ビルの屋上は銀河

クロノヒョウ

第1話



 空っぽのベッドの上に無造作に置かれている瓶。


 綺麗な濃いブルーの小瓶が淡いベージュのシーツの波に妙によく映えていた。


 俺はそっと瓶を手に取り蓋を開けた。


 中には小さな紙切れが一枚入っていた。


 『銀河で待ってる』


 俺は思わず顔をほころばせながら部屋を出てエレベーターに乗った。


 何もない無機質なコンクリートのただの屋上。


 こんなところに来る人は誰もいないが彼女は違った。


「風邪ひくぞ」


 ポツンと置かれたベンチに座っている蒼依あおいに声をかけながら俺はその隣に座った。


「夏だから風邪はないでしょ」


「こういう場面で言うセリフの定番だろ?」


「ふふ、そうかもね」


 蒼依は俺の方を見もせずにただどこか遠くを見ていた。


「で? これは砂浜にうちあげられたメッセージボトルのつもり?」


 俺も蒼依を見るのをやめ眼下の街並みに目を向けた。


 もうすぐ日が沈む街は蒼依と同じでどこか寂しげだった。


「結局私は海を見ることも出来なかった」


 そんなのこれからいくらだって……そう言おうとして俺はその言葉をのみ込んだ。


 幼馴染みの蒼依は体が弱く小さい頃から入退院を繰り返していた。


「私にとっての海はあの病室。銀河は屋上」


 前に一度だけ、お互いの家族と一緒にデパートの屋上に遊びに行ったことがある。


 たくさんの子どもたちにたくさんの乗り物やゲーム機、そしてたくさんの笑い声。


 蒼依にとっては全てが未知のものできっとキラキラして見えたのだろう。


 それ以来蒼依は屋上のことを銀河と呼ぶようになった。


「海には滅多にメッセージボトルなんて漂流してこないぞ」


「……そうなんだ」


「だとしたら海は瓶だらけになってしまう」


「ふふふ、それは困るね」


「蒼依、こっち見て」


 やっと笑った蒼依の顔が見たくて俺は思わずそう口にした。


「何?」


 目が合った瞬間、俺は蒼依にキスをした。


「俺、ちゃんと待ってるから」


 俺がそう言うと蒼依の目からは涙がぼろぼろとこぼれ始めた。


「……怖いよ、ナオ」


「大丈夫。きっとうまくいく」


 俺は蒼依の肩を抱き寄せた。


 明日蒼依は手術のために外国へと旅立つ。


「飛行機にも乗れるんだぞ。空から海だって見れる」


「……うん」


「と思う。俺もまだ乗ったことないけど」


「ふふ、何それ」


「まさか蒼依に先を越されるとはな」


「やったね」


「ほら、クラスにいただろ? 背がデカくて髪の毛ツンツンさせた……」


「岡部くん?」


「そうそう! アイツが飛行機乗ったって自慢してた」


「あはっ、しそうしそう」


 笑顔になった蒼依を見て俺はほっとしていた。


「一緒に卒業しような」


「……うん」


 手術が成功してたくさん授業に出れば蒼依もちゃんと中学校を卒業出来ると先生も言っていた。


「えっ、ちょっと待って……さっき、キスした?」


 思い出したかのようにそう言った蒼依を見て俺もさっき蒼依の唇に触れた感触を思い出した。


「わっ、えっと、その、ごめん、つい」


 顔が熱くなるのがわかった。


「ごめん……俺、蒼依のことが好きだから」


 見ると蒼依の顔も真っ赤に染まっていた。


「蒼依は?」


「わ、私は……私にはナオしかいないって知ってるでしょ」


「……それ、好きってことでいいの?」


 蒼依が恥ずかしそうに頷く。


「やっべえ。俺もここが銀河に見えてきた」


「あはは、何それ」


 照れくさくて上を見上げるとちょうど遠くの空に飛行機が飛んでいた。


 俺はずっと手に持っていたブルーの小瓶を空に掲げた。


「そろそろ戻るか。明日のために、未来のために」


「うん」


 俺は立ち上がって蒼依に手を差し出した。


「ナオ、ありがとうね」


 そう言って蒼依は俺の手をしっかりと掴んだ。


「銀河で待ってるからな」


「うん」


 蒼依の真っ白で細い指が俺の手を力強く握り締めていた。



          完





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