死体のように、雪のように、熱帯魚のように

広瀬 広美

死体のように、雪のように、熱帯魚のように

 埃を被ったこのアコースティックギターは、もうどれくらい弾いていないのだろうか。弦を指でなぞると明らかに緩んでいるのが分かって、一度手に取ってみようという気も起きなくなる。どうせ埃を撒き散らすのなら、いい音と共に撒き散らしたい。


「ふわぁ…………それ弾きたいの? 波奈──」


 ナイトブラ一つでベッドに腰かけている倉ノ下あらたがあくびをしながら言った。ボブカットに赤のインナーカラーを入れ、キリリとした三白眼を持つ彼女は、何気ない言動にも咎めるような印象が出てしまう。本人がそれを気にしていることを知っていたので、八重樫波奈は慎重に言葉を選んだ。


「こいつをかき鳴らすのは、昼時がいいかな」

「あぁ、そう、そうね。もう深夜一時だしね。ていうか、弾けたんだ、ギター」


 実際は全く知らないので、かき鳴らす、というのはただ無造作にピックを動かすだけになるだろう。それでもわざと分かった風な口調で、波奈は言う。


「音楽にルールはないんだよ」


 それを聞いた更はけらけらと楽しそうに笑った。波奈と違って、更は経験者だ。コピーだけでなく、作曲もしていたほどの。彼女がこのアコギでどんな音を響かせていたのかについて思いを馳せると、胸に穴が空いたような気分になった。


 更の部屋に訪れるのは、これで十回目だ。関係を持ち始めてようやく二年目といったところ。更の部屋を訪れると、未だに妙に慣れない新鮮さと気恥ずかしさが内から湧き出てくる。つまり、うぶな気持ちが。それは、二人の環境があまりにも違うことが関係しているのかも知れない。

 部屋には白いローテーブルが一つ。白いデスクが一つ。その下にはタワー型のパソコン。上には三画面モニターと、高そうなマイク。壁にはギザギザの吸音材が貼られ、壁際にはほこりを被ったアコギがしんと佇む。そしてせっかくの大きな窓には分厚い遮光カーテン。それもマジックテープで動かないように固定されている。

 こうして見ると分かりやすい。更は動画配信者だ。いつもこの部屋で雑談放送だったり、ゲーム実況だったりをして収入を得ている。実のところ、波奈が初めて更を見たのもスマホの画面の中だった。


「ねぇ、波奈ぁ」


 画面越しではない、確かにそこに居る更が猫撫で声で波奈を呼ぶ。


「こっち来てよ、寝よ、もう。もう眠いよ、私は」


 更に誘われて、波奈は彼女と抱き合うようにベッドに倒れ込んだ。すると波奈の胸元まである黒のロングヘアーが無造作に散らばる。それはバサリと、二人に覆い被さった。


「もう・・・・・・」


 半ば呆れたように、けれどほんのりと笑顔を浮かべて、更は手を動かす。ガラス細工のような華奢な指で、一房ずつ髪の毛を掴むと、丁寧に波奈の背中へと戻していく。やがて最後の一本を背に追いやって、後ろに回した腕をそのままそこに忍ばせた。

 真夏にこうして抱き合うためにエアコンは存在するのだと、波奈は思う。そしてここからさらに発展したら、もう言うことはないのだけれど。

 そのまま更に口づけをしようと、波奈も彼女の背に手を回す。直に肌に触れて、体温低めの三五・四度を感じる。そのまま少しずつ、チキンレースでもしているみたいに顔を近づけていく。

 あと、ほんのピック一枚分。


「……………ちょっと……ダメ。ゴメン、ほんとに」


 唇が触れ合うより前に、更が手を差し込んで止めた。

 思わず嘆息が漏れそうになるのをすんでのところで抑える。生殺しとはまさにこのことだ。据え膳食わぬはなんとやら、というのは、きっと男に限らない。ただ倉ノ下更は据え膳ではなく、食品サンプルだったというだけの話だ。食欲を刺激するだけ刺激して、けれど決して食べられない。


 更はいわゆる、性嫌悪者だ。過去にトラウマがあるらしいが、それについて波奈は詳しく知らない。わざわざトラウマを掘り起こそうとは思わなかったし、何より、更が嫌悪しているのは性だけではなかったので、取り立てて騒ぐことでもなかった。外出を嫌い、日光を嫌い、男を嫌い、子供を嫌い、密集と海と高所と嘘を嫌う。これに性嫌悪が追加されたところで、森の中に木を隠すようなものだ。


 以前に一度だけキスを許されたことがあるが、あの日の罪悪感を未だに覚えている。きっと、ここで許されても、同じだけの後悔を積み重ねていただろう。


「ごめんごめん、私が悪かった。このまま寝ようね、更」

「……………うん」


 すると更は、波奈の胸に顔を埋めた。先ほど使わせてもらったばかりのリンスインシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。つい、例の言葉を思い出してしまった。据え膳、食わぬは──


「……波奈?」


 足を動かしたことが伝わってしまったらしい。やっぱりシングルベッドに二人はキツイ。


「なんでもないよー、なんでもない」


 なんでもないと頭の中でも繰り返す。なんでもない。今、この瞬間が一番幸福なのだと、自分に言い聞かせる。セックスは重要だが、最重要ではない。愛情表現なんて他にいくらでもやりようはある。


「好きだよ、更」


 例えば、こうして言葉で伝えるとか。


「……………ふふ、私も──」


 くぐもった声でそう返した更に、どうせなら好きまで言ってくれと思いながら、義務的に瞼を閉じる。すると更は、すぐに可愛らしい寝息を立て始めた。それを聞いた波奈の脳味噌も睡眠のスイッチを入れたようだった。

 思わずあくびをして、目尻に涙を溜める。実のところ、大事な話があったのだけれど──明日に回すしかない。諦めて波奈も寝ることにした。

 夢と現実が無様に溶けあう。暗闇が気にならなくなり、抱いているモノが人かどうかの判断もつかない。

 不安になって目を開けると、更は人形になっていた。気がした。まだ半分、夢の中だった。


「・・・・・・・・・・・・好きだよ、更」


 今度の返事は無かった。きっと死んでしまったから返事がないんだなと、変に納得しながら、波奈は朝日を待ち侘びた。


×


「波奈は朝ごはん、食べる?」


 次の日の朝を告げたのは、朝日ではなく更の声だった。パッと目に入った時計は、六時五十五分を指している。ということは、分厚い遮光カーテンの外では、いつも通りの朝日が地平線から顔を覗かせているはずだ。


「・・・・・・・・・・・・食べる」


 波奈が夢うつつにそう答えると、更は「分かった」と言って、足早にキッチンへ向かった。耳を澄ますと、何かを焼く音が聞こえてくる。目玉焼きかウィンナーか、あるいはフレンチトーストならいいなと思いながら、波奈は身体を起こしてベッドの上に正座した。

 遮光カーテンの端を摘んで、わずかな隙間から外を見る。バリッと、マジックテープの剥がれる音がする。毎日お変わりない太陽様のご尊顔を拝して、波奈は思わず涙を流した。急激に脳味噌の温度が上昇し、全身の血液が沸騰していく。


 目が覚める──


 ただ言葉に言葉を返すだけでなく、本当の意味で覚醒する。寝起き直後、曖昧模糊とした夢と現実の狭間を、紫外線でズタズタに壊していくこの瞬間は、自傷行為にも似た快感があった。


 その時、「ひぃっ」と、小さな悲鳴が聞こえてきた。


 声のした方を見る。更だ。手に持ったお盆には二人分のベーコンエッグトーストを載せている。それも幽霊でも見たような、怯え切った表情で。


 理由はすぐに思いついた。

 日光恐怖症だ。

 朝一番に日光浴することを日課にしている波奈にしてみれば、性嫌悪よりもよっぽど理解し難い恐怖症。


 更は顔を強張らせたまま、咎めるような視線を波奈に向ける。勘違いされがちなそれではなく、本心からの侮蔑の視線だ。そして言葉にならなないまま、無造作に口を動かしている。それがきちんと意味を持てば、どれ程の罵詈雑言が放たれるか分からない。

 まずい、と直感する。何か、先に何か言わなくては。そんな焦りとは裏腹に、寝起きにしてはスラスラと言葉が出てきた。日光のお陰だろうか。


「……朝日を浴びると体内時間をリセットできるらしいよ。メラトニン? とか、セロトニン? っていうのを、どうこうしてね。私は更ほどできた人間じゃないから、太陽様のお力添えが必須なの」


 そして波奈は、そっとカーテンを閉じた。マジックテープもしっかりと引っ付ける。そしてひらひらとその前で手を振り、日光が一切漏れていないことを更に示す。


「ほら、これで大丈夫。……あー、ごめん。でも流石に分かってるって、更に当たるようにはしないよ。本当に、するわけないでしょ、ね?」


 その言葉に更がこくりと肯くのを待ってから、波奈は立ち上がって彼女にハグをした。少し背伸びして、肩から背に手を回す。頬と頬がほのかにくっつく。


「わ、わかった。わかったから、落ちちゃうから」


 すると更はバランスよく片手でお盆を支えて、もう一方の手を波奈の腰に添えた。というより、無理矢理ハグをしようとした波奈に対して、それ以外の行動の余地がなかった。

 波奈もそれは分かっている。分かっていて、けれど受け入れてくれた事が嬉しくて、つい邪念が湧いてくる。目の前にあるのは据え膳か、あるいは見せかけの食品サンプルか。

 顔を少し離して、至近距離で見つめ合う。

 交わされる視線に混じる色香に、更は気づかない。彼女にとってはただ見つめ合っているという事実があるばかりで、波奈の内に秘めた葛藤など知る由もない。


 だから更は、突然訪れた唇と唇が触れ合う感触に、ベーコンエッグトーストをひっくり返すことしかできなかった。

 お盆が床で跳ねると同時に、波奈は唇を離した。

 再び交わされる視線は、導火線に着火済みの爆弾のようなものだった。

 やってしまった。けれど後悔は後回しだ。とにかく、言い訳を考えよう。なんて、色情魔の浅はかな思考は、乱暴に身体を引き剥がされて霧散した。波奈はよろめいて転けそうになりながらも、何とか耐えて手を伸ばした。


「ごめん、更。その、魔がさしてさ」

「ひぃっ、いや、やめて! こないで!!」


 そんな更の甲高い悲鳴が、朝の七時に木霊する。そして彼女はバタバタと部屋を駆けて、浴室に引き篭もると鍵を掛けた。それを追いかけて扉の前に立つ。


「ごめん」

「・・・・・・もう、帰って。お願い。今日は帰って」


 それから何度か謝ったり、言い訳を並べてみたりしたが、更の態度は変わらなかった。これはもう、今日中は許してくれそうにないな。そう気づいたのは二十分ほど粘った後だった。引き止めて欲しくて別れ話を切り出すような、そんな心理戦を期待していたのだが、更はそんな浅ましさを持ち合わせてはいなかったようだ。


「・・・・・・本当は扉越しで話したくは無かったんだけど」


 だから、切り札を使うことにした。昨夜に伝えられなかった大事な話だ。本当に、こんな風な使い方はしたくなかった。もちろん、更を責めているわけじゃない。これは自戒だ。更の気持ちを慮る事をせず、安易に劣情に従った自分への戒めとして、今、この話をすることに決めた。本当なら、きちんと顔を突き合わせて、お互いの一挙一動を観察し合いながら話したかった。

 ごくりと生唾を飲んで喉を潤す。緊張を隠さず、震えながら声を紡ぐ。


「私、さ。八重樫じゃなくなることになった。苗字が変わっちゃうの。この意味、伝わるよね」


 ガタン、と物が跳ねる音がして、扉が開いた。死体のように目を見開いた更が、扉に手をかけたまま波奈を見据えている。


「・・・・・・本当?」

「本当だよ。嘘じゃない」


 言いながら、波奈は自身の左手の薬指を摩った。僅かに跡が残る、その付け根部分を。


 ×


 波奈が更を知ったのは、およそ二年前。それは波奈が『八重樫』という苗字を諳んじることができるようになった頃のことだ。


「お見合い結婚は、恋愛結婚よりも離婚率が低いらしいよ」


 そんな十歳年上の夫の言葉に、波奈は「だからなんなんだ」と言いたくなる。しかし、それをグッと堪えて「そうなんですね」と微笑みを湛えて返した。

 市役所に婚姻届を提出して、まだ二週間足らずだ。たった二週間で、ただの雑談であろうと『離婚』なんて言葉を使う夫への恋愛感情は、ゼロに等しかった。


「だからお見合い結婚の僕たちは、離婚なんてせずに済みそうだね」


 なんて、明らかに下を見るような言い方も気に食わなかった。夫を悪い人だとは思わないけれど、所々で鼻につく。きっと、母の結婚観がもう少し恋愛に寄っていたなら、苗字が八重樫に変わることはなかっただろう。



 ある日の母の言葉を思い出す。


「いつまで家にいる気なの? 大学に行く気ないなら、さっさと結婚でもしなさいよ」


 大学受験に失敗し、三年間実家暮らしでフリーターを続ける波奈に言った。三浪目ともなると、傍目には行く気がないという事になるらしい。一浪目での学力の伸び幅を見て、さらに上を目指そうと二浪目に突入し、結果あまり伸びずに撃沈するも、諦めきれずに三浪目だ。より高いレベルの大学を目指すのにも、切実な理由がある。行く気がないわけでは決してない。


「そう言われましてもねぇ」


 それに、結婚だってハードルが高い。なにせレズビアンなので、まず法律を変える必要がある。なんとも高いハードルだ。とりあえず、政治家にでもなろうか。


「相手がいないなら、ツテをあたってみるけど、どうする? アンタまだ大学目指すの?」


 流石にこれが同性婚を成立させてくれる国会議員のツテだとは思わない。そもそもカミングアウトもしていない。ツテ、というのがお見合い相手だと察するのに、時間はかからなかった。しかし、そもそも良い大学に行きたい理由が、良い企業に入って一人で生きていきたいからなのだ。結婚という選択肢は最初から無い。だって、そもそも結婚できない。一人で生きるしかない。


「あー、まぁ、考えとく」


 だからいつも曖昧な返事で誤魔化していた。本当に母がお見合い相手を探してくるまでは。



 夜の十時に「そろそろ寝ます」なんて言って、さっさと席を立つ。夫の「おやすみ」に「おやすみなさい」と返して、自室に戻る。夫と部屋は別だ。一度として身体の関係を持った事もない。家事という労働に、衣食住という対価が支払われる関係でしかない。

 波奈が一方的に拒んでいる、というわけではない。元々は夫も結婚を必要としていたわけではない。会社で役職に就いてから、義母に──夫の母親に──箔をつける為にすぐに結婚すべきだと諭されたらしい。子どもは要らない、夜の関係もない。ただ結婚して、夫婦でさえあればいい。それがこの空気のような仮面夫婦の正体だ。

 どこの誰と何をしようと不干渉。ただし、世間体にだけは気をつけるように。


 しかしこの『世間体』というのが本当に厄介だった。

『あら、実はそちらの奥様が、先日レズビアンバーに出入りしているのを偶然見てしまったんですのよ』なんて事があるかも知れない。あるいは『こちらのマッチングアプリのお方、奥様のことじゃありませんの?』なんて事も、無いとは言い切れない。そもそも、妻がレズビアンだ、というのが世間体に響く。未だに社会の風は、前方から吹いてくる。

 結果として、波奈は幾つかの浪人時代のアルバイトを続けつつ、家に籠るようになった。アクティブに動くよりも、よっぽど世間体が良いだろうと。となると、やはり暇な時間が増えてくる。大学入試の勉強時間は、家事の時間では相殺できないほどだった。では残りの時間を何に割いたかといえば、結局、現代のアヘンとも呼ばれるスマホに他ならない。


 そんなネットサーフィンの只中で、波奈は運命を見つけた。それは死体のように白い肌をして、骨が見えそうなほど不健康で、けれど確かな生が宿るキリリとした鋭い眼光で、スマホの奥から視聴者の心を射抜く。『アラタ』という動画配信者だ。当然、倉ノ下更のことである。



 この日も波奈はアラタの配信を見る。夜の十時から、約二時間。アラタは見た目の印象とは裏腹に、深夜零時以降の放送をしなかった。彼女の語るところによると、日光を浴びられないからと、太陽と共にある生活を捨てるのは、日光恐怖症に屈した事になるらしい。そんなアラタの不思議な価値観を聞くのが楽しかった。この世の多くに恐怖を感じながら、それに決して立ち向かわず、それでいて負けたくもない。どうにかこうにか理屈を捏ねて、避けながら戦っている。アラタが話すのは、いつだって自身の嫌いなもののことだ。けれど聞いていて不快感は無い。不幸自慢には聞こえないし、ヘイトスピーチにも聞こえない。嫌悪への僅かな共感と、それに立つ向かう術の独特さと、あらゆる弱点を抱えた彼女への庇護欲が、絶妙なバランスで釣り合っていた。


 今日の放送も、ここまでは普段と変わりなかった。時計は二十三時四十七分。この日の放送終了間際に、アラタは好きなものについて語り始めた。


「えー、『質問です! アラタ様の好きなタイプはなんですか!』うーん、好きなタイプかぁ。あんまり考えたことなかったなぁ。・・・・・・あー、あれかな? 黒髪、の、ロング! 胸元くらいまである感じのやつ。私が短いから、逆に長い人が良いんだよねぇ」


 それを聞いて波奈は髪を伸ばし始めた。いつも邪魔だからと短めに切り揃えていたので、胸元までだとなんとも長い道のりである。それでも伸ばすことに決めたのは、アラタの顔が好みだったからだ。波奈の好みがアラタなので、アラタの好みが波奈になれば、それは立派な両想いだろう。そんなささやかな疑似恋愛を楽しむために波奈は髪を伸ばした。なにより彼女を後押ししたのは、レズビアンバーに行くことやマッチングアプリを使うことよりも、よっぽど世間体に影響しないことにある。狩りを知らずともぬいぐるみに食らいつく室内犬のように、波奈はアラタにのめり込んでいく。


「次の質問! 『弾き語り配信はもうしないのですか?』あー、ごめんね。ちょっと今、ギターのペグが壊れちゃってて──」


 ワイヤレスのイヤホンが、アラタのミツバチとスズメバチの中間みたいな声を脳みそに伝える。まだまだ、アラタを知って数日のことである。案外、自分が惚れっぽいことに、波奈は二十二歳でようやく気づいた。とはいえ、平凡な日々が色づく、なんて月並みな表現が似合うほどに日常が変化したのは、もう少し後になってからだ。


「母さんがさ、孫の顔を見たいなんて言うんだよ」


 夫が重度のマザコンであることは、義母の一声で結婚を決めた経緯からして分かり切っていた。だからこそ、夕食を二人きりで囲むこの時間での何気ない一言を、波奈は見逃さなかった。伸ばし続けた髪の毛が、ようやく肩にかかるようになってきた頃のことだ。


「そうなんですね」


 冷静に吐いたつもりの声は震えていた。この時には、既に随分とアラタ様に惚れ込んでいて、時折彼女の配信にくだらない質問を投げては、寝る寸前まで後悔することを繰り返していた。


「もちろん、君の意志が一番だからね」


 今に思えば、きちんとそう言っていた気もする。しかし当時は、こんな声すらも届かないほど、頭の中は真っ白に染まっていた。アラタ様の語る男性嫌いが、あるいは性への嫌悪が、波奈にもしっかりと刻まれていた。それはタトゥーというよりも、アラタ様の嫌悪をそのままリピートするレコードに近い。それでもこれまで夫婦でいられたのは、夫がその色を一切出していなかったからだ。そして出していなかったからこそ、この一度目の衝撃は凄まじかった。

 食事を終え、風呂に入り、一通りの家事をこなして「おやすみなさい」と言う。夫の「おやすみ」が耳に届くやいなや、素早く扉を閉めて部屋に逃げる。

 助けを求めるようにスマホを開いた。アラタ様のチャンネルに行き、閉じて開いてを繰り返す。生放送はまだ始まらない。おかしい。いつもは二十時には始まっているのに、もう時計は二十一時半を指している。おかしい。もう一度閉じて開く。やっぱり始まらない。


 その時、扉の開く音がした。


 どうしてか夫の体格を思い出す。身長は一八〇センチ近く、体重も八〇キロを優に超すだろう。波奈より一回りも二回りも大きい。

 足音が聞こえる。どっしりとして、重い、足音。

 次の足音を鳴らしたのは波奈だった。部屋を飛び出し、玄関を飛び出し、夜の住宅街へ飛び出る。今夜、雪が降るかという冬の始めの出来事だ。なんとか部屋着にコート一つを羽織れたものも、それ以外のほとんどの自制心を失っていた。


 気づけば電車に飛び乗っていた。どこに向かっているのか、自分はどこで降りる切符を買ったのか、電車の揺れではない震えで揺れる波奈には分からない。

 やがて、およそ正気と言っていいほどに回復した頃、同時に終電のアナウンスが鳴った。

 仕方なく電車を降りる。案の定、最初に買った切符では足りなくて追加料金を支払う。今日はもう帰る気になれない。とりあえず近くで泊まれる場所を探そうと駅を出る。初めて来る駅だったけれど、狭い駅だったのですぐに出ることが出来た。


「…………あっ、雪だ」


 しんしんと降るそれは、柔く、軽く、掌ですぐに溶ける。こちらは随分と早く降り始めていたようで、街路樹の周りに少しばかり積もっていた。


「朝になれば全部溶けるんだろうな」


 とれほど夜に足掻こうと、太陽一つに勝てない。少なくとも、今の季節では、まだ。そんな弱弱しくて愛おしい、そんな姿が彼女と重なった。


「…………アラタ、様?」


 そう、アラタ様と重なった。道路一つを挟んで、確かにそこに居る、倉ノ下更その人と。

 


「それじゃあ、今日は家に泊まりなよ。まぁ、何もしないならだけど」

「は、はい! もちろんです!」


 おどろおどろしく話しかけると、話の流れで部屋着にコートのヘンテコファッションを指摘され、仕方なく事情を話す羽目になった。この状況できっぱり断れることが清廉なのか、あるいは二つ返事が清廉なのか。後を思えば、きっと前者だろう。足音一つで想像を膨らます 邪心を考えればなおのこと。

 けれど、この奇跡を捨ておける人間が果たしてどれだけいるというのか。この煩悩に塗れた二つ返事にこそ、人間の欲深さが現れている。この状況、このタイミング、これが運命でないなら、二度と初詣には行かないと決心する。そして何よりもの奇跡は、アラタ様が外出していることにある。


 アラタ様は基本的に外出をしない。それがどれほどかというと、五年続けたギターを修理に出しに行けないという理由であっさり辞めてしまえるほどだ。あらゆる必需品を通販で済まし、日中は受け取りにさえ出ない。それが倉ノ下更である。

 そんな彼女が唯一外に出かける日がある。


「あ、あの、インナーの色、すごく素敵です」

「ほんと? ありがと」


 ボブカットに赤のインナーカラー。アラタ様の美容室帰りの艶のある髪の毛が、雪混じりの夜風に揺れる。

 深夜まで開いている完全予約制の美容室。その帰り道に、ばったりと出くわした。思えば、今日の放送が無かったのも、彼女が美容室に行っていたからだったのだ。



 更が言う。


「私となら、きっと誰にもバレないよ」


 二度目に会った時のこと。一度目はスマホを家に置いてきていたので、一か月後に同じ時間、同じ日付に、ということで待ち合わせた。その二度目の深夜零時。肉体は清らかに、しかし魂は燃え上がる。


「どうして私なんですか?」


 波奈は恐る恐る聞いた。結婚済みであること、碌な収入が無いことは伝えてある。嬉しくても、理由が知りたくなるほどに、自分に自信が無かった。


「黒髪ロングが好きなんだよねぇ」


 なるほど、と納得する。とはいえ髪はまだ肩から四センチ程度の位置である。


「じゃあ、もっと伸ばしますね」

「うん、うん。そうしてよ、波奈。あと敬語は止めて、それから更って呼んで」

「わ、わかっ……た、更」

「うん、いいね」


 そのまま二人はキスをした。今後、更とキスをする二回のうちの一回目。この時の罪悪感の味は、その後のキスとは違っていた。


 ×


「最初に気づいたのはお義母さんだったの」


 波奈は更の目を見て話す。結果として、当初の波奈の思い通りになったことに、言いようのない罪悪感を覚える。けれど、やはり目を背けてする話ではない。波奈と更の関係は、清廉とは程遠く、つまりは倫理に反している。当然同性愛だからという話ではない。もっと根本的な手順を間違えている。


「浮気をする女は外見に気を遣うらしいよ。更に会う時だけお洒落してたからさ」


 義母の鋭さといったら、全く素晴らしいものである。彼女は波奈を追い出したがっていたので、なんと探偵まで雇って粗探しをしていたらしい。机の上に出された調査報告書は今でもべっとりと脳裏に焼き付いている。

 この辺りで、更の顔が再び曇り始めた。きっと更は、もっと幸せな予想をしていたのだ。


「お義母さん……いや、もう違うけど、まあ、お義母さんはさ、孫が欲しかったらしいんだよね。私がどうやら産む気がないらしいって気づいてから、もう目の敵って感じでさ」


 どうやら、最近では同性との不貞行為も不倫に含まれるらしい。それを知って少しだけ嬉しくなりつつも、波奈は不安を滲ませる。

 慰謝料という言葉に自分が関わることになるとは夢にも思わなかった。


「なんかもう、普通にバレたって感じで」


 夫の言葉を思い出す。


『母さんにはすごく感謝してるんだ、もちろん波奈にも……だから、穏便に済ませたいんだ』


 そんな夫の計らい一つで、波奈の不貞は許された。ただし、義母の顔を立てる為にも財産分与に関しては、夫が有利になった。もちろん、一度も反対はしなかった。

 夫が悪人であったことは一度もない。波奈よりも、更よりも清廉だった。そんな彼を裏切ったことに、吐きそうなほどの罪悪感が募る。どこの誰と何をしようと不干渉。夫婦というのはそんな言葉を真に受けていい間柄では無かった。


 けれど。


「それじゃあ、この家に住んでよ」


 更のその言葉を聞いて、波奈は目を見開く、フリをする。


「……………いいの?」


 わざとたっぷりと溜めてから聞き返す。


「もちろん、いいよ。あっ、でもやっぱりキスはなし、日光浴も禁止―」


 波奈は笑顔を作ってはにかんで見せる。更のその言葉のお陰で救われたように。


「うん、うん」


 罪悪感はある。けれど、やはり夫よりも波奈を愛していた。たとえ倫理に反した順番でも、この順番でなければ更との関係は無かったのだ。

 義母はわざと派手な格好をして見せると、案の定、尻尾を掴んできた。それがこちらの仕掛けた罠だと知らずに。お互いに不干渉、そういうルールだった。それを破ったのは夫側だ。夫の性格なら、それに罪悪感を覚える。妻の不貞を許してしまえるほどの大きな罪悪感を。

 結果、波奈は慰謝料から逃れることに成功した。全て完璧だった。


「あ、でも、私の収入だけじゃ絶対足りないから、就職してよね」

「もちろん、わかってるよ。色々とお金が必要だしね」

「色々?」


 更の疑問に波奈は答えない。波奈には今更ながら、なりたい職業が出来ていた。まずはその職に就くための学校に行く必要がある。険しい道のりだ。しかし、それを遂行できるだろうという確信がある。目の前にいる、更を思えば。

 波奈は足の裏にタトゥーを彫るように、声を潜めて呟いた。


「……私が更の美容師になったら、どこにも行かなくて済むよね」


 更の返事はない。聞こえていない。最近の更は目も耳も悪くなっている。それでも病院には行かないし、行けない。更はまるで水槽を漂う熱帯魚だ。もう少しで彼女の水槽が完成する。

波奈は唯一の懸念点をちらりと見た。


 ペグの壊れたアコースティックギター。


 もし、彼女がもう一度音楽を手に取ったなら。もし、そのギターを直そうと思い至ったなら。


 きっと、水槽はひび割れる。


 まぁ、それでもいい。きっとギターを弾く更は、熱帯魚なんて比にならないほど美しいはずだから。

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死体のように、雪のように、熱帯魚のように 広瀬 広美 @IGan-13141

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