憧憬

杠明

憧憬

思い返してみると幼い頃から人よりが好きだったように思える。

祖父母の家の仏壇に添える線香、マッチ、ライター。そして花火。

花火と言っても打ち上げ花火ではない。コンビニやスーパーにも売ってるような手に持って遊ぶ花火だ。

手花火もその美しさを楽しむわけでは無かった。先端から出る火で手ごろなサイズの石ころや雑草、挙句の果てには虫も焼いて楽しんでいた。


特別幼い頃の自分が残酷だったなどとは思わない。その証拠に今思い出してもつい顔を顰めてしまう。

幼い頃には誰でも好奇心という名の残虐性を秘めていると思う。大人になる過程でそれを少しずつどこかへ捨ててしまうの違いない。


自分のその例に漏れず小学校高学年に上がるころにはそのような一面は鳴りを潜めた。

だがそれは残虐性の話で相変わらず火に対する憧れは薄れつつも確かに残っていた。

理科の実験でアルコールランプに火を付けるためにマッチを擦る必要があった。周りの子供は怖がってまともに火を付けることが出来ていなかったが自分一人だけは綽々とマッチを擦っていた。


幼い頃は決して触らせてもらえなかった火の元。それを堂々と扱えた時の感動は……大したことがなかった。

当時は成長して興味が薄らいだからと考えていたが今思うと堂々と扱えたのが自分の中で何か違ったのかもしれない。


それから高校を出て今の会社に入るまでほとんど火への憧憬を忘れていた。

久しぶりの出会いは入社して数か月経ったある日悪い先輩から煙草を勧められた時に訪れた。

「ガキじゃあるまいし誰も何も言わねえよ」先輩はそう言うと箱に残っていた最後の一本を自分に勧めてきた。自分の体質にはあわなかったのか初めはこんなもんなのかただひたすらに咳き込み頭がクラッとして最後は吐き気が襲ってきた。


ようやく呼吸を整え先輩を見ると大笑いしていたのを覚えている。一瞬タバコじゃない別の何かを吸わされたのかとも考えた。実際先輩の素行は悪くこの出来事の数か月後にプライベートの不祥事で蒸発した。女関係とも暴力団関係とも言われていたが真相はなんとなく違うと思う。


それから6年。幼少期のことはおろか先輩のこともきれいさっぱり忘れてしまっていた。自宅のアパートや徒歩5分の職場の近くにも時間を潰せるような場所がないため休みとなると電車でそこそこ栄えている駅まで通うのが習慣になっている。

とはいえこれといった趣味もなくぶらっと歩いては読みもしないマンガや包装を解かないでそのままになる雑貨を購入して時間を潰している。


今日も春服を見るだけ見て手ぶらで駅まで戻ってきた。駅に近づくにつれて喧噪がひどくなる。当然いつも人が増えるのは当たり前だが今日は様子が違う。駅が見える位置まで来てようやくその理由が分かった。

数台の消防車、黙々と上がるどす黒い煙。火事だ。


駅隣のビルを距離を置いて群衆が囲んでいる。今いる位置からは角度が悪く家事の様子が全く見えない。今日まで生きてきて本物の火事を見たことがないこともあって出来るだけその様子を近くで見たいという野次馬根性が頭をもたげてきた。

群衆はスマホを手にビルを撮影している。不謹慎だとも思えるが今の自分にはこの人たちを非難する資格はない。


多少強引に身体をぶつけながらも人の壁を前へ前へと進んでいく。群衆は前方のほうが密度が高く無理に進もうとしたところ弾き出されるように倒れ込んでしまった。

消防士に大声で注意されて気が付いた。燃えている建物は目の前だ。


燃えているビルは細長い6階建てのもので、1階が不動産屋でそれより上の階は何が入っているのかは知らない。

よくドラマや映画で見るような建物自体が炎で包まれるといった様子ではなく各階の窓から多量の煙とチラッと炎が垣間見える程度だ。


「違う」

俺が思い描いていたものはこんな醜い物ではない。あってはならない。

この時なんで絶望したのか理解していなかったが今なら理解できる。


アスファルトに膝をつき呆然と火災を見上げていると急に肺が焼けつくような激しい痛みを覚えて。「呼吸ができない」必死に酸素を吸いこもうとするが喉が塞がったように外気を拒む。

あまりの息苦しさと激痛で気が遠くなる。


「大丈夫ですか? お名前言えますか?」

意識がはっきりするとようやくここが救急車の中だと理解できた。気を失ったように思えたが身体が動かないだけで濁った意識が僅かに残っていた。

乱暴に両腕を引かれ群衆の前から移動させられ、緊急隊員によって介護されていた。

「樋口亮一です」

「ここがどこだかわかりますか?」

「O駅前ですよね」

開かれている救急車の後方から外を見ると自分と同じように酸素マスクを口に当てられている人が数人固まっている。


「被害の割にけが人は少なくてよかったですよ」

自分を介護していた救急隊員がホッとしたように言う。

「しかし樋口さん。他の隊員が言ってましたが無暗に近づくと死にかねませんよ。『煙なんて少しくらい』と考えているかもしれませんがは燃えると有害物質を出すのでほんの少しで意識を失ってしまうんです」

、これがあの醜い炎を生み出した元凶ということなのか。


結局ビル火災は近くの飲食店に僅かに延焼した程度で収まった。火の元は調査中とのことだが興味はない。

俺はあの後病院で検査を受けて念のために翌日の仕事を休んだ。

説明が下手だったせいか俺が火事に巻き込まれたと思い込んだらしく1日で十分なところ1週間休んでいいと言われた。閑散期とはいえ普段嫌味っぽい先輩の意外な一面を見た。


先輩の言葉に甘え1週間休もうと思ったが無趣味なうえに健康被害も気持ち悪さはわずかに残るもの身体は1日ですっかり治ってしまい暇を持て余してしまった。

職場が近い都合上出かける際に職場の人に見られないとも限らないしこのアパートには同僚も住んでいる。見舞いに来ないとも限らない。

諦めて薄くなった敷布団の上でスマホを眺めて時間を潰す。

今年は暖冬だったとはいえ今日は冷える。石油ストーブの中身を確認すると灯油は空だった。


先日の火事も昨日はネットニュースのトップに上がっていたが今日はニュース欄を下にスクロールしないと見つからない。

確認したが当たり障りのない記事で新しい情報は何もなかった。流行り廃りの早い世の中とはいえあれほどの火事がもう話題にも上がらなくなるのかと思うが、確かに死者が出ていないこと、首都圏とはいえローカルなネタであることなどを考えると妥当だとも思える。


ふと気になり年間の火事の件数を調べてみると昨年で約3万5千件の出火があったらしい。ざっくり1日で100件近くの火事がある計算だ。

そう考えると地方では珍しくとも全国的には日常ということになるのだろう。もちろん火事にも規模の違いはあるだろうが。


いい加減棚ボタな長期休暇にも倦んできた。明日も休みをもらうと結局週末に入り仕事に行くのは月曜日になってしまう。普段の俺は間違っても仕事人間ではないし休めるならいくらでも休みたいと思っていたが6年も社会人をやっていると嫌でも仕事有きの休みになってしまうのだろうか。もっとも今の休みは休養という名目のため遊びに行くことが出来ないことも大いに関係はあるだろうが。


1週間ぶりに事務所の扉を開けようとするとまだ9時前だというのに騒がしい声が聞こえる。

「おはようございます、休暇ありがとうございました」

「おう樋口もう大丈夫なのか? 災難だったな」

「先輩どうしたんですか? ずいぶんと騒がしいみたいですけど」

「実はな」


昨日納期だった品物が取引先に納品されていなかったらしい。社長が早朝倉庫を掃除しようとしたところそっくりそのまま品物が残っていたとのこと。しかもそれを担当していた後輩が電話口で「すいません、もう行きたくないです」とただただ泣くだけで一向に埒が明かないらしい。


堂々と言える話ではないが俺もそのくらいのミスは新人の頃はしてきた。それにこの時間なら急いで取引先に持って行って平謝りすれば御贔屓なので許してもらえるだろう。それはここにいる全員がわかっているだろう、問題にしているのは後輩がこの場にいないこと。

もうすぐ80歳になろうかという社長が顔を真っ赤にして怒っているのもそれが原因だ。


「今すぐ安達を引き釣り出してこい!」

「父さん落ち着いて、ぶっ倒れちまうよ」

今懸命に社長を宥めているのが婿養子の副社長。実質的に経営はこの二代目が行っている。

「福田さんところに謝りに行くにしても安達がいないことには始まらないだろうが!」


「あの二人はずっとあの感じ。安達が大袈裟に考えちまうのも社長が原因とも言えるよな」

相手先に迷惑をかけているのは事実として変わらない。だが先輩の言う通りこの一件で会社がぐらつくような取引ではない。

「これだから最近のやつは使えないんだ」

頭に血の上った社長は周囲のことなどお構いなしに騒ぎ散らす。

安達と1つしか違わない自分も社長の言う若いやつにあたる。もちろん俺のことを非難してるつもりはないのだろう。しかしチクリと側頭部に名前のない痛みが走った。


騒ぎ疲れた社長は椅子に座り温いお茶を一気に飲み干す。それを見て副社長も一息ついたように汗を拭っている。

「お疲れ様です。倉庫の荷物はこれから僕が届けましょうか?」

「ああ、お早う。樋口君もう具合はいいのかい?」

「おかげさまで、それで荷物はどうします? 今から運んできましょうか?」

「うーん、義父さんが『筋を通さないとならん』って言うからできれば安達君に行ってほしいんだけど……。それも無理そうだしなぁ」


「俺がミスったことにして謝ってきますよ。実際俺は休んでた製で樋口君が代わりに担当してたんですよね?」

「いやぁさすがにそれは……でももうそれしかないかな」

副社長は困り顔で後頭部をがりがりと搔いている。副社長は40を少し越したくらいの年齢だが頭頂部が薄くなってきている。かなり激しく頭を搔く癖のせいではないかとつい思ってしまう。それに社長の宥め役でかなりのストレスも影響しているだろう。

「じゃあ社長に伝えてオッケイならすぐにでも行ってきますね」


社長は最初こそ渋い顔をしていたがとりあえず先方にこれ以上遅滞するのも悪いと言い自分の意見に賛同してくれた。

軽トラの荷台に荷物を固定して行こうかというところで運転席の窓からノックの音がした。

「俺も一緒に行くから乗せてくれて」

俺の発言を待たずに社長は助手席に乗り込みシートベルトを締めた。


「なになに、大丈夫ですよ。いつもお世話になってますしこっちだって何度迷惑かけたかわかりませんし気にしないでください」

「大変申し訳ございません、自分の不手際でご迷惑をおかけしました」

事務所から車で40分も走らせると目的地にたどり着く。

福田建築は建築と銘打ってはいるが材木加工の会社で規模はうちとどっこいどっこいか少し小さい。


何時も表の事務所のほうに届けるがまだ営業時間でないことと倉庫は裏の福田さんの自宅を兼ねている建物にあるためそちらに回って挨拶をした。事務所は古く寂れているがこちらの建物は日本家屋で想像以上に立派な建物である。普段はこちらの来ることはないので初めて見たこともあったが圧倒されてしまった。

「なんでこれで事務所はボロいんだ」思わず心の中で呟く。


「もう10年も働いてるって言うのにこいつが初歩的なミスをしてしまいやがって本当に申し訳ないです」

「大丈夫ですよ。お二人とも頭を上げてください。それにもう10年ですか、早いもんですね」

まだ10年も経っていないが話の筋には関係ないので訂正はしない。


高校でも中学でも無論それ以前でも受験はおろか試験勉強すらまともにしてこなかった。そんな自分が大学に行くことなどあるはずもなく必然的に高校を出てすぐ働くことになった。しかし周りが続々と就職先が決まるなか、自分は教師の伝手で何とか今の会社に就職できたのが12月。


せめてものお詫びとして資材の入ったダインボールを事務所脇の倉庫に運び込むこととなった。先述したように家屋に対してあまりにもボロい事務所の倉庫、こちらも事務所に劣らず年季が入っている。

「すまんな、お前のせいにして」

「気にしないでください」

社長が申し訳なさそうにこちらを窺っている。堅物な人なだけに今回のような「嘘も方便」のようなことが嫌いなのだ。


荷物を倉庫におさめ、固まった肩を回しながら視線を建物へと移す。

事務所と倉庫の間にはゴミなのか資材なのか区別のつかないものが転がっている。

「これ、火事になったら大惨事だな」

「そうですね、燃料が山積みになってるようなもんです」

社長は自分が休んでいた理由を知らないのか知っててもお構いなくこの話題を選んだのかわからない。おそらく前者だろう。


「今何時だ?」

「11時ちょっと前ですね」

社長は仕事中にスマホで時間を確認するのを嫌う、安物の腕時計で時間を社長に伝える。

「ちと早すぎる気もするが飯にするか、いつもの飯屋に出してくれ」


18時を少し回った時刻。閑散期ということもあり定時で上がったはいいが相変わらず予定はない。

出かけようにもその気になれない。床に折りたたんである布団をクッション代わりにして横になりスマホを弄る。

もともと精力的に動き回る性格ではないがどうにもあの火事以降さらに拍車がかかったように無気力になった気がする。


気が付くとうたた寝していたらしい。充電の残り少ないスマホを見ると時刻は22時。昼食が早すぎたこともあるがまだ夕食を取っていない。気力はなくとも空腹はしっかりと感じるらしい。

コンビニでカップ麺とおにぎりを買ってアパートに戻ろうとすると向こうから消防車が走ってくる。

サイレンの代わりにカンカンと鳴らしている。今まで大して気にしていなかったがどうやら火の用心の警鐘らしい。

真っ赤な車体を横目で眺め終えるとコンビニへと踵を返した。


かつて先輩が遊びに来てそのまま置いていった安物の灰皿の上でマッチをこする。

コンビニに引き返しわざわざこのためだけにマッチを買ってきた。

幼い時に見た美しい火がそこにあった。だがあの頃の感動はない。

何故だろうか?

醜くもあの日見た火事の風景のほうがまだ胸に迫るものがあった。

何故? 何故だろうか?


土曜日の午前3時ともなればどの家もシンとして人気はない。福田建築もその例には漏れない。人家のほうではなく事務所のほうにゴミを蹴飛ばさないように気を付けながら回ると特に苦労もなく資材置き場へとたどり着いた。あるのはゴミばかりで持って行くならむしろ持って行ってくれと言わんばかりの無秩序だ。

事務所と家屋を隔てる雑木林にも背の低い柵があるだけでそこにも外部から投げ込まれたであろうゴミの入った袋が散乱している。


敷地内に明かりはほとんどない。月は見えず遠い街灯の明かりが少しばかり顔をのぞかせているだけだ。

「こんな夜こそふさわしい」

詩人を気取ってみたがそんな日は恐らくないと思う。ただただ気持ちの問題だ、そう俺の気持ちの問題。


昨日購入したばかりの灯油が赤いポリタンクに満ち満ちている。それに道すがら拾ってきた雑誌を束ねた資源ごみ。

雑誌の束に灯油を染み込ませていく。灯油独特の匂いが暗闇に漂う。ポリタンクの中身はまだ6割以上残っている。持って帰るわけにもいかない(?)ので周囲の先住民たちにおすそ分けした。


一呼吸する。近くに大量の灯油があるせいか肺いっぱいにその匂いが満ちているように感じる。まだ引き返せるか? いやもう無理だろう。

上着のポケットをまさぐりマッチを手にする。まずそっと一本擦ってみるが急に吹いた風ですぐに消えてしまった。

すぐには消えない様に今度は2本重ねて火を付ける。マッチでしか味わえないリンの匂いが鼻腔をくすぐる。

10年、20年ぶりに火を美しいと思えた。


足元にある灯油でヒタヒタになった雑誌の山にマッチを落とす。火が回るのは一瞬だった。

退路をしっかり確保したわけでは無いので足早にゴミ野原をあとにする。

道路を挟んで事務所の反対側の道路までくると相当遠くまで逃げたような気がした。

冷たい暗闇を少しずつ少しずつ照らされていく。ボッと勢いよく燃える音、パチパチっと爆ぜる音。今まで聞いたことのない音楽が奏でられている。この音楽を独り占めしていると思うと少し優越感を覚える。

目で耳で匂いで全身で今火を感じている。


火が事務所に回ってからはあっという間だった。火の元から雑木林へ、そして木造家屋のほうへと回っていく。

ゆっくりと事務所側から家屋のほうへと歩く。より美しい火を見たいという期待とこれですら醜い火であったらどうしようかという不安で足が一定のテンポで進んでくれない。

それでも短い距離だ、気持ちがまとまる時間など来るはずもなく目的地にたどり着く。


火でできた西洋の城。それが第一印象だった。網膜に無理やり押し付けられたかのように強烈な印象だった。その場に立ち尽くし美しい城を一人眺めていた。

どれほど時間が経ったであろうか寝巻のまま現れた近隣住民が一人また一人と現れ慌ただしく喧噪を作り出した。

残念だがこれ以上愉悦に浸ることは出来ないらしい。


思い返してみると人よりが好きだっとように思う。

美しく、激しく、暖かいが。

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憧憬 杠明 @akira-yuzuriha

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