ハレムの雌雄

坂水

第1話

 ふんわりミルクティー色の髪とココア色の髪が溶け合う。それほど二人の距離は近かった。すぐ真後ろに座ったなら、甘い匂いが漂ってきそうなぐらいに。

 大講義室では真ん中左らへんが、実は一番目立たない。そう教えてくれたとおりの場所で、今日も目当ての後頭部を見つける。大学に入ってから、金色、アッシュグレー、そしてココアと変遷してきたその頭。隣に揺れる髪色はもっと多彩に変化し続けてきた。

「伊勢谷の奴、まーた違う女連れてる」

 大講義室の後部席に私と並んで腰掛けるしーちゃんが言う。そう、昨日は黒髪ボブで、おとといは茶髪のウェーブ。明後日はカラーメッシュかもしれない。

 どこがいいんだかという呆れ声と、いいよねえという私の声が被る。

 物言いたげなしーちゃんの口を塞いだのは、准教授の姿だった。大学二年の冬、後期授業はあとわずか。記述試験のヒントが零れ落ちないか、それなりに熱心に聴く。私たちは黙ってテキストを開いた。

 講義が終わると、学生は一斉に席を立つ。学食が混むから、二限目の終了時は特に。気付いた時にはココア色を見失っていた、と。

「あーお、ドイツ語のノート貸ーしーて!」

 今週の訳当たるんだと背後から腕を回され耳に吐息がかかる。ひゃっと小さく悲鳴をあげると、驚いた~と、疑問形なのか断定なのか曖昧な口調が降ってきた。

 振り仰ぐ私と覗き込んだ彼の距離は近い。でも私のショートカットとじゃ溶け合うほどにはならない。

「はよ、蒼」

「……おはよう、伊勢谷君」

 にこにこと挨拶をしながら彼は手を差し出してくる。その笑顔に押されて通学用のリュックから目当てのノートをさぐり当る。と、その角に触れて思い出した。

「先週、風邪で欠席してとれてないんだった」

 伊勢谷君は、一瞬、え、という表情を浮かべる。でもすぐに沈めて、そっかそっか、もう大丈夫なん、といたわりの言葉に置き換えた。でも、そっか、こまったなーと、全然、こまっていないみたいに。

「椎名は?」

「なんであたしがあんたに貸すの」

「椎名のノートまとまってそうだし」

 喰ってかかろうとしたしーちゃんは女優顔を歪めて黙り込む。

 伊勢谷くーん、席埋まっちゃうよ。大講義室の出入口から澄んだ声が響く。見やれば、伊勢谷君の隣に座っていたミルクティーの人で、他にも女の子数名が固まっていた。

「まあ、いいや。誰かに借りるから、大丈夫」

「ごめんね」

 謝れば、ポンポンと軽く頭に手を置かれた。その重みからは気安さと親愛が伝わってくる。

 ぼうっとする私に、伊勢谷君は、じゃ、と言って背を向けた。

 逆二等辺三角形の、大きな、形良い背中。

 なんとはなしに目で追えば、ミルクティーの人と視線がぶつかる。無視するのも感じ悪いかなと軽く会釈したけれど、無視された。

「リアルハーレムかよ」

 二限目が始まる前に生協で買っておいたお昼ごはんを取り出しつつしーちゃんは言う。

 ハーレム。たまに見かけたり、耳にしたりする言葉だけれど、友人が口にすると生っぽさが感じられる。ハーレム、心中で転がす。

「蒼も蒼でしょ、彼氏でもない男に頭撫でられて拒否らないとか」

「……うん。でも、大丈夫」

「大丈夫じゃない、自尊心持ちなさい、簡単に触らせちゃだめ。ってか、まさかあいつに片思いしてるとか──」

 そんなことないけど、彼氏だから、と。

 私の呟きに、しーちゃんは焼きそばパンの具材をぼろりこぼした。

「クリスマス前だったかな。フリーになったから付き合おっかって」

「ノリかよ。って、勢いに押されてOKしたの?」

「勢いもあったけど、前からいいなとは思っていたから」

 講義が終わるなりしーちゃんに連れ込まれた駅前のコーヒーチェーン店で季節限定フラペチーノをちびちびと啜りながら話す。やっぱり温かい飲み物にすれば良かった。でも、オーダーの仕方に自信がなく、結局、しーちゃんと同じものを選んだのだ。バイトの時給半時間分が文字通り溶けてゆく。

「前からって、高校の時?」

 頷く。しーちゃんとは学部が同じで仲良くなったけど、伊勢谷君とは元々高校が同じだった。実のところ、彼の第一志望を知ってから進路調査票を書き換えたのだけど、取り調べっぽい雰囲気の中(受けたことないけど)、言い出せなかった。

「だったら、なんでハーレム状態怒んないの」

「……条件があって。他の女の子が寄ってくるのに口出ししないこと」

「呑んだの?」

 頷く。最低、と吐き捨てられた言葉は誰に向けられたのか。多分、訊き返さなかったのは正解だったのだろう。とっくに呑み干されたフラペチーノのプラスチックカップがネイルで彩られた指先に潰された。


 調べた限り、「ハーレム」という言葉は、ざっくり三つの意味に分かれるようだった。

 ①「ハーレムもの」のこと。

 一人の男性が多くの女性にもてもて、かしずかれるあれ(男女逆転は〝逆ハー〟と呼び、同性同士というパターンもある)。

 ②中東・イスラム世界において君主や名士が構える後宮のこと。➀の元ネタ。

 語源はアラビア語のハラムであり、〝禁じられた〟という意味がある。日本で言うハーレムはトルコ語の発音ハレムからきている。

 女性を婦人専用の居室に隔離し、近親以外の男の出入りを禁じる風習があり、元々はその居室を指していたそうだ。

 大規模なものではオスマン帝国のトプカプ宮殿が有名だ。ハレムには淫蕩、愛欲みたいなイメージが強いけれど、君主の世継ぎを育成するための優れたシステムだったという。江戸時代の大奥みたいなものなのだろう(大奥が良いシステムなのかは知らないけれど)。

 ③生物学において、一匹のオスが複数のメスを擁する一夫多妻制の群れを指す学術用語。②が転じ〝たくさんの女性の中に男性ひとり〟という状態を意味したものと思われる。ちなみにハレムを形成する生物は、鰭脚類──アシカやオットセイ、ゾウアザラシなどが該当する。

 ものの本によるとゾウアザラシは1頭のオスが100頭ものメスを従えたハレムを形成するそうだ。となると、あぶれたオスはどうなるのか。ゾウアザラシの雌雄の割合は知らないけれど、仮に1:1だとしたら、99頭のオスゾウアザラシは。

 私は③を以前テレビで観たコント番組で知っていた。あぶれたオスが『悲しみの丘』と呼ばれるオスだけで作る集団をネタにしたそれ。覇権争いに破れ、メスと交わることなく生涯を終えていくオスたち……

「もう女性学のレポートに手つけたの」

 顔を上げれば、しーちゃんが正面に立っていた。今日の午後は同じ講義をとっておらず、別行動していたのだ。しーちゃんとはほとんど同じ履修届を出したけれど、人気の講義はとれないことがあり、たまに別々となる。

「海獣図鑑? なんでこんなの読んでの、ってドイツ語……あんたまさか」

 大学図書館の広い机いっぱいに広げた辞書、本、ノートの中から、しーちゃんは目ざとくそのノートと辞書を見つける。

「伊勢谷に見せるため?」

 役に立ったら好かれると思っているの、内助の功が女の甲斐性、くそくらえだわ、それで好かれたって嘘っぱちじゃない、そうしなけりゃ好かれないところまで自分で落ちて自分自身の価値を下げてるの、それっていうのはイコール女の価値を下げてるってことなのよ。世の中は性差による差別が横行している、日本のジェンダーギャップ指数知ってんの、もちろん女だけでなく男もだしあらゆる性が苦しんでいてそういう偏見や差別に加担するわけ、あんたは――

 しーちゃんに怒られた。もの凄い早口で。

 よく聞き取れなかったし、しーちゃんが影響を受けているであろう講義の選から漏れていた私は半分も理解できなかったけど、私がドイツ語の訳をするとひいては世界が崩壊するらしい。

 もっとも三分の一ぐらいは私のために怒ってくれていると感じられたので、うんうん頷いた。図書館員さんから注意されるのではと周囲に目を配りながら。

「ごめんなさい。伊勢谷君、困ってたっぽいから、つい」

「……人として困ってるのを助けるのは良いことだけど、伊勢谷は自業自得なんだから、蒼がしてやることはないよ」

 謝罪すれば、友人は多少口調を和らげてくれた。それで私もつい余計な言葉を付け足してしまう。

「先週のドイツ語やってなかったし、ついでっていうか、それでお役に立てるのなら」

 しーちゃんはマットな質感ロングヘアをぐしゃぐしゃ掻き混ぜ、それすらもファッション誌表紙の無造作ヘアになる。

「蒼にはあたしのノート送ってあげるから」

 言うが早いが、ショルダーバックからノートを取り出し、スマホで写真を撮る。すぐさま机に置いてあった私のスマホが震えた。

「あんたはさっさと自分のレポートと試験勉強する。ほら、課題読んだ? 読まなきゃレポート書けないよ、伊勢谷の面倒みてる場合じゃないでしょ」

 うん、ありがとうと返しながら思う。多分、この画像を伊勢谷君に転送するのは人としてやってはいけないことなんだろうな、でも、著作権的には私的使用だからセーフかな、と。

「で、まだ帰んないの?」

「四時からバイトだから」

 図書館に寄ったのは空き時間のためだった。ついついドイツ語にも試験にもレポートにも関係ない本を読み漁っていたけど。

 そろそろ出ないといけないんじゃない、親切にも図書館のラベルが貼ってある辞書やら図鑑やら新書やら抱えてくれたしーちゃんに、何冊か借りてくからと告げる。

「じゃあこれも貸してあげる」

 もう読んじゃったからと鞄から白い本を差し出された。表紙に『ファミニズム』の文字がちらりと見える。あんたにこそ必要よ早く読んでレポート書いちゃいなさいと押し付けられる。薄く、小さな本だったので、まあいいかと受け取った。

 しーちゃんとは図書館を出たところで別れた。彼女は資格取得のための五限目講義がまだあるとのこと。将来を見据え、着々とキャリアアップを図る自慢の友人。

 履修科目はほぼまねっこしたけれど、私が届けを出したのは卒業のために必要な科目だけで、余分な講義はとってない。私には知識欲とかスキルアップとか、そういった向上心がとんと無いのだ。

 大学最寄りの駅から電車に揺られ三十分、ターミナル駅で下車する。自宅へはここから乗り換えて十五分と自転車十分。今日はバイトがあるので改札を抜けて地下街へ。さして流行っていないパン屋で、時給は安いけれど、そんなに忙しくならないので性に合っていた。

 接客はできるだけ機械的にしている。挨拶したり、笑顔を振りまいたりして、名前を訊かれたり、仕事終わりを待ち伏せされたりするのは自業自得だから。

 そこそこ忙しかったけれど、今日のレジ締めはもう一人のバイトの山口さんの番だから気が楽だった。

 閉店作業を終え、私の仕事は一通り終わるけれど、山口さんは数字が合わないと計算機を叩いている。一応は床や机の上に現金がないか捜してみるけど見当たらず、落ちてないみたいですよ、と伝える。わかったとも、ありがとうとも返されず、ただ電卓を叩く音だけが響く。

 手持ち無沙汰になり、就業時間も過ぎてタイムカードを切ってお疲れ様でしたお先ですと店を後にした。やっぱり返答はなかった。

 地下街のお店で共用しているロッカールームに行って、スマホを確認する。と、蛍光緑のアイコンに赤丸が点灯していた。

〝バイトだよね? バケット買える?〟

 伊勢谷君からだった。

〝今日?〟

〝今日〟

〝レジ締めてたからちょっと無理かも〟

〝たのんでみて〟

 たのんでみて、と言われて、たのまないということはできない。拝むようなクマのスタンプまで送られてきて。

 私は半開きにしたロッカーにもう一度鍵をかけて、店に戻った。

〝買えたよ。でも、レジ締める寸前で、嫌がられちゃった(その前に山口さんお札を数え間違えていてイライラしてたのもあるけど)。店長が出てきてくれて、廃棄は少なくしたいからって一割引で買えたから良かった。次シフト被る時、気まずいかもだけど〟

 消しては打ち、消しては打ちを繰り返し、結局、最初の一文だけを送った。間髪入れず手の中に震えが走る。

〝待ってる〟

 電車に乗り三十分、改札を出て外気に当たり、染み入るほどの寒さにすくむ。

 びちゃ、びちゃ、と、重く湿ったつぶてがアスファルトを叩く。雪になりきらないみぞれ模様。頬がぴんと張り、視界に白い靄がかかる。

 図書館の本と講義のテキスト・ノート、そして最低限の着替えが入ったリュックは重い。バケットは潰れてしまうので胸に抱く。

 息を大きく吸い込み、潜水する心地で冬の夜に踏み込んだ。

 伊勢谷君は大学近くのアパートで一人暮らしをしている。チャイムを押すと同時に勢いよくドアが開いた。あと少し身を退くのが遅かったら、額をぶつけていたかもしれない。

「なんで濡れてんの?」

 とは、伊勢谷君の言葉だけど、私の心中でもあった。

 ココア色の髪がしっとり、いつもよりマットなチョコレート色になっている。

「うわ、雨降ってきたのか。傘持ってなかったんだ、連絡くれたら迎えに行ったのに」

 連絡をしたとして、シャワーを浴びていた伊勢谷君は気付かなかっただろうけど。言いかけた言葉を飲み込み、代わりにモッズコートを開いてバケットの包みを差し出す。

 ありがとー、無邪気に笑う伊勢谷君は、続けて無邪気に言う。蒼もシャワー浴びといでよ、と。

 リュックをお風呂場の前に置き、ポーチの中から試供品のシャンプーとトリートメントを探り出す。

 大学近くのドラッグストアは化粧品を買うと試供品を選ばせてくれる。そこで買うと荷物になってしまうけど、背に腹は代えられない。伊勢谷君に言ったなら、ボトルで買ってうちに置いておけばいいじゃんと返してくるのだろうけど、足跡を残したくなかった。

 手早くシャワーを終えると、リュックの上にメンズのトレーナーが用意されていた。ミニ丈のワンピースになるぐらい。ズボンがないと正直寒いのだけれど。

 髪を乾かして、ついでに歯も磨いて八畳のワンルームに行くと、油分を含んだ香りが充満していた。

「蒼にも食べさせたくってさ」

 ローテーブルにはビーフシチューの入った鍋と深皿、そして不揃いに切られたバケットが並んでいた。

 伊勢谷君は座って座ってとクッションを指し、ビーフシチューをよそい、私にスプーンを握らせて食べて食べてと促す。

 そうしてスプーンをお皿に沈めようとした時、待ったと制止をかけられた。

 これ、これ、最後の仕上げ忘れてた、と冷蔵庫から小さな牛乳パックのようなものを取り出して、ビーフシチューに注ぎ込む。

「生クリーム、かけるとうまいって」

「ありがとう。本格的だね」

 ちらりとパックを見やると、生クリームではなく植物性のホイップクリームだった。

 最後の仕上げはともかく、ビーフシチューは熱く、疲れた身体に染み入った。だから、わざわざ誰が作ったかなんて確認しない。ひとくち、ふたくち、ゆっくり流し込む。

 私が食べる様を嬉しそうに眺めていた伊勢谷君が、ふいに顔を近付けてきた。私はスプーンを下ろして待ち受ける。

 二、三度、キスをされる。唇が唇を食む、気をおかしくさせる柔らかさ。

 食べている途中でマナー違反だ。だのに、シチューのせいか、いつもより唾液が分泌されて、ぬるぬるする。

「あお、」

 唇を挟んだままのくぐもった発音で、でも意図するところは明確だった。お行儀悪い、でも望んでいるのは伊勢谷君――そんな免罪符をもらって舌を舌で舐める。シチューの温度はどんどん下がっているはずなのに、ひどく熱い。しょっぱいはずのシチューが甘くとろみを増していく。

 伊勢谷君は一度、顔を離した。そして、シチューをスプーンでひと匙をすくって差し出してくる。

 きっと私は唾液とシチューまみれの世界で一番だらしない顔をしている。でも、ここはハレム――禁じられた場所。本当に望むハレムはこんなんじゃないのに、今だけ都合良い解釈。グランド・オダリスクを笑えない。私は大きく口を開けて伊勢谷君を迎え入れた。

 あおはちっさくてかわいい。背も胸もお尻も、どれもボリュームの少ない私の身体を伊勢谷君はそう評する。小柄な私の上に乗って押し入って、かわいい、かわいいと繰り返す。そんな時はいつも、高校の古典でならった〝かわいい〟の語源を思い出す。

 二人でどろどろのぐずぐずになって、一緒にシャワーを浴び直して、後片付けをする。伊勢谷君は昨日も食べたからと手を付けず、バケットも半分以上残った。残りのシチューはタッパーに入れ替えて冷凍保存する。

 そうしてくたくたになって、二人でベッドに潜り込み、伊勢谷君は私を抱きかかえたまま寝落ちた。

 小一時間ほどして、彼の腕から抜け出す。意識のない腕は重い。ベッドから降りてしゃがみ込み、横たわる背中を眺める。掛け布団を剥いでそのラインを露わにさせた。山の稜線みたいだな、と眺める。伊勢谷山脈、そんなフレーズが浮かんで、ふふっとなる。

 彼の背中が好きだった。もちろん、顔も良いけど一番は背中だ。あの背中が、今、目の前にある。

 びちゃっ、びちゃっ、びちゃっ。

 冬の雨がベランダを打つ。昇降口で蛍光色の傘を差し出された日も、こんな天気だった。

 進路相談で担任に呼び出されたものの、前の子が大幅に押して、終わった時にはけっこうな降りになっていた。

 電車通学なので、駅まで傘なしで濡れ鼠になるわけにもいかない。いつも一緒に下校する帰宅部の子たちは言伝も書き置きもなしに消えていた。担任と前の子を恨めしく思ったけれど、彼らが私のことをちっとも気に掛けていないのもわかっていた。

 湿った、重い、暗い空を見上げる――と、ぱっと。唐突に蛍光色が視界を覆った。

 目立つから存在は知っていた。でも、クラスが違っていて接点はない。差し出された派手な色の傘に二重に驚く私に、彼はいいからいいからとその柄を握らせ、冬の雨へと駆け出した。私はその背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 我ながら、ちょろい、とは思うけれど。

 伊勢谷君は三年前よりずっと格好良くなっている。想像に描いた通りに。

 と、大きなくしゃみが響いて山脈に地揺れが走り、私は彼の背中側に潜りながら布団を掛け直した。

 ……あお? という声に、トイレ借りてたと告げ、身体を密着させる。伊勢谷君は子どもみたいに、うん、と返してくる。

「……ドイツ語のノートさ」

「ごめん、まだできてなくて、明日なら」

「貸しくれたよ、椎名」

 ありがと、そう背中越しに伝わる言葉にすぐには反応できなかった。

「で、怒られた。もっと蒼にやさしくしてやれ、って……」

 図書館で別れた後、しーちゃんは伊勢谷君にノートを貸した。

 伊勢谷君はしーちゃんに怒られた。

 私は伊勢谷君にビーフシチューをふるまわれた。

 胸のうちで事実を列挙する。

 昇降口で伊勢谷君の背中を見送った時と同じくらいに鼓動が速くなる中、その背に顔を伏せて染み込ませるように言う。

「……じゃあ、しーちゃんにはお礼しないと」

 うん、くぐもった声がする。

「しーちゃん、綺麗で向上心があって友達思いで、大好き」

 間があって、うん、とぼやけた相槌が続いた。

「……でも、椎名は、俺のこと、きらいかも」

「そんなことないよ。好きな二人が仲良くしてくれると、私もうれしい」

 今度はいつまで経っても相槌が打たれない。それきり会話は朝まで途切れた。

 

 ミルクティーの人から話し掛けられたのは、ビーフシチューをふるまわれた一週間後のことだった。一限の講義が終わり、二限は空き。図書館へ本を返却しに行く途中で。

「伊勢谷君と付き合ってるの?」

 初めて人から訊かれた。しーちゃん以外には言っていない。まだ周囲に知られるのは先延ばしにしたかった。どうしてわかったのだろうと思い、はたとする。

 先週と同じく、昨日バイト後に伊勢谷君の家に泊まって、今着ているトレーナーも同じく借り物だから。下着の替えは備えていたけれど、夏服ならともかく冬服までは持ち合わせてなかったのだ(スキニーパンツは二日目だけど、寒い季節だから大丈夫だろう)。

 否定か肯定か迷う。

 ふんわりミルクティーの人は怒っているような、泣き出しそうな目で私を見ていて。

「……本当なら、諦めるから」

 彼女は本気で伊勢谷君が好きなのだ。本命がいるなら身を引く。そんな外見も心もきよらかな子。

 反射的に、ちがうよと言い掛けて。

「付き合ってるの、伊勢谷君とあなたの友達」


 美男美女が一緒にいたなら、第三者は二人が付き合っていると考える。ごく自然に。私は、寄り添って一冊の本の覗き込む二人の後ろ背を眺めた。

 垣間見えるしーちゃんの横顔は、眉が吊り上がったり、目を細めたり、赤くなったりと忙しい。

 伊勢谷君の表情は見えないけれど、にこにこ楽しそうにしているのだと思う。

 あおー、こっちこっちー、伊勢谷君が大きく手を振って呼んでくる。私は三つの湯呑みを載せたお盆を持って慎重に歩く。

 私としーちゃんの三限が休講となり、元々三限が空きの伊勢谷君と二号館の前で出くわし、一緒にお昼を食べることになった。しーちゃんは躊躇っていたけど、半ば強引に。取り巻きの子たちは、ここ数日姿を消している。

 時間に余裕があったので、混み合った時間を避けて、三限が始まる頃に学食を訪れた。

 赤魚の煮付け定食二つと大盛りカツカレーが各々の前に置かれている。私は煮付け定食で、他のメニューに比べて割高だったけど、しーちゃんが頼んだので同じにしたのだった。伊勢谷君は大盛りカツカレーにセルフサービスとなっていた激辛スパイスを振りかける。漂ってくる匂いがもう辛い。

 ドラマやバイトや教授の癖とか、なんでもない話をしながら食事を始めた。その流れで、二人で何を読んでいたのと尋ねた。

大学うちの資格ガイド。椎名がなんか取っとけっていうから」

「いや、フツー取るでしょ」

 私も伊勢谷君もしーちゃんの言うところのフツーの規範から外れていた。

「今からでも取っておいた方がいいって。三年の春からなら卒業までに十分間に合うし、就活にも有利だろうし」

「もう就職考えてんだ、しっかりしてるなー」

 伊勢谷君の感心の声に、しーちゃんはこれだからボンボンはと、息を吐く。

 多分、伊勢谷君が私と同じ高校出身だというのに独り暮らしをしていることを指しているのだろうけど。

「両親離婚して、通える範囲の公立狙っただけで、先のこと全然考えてなかったや」

 本当に今日の友達は表情が豊かで見飽きない。今度は口を半開きにして呆けたまま。

「なのに、ばあちゃんの介護のために一緒に暮らしてた母親が田舎行くことになって、マンション引き払って、せっかく受かったのにあんま意味なくなってさ」

 ごめ、と、しーちゃんが言い終わらないうちに、伊勢谷君は訊く。

「椎名は、就職どんなん考えてるの」

「……出版とか、マスコミとか」

「すごいなー。俺は将来とか全然考えてなくて、でも」

 カレーがたっぷりかかったカツをスプーンに乗せ、

「好きな人に好きなことさせてやりたいと思ってる」

 そうして頬張り、伊勢谷君は得も言われぬ幸せそうな表情をした。

 しーちゃんは赤魚をほぐす手を止めたまま。

 私は場をつなぐようにどうでもいいことを話しかける。

「……辛くない、それ」

「旨いよ、蒼も食う?」

「無理だよ、辛いの苦手だもん」

 そういえば、と私はさらりと切り出す。

「担々麺美味しかった?」

 大学の近くに有名な担々麺のお店がある。県外からも客が来る人気店のわりにリーズナブルでM大生御用達だった。一度だけ、私も伊勢谷君に連れられて入ったけれど、辛いというよりも苦かった。デザートの黒い器で冷やし固められた杏仁豆腐は美味しかったけど。

 ふんわりミルクティーの人は、向かい合って担々麺を啜る美男美女を見たと言っていた。

 それはノートのお礼。辛いものが苦手な私と一緒では入れないお店を選んだ。ただそれだけ。伊勢谷君は美味かったーと笑い、しーちゃんは無言のまま。

 赤魚をつつきながら――しーちゃんみたく綺麗に骨をとれない――、私は提案する。二人で辛いもの部を作ったらと。

「私じゃ付き合えないから、ふたりで食べてきたらいいよ」

 まじ椎名よろしくー、杏仁豆腐買ってきてねー。はしゃぐ私たちを前に、え、え、え、とたじろぐしーちゃんはなんだかとてもかわいかった。

 

 レジ締めで千円合わなかった。

 何度もお札と小銭を数え直して周囲に現金が落ちていないか確かめる私を横目に、山口さんはお先ですと帰っていった。

 こっそり自分の財布から千円足してしまおうかと思ったけれど、馬鹿馬鹿しくてやめた。

 そうして正直に店長に申告して、過不足始末書を書く覚悟を決めたというのに。

「今日はいいよ。蒼ちゃんいつも一所懸命だから」

 店長は笑って、私の頭をぽんぽん叩く。

 山口さんは名字にさん付けなのに、私は名前で呼ぶ。店長にとってそれは特別扱いで、レジ締めの過不足も含めて店長なりの優しさのようだった。

 結局、誤差の千円をどうするのか聞かされないままタイムカードを切った。

 午後九時半、このターミナル駅はわりに混む。疲れた顔の会社勤めらしき人の姿が多く、その中に学生がポツポツと混じっていた。その時の私は、どちらかと言えば、勤め人の気分に近かったと思う。

 早く帰りたかった。シャワーを浴びたい。布団にくるまりたい。それからあの山脈を眺めたかった。

 人波に乗って五番線に向かう。ホームまで上がって、間違いに気付いた。明日は一限がない。だから伊勢谷君からの誘いもなく自宅に戻るつもりだったのに、あやうく反対方向の電車に乗るところだった。

 一瞬、迷った。このまま押しかけてしまおうかと。でも、もし、他の誰かが来ていたら。

 点字ブロックまで踏み出しかけた足を止めて、大学行きの電車を見送る。階段を降りて、自宅最寄り駅へと続く十二番線へと走った。

 途中、スマホで時間を確かめようとしたのがいけなかった。スーツの男性にぶつかる。スマホを取り落とし、あっと言って屈み込んだところ、舌打ちと共にリュックを押された。子どもみたいにうつ伏せに倒れてしまい、びっくりした。我に返って、手から離れたスマホの行方を捜す。一メートルぐらい先に落ちていて、手を這い伸ばして回収した。

 膝をついて立ち上がり、通路の脇に寄って、振り返る。

 私を気にしているふうな人は誰もおらず、人波は続く。合間はあっても途切れない。

 ふいに図書館で読んだ海獣図鑑を思い出す。ぬるりつるりとした海坊主。波間に浮かぶオットセイたちと背広姿が被る。だったら、この中のどれだけが『悲しみの丘』の住人なのか、そんなことを考えて。

 構内に電車発着のアナウンスが流れる。私は階段を駆け上がった。

 

 あの学食の日以来、伊勢谷君としーちゃんと私は一緒に行動することが増えた。

 三人で後期の試験勉強とレポート作成に励み、学食でごはんを食べ、生協でお菓子を買い食いした。大体、伊勢谷君がとぼけて、しーちゃんがつっかかり、私がフォローする、そんな布陣。

 しーちゃんがつっかかる内容はささいなことだ。寝癖直しなさいよとか、カノジョを通路側に座らせたとか、いかにも安物なノベルティのペンでレポート書くのどうなの、内容安っぽくならないの、とか。

 喧嘩しながらも(といってもしーちゃんの一方的なお小言だけど)伊勢谷君としーちゃんは辛いもの部の活動をして、お土産に杏仁豆腐とマンゴープリンを買ってきてくれた。

 各々のバイト先に他の二人で社会見学しに行くこともあった。伊勢谷君は居酒屋、しーちゃんは書店、私はパン屋。

 居酒屋に客として行けば、伊勢谷君は人気者で常連女性客にひいきにされていて、なにでれでれしてるんだかとしーちゃんはぷりぷりしていた。書店でお客さんが挙げたあやふやなタイトルから本を探し出すしーちゃんは纏め髪も凜々しく、伊勢谷君と小さく拍手したら、耳まで真っ赤になって接客を続けていた。二人はパン屋にもやってきて、トングをかちかち鳴らす伊勢谷君をしーちゃんが注意していた。

 そんな二人に小さく手を振るのを店長が見ていた。友達? 訊かれて、友達と彼氏ですと答える。お似合いの二人だねえとの言葉に、私の友達と私の彼氏なので、と返す。しばらく黙り込んだ店長が、え、ええ、と呻きのような声を漏らす。

 履歴書に彼氏有無の欄は無く、バイトを始めた時はまだ付き合っていませんでした、ちなみに今日のセーターは彼セーターです――

 頭の中によどみなく流れ出てきた一文は、けれど不正解なのだろう。そもそも店長は何も問うておらず、私もそれ以上この件に触れなかった。多分、この日からだと思う。店長が私のことを山口さんと同じく、多田さんと名字で呼ぶようになったのは。

 バレンタインデーには伊勢谷君のアパートでクレープを焼いて、ホイップクリームとチョコレートシロップを挟み、チョコスプレーを振り掛けようとして袋ごと落としてフローリングとラグが一気にカラフルになってもう大変。大笑いしながら掃除した。それから伊勢谷君が女の子たちからもらってきたチョコも食べた。

 伊勢谷君の取り巻きはいなくなっていたけれど、その分、秘めたる想いを募らせている子は多いようだった。三人で行動しているからか、女の子たちはしーちゃんを友人だとみなし、自分にもワンチャンあると期待する。私を彼女だと考えている子は多分いない。

 有名ブランドやパティシエのチョコレート、手作りチョコはじゃんけんで負けた人が毒味、片端から開けて品評会をした。たまにメッセージが入っていると回し読みして添削した。あのふんわりミルクティーのチョコかもしれないと思うとドキドキした。

 最低なことをしている自覚がなかったわけじゃない。途中からお酒も飲んでいた。チョコレートやクレープに全然合わないのに、でも、やめられない。

 だって、アパートの一室には私たちだけ。淫蕩、愛欲の限りを尽くしたとしても誰にも咎められない、禁じられた秘密の部屋――ハレム。


 転機は思ったよりも早く訪れた。

 春休みも後半に入った三月半ば。授業がないということは当然一限もなく、でも珍しく集中講義を取っていたから、久しぶりに伊勢谷君のアパートに泊めてもらうことにした。実のところ、すっかり忘れていてバイトの中番終わりに慌てて連絡したのだ。

 私が泊まるのは一限のある前日で、それ以外は極力避けていた。突然のお願いに伊勢谷君は驚いていたけれど、嬉しそうでもあった。

 あともう少しで雨が降りそうなところを滑り込みセーフでアパートに辿り着く。

 急だったから夕飯の食材はなく、食べに行こうかと提案されたけど、なんだかバイトがしんどくて、もう外に出たくなくて、ピザを頼むことにした。大学生にとってデリバリーピザは割高なのに、バイト代出たから俺が出すよと伊勢谷君はやっぱり嬉しそうというかテンション高めだった。

 ピザのパイナップルはギリセーフだけど酢豚は俺的にアウト、でもパイナップル似合うよ、じゃあ次はパイナップル色に染めようか、ダボっとしたアロハ着たら完璧、冬は革ジャンだな等々くだらない話をしながらネットで注文をして、シャワーを借りて、着替えも借りて、ネトフリでドラマの続きを観て、伊勢谷君は通路途中の狭いシンクでレタスを千切っていた。ピンポンの音に、あお、たのむーと叫ばれて伊勢谷君の携帯を持ってペタペタ素足で玄関へ向かう。

 ドアノブに手を掛けた時、備え付けの下駄箱に置かれていたカレンダーが目に入り気付かされた。今日が三月十四日ということに。

 ああ、だから伊勢谷君は嬉しそうだったんだ、ピザをとる気になったんだ、なのに栄養偏るからってサラダ作るんだ、じゃあ、ドアの向こうにいるのは。

 可能性に気付きながら、疲れ切ってブレーキが甘くなった身体の動きは止まらない。 

 もしかしたら、私が来る前にやりとりがあったのかもしれない。

 ──ホワイトデー、ちゃんと準備したの?──デートしたかったけどバイトロングだって──じゃあぼっちなわけ、さびしー──

 きっと、こんなノリ、涙のスタンプも押されたはず。でなければ、アポなしで、一人で、来るはずない。しっかり者なのは臆病者の裏返し。

 ドアを開けると雨が香った。アパートの通路の照明に、少し濡れたのかきらきらビーズ玉で飾ったみたいに髪が光っている。声を発する前に、正面に立ったその人の赤いネイルが施された手から布包みが落ちた。

 多分、実家がなくなって家庭の味に飢えている単身大学生への差し入れ。煮物とか、卵焼きとか、もしかしたら、辛い物も入っているかもしれない。

「支払いできた?」

 固まったままの私の背に厚い胸板が当たり、腕が回され、頭の上に顎が乗せられて。

「……椎名?」

 お子様二人で碌なもの食べてないでしょう、作ってやってきたのよ、感謝なさい──ずるい人ならそんなふうに取り繕えたはずなのに。

 最初は笑おうとしたみたいだった。でも、口の端が震えて開くことも閉じることもできない、宙ぶらりんな形に歪む。羞恥、混乱、後悔が入り混じった複雑な表情。

 綺麗で向上心があって友達思い──そんな彼女の底から浮き上がってきた顔に背中がぞわりとした。後ろから抱きすくめられているにも関わらず。

 ごめんなさい、しーちゃんは一言だけ呟いてトレンチコートの裾を翻して駆け出した。

 伊勢谷君の腕から力が抜けて、だらりと垂らされ、やたらすうすう感じた。ぶかぶかのトレーナーを着ているから余計に風通し良い。

「あ、傘……」

 玄関正面の手すり壁に赤い傘が掛けてあった。ぽたぽた伝い落ちる雫がコンクリートを濡らしていて、持ち主の心情を表わしている──なんて使い古された表現で、でも、それはきっとふさわしいからこそ。

 振り仰げば、伊勢谷君はアパートの手すり壁のその向こう、細い針が降ってくるみたいな空を見つめていた。一呼吸置いてこちらの視線に気付き、奥歯が痛いみたいな顔をする。ココア色の髪と相まって、拾った棒を取り上げられた犬にも似て。

 伊勢谷君は玄関におきっぱなしのクロックスに大きな足を滑り込ませると、手すり壁に掛けられた傘を掴んで駆け出した。

 銀の針があとからあとから降ってくる中、無言でその背を見送る。いつか見た、雨の日と同じに。

 蛍光色の傘を差し出されたあの日、伊勢谷君が駆けて行った先には、学年一美人との呼び声高い女子がいた。待っている子がいたから、惜し気もなく差し出した。彼女が持っていた傘を広げ、二人が身を寄せ合って歩き去るのを、高三の私はずっとずっと見つめていた。

 

 ひとり取り残された部屋で、やるべきことは決まっていた。

 しーちゃんが玄関に落とした包みを回収して、中身が零れていないか確かめ、玄関脇に置いた。布包みには、一緒にラッピングされた長方形の小箱が包まれていて、ちょっといいボールペンとかかな、と想像した。

 それから部屋中に掃除機とコロコロをかけて髪の毛一筋も残さず綺麗にして(ラグの間からチョコスプレーを発見して笑った)、放置されたレタスはサラダを作って冷蔵庫に入れる。食器を洗ってシンクも磨く。お風呂場も掃除する。洗面所のタオルの棚で某ブランドのロゴが入った小箱を見つけて、伊勢谷君としーちゃんの類似点を見つけてまた笑った。

 途中、ピンポンが鳴って、もう帰ってきたと慌てふためいたら、今度こそピザの配達だった。伊勢谷君のスマホで支払って、さて、これはどうしよう。持ち帰るにはかさばっている。ウェルカムドリンクならぬウェルカムピザとして、ローテーブルの上に置いておくことにした。なるべく痕跡を残したくなかったけど。

 二十分ちょっとで掃除を済ませて、伊勢谷君のスマホはすぐに見つけられるよう玄関に立て、忘れ物がないか指さし確認して部屋を出た。鍵はナンバー式郵便受けの蓋に貼り付けられた封筒に入れておく。

 アパートから出て、傘が無いのに気付いたけれど取りに戻るのは面倒だった。幸い小降りになってきていて、モッズコートのフードを被って踏み出す。

 今から電車の待ちも含めて二時間弱もかけて自宅に戻るのは面倒だったけど、足取りは軽く、一仕事終えた心地だった。

 歩きながら伊勢谷君の背中を反芻する。ついさっきのと、三年前の、そして伊勢谷山脈。

 思うのは、やっぱり伊勢谷君の背中が好きだということ。ずっと眺めていたい、失くしたくない、時には触れたい。だからこそ。

 駅は閑散としていた。ターミナル駅からの下り列車からはどっと人が下りてくるけれど、平日午後八時過ぎの上り列車はがらんどう。春の雨に外灯が輪光を描いているのがさみしげだった。

 発着まで時間があったので、ベンチに座り、リュックから本を二冊取り出す。自分の本としーちゃんから借りっぱなしになっている本。

 猫背ぎみに本が濡れないように俯き、まずはしーちゃんの本をぱらぱらめくる。

 違う大陸の、違う肌の色の、私と違って賢く努力家の、でも、同じ女の子というくくりの物語。短い話なのですぐに読み終わったけど少し息苦しくなった。彼女は今後も頑張り続けるのだろう。私は伊勢谷君と同じ大学に入るために努力はしたけれど、それはご褒美あるいは頑張り続けないための頑張りで、頑張り続けなきゃいけない頑張りはとてもできない。彼女にとって私は責められる対象かもしれない。

 途中で閉じて、もう一冊をめくる。こっちは図書館で借りてから、手元に置きたくなって購入したものだった。

 フードを被ったまましばらく読み耽っていると、足元の自分の影に、ほかの影が染み込んできた。

「あお、」

 顔を上げれば、伊勢谷君は息を切らしていた。冷たく湿度の高い空気に白い吐息を撒き散らし、上着も羽織らず、でもクロックスからスポーツシューズに履き替えて。ということはと自分のスマホを確認すれば、消音モードのそれに何件も着信が入っていた。

「しーちゃんは?」

「見つけた。傘渡して、話しして……駅まで送り届けた。アパート戻ったら、蒼がいなくなってたから、走ってきた」

 行き違いにならなくて良かったとの呟きを遮り、

「話って、どんな」

 尋ねる。少し、詰問みたいな口調だったかもしれない。

「ごめんって謝った」

 なんで、と反射的に立ち上がり、腕を掴む。拍子に本が落ちた、でも拾っていられなかった。

 さして強い力を入れたわけじゃない。でも伊勢谷君は痛そうな顔をする。さらに腕に力がこもった。どうして、どうして、ごめんなんて──

「他の女の子が寄ってくるのに口出ししないって言ったよね──」

「椎名はいいやつだからっ」

 初めて伊勢谷君に怒鳴られた。

 そのことに、私以上にショックを受けたみたいに伊勢谷君が私の腕を振り払った自分の腕を抑えている。

「……でも、俺の彼女は蒼だから、騙したくなかった」

「騙すって」

 口にすれば、思った以上に不穏な響きだった。だます。でも、伊勢谷君は私の咎め立てを無視して、

「俺は蒼が好きだよ、好きだから蒼に好かれる努力はする、蒼がもてる男が好きって言っていたから他の子が寄ってきても相手をしてきた、そういう約束だったから。でも椎名は駄目だ」

 自分の言いたいことだけを白い息と一緒に捲し立てる。

「蒼はわざと椎名と俺をふたりきりにするよう仕向けたよな。そんなの、友だちなのにおかしいだろ」

 一度言葉を切って伊勢谷君は私を見る。多分、回答を待っているのだろうけど、私は答えなかった。おかしいなんて思わない。でもそう返したところで、伊勢谷君が納得するとも思えなかったから。

 口を開こうとしない私に溜息交じりに訊いてくる。椎名に恨みでもあった?──その発想に驚く。

「逆だよ。言ったでしょ、しーちゃん、綺麗で向上心があって友達思いで大好きって。しーちゃんに好かれるって凄いことなんだよ」

 伊勢谷君は痛いのを我慢するような顔をする。

「蒼は、俺をステータスとしか見てないんだ」

 俺は高校の時から好きだったのに、それは告白というよりも自嘲だった。

 初耳だった。もしかしてあの蛍光色の傘には思いの丈が込められていたのだろうか。

 でも、良かった。傘を差し出されたあの時に告白されたとしても、断っていたと思う。私が伊勢谷君を初めて意識したのはその数十秒後、学年一の美人と相合傘をしていたあの背中だから。あの子とあの相合傘が教えてくれた。学生服やスーツの波間の中からはきっと自分で見つけられない。

「……私だって前から好きだったよ」

 伊勢谷君は苦笑するだけで全然信じていないふうだった。蒼が何考えてんのかわからない、こんなに斜に構えた伊勢谷君は今までになかった。

 ステータス、否定はできない。でも、好きという感情まで疑わないでほしい。

 伊勢谷君はわかっていない。屈んだ拍子にリュックを押されたりしない、ことわりもなく頭をポンポンされたりしない、同性にだってお疲れ様を無視されたりしない、私は──

「ハレムのメスになりたいの」

 光と轟音を引き連れ、特急列車が伊勢谷君の後ろを走り去る。

 完全に静寂が戻ってから、伊勢谷君は怪訝なふうに、なんて、と聞き返してきた。

「アシカとかオットセイとかゾウアザラシの鰭脚類って一夫多妻制なんだよ。強いオスが何十匹のメスを独占するハーレムを作るの。戦いに負けたオスは『悲しみの丘』でひっそり暮らす。中には紛れこんで交尾しようとする負けオスもいるらしいけど、基本、メスは強くて優れたオスの子を産む、そういうシステム」

 詳しくはこの本に載ってる。落ちていた本──ハンディ型海獣図鑑を拾い上げて突き出す。けれど伊勢谷君は受け取ろうとせず、ぽかんとしていた。

 行き場のなくなった本を胸に抱いて言う。

「私は伊勢谷君のハレムの一員になりたいの。変な人に引っ掛かりたくない、でも変な人かどうかって付き合ってみないとわからないし、逃げられないかもしれない。その点、高校の時から知ってる伊勢谷君なら間違いない。私みたいにとろくて、ちっさいと、すぐいいようにされるんだよ。でもハレムの中なら守られるし、しーちゃんがいてくれたなら、私だってしーちゃん並みとまでいえなくてもそのちょっと下ぐらいにはなれる、みんな一緒にいられる、みんな幸せになれる」

 しーちゃんも、ミルクティーの人も、黒髪ボブも、茶髪ウェーブも、みんな一緒。一緒に支え合えたなら。

「……おかしいって。俺が好きなのは蒼だけなのに」

 伊勢谷君は呻く。

「私だって伊勢谷君が好きだよ。男の人なら伊勢谷君が一番好き。でも、ひとりじゃ吊り合えない」

 ひとりじゃ吊り合えないのがどっちなのかは黙っておいた。嘘は言いたくなかったから。

 伊勢谷君は泣かなかった。でも、泣くより悲痛な表情だったかもしれない。冷たい雨に打たれたココア色の犬がそうであるように。

「伊勢谷君だけじゃなく、私も我慢することがあるよ」

 伊勢谷君へともう一歩踏み込む。私とは三十センチ近く差がある身長。それに見合った大きな足底、手の平、胴回りの厚さ。本気で怒られたら、私なんか軽くふっとぶ。

「ハレムの島や岩場はね、すごく臭いんだって。何十、何百頭と集まった群れの糞尿で」

 伊勢谷君は、ごほっとひとつ咳込んで、立ってられないというようにしゃがみ込む。そうして湿った犬の目で私を見上げ、おもしれーおんな、と呟いた。〈了〉


【参考文献】

・ハレム: 女官と宦官たちの世界 (新潮選書)/小笠原 弘幸

・男も女もみんなフェミニストでなきゃ/チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

・海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること/田島 木綿子

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ハレムの雌雄 坂水 @sakamizu

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