ビルの屋上は銀河
ナナシマイ
*
銀河について語る人というのはたいていすぐにいなくなる。
「ビルの屋上ってさ、銀河なんだよ」
ロマンだよね、とけぶる息を吐き出すユカもそうだ。今どきっぽい雰囲気であけすけな女らしさを醸す彼女ならそう口にはするまいと考えて、ただの同僚から友だちへ認識を変えたばかりだったのだけど。まさかだった。あなたも
その日の残業が確定した終業時間、「ちょっと休憩しよ」と言ってわたしの手を引いたユカはエレベーターに乗り込んで迷わずRボタンを押した。その指先を彩る幾何学模様に「ネイル、変えたんだね」と動く口の素早さが勝り、行先階がおかしいと気づいたのは「屋上階です」と無味無臭のアナウンスが聞こえてからだ。
今となっては意味を問うこともできないけれど、たぶんそのとき、ユカは淡く微笑んでいたと思う。
「階段からの扉は鍵がかかってるけど、こっちは開いてるんだなー」
証拠隠滅、と言いながらエレベーターを降りる前に適当な階のボタンを押すユカ。わたしたちの屋上侵入を目撃した箱がなに食わぬ顔で下がっていく。
ぎぎゃ、と古びた金属音を立てながら扉が開く。
外は空気のこもる小さなエレベーターホールよりよほど涼しい。それでも夜の始まりに冷却が間に合わなかった風がのほほんとぬるく吹いていて、その緩さに変な気分がした。
連れ出されるとき慌てて引っ掴んだペットボトルのコーヒーも、ぬるい。この手のコーヒーはぬるいと不味い。だけどこれは「休憩」だから、口を湿らせる程度に飲んでおく。わかっていたけれど美味しくない。
「煙草、いい?」
「どーぞ」
ユカは外見に似合わずヘビースモーカーである。外見に似合わず、というのは昨今の社会情勢や価値観にそぐわない表現だとは思う。でも、紺色のシンプルなテーパードパンツに白いブラウスをインしてベルトを締めるような、よくも悪くも普通の女なのだ。そんな彼女を少しだけ特別に見せる幾何学模様の爪が、ネイティブ・アメリカンの描かれた黒い箱に触れている。何度見ても意外な感じがする。
そして「ビルの屋上は銀河だ」発言。
そのときの自分がどんな顔をしていたのか、見えなくてもわかる。だってそのあとに起こることなんて決まりきっているから。科学的じゃない? なんとでも言うがいい。わたしの中では科学より科学的なのだ。
「吸っててもさ、変とか意外とか、言わないよね」
主語はないけれど、たぶんわたしのことを言っているのだろう。特に隠しておく理由もないので本心をバラす。
「意外とは思ってるよ」
「うん。でも、言わなかった。あたしが今聞いちゃったけど」
ふう、とわざとらしく頬を膨らませながら吐き出された息は、ビル街の淡い夜に不自然なほど白い。その不自然さを独特な苦みのある匂いで打ち消している。喫煙者の街への馴染みかたは変だ。違う意味だし、こっちの本心は言わなくてもいいだろう。
「この煙はミルキーウェイって感じがするでしょ。で、ネオンサインを散らしてる」
ふはっと思わず笑ってしまったわたしの息は透明で、たぶんちょっと湿っぽい。だってこのひと、もうすぐいなくなるんだから。
「俗な銀河だね」
「たしかに。でもこういう低俗っぽいのが逆にロマンだよね、逆に」
「うん、まあ」
もっと言いようはあったのかもしれないけれど、ユカが「銀河」と口にした瞬間からわたしの引力は行方不明になっていた。
有り体に言えば、諦めてしまったのだ。
家族はいないし、もう友だち以上な知人も作らないようにしている。これまでわたしと誰かを繋いでいた線はみんな銀河にかっ攫われていった。
彗星みたく宇宙をふらつくわたしは星座の一画を担えない。だけど太陽系からは離れられない。我々の銀河系からだって、当然。
ああ本当にいやだ。銀河が引力してる。
ねえ、そこの人。ほんと、銀河ってロマンだと思いません?
ビルの屋上は銀河 ナナシマイ @nanashimai
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