第8話 大団円
「それって、ジキルとハイド的な感じの、もう一人の自分なんだろうか?」
と聞くと、
「似て非なる者という言葉があるけど、実際には逆なのよ。ジキルとハイドのように、お互いを意識しあっていて、あの話をドッペルゲンガーと結びつけるのは確かに無理がある。もう一人の自分が存在しているとしても、それは、性格的にはまったく違うもので、見た目も違っていて、同一人物だと、誰も思わない。ただ、同じ時間には存在できず、一つの身体を共有していることであり、それを二重人格という言葉で表現するしかなかったんでしょうね。でも、それがドッペルゲンガーと同じではないという証明にはならない。それをあなたが証明してくれるような気がしたの」
と彼女はいう。
「君の場合はどうなんだい? 10分前お女とは、同じ人間だと思えるのかい?」
と聞くと、
「私には同じ人間にしか見えない。それも、考え方が同じのね。つまりは、表に出してはいけないものが何なのかというのを考えるのが私で、同じことを考えているんだけど、何を出せばいいのかということを重視している冷静な私とがいる場合、私には、彼女の加算法な考え方、そして冷静になれるだけ、自分に自信を持っているというもう一人の自分が羨ましい限りなのよ」
というのだ。
「どういうことなんだい?」
と、聴かずにはおられない。
「これは、もう一人のあなたから教えられたことなんだけど、10分前の私は、実に冷静だというの、だけど、もう一人の私、つまり、この私に対して、ものすごい執着心のようなものがあって、それが怒りの元なのかどうか分からないんだけど、同じ人間なのにって私が思っていると、今度は彼女が、同じ人間だから、余計に許せないところがあるのよと言っているような気がして、考えてはみるんだけど、結局、その答えは分からない。彼女が何を言いたのかも分からない」
ということをいう、
「そんなもう一人の君の存在を教えてくれたのが、もう一人の僕だということだね? じゃあ、君はもう一人の僕を知っているということになる」
というと、
「ええ、そうよ。私はよく知っている。だけど、それと同時に、あなたも、もう一人の私をご存じなんじゃないかしら? それは、あなたの意識の中で、もう一人の自分という存在が、私だけではないということに気づき始めているでしょう? 私だけでもあなたとだけでもない。ひょっとすると、この世の人間、すべてに言えることではないかってね。その発想はパラレルワールドに近いものなのかも知れない。同じ次元で同じ時間に、人間は存在しえないという理屈で、問題は、本当に同じ時間に存在しえないのか? ということであって、存在そのものではないのよ」
と、彼女はいうのだった。
どうも二重人格であったり、ドッペルゲンガーのようなものは、人の数だけ、どちらかが潜んでいるのではないだろうか?
そこには、パラレルワールドのようなものが存在し、それだけではダメで、そこを行き来する、トンネルのようなものが必要ではないか。
そういえば、躁鬱になった人の話を聞いた時、
「鬱状態から躁状態に変わる時、長かったトンネルを抜けるような気がするんだ。だけど、躁状態から鬱に変わる時には、トンネルが見えてくるわけではない。そこがいつも不思議だと思っていたんだよな」
と、言っていたのを思い出した。
「出る時の意識はあるけど、入った意識がないというのは、何となく分かる気がするな。自分にとって都合がいいように見えるということなのかも知れないな」
ということであった。
パラレルワールドを考えた時、その間を行き来するものとして、想像すれば、どうしても、井戸のようなものが頭に浮かんでくる。
「それは、ワームホールと頭の中で混乱していないか?」
と言われることだろう。
「ワームホールというと、タイムトンネルのようなイメージのもので、よくあるのが、森の中に井戸があって、そこが、未来に繋がっていたり、過去に繋がっていたりするよね? 過去から未来にタイムスリップする時って、過去にはその井戸があるんだけど、未来のどこに飛び出すかという絵があまりないような気がするのは、気のせいだろうか?」
と考える。
つまり、ワームホールというのは、
「未来と過去を結ぶタイムトンネル」
だと言ってもいいだろう。
タイムマシンの開発に、タイムパラドックスの発想があり、難しいという話が多いのに、このワームホールという考え方は、矛盾している。
「ワームホールにおいて、未来の出口がないのは、その矛盾への挑戦ではないか?」
とも、考えている。
その証拠として、ワームホールというものは、
「その中自体が四次元のようになっていて、もし、他の人がその場所を通っても、決してぶつからないように、ワームホールの都合で、その大きさを変幻自在に変えることができるのではないか?」
と言えるような気がするのだ。
しかも、行った先のイメージをテレビに写さないというのは、現在における、出口が想像できないからだというのか、それとも敢えて魅せずに、無限の可能性として、見ている人間に想像させるという発想からきているのではないだろうか?
無限の可能性という意味では、行った先を見せないというよりも、時系列でいけば、いくら出発点が、未来であっても、原点は過去にあるのだ。それを思うと、未来だけを見せないというのは、時系列で広がりが未来にあるということを示しているのではないだろうか?
つまり、パラレルワールドのパラレルということばの意味は、
「未来に広がる、無限の可能性」
ということではないのだろうか?
ということは、彼女に、10分前と10分後がいるということは、ある意味、
「ビフォーアフター」
というイメージがあるのではないだろうか?
たまたま、ビフォーとアフターが同じ人間であり、世間一般にとって同じ時間を基準に考えているから、二人は出会わないと思っているわけで、二人がこの10分の間に違う時間帯で出会うということは、逆にいうと、
「二人の間で、10分という時間は、自由自在になる時間であり、本来であれば、都合のいい時間のはずなのだが、どちらかが、そのことを分かっていないことで、まったく噛み合わない時間帯となり、ただ、遭遇しないだけが、唯一のいいことではないのだろうか?」
と考えられるのだった。
彼女たちは、10分という間で暗躍することになるのだが、他の人たちにとっての、
「もう一人の自分はどこにいるのだろう?」
やっぱり、違う時間に存在していることで、絶対に会わないので、
「そんな人間は存在しているわけがない」
ということになり、理解できないことになるのだろうか?
そんなことを考えていると、岡崎は、急に、
「もう一人の自分の存在」
を意識するようになってしまった。
彼女に話を聞いてみると、岡崎の、
「もう一人の自分」
というのは、見た目はクールで、最初はその魅力に惹かれるのだが、途中から怖くなって、抜けようとしても、抜けられなくなるようなパターンが多いという。
だから、いかに、どこで抜けるかというのが問題であり、本来なら、女の方がそういう能力を有している場合が多いという。
しかし、最近では、ホストクラブのキャストのように、
「女を騙すテクニック」
のようなものを有しているので、男にも、
「訓練さえすれば、習得できるもの」
だと言えるのではないだろうか?
だが、問題はタイミングであって、どんなに抜けることができない相手でも、その人がその力を発揮できるようになるまでに抜けてしまえば、問題のないことであった。
そして、今までほとんどのパターンで抜けてこられたので、事なきを得てきたもだが、もし、一人でも引っかかってしまうと、彼の存在が、もう一人の自分に分かってしまうことになる。
お互いに、知らなかった相手を知ることになるわけで、
「もっと知りたい」
と貪欲に感じるようになると、この思いが好奇心となって、膨らんでくる。
もう一人の自分の存在を知るということはそういうことであり、あくまでも、ドッペルゲンガーとは違うものだ。
ドッペルゲンガーも、もう一人の自分であるが、この場合は、
「お互いに相手の存在を知ってしまってはいけない」
というパターンなのだ。
お互いの個性がぶつかり合って、それぞれの存在を打ち消してしまう。まるで、自分の身体を尻尾から食べようとするヘビのようではないか。
「最後にはどうなるというのか?」
最後には大きな矛盾が潜んでいることで、すべての矛盾が明らかになってしまう。
タイムパラドックスにおける、
「ビックバン」
のようではないか。
「もう一人の自分」
の存在というのが、一つのパターンではなく、二重人格、つまりは、
「ジキルとハイド系」
のような話であったり、
ドッペルゲンガーのような、
「似て非なるものではない、本当の自分」
であったりするのだろう。
では、彼女のような、
「10分の間の自分」
はどっちに属するのであろうか?
岡崎が考えるのは、
「ドッペルゲンガーに近いものだ」
と考えている。
同じ人間をそれぞれが相手にしていて、その違いを分かっている。それは、肉体が、それぞれにあって、精神もそれぞれについているということなのであろう。
では、岡崎自身はどうなのだろう?
彼女がドッペルゲンガーであるならば、自分もドッペルゲンガーなのだろうか?
いや、彼女の話を聞く限り、自分とは似ても似つかぬタイプであり、同じ人間として考えるなら、ギリギリの遠い距離に位置しているような感じなのではないかというではないか。
となると、
「ジキルとハイド系」
の二重人格なのではないかと考えるのだ。
もう一人の岡崎の冷静沈着さは、10分前と10分後の女の両方に平等なプレッシャーを与えているようだ、
ある意味、もう一人の岡崎の存在が、ドッペルゲンガーを何とか、表に出さないようにして、抑え込んでいるようである。
「あの人くらいの睨みがないと、きっと、私たちはお互いの都合で、考えるようになってしまって、収拾がつかなくなるかも知れない」
と言っている。
「どういうことなんだい?」
「私たちは、別の時間にいるというだけで、結局性格も似ているのよ。だから、二人が会ってしまうと、必ず、どちらかだけが生き残ろうとして、収拾がつかなくなると私は思うのよね? お互いに生き残れるということを考えようとしない。それが大きな問題なんじゃないかって考えるのよ」
というではないか。
「要するに、ドッペルゲンガーであろうが、ジキルとハイドであろうが、世の中には必ず対になる人が絶対に存在している。そのどちらのパターンなのかは分からないけど、それぞれのどちらかで存在しているんでしょうね」
「じゃあ、それを選ぶのは神様ということ?」
「いえ、私はそうじゃないと思うの。その選択権は、前世の自分にあるんじゃないかしら? 前世でも同じように、葛藤があって、生き残った人が、その世の中に君臨する。生まれ変わって次のよでも、また別人として生まれ変わっているわけだから、それが、ドッペルゲンガーなのか、ジキルとハイドなのか分からない。ただ一つ言えることとすれば、生まれ変わったのって、時系列通りでなければいけないわけじゃないの。たとえば、大東亜戦争で戦死した人が、生まれ変わった時、未来である必要はない。ひょっとすると、織田信長の家臣になっているのかも知れない。
だから、記憶がないのであって、万が一にも記憶が戻ってくれば、一時的なデジャブを感じたりするのではないだろうか?
だから、生まれ変わりに、
「時代をまたぐ」
ということをするわけなので、タイムマシンなどという余計なものを作るというのは、おかしい。
「タイムパラドックスがどうして考えられたのかというと、生まれ変わりやドッペルゲンガーと、ジキルとハイドのような関係のスパイラルが、いかにらせん状に綺麗になっているのかということを考えさせられてしまう」
と言えるのではないだろうか?
岡崎の少年時代が、うまく噛み合わなかったのは、そんなもう一人の自分の存在を、中途半端に知っていて、意識をしようと考えたからではないだろうか?
それを思うと、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死ぬと言われているが、次元の相違という発想から、本当は、もうその時にはこの世の人間ではないのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
( 完 )
もう一人の自分の正体 森本 晃次 @kakku
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