第49話


「プライド、だったのかなぁ。とにかくうつ病と知ったら家族に心配をかけるのもだんだん怖くなって。俺は三百万をおろして置いて、なにも言わずに家を出ることにした。家のローンが気がかりだったけれど置き手紙をしたように、絶対治して帰ってくると誓って」

「いつ帰ってくるのかわからないから困っていたよ」

「すまない。二年で帰ってくるつもりだったんだ。でも予定どおりにはいかなかった」

「どうやって治すつもりだったの」


母さんが訊ねる。


「スマホから色々調べて、俺は寺に駆け込んだ。その直前に携帯を解約したんだ」

「寺ぁ?」


俺と母さんは二人で同時にピッタリと声をあげた。


「あるんだよ。うつ病のための駆け込み寺みたいな寺がいくつか。三年はそこで厄介になった」


「病院には行っていなかったの」


「心療内科は薬を出すだけの対処療法だ。薬の副作用がうつを悪化させる場合もある。頼っても意味がないんだ。だから根本的治療を目的に、寺をあたってみたんだよ」


まぁお寺も、静かな環境に身をおけるのかもしれない。


「俺の他にも何人か重いうつ病で悩んでいる人がいて。寺は厳しいと聞いていたけれど、俺が世話になったところでは、僧侶は優しく接してくれたよ。最初の一年は、もう起き上がることさえままならなくて、なにを言われても体が酷く重たくて、横になるしかできなかったけれど、二年目くらいから、少し起き上がれるようになって精神統一のために座禅を始めた」


「座禅でよくなるものなの」


俺は訊ねる。


「僧侶が傍で見守っていてくれる。最初は足が痺れて上手くいかなかったけれど、三ヶ月、半年と続けていくうちにできるようになっていった。座禅というのは自己問答の世界でもあるんだ。そして、慣れていくと嫌なこと、辛かったこと、今辛いことを客観的に見つめられるようになる。感情を切り離して、苦しい自分を俯瞰できるようになってくる。最初は色々な感情が沸き起こって辛いんだけど、続けていくと、流していけるようにもなる。最長五時間、座禅を組んでいたこともあったな。悟りの境地には到底達することなど無理だったけれどね」


「五時間・・・・・・」


「食事の決まり事と朝晩の決められたスケジュールはあったけれど、修行僧ではないからわりと自由がきいた。寺で心配なことはほとんどなかった。誰も傷つくことを言わないし、困ったら助けてくれる。どうしても心が辛いときは、寺の僧侶が話を聞いてくれたし、うつ病の人同士で話し合って辛いことを話し合ったり聞いたりしていた。そうしていくうちに心も上向きになって、三年が経った頃には随分とよくなっていたよ。それでもまだ、完全な寛解には至らなかった。うつがよくなって寺から出て行く人たちもいたけれど、俺はどうしようか悩んでいた。そんなとき、寺で知り合った人が実家で農業をやっていると聞いて、手伝わないかと誘われたんだ」


「農業なら都会じゃないよね? どこへ行っていたの」


「長野だよ。俺は頷いてついて行った。寺から出て、長野へ行ったとき本当に久しぶりに感じられた。空気のおいしさや、空の綺麗さを。感動したよ。それで、二年ほど農作業を手伝っていた。野菜を作っていたよ。ちゃんと給料も頂けて、部屋もあてがって貰えた。そうして時には座禅を組みながら自然に触れているうちに、みるみるよくなっていったんだ。もうなにも苦しくなかったし、朝早く起きて夜は早く寝られる。そんな健康的な生活も身についた。完全によくなるまで五年もかかってしまったけれど、こうして元気になって帰ってこられたっていうわけさ」


話し終えると沈黙が続いた。俺たちも俺たちで大変だったけれど、父さんも治すために頑張ってきたのだろう。そう考えると、なにを言っていいかわからなくなったのだ。


「治ってよかった・・・・・・お疲れ様」


母さんが沈黙を破った。目尻に涙を溜めている。


「またここで家族三人、やり直させて貰ってもいいかな」

「もちろんよ」


母さんは即答する。黙ったままの俺を父さんは見つめる。まぁ、俺も高校生だし、大人になろう。


「いいよ。当たり前だろ。言いたいことはたくさんあるけどね」

「恨みがあるならなんでも聞いてやる」

「本当にいなくなったあと大変だったんだぞ。母さんと二人で。母さん泣かせるなよ」


父さんは頭を掻いた。


「すまない、すまない。でももう、再就職先は決まっているんだ。農作業を手伝っていたご実家の知り合いの口利きでこのご時世に、大手に入れることになった。社長と知り合いだったらしくて。もちろん書類選考が通って筆記試験や面接は受けたけれど、受かったよ。ボーナスも出るし、給料もいい。福利厚生もしっかりしているし定時に帰れる。来週から働きに出るよ」


会社名を訊ねると、本当に大手の一流企業だった。これは本当に運がよかったとしか言いようがない。大手でもブラック企業というのはあるらしいが。


「だからもうなにも心配しなくていい。みゆきもパートに戻りたいなら戻っていいし、専業主婦でもいい。前の企業に勤めていたときの貯金もまだ実はあるから。それから陸」


父さんは俺の顔をまじまじと見た。


「進路、困っているだろう。高校辞めて働こうとか考えたこともあるんじゃないか」


見通されている。流石にこの辺は父親だな、と思う。


「あるよ。ちょっとだけね。母さんに止められたけど」

「だってこの子、学年トップで中学卒業して、トップで高校合格したのよ。答辞読むのを辞退しちゃったけど」


言って母さんはいきなり俺の頭を撫で回した。やめろと言ってもきかない。


「なに、そうなのか」

「中学の時なんか全教科百点よ。もう自慢したくなっちゃう」

「そうかぁ、俺のいない間にそんなことが。陸が百点取っている姿、見たかったなぁ。頭がいいなんて知らなかった」

「見なくていいよ、そんなの。それに頭もそれほどよくない」

「なにか将来、やりたいことはあるのか」


以前調べた製薬会社のことを思い出した。


「ぼんやりとしか考えてないけど、製薬会社で働けたらなって」

「なら、大学も行きたかったら行かせてやる」


言われて、俺の目も潤みそうになる。できれば研究職希望だ。


「いいの? お金かかるよ。大学院にも行くことになるかもしれないし」

「構わない。そこはもう悩むな。経済面で悩まなくていい」


悩むなと言われても貧乏性が身に染みている。


でも、少なくとも大学へ行かせて貰えるのだ。ならやっぱり国立を受けよう。


「ありがとう・・・・・・」


俺は初めて、父親のありがたさを知った。最初は苛立ちを隠せなかったけれど、こうして帰ってきて話し合いをしてみると、やはり父親はしっかりしている。


ご飯を食べ終え、片づけて三人分のお茶を淹れると、俺はまた座った。


「でもさ、問題は母さんなんだよ。今の会社にいれば、いずれ父さんと同じ道を辿るよ。心身壊しちゃう」

「俺も同意見だ。昨日今日の帰りを見て、そう思った」


母さんは緩く微笑む。


「うん。本当はもう、限界。限界なの」


そうして顔を覆って泣き始める。本当は私も辛かった。やはり上司が理不尽で、仕事が終わってもなにかと仕事を持ってきてなかなか帰らせてくれなかった、と漏らした。会社では嫌がらせもかなり受けていたらしい。倒れたあと会社に行くと、嫌味をたらたら言われたそうだ。俺は溜息をついた。弁当のことで陰口を言われていると知らされていたけど嫌がらせを受けていたことなんて一度も母さんは言わなかった。


いつも元気で、気丈に振る舞っていた。俺に心配をかけたくなかったからだろう。相当無理をしてきたのだ。


「もう辞めよう。そんな会社。いいだろ? 父さん」

「ああ。辞めろ」


母さんは涙を拭くと、笑顔で頷く。


「そうね。すぐにでも退職願を出すわ。辞めるのは一ヶ月後とかになりそうだけど」

「そうしたらしばらくゆっくりするといい。今まで本当によく頑張った」


でも、と母さんは言う。


「私、なんの家事能力もなくて。この前包丁で指切ったとこ、実は化膿しちゃって」

「見せろぉ!」


俺は半ば叫ぶように言った。母さんは左手を見せる。すると、左中指と親指が緑色に膿んでいた。あああ、俺も学校生活の楽しさとバイトに気を取られて今まで気づかなかった。


「痛いだろ? こんな状態で、会社でパソコン打っていたの?」

「うん。始業前に消毒とテーピングしていたけど」

「今までなにやってたんだ。土曜日の午前中、病院やっているから診て貰いに行きなよ」

「化膿に気づいたのは一昨日なのよ」

「どこまで鈍感なんだよ・・・・・・」


俺は頭を抱えた。


「病院へ行くわ。でも本当に料理も裁縫もできなくて。家にいたら罪悪感が湧くかも」


父さんは懐かしそうに笑った。


「みゆきは本当、そうだったな。家事をすると傷が絶えない。こちらもいつもひやひやして見ていたもんさ。ただ父さんも料理は下手でなぁ」


「お掃除なら得意なんだけど・・・・・・」


「ああ、わかったわかった」

 

俺はテーブルに両手をついた。蓮には料理を教えて貰っている。次は揚げ春巻、その次は唐揚げでもリクエストしてみようか。


俺の中でのレパートリーもどんどん増えていっているし、料理の世界には正解というものがないことがわかりつつある。レシピ本を見てもそのとおりに作るのではなく、アレンジも自由にできるのだ。


最近それを理解してきたところだ。だから色々な料理が作れる。それに、母さんに料理を任せてはいられない。下手すれば怪我だけじゃなくこの家が燃えかねない。


「なにがわかったの」


母さんはきょとんとした顔で訊ねる。


蓮の言葉を思い出し、俺は笑った。


「これからは俺が二人の胃袋支えてやんよ」


                               「了」 

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胃袋支えてやんよ 明(めい) @uminosora

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