腹を抱えながら笑い転げる誠也に思わず棘のある口調で返す。
そもそも、天涯孤独の陰キャぼっちマスターである僕に、恋愛感情なんてあるわけが無いのだ。
「だからってそんな感情を無くしたと勘違いしてる中学生にはならねぇだろ」
「なってねぇよ?」
あくまでも真剣な顔をしたまま言ってくる誠也にはいつか仕返しをしたいと考えているのだが、何をしてもこいつはノーダメージな気がするので最近は諦めも肝心かなと思い始めている。
そんなバカ騒ぎを繰り広げていると、少し前の方に人の波に流されている見知った顔を見つけた。
「あっ、秋山じゃん!」
誠也の声に反応して秋山が振り向く。声の主を見て一瞬顔を歪めたが、すぐにそれを引っ込めると笑顔で会釈をしてくる。
「おはよう、翔飛くん。もしかして叶音ちゃんに振られちゃった?」
「秋山さんまでそういうのやめてくれるかなぁ!?」
いつも通りの毒舌にツッコミを返すと、口元を隠しクスクスと笑う。
「秋山、こいつ見かけより傷付いてるから触れないであげて」
いつになく神妙な顔付きをした誠也が気まずそうに言うので秋山も慌てた様子でごめんね、と謝ってきた。このピュアさを弄ぶのはいかがなものなのか。
「いやいやそういうんじゃないから。どうせ寝坊とかそんなんでしょ」
流石にいたたまれなくなって来たので言い訳のように早口でいう。
すると2人はこの世のものではないものを見るような目付きでこちらを見てくる。
「叶音ちゃんに限って寝坊はないでしょ」
「いくら笹山でも遅刻はしねーと思うけど」
あぁそうかこの2人も洗脳されてる側の人間だった………。完全に目がキマってやがる。
「あ……、まぁ、そうだな………」
あまりの叶音の影響力に驚きを隠せない。一体どんな生活してたらこんなに信者が出来るのやら。
僕が叶音を新興宗教の類じゃないかという疑いを深めると同時に校門が見えてきた。
周りの風景はいつも通りなのに、隣に叶音がいないというだけで、今までの景色とはまるで違った印象を与えられる。
僕の中での叶音という存在の大きさを、今更になって実感させられた。
もう校庭には、桜の花はひとつも咲いてはいなかった。
それからの授業は、隣の空席にばかり意識が持っていかれ、思うように身が入らなかった。いつもは騒がしくて邪魔とさえ思っていたけれど、叶音がいなければそれはそれで色素が失われるような気がした。
ずっと窓の外ばかりを眺め、グラウンドの上で風に遊ばれている桜の花弁を目で追っていた。
気付けば授業は終わっていて、誠也が心配そうな顔付きでこちらを覗き込んでいた。
「どうした、らしくもない顔して」
「うるさいな」
そんな皮肉にも、何かを言い返す気力もなかった。自分でも、どうしてこんなに無気力なのかが分からなかったが、僕の胸の奥には言い知れぬ不安感が常に渦巻いていた。
「大丈夫だって。心配すんなよ」
いつもならとても温かく感じるはずのその慰めも、今では僕の神経を逆撫でする武器に他ならなかった。
「──お前に何がわかるんだよ」
そう口にして、思わずハッとした。僕は今、何を言ったのだろうか?自分でも理解が追い付かなかった。
恐る恐る誠也の方を見やると、そこには愛想笑いを浮かべ、けれど瞳の奥にはたしかに恐れを宿した誠也の顔があった。
「あっ、ごめ……そういうつもりじゃ………」
じゃあどういうつもりだったんだよ、と自問自答しながらも必死に弁解しようとする。
そんな僕を横目に誠也は立ち上がると
「いや、悪かったな」
と、それだけを言い残しさっさと帰っていってしまった。
とてつもない自己嫌悪に襲われたがいてもたってもいられず、急いで誠也を追いかけた。
幸い、誠也に下駄箱で追いつくことが出来た。けれど、僕にはなんて声をかければいいのかが分からなかった。
ごめん?違う……
一緒に帰ろうよ?違う……
彼は僕を心配してくれたのに。それを冷たくあしらったのに。今更どんな顔をして誠也に話しかければいいのか分からなかった。
それから、誠也が下駄箱からいなくなるのを見届け、僕は1人で帰路についた。
家に帰ると、中は薄暗く、人の気配を感じられなかった。いつもは母親から声をかけられるはずなのに、今日はそれがなかった。
ふと足元を見ると、母親の靴が玄関にはなかった。
外出しているのだろうか……。
なんともいえない不安を抱きながら、僕は2階にある自室へと向かう。
人のいない家というのは異様に冷たくて足音ひとつひとつが響くため、なんだか山奥にある洋館にでも足を踏み入れたような気持ちだった。
だが、自室の扉を開けても、包丁を持った人形がいるわけもなく、なんだか安心してしまう。
ベットに横になりスマホを開くと、何度か不在着信が入っており(学校では電源を切っていたため気づかなかった)それは全て母からのものだった。
とてつもない焦燥感に駆られ、急いで折り返しの電話を入れる。すると3コール目で母は電話に出たが、電話口でも分かるほどに母の声色は焦っているように感じた。
「どうしたの?」
母の答えを聞く前からなんだか嫌な予感はしていたから、その問いかけをすることを辞めてしまおうと思ったし、問いかけの答えを聞くことはもっと嫌だった。
けど、これだけは聞かなくてはいけないと思った。
「叶音ちゃんが──!」
僕は母の返事もろくに聞かずに家を飛び出した。外はいつの間にか大雨が降り注いでいた。傘を持っていくことなんて頭の中にはなく、ただ一刻も早く叶音の元にたどり着くことだけを考えていた。
叶音が通っている病院は知っていたし、何度か訪れたこともあるので迷わずバスに乗っていく。
バスに乗り、空いている座席に腰を下ろすと大きすぎる鼓動が鳴り止まない心臓を必死に抑えようとする。けれどそれは上手くいかず、外の雨音が聞こえないほどに心臓がうるさかった。
あぁ、あの時もたしか、こんな雨の日だったな………。
不意に、僕は僕が叶音のそばに居ると決意した日のことを思い出した。
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──あれはたしか、中学2年生の夏休みくらいのことだっただろうか。
周りが部活の大会やらで必死に練習に打ち込む中、さして部活に興味のなかった僕達は何か部活に入ることはなかった。
部活動というコミュニティがなかった僕は当然のごとく教室では孤立し、1日の中で話す相手といえば叶音だけという日も珍しくはなかった。
対する叶音はというと、持ち前の容姿とコミュニケーション能力の高さを武器に勢力を拡大し、学校のほぼ全員の男子を術中に取り込むという偉業を達成していた。
そんなわけで、部活動の大会がないのは僕達くらいなもので、ほぼ毎日と言っていいほど行動を共にするようになっていた。
その日も例に漏れず、叶音から遊びの誘いがあり、嫌々を装いながら内心ウキウキで出かけた訳だが、それはまぁ別として。
その日は、先日公開されたばかりの映画を見に行こうという話になっていて、最近売れ始めたアイドルのメンバーが主演を務める原作が小説の青春恋愛群像劇というなんともありきたりなものだったのだが、何を見るかより誰と見るかである。
僕達はその映画を、最近この街にできた映画館が併設されている駅から徒歩5分圏内の大型ショッピングモールで見る予定を立てており、午前は歩き回ってショッピングモール内を堪能してから映画を見ようという話になっていた。
昼ごはんを食べ、いざ映画館へと向かう道中、僕の隣を歩いていた叶音が急にふらついた。開業して間もなかったこともあり、その日も大勢の人が訪れていて、通行人と接触でもしたのかと思っていると、叶音は胸を押さえてその場に座り込んでしまう。
「どうした?」
不審に思いそう声をかけるも、叶音からの返事はなかった。
見てみると、顔がみるみるうちに青ざめていく。異常なまでに汗をかき、呼吸も浅くなっている。
「おい、大丈夫か!?」
さすがに心配になり、近くに置かれたベンチまで誘導し、スポーツドリンクを自販機で買い飲ませた。
「大丈夫か?」
落ち着いたようにみえたので声をかけてみる。
「うん、大丈夫……。最近よくある貧血」
「そうか、それなら安心だ………」
安心とは言ったものの、叶音に何かあったらと気が気ではなかったし、返ってきた声がいつもとは全く違う弱々しいものだったから余計に心配になってしまった。
本当ならここで帰るべきだったのだろうが、叶音がずっと楽しみにしていた映画だったのと、叶音本人が大丈夫だといったので映画は見ることにした。
映画の内容はといえば、直前までの叶音の様子が気になっていたこともあり、まるで映画に集中できなかったのでほとんど覚えていなかったりする。
映画が終わり、消されていたライトが付くと共に、ちらほらと席を立つ人達が見える。僕もその流れに続こうと思い席を立とうとすると、ふと腕を掴まれる。
「待って」
叶音はそういって僕を座らせると
「まだ、立てそうにない………」
と呟いて見せた。そんなことをされると普段であればあらぬ妄想を膨らませるのだろうが、生憎先程の叶音の様子を見てしまうとそういった妄想よりも心配が先に出てきてしまう。
「まだ辛いか?」
叶音は小さく頭を縦に振る。
「そうか。ならまだ待とうか」
微妙な沈黙が流れてしまう。僕としては何があったのか詳しく聞きたいところなのだけど、あまりそういったものには踏み込まれたくない可能性だってあるし、何より僕の思い過ごしの可能性が1番高いだろう。
だから僕は叶音が何かを言うまでは黙って隣に座っていることにした。
5分ほどそうしていただろうか。
叶音が急にこちらに笑顔を向けながら立ち上がる。
「じゃあ、いこっか」
「もう大丈夫なのか?」
僕も立ち上がりながら訊ねる。
「うん、ありがとね。もう大丈夫だよ」
「そっか、よかった。無理はしないようにね」
そういって歩き出そうとした途端
──叶音は崩れ落ちるようにして倒れた。
「叶音⁉叶音‼」
それから、救急車を呼び、叶音は病院に搬送された。
あの時の、鼻をつんと刺すアルコールが充満した病室の匂いは今でも覚えている。
大急ぎで病院へときた叶音の両親。
個室へと連れていかれ、叶音の状態の説明を受けたようだった。
スライド式の扉を開け出てきた叶音の両親は目を真っ赤に腫らしていた。
僕はその後叶音の両親から話を聞かされたものの、半ば放心状態だったため癌の一種であることしか話を理解できなかった。
叶音の病室に通されたあとも、どうして叶音が、とか、僕が代わりに、とかそういったどうしようもない考えしか浮かばなかった。
叶音は、号泣している両親を見ながらごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝っていた。叶音が悪いわけではないだろうに。
無機質なまでに真っ白で、何のためにあるのかもよくわからない機械に囲まれた部屋で僕は何も出来ずに、ただ窓の外に写る、夜とは思えないほどに輝いている街の景色を眺めているだけだった──。
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バスが、バス停に着いたことを告げるブザーを鳴らす。
その音で我に返り、急いでバスを降り病院へと向かう。
雨に打たれながらも病院にむかって走り出す。親切なことにその病院はバス停のすぐそばにあったため、傘を持っていなかった割にはあまり濡れずに済んだ。肩に乗った水滴を振り払いながら受付にいる看護師に話しかける。
叶音の名前を告げるとすぐに病室の番号を教えてくれる。
エントランスの真ん中から上に伸びるエレベーターに乗り込み、すぐに叶音の病室がある階へと向かう。エレベーターの到着すらもどかしく、一刻も早く叶音の顔が見たかった。
ぽーん、と間の抜けた音をたてながらエレベーターは到着を告げる。
病室のスライド式の扉の前に立つといやでもあの時のことを思い出してしまう。
あの時の、とてつもない恐怖と、自分には何もできないと自覚させられる虚無感。今すぐにでも、この病院から逃げ出してしまいたかった。何も知らないままで、笑って生きていたかった。
けれどそれは、今まで積み重ねてきた叶音との時間と、僕の中にある叶音という人間のすべてを否定してしまうことになると分かったから、どれだけつらくても僕は前を向こうと、これからのこととちゃんと向き合おうとする決意ができた。
だからだろうか、目の前にあるこの扉は、とてつもなく大きく、そして重いものに感じた。意を決して扉を開けると、そこには、腕に管をつながれ、淡いブルーの入院着に身を包み、僕の母親と叶音の母親といくつかの機械にかこまれて笑顔で受け答えしている叶音の姿があった。
それを認めると同時に、自分の考えが杞憂に終わってよかったという安堵感につつまれる。
「大丈夫………なのか?」
恐る恐る声をかけると、思っていたよりも明るい声が返ってくる。
「全然大丈夫だよ!お母さんたち大袈裟すぎるんだって~。ただの貧血だって言ってるのに。先生も大事をとって入院だ!なんて言い出すしさ~。二か月もなんて信じられないよ」
そういってけらけらと笑う叶音は、たしかにいつも通りで、僕が思い描いている叶音と何一つとして違いはないものだった。
けれど浮かべられた笑顔には、今まで見たこともないような、決意のような感情が隠れているような気がした。
「まぁ、翔飛くんも来たことだし、そこまでいうなら帰るけど。あんまり病院の人には迷惑はかけないようにね」
そういって二人の母親は病室を後にした。
二人が出て行ってからはしばらく沈黙が続いた。叶音は何から話せばいいのか測りかねているようだったし、僕は何から聞けばいいかがわからないでいた。そんな二人の気まずさを全く気にした様子もなく、無機質な心電図の音が一定のリズムで部屋を埋め尽くしていた。
叶音のようすからして何かあるのはわかりきっていたし、話を聞くことなら僕にもできるから相談くらいしてほしいと思っていると、叶音が真剣な顔になりおもむろに口を開いた。
「もう、長くないみたい」
「え?」
鈍器で殴られたかのような衝撃が僕の頭の中に響いた。呼吸の仕方すら忘れてしまうかと思うほど、何も考えられなかった。
「っていっても、まだ先生には何も言われてないからはっきりとは分からないんだけどね。……なんとなく、わかる。前の病気が悪化してる自覚はあったし、定期検診のたびに入院したほうがいいって言われてたし」
叶音は顔を伏せていて、いったいどんな気持ちでそれを僕に告げたのかはわからなかった。
何かを言おうと思って開いた口は言葉を作らず、声にならないうめき声のようなものを漏らすだけだった。
そんなの僕の様子を見かねたのか、叶音は笑顔を浮かべこちらをみると、無理に明るい声をだす。
「そういえば、ごめんね?一緒に本屋行けなくて。定期検診の日と被っちゃってね」
そうやって笑う叶音を、僕は見ていたくなかった。自分の弱みを見せないようにと、うわべだけの笑顔で取り繕う叶音の笑顔なんて。
「いや、大丈夫だよ」
やっとのことで音を伴ったそれは、果たして震えてはいなかっただろうか。
「また、別の日にいけばいい」
その一言を付け足すのは、とても勇気が必要だった。だって、叶音の様子があまりにもいつもとは違っていたから。もう長くはない、なんて言い出すから。それが本当なんじゃないかって思ってしまったから。
「別の日、ね。そうだね、また──」
「絶対だ。約束だよ」
叶音はその僕の声に驚いたように目を見開いていた。今まで僕がこんなにも強い意思で何かを口にしたことはなかったから。当の僕でさえ、こんな声を出せることは知らなかった。
「けどその約束、守れるかわからないよ」
その時の叶音の声は、これまで聞いてきたどれよりも弱々しく、泣き笑いのような表情を浮かべる叶音は見たくなくて、僕は思わず目をそらしてしまった。
そんな僕を見て、叶音はまたうつむいてしまう。
「大丈夫だよ、絶対に」
そんなふうに、つらい現実から逃げたくて、まるで自分に言い聞かせるように、何かに対する言い訳のように、そんな無責任な言葉を吐いてしまう。
その声に反応して顔を上げた叶音は、潤んだ目で僕の瞳をまっすぐに見つめながら口を開く。
「ねぇ、翔飛くん。私はいったい、なんのために生きてきたの?何をするために、生まれてきたの?」
─────────────────────
──生きる理由。私は常にそれを探し求めている。
誰かからの好意があれば、それが満たされると思っていた。幸い私は容姿に恵まれていて、それが自身の武器になることも自覚していた。しかし多くの異性から言い寄られ得たはずの自尊心は、私の求めていたものとは大きくかけ離れていることに気が付いた。
けれどそれに気づいた時にはもう、本当に手に入れるべきものは手の届かない場所にいると分かった。
私が自分の体調がすぐれないことに気が付いたのはその時だった。
これですべてを諦められる。今までの行いに対する免罪符を手に入れたような気持ちだった。そう、思いたかった。
もう彼の隣には立てないことは自覚していたけれど、それを認めてしまうのはとても勇気のいることだったから。
けど、もうすべてが終わるなら別にいいじゃないか、そんな風に思ってしまったんだ。
本当に、自分でも嫌になるほどに、自分という存在が汚れていることに気が付いた。
今更どうにもならないことは知っている。
生きる理由を求めていたはずが、手を伸ばせばすぐに届く距離にあったそれを自らかなぐり捨て、いまではもう、すっかり見失ってしまった。
生きるべき理由を。生きていく希望を。
でも、どうしても諦められなくて。いまだにこうして醜く縋り付いてしまう。
昔のように美しくはないものを、どうにかして表面上だけを繕って美しいものにしようとしてしまう。かつての輝きを、夢見てしまう。
私は、生きる理由を失った今でさえも、まだ生きたいと思ってしまっている。
つくづく、醜い人間だと痛感してしまう。
こんなこと、考えたって意味はないのに。
まだ彼が、私の光であると信じてやまない──。
だからまだこうして、彼に私の存在意義を問いかけてしまう。
私がこんな問いかけをすることで、彼を追い詰めてしまうと知っていながら。
しばらく、彼は黙り込んでいた。なんといえばいいのかわからない様子だった。
けれど、何かを決意した目になったかと思うと、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「僕さ、叶音と同じことを考えた時があったんだ。学校に行ったとしても誰とも話さないなんてこともあって。おおよその人間が感じているはずの幸せというものを、僕にはあまり理解できなかった。毎日同じような無味乾燥の日々を送ることに、意味なんて見出そうとも思わなかった。何かに期待するなんて、僕には不相応だと思っていたんだ。ただ生まれたから。特に死ぬ理由も思い浮かばなかったから。生きる理由はないけれど、死ぬ理由もないから生きている。そんな中途半端な状態だった」
私には、彼が何の話をしているのか、それがなぜ私の生きる理由につながるのか理解できなかった。
けれども、今まで生きてきた中で、彼が自分の胸の内を明かすのは初めてな気がした。
「そんな時に、君の存在の大きさに気が付いたんだ。あの、映画に行ったとき。君は、あの病室でただ一人笑っていた。一番つらいはずで、一番現実を受け入れられないだろうに、周りに心配をかけまいと自分の感情を押し殺し悲しそうに笑う君の顔を見ていたら、僕の元からいなくなってしまうんじゃないかって不安が、僕の頭を埋め尽くしたんだ。君が、何物にも代えがたい、僕の中で最も重要な存在なんだと初めて自覚した。だってそれまでは隣にいるのが当たり前だったから。そんな君を失うなんて、僕には耐えられそうにない。だから、僕の生きる理由は、君の隣にいることだったんだ」
私は、彼の言葉に救われつつあることを自覚した。このまま彼の隣にいれば、私はどれだけ辛くとも、これからも笑って過ごせるようになるのだろうとわかった。
でもそれは、今までのように彼に縋り付いて生きていくことと同義で。何も変わらないまま生きていくことなんて私はしたくなかった。
そんな考えが頭の中にあったからだろうか?
「──もうやめてよっ!」
響き渡るその絶叫が、一瞬、だれのものなのか私には理解できなった。こんなこと、いうつもりなんてなかったのに。本当は、もっと一緒にいたいのに。
そう思っていても、私の口は止まらなかった。
「私はもうすぐ死ぬんだよ⁉もう君と笑うことだってできなくなる!今まで大切にしてきたものだって、全部、全部なくなるんだ………。だったらこれから私は、いったい何のために生きていけばいいの?もう生きたくないの!今すぐにでも投げ出してしまいたい。君の生きる理由なんて知らないよ……、私には関係ない!だからもう、あきらめたから、生きたいなんて思わせないでよ!」
自分が何を言っているのか、自分でもあまり理解はできていなかった。顔は涙でぐちゃぐちゃになり、とても見るに堪えないことになっていることは自覚していた。それでも堰を切ったように溢れ出すそれは、もはや私の意思ではどうすることもできなくなっていた。
「ねぇ!早く教えてよ!私はどうすればいいの?死ぬ理由もないのに、なんで死ななきゃならないの⁉私は何のために今まで生きてきたの⁉今までの私の人生なんて、全部無意味じゃない!」
もうやけくそだった。生きたい理由なんて、探せばすぐに見つけられたのに。それなのに私の願いなんてまるで気にしないように日々弱っていく体。やりたいことだって、いくつも我慢してきた。それでもまだ、私のただ生きたいという願いすらも叶えられないのか。
「──違うよ」
そうだ。私がいつ、どんなわがままを言おうとも、それを最後まで聞いていてくれたのは、それに付き合ってくれていたのは。
──私が望む答えをくれたのは、いつも彼だったじゃないか。
「君の人生は、叶音という人間が生きてきたこれまでは、決して無意味なんかじゃない。君が懸命に生きてきたこれまでの時間を馬鹿にするやつは、たとえ君だろうと絶対に許さない。だから、泣くな。下を向くな。あきらめるな。いつだって君の横には僕がいる。君が君の生きた時間を否定するのなら、僕がそのたびにそれを否定する」
あぁ、なんてあたたかくて、まっすぐで。そんな君だから私は──。
「それでも、わからないよ……。私は、何のために生まれてきたの?」
彼は少し考えた様子で、言葉を選びながら、それでもなおまっすぐに私をみつめこういった。
「人はみんな、死ぬために生まれてくるんだ」
「死ぬために……?だったらそんなの、生まれなくても一緒じゃない」
「いや、違うよ。っていっても、僕が思うに、ってだけだけどね。今なら死んでもいい。──そう思った瞬間に死ぬために生きるんだ。それまでにどんな辛いことや挫折があろうと、死に際が幸せなら人って案外なんの未練もなく死ねるものなんじゃないかな」
死ぬために生きる……。その考え方は、確かに私の救いになった。
ほかの人よりも早くこの世を離れるとしても、その人たちよりも幸せならいいじゃないか。
そんなふうに思えるようになったんだ。
また彼に、救われてしまった。
─────────────────────
それからというもの、僕は毎日のように叶音のもとへと通いつめた。
叶音と一緒にいられる残り少ない時間を大切にしようとしていたというのもあるが、誰かがみていないと、叶音はいなくなってしまうんじゃないかという不安が僕の胸の中にあったからだ。
もちろん入院している間は学校には行けないので、突然学校に来なくなった叶音に対するいろいろな噂が校内で飛び交っていた。
単に面倒くさくなっただけというシンプルなものに始まり、果てには海外留学に行ったなんてものまで生まれてしまっていた。ちなみに叶音は英語のテストの点数が取れるだけでまったく話せたりはしないので海外留学なんてものは夢のまた夢だろう。
これは余談だが、叶音がいなくなったことを好機ととらえた女子たちはここぞとばかりに男子に言い寄っていたが、叶音に会えないショックから何事にも身が入らないらしく、快い反応がなかったためこの事態の原因である叶音への不満はより募っているように見えた。
このことを報告すると「みんな私のこと好きすぎか~?」なんて笑っていた。元気そうで何よりである。
そんな日が何日か続いたときだった。
僕はいつものようにベッドの横に置かれた椅子に腰かけて叶音と話していたのだが、叶音が急に真剣な口調になった。
「ねぇ、翔飛くん」
「どうした?」
僕はできる限り優しい口調を心がけて返事をする。
「私ね、実は──」
叶音が思いつめたような表情と緊張したような声とともに顔を上げたので少し嫌な予感はしていた。
けれど、その予感が正しかったのかどうかは永遠の謎となることになる。
「笹原っ‼」
突然、すごい勢いで病室の扉が開けられたと思うと、とてつもない形相をした誠也が入ってきた。
「吉岡……あんた、どうしたの。っていうか、なんで……?」
叶音も呆気にとられたように誠也のことを見ていた。
誠也がここに来た理由も、叶音がここにいることが分かった理由もよくわかっていないようだった。それはもちろん僕も同じで、叶音に目線で訴えかけられたので頭を横に振っておいた。こういう時はきちんと無実を証明しておかないとひどい目に合うというのは今までの経験からよくわかっているので急いで否定する。
「大丈夫なのか……?」
「それはまぁ、見ての通りなんだけどさ……。なんでわかったの?私がここにいるって」
こういうとき、相手の質問については明確な回答をせず、相手に質問をするという高等テクニックをいかにうまく使えるかが誰かを自分の術中にはめるコツだったりするのだろうか。
対する誠也は、そんなことには気づかなかったのか、頬を掻きながら答える。
「最近翔飛がやけに早く帰るから彼女の一人でもできたのかと思って。後からついていったら、病院なんかに入っていくから心配になったんだよ。けど特に体調が悪そうな様子がなかったのと、笹原が最近来てないのが気になってな。受付で笹原の名前を出してみたらここに案内されたってわけだ」
そういって探偵気取りに話す誠也だったが、やっていることは犯罪まがいのただの変態である。
僕は僕で尾行されているとは露知らず、振り返ることもなく病院へと直行していたものだから、見失うこともなく尾行はしやすかっただろう。
ただ、後をつけられて穏やかではいられないのも事実だ。
「ドヤ顔解説してるところ悪いけど、やってることも動機も普通にやばいからね?」
「尾行なんてしたのは悪いと思ってるよ。けど俺なりに心配してたんだよ。最近ずっと世界の終わりみたいな顔してたからな」
それにしても表現方法が特殊すぎる気がしないでもないが。
彼なりに心配してくれていたらしいので、今回だけは大目に見るとしよう。
「安心しろ。僕も叶音もなんともない」
今更ごまかしを入れたところで誠也は一人で納得しうる答えを持っているだろうから意味はないかもしれないが、すべて見透かされているのは癪なのでせめてもの抵抗で強がっておこうと思う。
そんな僕の浅はかな考えまで見抜いたのか、誠也はにやにやとこちらを見てきたが、ふと真剣な表情を見せると口を開いた。
「翔飛、ちょっと、笹原と二人にしてくれないか」
今までに見たこともないような顔で、今までに聞いたこともないような声を出すもんだから心底驚いたが、誠也には何か考えがあるのだろうと思い素直に従うことにする。
しかし、病室から追い出されてすっかり手持ち無沙汰になってしまったので、病院内を見て回ることにした。
いったい誠也は何を考えているのか気にならないでもないが、それは僕がかかわるべき範囲を超えているだろう。
しばらく当てもなくさまよっていると、談話室に一人で一つのテーブルを占領し、読書に耽っている若い見た目の看護師を見つけた。
おそらく二十代後半あたりだろう。栗色に染まった綺麗な長髪が、蛍光灯の明かりを受け不健康に輝いていた。端正な顔立ちで、ガラス細工のような繊細さがあった。目元にある黒子が彼女の印象を決定づけているように感じた。すらりと伸びた足を組んでいる姿に不覚にも見惚れてしまった。
何か仕事をしているのかと思ったけれど、資料などの類を一つとして持っていないことから単なる休憩だろうと思う。
長い時間見つめていた自覚はないけれど、その看護師は僕の視線に気が付くと手招きをしてきた。口パクで「おいで」と言われたので渋々といった様子を装い看護師へと近づく。
少し悩んでから対面の位置に腰かける。その胸元には書き写したかのように綺麗な楷書体で「佐藤」と書かれている名札があった。
自分から誘った手前、沈黙を貫くのはよくないと思ったのか、佐藤さんが口を開いた。
「私ね、患者さんの見回りに行かなくちゃだめなんだよね」
どこか得意げに彼女はそういった。その言葉の意味することが僕にはわからなかったが、次の一言で彼女への評価を変えなければいけないと思い直すことになる。
「簡単に言えばサボりかな。って言っても、私の担当には重病の患者さんがいないから特に問題はないんだけどね。強いて問題点を挙げるなら、患者さんが雑談相手に飢えることだね」
さして問題はないとはいえ立派な職務放棄である。しかも初対面の僕に堂々とそれ告げるとは。いったい何を考えているのだろうか。
そんな僕の内心を読みとったのか、佐藤さんはにやにやとして続けた。
「君が危ない顔をしてたからね。少し雑談に付き合ってもらうことにしたんだ。他意はないよ」
「そうでしたか。それにしてもサボりとはいただけませんね。しかるべき機関に告げ口してもいいですか?」
佐藤さんは少し考える風に顎に手を当てるとそっと目をそらしながら答える。
「それは好きにしてもらってもいいけど、多くの患者さんが話し相手を求めて徘徊することになるよ」
その返答が僕の良心をくすぐったわけではないが、長い期間幽閉され、暇を持て余しているであろう患者さんたちに免じて告げ口はしないことにした。
「まぁ僕には関係ないのであまり何も言いませんけど。病院に迷惑がかかるようなことはやめてくださいね」
僕がそういうと彼女は「まさか高校生に説教されるとはね」と周りに人がいるにもかかわらずお腹を抱えてけらけらと笑っている。
そんな彼女を見てため息を漏らしつつ、思い出したかのように訊ねてみる。
「僕ってそんなに危なそうな顔してました?」
すると彼女はきょとんとした顔でこちらを見つめると、ふいに真剣な表情になって「あくまでも主観だけどね」と前置きして話し始める。
「君がどれだけ自覚してるかわからないけど、君ってなんだか少し力を込めて押すだけですぐに崩れちゃいそうなんだよ。何か一つの存在だけに固執していて、それがなくなれば自分の人生なんてどうでもいいって全部投げ出そうと思ってる。違うかな?」
そういって僕の目の奥にある何かを見つめるような、吸い込まれそうなほどに力強い目で問いかけてくる。
看護師をしているからか、人間観察が得意ならしく、今僕が考えていたことはほとんどが彼女の言うとおりだった。
とはいえ、見透かされるのは何だか嫌なので「そんなことないですよ」と笑って否定しておく。
「まぁたしかに、今は少し複雑な状況で投げ出したいとは思いますけどね。けれど、別に人生を棒に振るつもりはないですよ」
僕は一つ嘘をつく。
「そうかい?お姉さん、人生相談とか受けるの得意だよ?」
にへら、と笑ってそういう彼女を前に一瞬、うち開けてみようかと悩んだが、すぐに気を取り直し「初対面の人に話すものではないですから」と断りを入れて席を立つ。
「気が変わったならまたおいで。私、この時間は大体ここにいるよ」
そう言いながら手元の本に目を落とす彼女に背を向け「仕事はしてくださいよ」と言い置いて叶音の病室へと向かう。
廊下の窓から見えた景色は、夕日によって赤く染められていた。
僕が病室に戻った時には、誠也はもういなくなっていた。いったい何を話していたのかを聞いてみても叶音は笑って受け流すだけでまじめに取り合ってはくれなかった。確かに他人に聞かれたくないような話もあるか、と思いそれ以上は深く踏み込むことはしなかった。
そのあとは普段の様子を報告しあい、時間も遅くなってきたので帰ることにした。
本当に、何でもないような日常。
心配事は尽きないし、いつ崩れ落ちてしまっても不思議ではないような、そんな日常。
けれどもなんだか、悪くないと思える自分がいた。
いつかは叶音の病気も治って。また一緒に学校に行って。隣の席で授業を受けて。笑いながら家に帰る。
そんな日々が必ず戻ってくると確信している自分がいた。
そんな風に自分をごまかしていないと耐えられないと思っていたからなのかもしれない。
人生なんて何一つ、思い通りにならないと知っているくせに。
それからも毎日のように病室に通い続け、桜は完全に枯れ落ち、木々は青々とした葉をつける季節になった。
今までは一人だったのも、部活がない日には誠也も同行するようになった。誠也は初めは乗り気ではなかったが、根気強く誘っているとやがてあきらめたように頷き、部活のない日限定でという条件のもと付いてくるようになった。
初めて一緒に行ったときは叶音がなんだか気まずそうな表情を見せたが、時間が経つとその気まずさを忘れ去ったように話し出した。
単に人が一人増えたというだけで、今までの数倍もにぎやかになり、看護師さんに注意されたりするようになった。その話は佐藤さんの耳にも入っていたのか、廊下でばったり出くわした時には
「あまり迷惑はかけないようにね」
とにやけた顔で言われたので
「仕事しないほうが迷惑でしょう」
と皮肉を込めて返しておいた。
一瞬、佐藤さんに普段の叶音の様子を訊ねようかとも思ったが、なんだか気が引けてしまい、結局聞くことはなかった。
夏といえば、誠也は部活で毎日夏の日差しを浴びているからか、すっかり仕上がった肌になっていた。
そうそう、言い忘れていたが誠也は野球部であり、一年生のころからスタメンを保持し続けているという優秀っぷりである。
とはいえ、見た目や性格からしてあまり野球部とは思えないので、実は野球部というのは嘘なのではないかとひそかに疑っている。
この話を叶音にしたところ、完全な同意を得られたのでこの意見は民意といっても差し支えないだろう。
そんな誠也だったが、どうしても花火大会に行きたいらしく、この前僕のことを誘ってきた。
「なぁ、どうせ夏も暇だろ?一つくらいは青春っぽい思いで作ろうぜ?」
どうせ僕は万年予定が一つもないことは確定しているので行ってやってもいいのだが、僕の性格上どうしても人混みというものが苦手なのでいささか迷ってしまう。
「僕が人混み苦手なのは知ってるだろ。だいたい花火大会なんて……」
「えー!いいじゃん花火!私も行きたい!」
と、僕が花火大会に行きたくないという意見表明をしようとしていると横からテンションがおかしい奴が割り込んできた。
「笹原もそう思うよな⁉よし決まり!行こうぜ翔飛!」
僕の意見はなぜこうも無視されてしまうのか。はなはだ疑問である。
「そもそも叶音、お前は外出すらままならないだろ」
「大丈夫だよ!それまでには絶対治すから!」
いったいどこからその自信が湧いてくるのか全く分からなかったが、毎日病室にこもり切っているようでは叶音も暇だろう。定期的な息抜きというのも必要だとは思う。
「わかったよ……。ただし、体調が悪かったら誤魔化さずにいうこと。っていうかそもそも外出許可なんて下りるのか?大事な用事とかならともかく、ただ遊びに行くだけなら許されないだろう」
僕が渋々といった様子でそう言うと、叶音はうっかり見惚れてしまいそうな笑顔を咲かせながら胸を張って言い放つ。
「大丈夫!ここの院長さん私のお願いなら断れないから!」
なぜこうも誇らしげに言えるのかはわからないが、叶音が楽しそうなのでよしとしよう。最近はどこか元気のないような様子だったので、いつものような明るい叶音が見られて安心した。
そのあとは、花火大会の日程などを確認し解散となった。
病室を後にする頃には、辺りは鮮やかな茜色に染まっていた。
「なんだか拍子抜けしちまったよ」
人の動きが少なくなったフロアを歩いているとき、誠也はふと独り言ともつかない声でそんなつぶやきを漏らした。
突然漏らされたそれの真意を測りかねて何も言わず誠也を見つめると、自分が声に出していた自覚がなかったのか、取り繕うように笑ってから続けた。
「いやさ、もうちょっと落ち込んでたりしてねぇのかなって思ってて。笹原も、お前も。いきなりよくわかんねぇ病気で倒れて、日常が奪われたのに、お前らは平然と生活してる。いくらかは感傷的になったり、取り乱したりするもんじゃねぇの、こういうのって」
たしかに、叶音も僕も、人が倒れたにしては淡々としすぎているように見えるだろう。しかし、決してそうではないのだ。
「もちろん悲しいよ。それに、困惑もしてる。どうして叶音が、って毎日思ってるよ。けど、叶音が頑張って立ち向かおうとしてるんだ。それなのに本人じゃない僕が、本人よりも悲しむのは違うんじゃないかって思ってね」
ただ単に、昔にあったことで慣れてしまったというのが一番大きな理由なのだが、誠也には無駄な心配をかけたくないし、叶音としても、自分の過去を掘り返されることでいい思いはしないだろう。
そう思い誤魔化した返答をすると、誠也は少し悩んだような表情を見せると、何かに納得したのかそれ以上は詮索してこなくなった。
なぜ誠也が突然こんな話をしてきたのかがわからないまま、誠也と別れることになった。
僕はバス停からのうす暗い帰路を一人で歩いている。スマホで時間を確認すると、もう八時を過ぎてた。
まばらに設置された街灯の明かりだけを頼りに家へと急ぐ。
毎朝叶音と待ち合わせしていた横を流れる川が視界に入った時、ふと横道から飛び出してくる影があった。突然のことで避けられずぶつかってしまい、相手はアスファルトにしりもちをついてしまった。
「あ、すみません……。大丈夫ですか?」
「いえ、こちらこそ……。」
消え入りそうな声でそう返すその人に手を伸ばすと、その人は僕の手をつかんで立ち上がる。僕はなぜかその手のひらの感触に既視感を覚えた。驚いて顔を上げると、目が合ってしまう。今気づいたがどうやら女性らしく、たしかに華奢な手をしていた気がする。
そんな風に思っていると、どこかで見たことがあるような気がしてきて
「あの、もしかしてどこかで……?」
と尋ねようとしたら、彼女は僕の手を振り払い、走ってどこかへ行ってしまった。
ナンパかと思われたかな、なんて思いつつ、僕はしばらくの間、暗闇の中で、彼女の目元にあった特徴的な泣きぼくろを思い返していた。
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