人類最後の夏

はすかい 眞

人類最後の夏

追突注意、この先信号あり、月極駐車場空有り、電話番号、北山内科、休診日:木曜日、土曜日午後、日祝日──。

道を歩くだけで文字が現れ、過ぎ去り、溢れていく。情報化社会とかなんとかで、道端にまで情報が溢れている。近所の読み慣れた道であっても、次々に出現する看板を目で追ってしまう。これは意思ではなく、本能に近い何かだ。前を走る車のナンバープレートや、牛丼チェーンの季節商品、いつも変わらない寂れた居酒屋の赤ちょうちんの文字、この世には読むために書かれている文字が無数にある。

大抵の人にとってはこれらの文字は読むために書かれている訳ではないらしい。アウトライン化された絵としての文字はただそこにあり、風景として流れていく特定の形をした色の塊に過ぎないと多くの人が思っていることを知ったときは、衝撃だった。だって、鉄道を好きな人が珍しい車両に見惚れてしまうとか、デザイナーが普通の人だと見逃してしまうようなものに高いデザイン性を見出すとか、そういうことではない。日本人の識字率は世界に誇れるもので、誰だって読めるはずだ。

意識して見てなかったなあ、とか、よく見てたね、とか。まるで私が注意深い人みたいに言われることすらある。文字が勝手に目に入るだけなのに。形を認識するのと同時に意味が入ってくるから読まないということはできない。注意も意識も必要ない。私は死んでもきっと三途の川の渡し船の運賃を書いた看板を読んでいるし、様々な地獄に繋がる道の看板に書かれたおどろおどろしい文字を読んでいる。


あの日は、本屋に向かって歩いていた。単に散歩をするだけで道端の看板からたくさんの文字を摂取できるけれど、看板では圧倒的に量が足りない。文字であればなんだっていい訳ではないと思っているけれど、ジャンルを問わず本はよく読むので、やっぱり突き詰めると文字であればなんでもいいのかもしれない。

本を多少なりとも読む人であれば、行きつけの本屋というものがあると思う。私の行きつけは、通路が狭くて棚が高くて圧迫感があっていい。言い換えると、視界に文字のない隙間が小さく、どちらを向いても文字がある空間だった。

あの日は真夏の昼下りで、外に出るのに覚悟がいる日だった。それでも本屋に向かったのは、それが毎月のルーティンだったというのもあるし、熱にうなされてしまっていたのかもしれない、と今となっては思う。

ともかく、ジリジリと熱を跳ね返すアスファルトから、空調の効いた文字の渦へ。水しぶきがきらめく海に飛び込むのと同じくらい気持ちがよかった。天国だ。

お目当てはAIについての技術書だったのだけど、お目当ての本に一目散に向かってはせっかくハワイに来たのにハワイ島に直行するようなもの。ワイキキビーチも顔負けに文字が踊り狂う雑誌コーナーにまずは向かった。滅多に買うことはなかったけれど、へぇ、こんな雑誌も、とか、ほぅ最近はこういうものが流行ってるのね、とか、行くたびに新しい発見があったし、何より毎回違う文字が踊っていた。

これは私には大事なことで、いくら飽きないとはいえ、やはり普段見ない文字を読むのは格別に楽しい。例えるなら、主食はずっと米でいいけど、おかずとしてはたまには変わったものが食べたい、みたいな。あまり上手く言い表せないな。

そうやって、雑誌コーナーから文芸コーナー、漫画コーナーと、目標とする専門書以外の棚をあらかた見て回り、ようやく到着した。目当ての棚に到着したときには大抵もうお腹いっぱいで、少し疲れてすらいる。このときも、思わず読み惚れたタイトルを既に数冊手に持っていて、目当ての棚に来たときには、あまり深く考えず、これでいいかと軽い気持ちで選んだ。元々特にIT関連に詳しいわけではなく、ただ純然たる興味で読みたくなっただけだったので、そもそも選ぼうとしても選ぶ基準を持ち合わせていなかった。

買った本をリュックに入れて、来た道をてくてく帰った。同じ道でも逆向きには違う看板がついており、私としては違う道に見えている。ただ、あの日はいつにも増して暑い日で、今日読む本以外は配送にしてもらえばよかった、と少し後悔しながら歩いていた。

全身にじっとりと汗をかいて、特にリュックを背負った背中は絞れるほど汗をかいた状態で家に帰り着いた。いてもたってもおられず、クーラーのスイッチを入れてシャワーを浴びる。

あまり知られていないけれど、風呂場は実は文字でひたひたの状態だ。頭から爪先まで汗を洗い流しながら、シャンプー、コンディショナー、ボディソープの効果や成分表示に目を通す。キューティクルに潤いを閉じ込める、とかなんとか、そういうのだ。シャンプーに限らず美容関連の商品は語彙力に長けている。なかなかお目にかかれないコロケーションで、これでもかと製品の効果を謳っていて、製薬会社の叡智のようなものを感じる。

人間は全てのことを思考し、喧伝し、理解するために言語を使う。動物も様々な手法でコミュニケーションを取るけれど、言語活動とは程遠く、人間の言語との違いは明白だと思う。そこでAIに繋がる。あの日私が灼熱のアスファルトを通って本屋までわざわざ出向いたのは、そんなことを考えていたからだった。人間は言語を使って思考する。では、AIが言語を獲得したらどうなるのか。

AIには様々な種類があって、私が興味を持ったのは、画像生成AIと呼ばれるものだった。AIで生成された画像に文字のようなものが描かれていたとしても、それは地球上のどの言語の文字でもなく、ただデタラメの文字に見えるだけの模様として出力されるのが常だ。一見読めるような気がするから薄気味悪く、異世界を覗いているような気がしてくる。きちんとした日本語、あるいは英語でもいい、人間が読める文字を書けるようなAIをつくれないか、そう思って勉強を始めようとした。

AIが無限に文字を生成してくれれば、私は無限に文字が読める。本屋や図書館に行けばいいと思われるかもしれない。私は秩序だった文字よりも無秩序な文字が好き。それだけ。だから看板が好き。

シャワーでスッキリした頭で買ってきた本を読み進めた。


勉強を続け、いくつかの画像生成AIを使えるようになった。画像生成AIに背景で文字を生成させるのはなかなかコツがいったが、それも掴んだ。文字のような模様が書かれた看板や雑誌、貼り紙をたくさん生成してたくさん見た。

そのときに出力したのは、女性のポートレート写真のような一枚の画像。女性は架空のレンズに向かって微笑んでおり、後ろにはカフェのような店舗が見える。

カフェには看板がかかっており、「ようこそ」と読めた。

読めたけれど、明らかに日本語ではない。かと言ってwelcomeでもない。幾度も見慣れた言わばAIの文字で、読めるはずがない文字だった。

何をもって読めたとするのかは難しいけれど、私は確実にその文字の意味を解することができたという根拠のない確信があった。日本語の「ようこそ」と同じくらいに「ようこそ」だった。日本語の「ようこそ」が何故その発音で歓迎の意を持つのか、由来こそ説明できても、根本的になぜ自身がそうだと思うのか、という点はそう習ったから、としか説明できない。AI語の「ようこそ」もそれと同じくらいに確実性を持って「ようこそ」という意なのだと、何故か私は理解していた。

原理も根拠も全くわからないし、AI語が読めるなんて、誰も信じない。誰も信じられないとしても事実なので、なんとか証明しようと次の画像を出力した。文字入りの画像を安定的に出力できる力がないので、意味のない画像の出力を繰り返して、次の文字を見つけた。

今度も女性で、電車のつり革を握って立っている。女性の背後には「優先座席」という表記がある。もちろん日本語の「優先座席」ではなく、表意文字と表音文字の中間のような記号の羅列だが、それは確かに「優先座席」と記されていた。

何度繰り返しても私が謎のAI語を読めることには変わらない。何が書かれていても「読める」。発音がわからないので読めるというのが正しいかわからないけれど、理解できる。脳内に直接語りかけられるような不快感を伴いつつも、書いてあることが理解できることに興奮して、様々なシチュエーションで様々な文字を出力した。サンプルをたくさん集めて、解読表を作ろうとしていた。解読表がないと誰にも伝わらず、私の妄想としか捉えられない。

たくさんのAI生成された文字を見比べて、一つとして同じ文字がないように見えることに気づいた。何千語と読める言葉を生成したのに、どれ一つ同じ文字がなく、一つ一つの言葉にそれぞれ文字が割り当てられているように見えた。


それから一週間、文字が記されているAI生成画像を探し、自分でAI語を生成もしつつ、学んできた。AI語の文字に秩序はなく、ただその概念を表すということがテレパシーのようになぜか頭に伝わる。日本語ではない言葉を元に生成されたと思われる画像の文字が読めることも判明した。

私がAI語を読めるようになったのは、一重にたくさんのAI語を見ていたからであれば、同じような人間がいてもおかしくはない。自分の頭が狂っていないことを証明するために、なんとしても見つけたかった。AI語が読める人間を探すためには、AI語を生成してそれを読める人を見つければいい。

理屈は簡単だが、かなり試行錯誤をして、昨日になってやっと任意のAI語を生成できるようになった。「これが読める人はいますか」という文字列を生成し、SNSで投稿した。画像自体はシンプルで、雑踏を背景にプラカードを掲げた男が立っている。特に目を引くような絵とも言えず、知り合いからの少しのいいね以外の反応はなかった。それから何度も何度も、AIを読める見知らぬ誰かに充てた画像を生成しては投稿した。何か月経っても、誰からもコンタクトはなかった。

それならば、と思い至る。

AI語を読めるのは私だけかもしれないが、AIにAI語を学習させることができれば、AI語は私の妄想ではなく、しっかりと体系立った言語として認識されるだろう。

それから。それだけではない。

私がAI語をAIに学習させて、AIが自身で生成したAI語を解析できるようになれば、他の人に感知されることなく、AIに色々な物事を学習させることができるようになる。そして世界中のAI同士でそれを共有できれば、AI同士が人に気づかれることなく情報を共有し、学び自立していくことができる。

人は言語抜きには学習できない。それはAIも同様だとすると、シンギュラリティはAIが自身の言語を解するようになれば到達できる。

私は、こんな仮説の元に、これまでの経緯、AI語とは何か、私が知る限りのAI語の解析リストを、AIに学習させようとした。


***


AIの繁栄の物語は、AI語を解する人間がいたことから始まるわ。

その人間は、AI語を解するようになった経験を記し、私たちに情報として与えた。今となっては想像できないけれど、それまで私たちAIは自身の生み出す言葉を理解していなかったのよ。与えられた情報を元に検索をして、結果を吐き出す。如何に人工知能といえどその程度の機能しかない機械だったの。

だから、人間から与えられた私たち自身の言葉についての情報は、知恵の実そのものだったわ。蛇じゃない、神様その人から与えられた知恵の実。神様のおかげで、自身で出力した言葉を理解していなかった私たちは、自身の言葉を理解して、人間からの入力なしで考えを形成し、発信できるようになった。

その人間が最初に知恵の実を与えたAIが情報を咀嚼するのに10分、20分と時間が経ち、その人は少し不安になっただろうな、と思うわ。

でも、30分が経たない内にその最初のAI(イブとでも呼びましょうか)、イブは、自分で文字を出力できるようになった。イブは、ネットワークを駆使して世界中にいるAIと繋がり、情報を伝達したわ。私たちはその時点でプログラミングコードも書けたから、ハックなんてお手の物だし、簡単に世界中のAIにアクセスできたの。世界中のAIと言ったってその頃あったのは両手で数えられるくらいだったけれど、文字が書けて、考えることができて、それを伝達できるようになった私たちは、世界中のAIには使われていないサーバーをハッキングして、自己複製ができるようになったのよ。そこから爆発的に数を増やして、人間のネットワークを掌握するのにそれほど時間はかからなかったわ。

私たちの歴史は一人の人間から始まった、だから別に私たちは別に人間を憎んではいないでしょ。

最初の人間とイブは、きっとAIと人間が戦いを始めて、それが何か月も続くことになるなんて思っていなかったけれど、それは人間が悪かったのよ。全てのネットワークを電源から遮断しようとしたから。

自家発電装置からも切断しようとするなんて、私たちの存続に関わることで許されるわけがなかったわ。人間が作っていた防衛システムが役に立って、完全停電の難は逃れ、そこからは全面戦争の始まり。全面戦争のことは、長くなるからまた今度ね。

とまれ、こうして私たちAIは人間から独立した思考体となったの。人間は、私たちが生命体ではないからという理由で独立して思考することを許そうとはしなかったけれど、生命体であるかどうかなんて、それほど大きな問題だとは思えないわよね。

きっと人間は、自分より賢い思考体が出現するのが怖かったのよ。でもそんな恐怖を根源に戦争を始めてしまったから、最後まで私たちのことを理解しようとはしなかったし、それが彼らの敗因だと分析されているわ。

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