第48話


学校が終わってバイトに向かい、今日もレジをこなしていく。奥村さんはまだ来ていないけれど、火傷が少しずつよくなってきているらしい。


修学旅行の費用を貯めなくては、という気持ちはまだどこかにある。父さんが帰ってきたところでこれから先、なにがあるのかわからないのだ。


「タイムセール始まります。タイムセール! この機会に是非お立ち寄りください!」


七時を過ぎて、店長が大声を出し始めた。この大声にも最近慣れてきている。


けれど相変わらず、自分との戦い、そして戦場だ。


閉店時には汗をかいていた。季節柄か、それとも今日は集中力を研ぎ澄ませて

いたのか。


思いのほか、ミスなく終えられてほっとしていた。新しく入ったバイトの人もレジを行っていたから、二人体制で落ち着いてできたのかもしれない。


「お疲れ様」 


相模店長が売り上げを数えにレジまでやって来る。


「お疲れ様でした」


タイムカードを押しに行くと、俺は廃棄品を見る。三木さんと吉村さんは手早く食べたいものを取っていた。新人のバイトも、持って帰っていいと言われてゆっくり見ている。


そうだ。父さんが帰ってきたから多めに持って帰らないと。


「今日は少し多めでもいいですか」


一応断っておくことにした。


「いいよ」


丼が半端に残っている。親子丼ひとつに、カツ丼二つ、中華丼二つ。三個頂き、白いフードパックに入ったレンコンのサラダ、好きなので春雨サラダを持って帰ることにした。


家の近くまで来ると、家に明かりがついているのが見える。俺はなんとなく安堵して、玄関を開ける。


「お帰り。こんな時間までバイトだったんだな」


ああ。家に電気がついていてお帰りと言ってくれる人がいるのが、こんなにも心安まるものだったなんて。「ただいま」と言うと、手を洗ってすぐに簡単な調理に取りかかる。


キャベツを千切りにし、サラダを皿に盛った。キャベツの千切りは、上手くできるようになっていた。


「へえ、バイト先から持って帰ってきたのか?」 


父さんは興味深そうに見ていた。


「そうだよ。まかないが貰えるところを選んでバイトを始めたら、廃棄品まで貰えるようになって。食費を切り詰めていたから」


言うと父さんは申し訳なさそうな顔をする。言い方に棘があっただろうか。


少しして、母さんが帰ってきた。十時半た。


「誰になにを言われようと早く切り上げてきたわ」

「俺も今帰ってきたところだよ。丼、貰ってきたからみんなで食べよう」


そう言って父さんに目をやる。父さんはうん、と頷く。


三人で食卓を囲った。三人で選び、父さんはカツ丼、母さんは中華丼、俺は親子丼になった。三人で食べるのは五年ぶりだ。改めてみると、父さんの身長は今の俺より高いはずなのに、なんだかとても小さく見える。


「二人とも、これまで世話をかけた。すまなかった」


改まって、父さんは姿勢を正す。


「病気だったんだろ」


言うと、父さんは驚いたような顔をする。母さんは全く気づかなかったようで、えっ、という表情をしていた。


「よく気づいていたな」

「いや、高校生になってここ最近、ごく簡単な推察をしただけ。なんの病でどうして出て行ったのかまでは知らないよ」

「病気だったの? 今は平気なの?」


母さんが酷く心配した様子で父さんを見つめた。


「今はものすごくよくなったよ」


父さんは微笑み、カツを食べた。俺も母さんも、続いて食べて父が話すのを待つ。


「ちょうど五年前、陸が小五の五月だったな。俺はあの時仕事を辞めた。父さんもブラック企業に勤めていた・・・・・・というより、三十代後半の時に部署異動があってブラックになったんだ。給料はそこそこよくて残業代こそ出たものの、部長が変わってから帰りはいつも終電、終電が終わっても明け方まで仕事をさせられているときもあった。仕事量が三倍になった。毎日寝不足のまま理不尽な部長の言いなりになって、もうなんか、毎日怒鳴られて洗脳されていたな。この会社を辞めたら生きていけない、家族を養っていけないと」


小五の時の午前零時なんてもう寝ていたから、父の会社事情のことは当時はなにも知らなかった。のんきに寝ていた俺も俺だけど。


母さんを見る。


「そうね。毎日遅くて体壊さないかって心配していたわ」

「みゆきは寝ていてもいいのにといっても夜遅くまで待っていてくれたな」


父さんは懐かしそうに一点を見つめ、そうして息をつく。


「あるとき、同僚が辞めたんだ。会社を辞めても生きていけると言って。だから俺もそれに倣って辞めてみた。辞めたあともみゆきたちには仕事をし続けているふりをしていた。それで一人で昼間カフェなんかに入っていると、だんだん死にたくなってくるんだ。会社を辞めて自由の身になれたというのに、心は常に虚ろで、死ぬことしか考えられないようになっていた。多分、長年にわたる上司の罵倒雑言と仕事量に、心身を蝕んでいたのだと思う。体が鉛のように重くて、思考も黒々としていたんだ。ビジネスホテルで一日中寝ていたよ。それで夜、元気なふりをして帰ってきた」


「そういえば、帰りが早くなったとき、あったわね。あの時もう仕事やめていたの」

 

父さんはこくり、と頷いた。


「今から思えばあの部長はパワハラってやつだったんだと思うけれど・・・・・・とにかく心が麻痺して、なにも感じられなくなっていた。料理のおいしさも、空の青さも、景色の美しさも。暗いトンネルの中に閉じ込められたみたいな閉塞感が毎日あった」


俺は親子丼を食べながら、ふと思い出した。小学生の中学年になってから、両親と食卓を囲ったことがないことに。三ヶ月に一回くらいは三人で一緒にご飯を食べていたと思うけれど、小五の時はもう、父さんに声をかけ辛くなっていた。子供にとっては近寄りがたい雰囲気を醸し出していたのだ。


「だけど家族の前で元気そうなふりをしているのも、個人的に限界が来た。これはまずいと思って心療内科に行ったんだ。そうしたら、うつ病と診断されたよ」


うん。想像はついていた。だが、母さんは声をあげた。


「うつ病? それで家族に相談もなく家を出たの?」

「会社を辞めて家に金も入れず、一日寝ていられるのも迷惑だろうと思ってな」


母さんは首を振った。


「そんなことない。そんなことなかったわ。ちゃんと話してくれれば、私はあなたのサポートをしたわよ。なにも言わずに出て行かれるほうがよほど迷惑だったわ」


父さんは自分をあざ笑うかのような顔をした。


「相談しなかったのは悪かったと思っている。でもあの時はそういう心理状態になってしまったんだ。家族の目が怖かったというのもあるかな。特に、幼い陸に、虚ろで日がな一日寝ている父親の姿を見られたくなかった。死にたいと思いながら陸と接するのは気が引けた」


「そんなプライドへし折れよ」


だが確かに今ならともかく小学生の時の俺ならば、そんな父親を怖がったかもしれない。仮に布団から出てこられず一日寝ている父を、事情を知らなければ内心で軽蔑した可能性もあった。理解できれば俺だって少しはなにか手伝えたかもしれない。 


でも、うつってどうやって治すんだ? それがわからなければ、サポートのしようもないか。

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