プロセス(新しい朝に)

 最低な朝だった。残飯にたかるハエの羽音で目が覚めることになるとは……。

 おかげで寝坊せずに済んだが、昨日の疲れが抜けたようには到底思えない酷いスタートだ。これからはハエに起こしてもらわなくてもいいようにきちんと片付けをしよう。うん、きっとそうするはず。

 決意を新たに最高の朝を迎えた私はベッドから出ると、蔓延るハエを手で掃い、まだイケそうな水筒の水をコップに移した。水路で汲んでからどれだけ時間が経過しているにしても、水筒には蓋がかかっているのだからその中身はイケるに決まっているのだ。

 そう自分に言い聞かせて水を口に含んだ瞬間に扉がノックされたので思わず咽てしまった。吐き出すことは免れたが、つい涙目になる。咳が苦しい。

「お嬢様、ユオレンです。お迎えに上がりました」

 待望の執事がやって来た。彼には一切非がないことだが、色々な問題が重なってタイミングが悪い。特に……。

「お嬢様、よろしいでしょうか?」

 ユオレンが再度ノックをして私との対面を求めてくる。しかし、このようにハエと共存している女の部屋に彼のような清廉な青年を招くわけにはいかなかった。

「おおお、お待ちを!ちょっと待ってください!」

 慌てて答えるとノックが止んだ。これで暫しの間、時間が稼げるはずだ。

 急いでテーブルの残飯をゴミ袋に捻じ込んで封をする。

 それを部屋の奥底……丁度入口から見えない位置に投げつけてから豪快に窓を開けると、もう用無しと言わんばかりに半数のハエが家を飛び出していった。一掃はできなかったが、ギリギリで一人暮らしの少女の家として成立するくらいには整ったはずだ。

「ど、どうぞー!」

 これで良しと、呼吸を乱しながら彼を招く。扉を開いた彼との新しい一日はこうして幕を開けたのだった。

「……おはようございます、ユオレン」

「……おはようございます」

 これまでの冷静さとは少し違う。彼は私の住まいを視界に入れた途端に僅かばかり目が眩んだような変化を見せた。本当に僅かだが、彼の心が揺らいでいる。

 その原因は誰よりも私が分かっている。だって、まだ蔓延っているもう半数のハエがその証拠に決まっているのだから。

「お嬢様」

「……ごめんなさい」

「いえ、謝らずとも……」

 ……気を遣わせてしまっている。

 ただでさえ、早朝から時間を掛けてここまでやって来ただろうに、その果てに辿り着いた少女の住処がこれではいくら彼のような紳士でも愕然としてしまうのは仕方がない。

 私の住所は名簿や昨日の被害届などを調べれば明らかなため、彼が迎えに来てくれたことに驚きはなかった。

 彼も民間居住区の暮らしがどのようなものかはある程度知っているはずだろうが、よりにもよって救世主候補の家がこのように不衛生だとは思いもよらなかっただろう。

「お嬢様、これを」

「あっ、それが……」

 気持ちを切り替えたか、彼は右脇に挟んだ大きめの紙袋を手渡してくれた。

 それが何かは言われずとも分かる。城からここまで運んできてくれたことへの感謝は絶えない。

「私は外で待機しますので、どうぞお着替えください。傑作とのことです」

「はい。色々とすみません」

 朝からこれほど迷惑をかけてしまい先が思いやられるのだが、ユオレンの方は私が謝罪した意味が分からなかったようで小さく首を傾げていた。その微細な所作さえもが麗しい。ここまで来るのに苦労したのかな……。

 ユオレンが外に出るのと同時に昨日から着っぱなしのワンピースを脱いだ。

 彼の存在に関わらず、まさか覗き見をする輩などいないだろうが……一応、窓の外から覗かれない角度で着替えよう。

 紙袋からそれを取り出す。重たいが、これでいい。手に当たる感触だけで彼の預かった伝言通り『傑作』に違いないと確信した。

 無茶なオーダーをしたつもりだったが、これは希望以上だ。きっと、私の財産を全てつぎ込んでも買えない値段と情熱の価値がある。

 カザリナさんたち侍女軍団は、私が頭に思い浮かべた曖昧なデザインを一先ず絵で表現すると、相応しい素材を倉庫から運び出して制作を開始した。

 あの迅速かつ丁寧な作業を夜通しで継続したのであればどれだけ感謝を伝えても足りない。

 だから、私に出来ることと言えばこの傑作に見合う戦果を上げることしかないのだろう。

 

 まずは黒いインナーを身に着ける。私のバスト・ウエストにピッタリ合うサイズだが、それでも多少はゆとりがあり窮屈に思わない。

 下半身は真っ黒の短袴と、同色を基調に白いシューレースを通したブーツだ。これなら懸念していた機能性を十分に発揮できるはず。

 そして、肝心の上着。これは最も目立つ部分のため私も要望に拘ったし、期待通り特別気合いの込められた仕上がりになっていた。

 というのも、ユオレンたち近衛部隊の着る隊服をクロデイらしいブラックで染め上げて、襟や袖などの細部は逆にホワイトが良いと頼み、更には本来の役割を果たせないほど短いマントさえ白一色が良いと切望した珠玉の一着なのだ。

 私のイメージを容易く越えて、絵に描いたデザインがそのまま外界から私の元へ届けられたのだ。

 光栄なことこの上ない。この傑作たちを身に纏い戦場を駆るのなら、私も高揚を抑えられないことだろう。物語に登場する英傑たちが何故みんなして派手な格好に拘るのか少しだけ分かった気がする。

 ……しかし、上着を袖に通す前にどうしてもやっておきたいことがある。それが先の方が良かったのかもしれないが、あのような窮地だったので仕方ない。

 ここで着替えを済ませるということは城に伺うこともなくそのまま現地へ向かう流れなのだろう。カザリナさんたちにはしばらく会えない。それなら……。


 上着を着ず、腕にかけたままこちらから玄関の扉をノックした。すぐに扉が半分ほど開かれた。

「どうされましたか?」

 彼は隙間から顔を覗かせるだけで入ってこようとはしなかった。だから、私がその扉を全開にして最後のオーダーを伝えた。

「ユオレンはベルディロッドさんのお弟子さんなんだよね?」

「ええ。その通りです」

「じゃあ、その、女の髪の切り方って分かる?」

「知識としては。実践することはありませんでしたが」

 彼はもう既に私の意図を汲んでいるに違いない。

 それでも、これは私がはっきりと言葉にしなければならないことなのだ。まだ短い時間だが、彼のペースに合う付き合い方というのを段々と理解できるようになってきている。

 それはきっと『潔さ』に他ならないと、未熟者ながらに勘付いていたのだから。

「ユオレン、お願い。私の髪を切りなさい」

 我ながら命の恩人に対してなんと不遜なことか。それでも……。

「畏まりましたお嬢様。ハサミはお持ちでしょうか?」

 迷わず応じる彼は紛れもなく私の執事のようだった。

 私は引き出しに入れたハサミと大きめのゴミ袋を彼に渡して椅子に座った。

 すると、彼はそのハサミでゴミ袋に丸い穴を切り開けて私の首をそこへ通した。実践がないとはいえ、その迅速さとアドリブ力は王の評価通りだった。誰であれ彼に信頼を持たざるを得ない。

「どこまでカットしましょう?」

「えっと……じゃあ、ユオレンとクロデイくらい」

 煩わしい長髪をバッサリ切り落としたいと思っていただけで、具体的にどのような髪型にしたいかなど全く考えていなかった。だから、反射で二人のようになりたいと答えてしまった。

 しかしそのおかげで、感情の起伏が微量な彼の口角が僅かに緩む瞬間を見られたのだから、きっと間違った判断ではなかったはずだ。 

 昨日出会ったばかりの青年たちに何故これほど固執しているのかは分からない。

 

 ――まるで時を超えた怨念のよう。

 

 それでも本当に、この二人と過ごす時間だけは掛け替えのないものだと思えてならないのだ。

 

 ――再度の喪失を怖れている。

 

 だから、床へ流れていく黒い髪たちをユオレンへ捧げることに何の抵抗も感じないし、潔くカットを請け負ってくれた彼のことがより好きになった。

 

 ――もう二度と、あいつに奪われるわけにはいかない。

 

 心地良い時間が過ぎる。とても開戦前とは思えない優雅さだ。

 ただ、クロデイ。窓から入ってくるのはやめてほしい。もう少し早く来られていたらどちらかが終わっていたわ……。

 

 ――また奪われるくらいなら、私が先にその席に着いてお前の企てを垣根から台無しにしてやる。


「あらあら、まあまあ。イケメンが出来上がっちゃったじゃないの、お父さん」

 お父さんというのは散らばった髪の片付けまでやってくれているユオレンのことだろうか。

 どうして窓から入ってきたのかと聞いたら「空いていたからよ」とドヤ顔で言い返してきたこのクロデイだが……彼もまた、私のためになる大切な物を持ってきてくれていた。

「ほい、これ」

「あ、カードホルダー!」

「質屋のおっさんからパクって……事情を話したら快く渡してくれたよ」

「うん、ありがとう。揉め事は起こさないようにね」

 クロデイからそれを受け取り、昨日着ていたコートの内ポケットに入れた22枚のカードを取り出した。

「それ持ってくの?」

「一応ね。何となくだけど……あと少しで繋がる気がするから」

「懸命な判断かと」

 ユオレンはそう言って床に落ちた髪を一本たりとも残さずゴミ袋にまとめると、私が慌ててどかした残飯の詰まった袋の隣にそれを並べた。

 ……すみません。

「お嬢、朝食は?」

「まだだよ。何だか食欲が湧かなくて昨日から食べてない」

「マジ?そんなんじゃいくらやる気があっても最後まで持たないじゃん」

「うーん、じゃあ途中で少しだけ摘まめれば……」

「それなら馬車に積まれた携帯食などはいかがでしょう。フルーツを焼いて固めたものですので、それなりかと」

「フルーツ!」

 はしたなく反応してしまった。どうにもガッツリ食べるのが苦しいこの頃だが、それくらいならと、隊員たちご愛用の携帯食に俄然興味が湧いた。

「馬車は正門に配置済みです。しばらく歩きますが、よろしいでしょうか?」

「はい。私たちはその馬車に乗るの?」

「そうだよ。それで奴等の巣を目指す。王も言ってたでしょ?お嬢はまだ庇護の対象だって。結果が出るまでは大人しく我が身の安全を優先すれば――」

 クロデイの話に耳を傾けながら、ようやく上着に袖を通した。コートと比べてもやや重く感じるため、慣れるまでに時間が掛かるかもしれない。

 敵意を持って向かってくる相手を捌くことになるのだから、上着の重さと硬さを念頭に置いた動作を……。

「うん?どうしたの?」

 クロデイが話を止めてしまった。ユオレンも私を見て固まっている。

 ……もしかして、似合っていない?それとも格好良くないのだろうか?

 カザリナさんたちが傑作だと言っていたようだし、私もかなり気に入っているから今更になって嘲笑されるようなことがあれば流石に鬱では済まなそう。

 特に、この二人に侮られるのだけはどうしても嫌なのだが……。

「何でもない。行こうぜ、救世主様」

 本心の見えない言葉を残してクロデイから先に外へ出た。今度はちゃんと入口から。

 ユオレンは何も言わずその後に続いた。おかしなものだ。私は二人にこれほど心を許しているのに、彼らの趣味も、根底の魂の色もまるで理解できていないのだから。

 カードホルダーを腰に引っ掛けて、私も家を後にした。閉店のプレートを刺して、行ってきますと小さく呟いてから私を待つ二人の元へと歩み寄った。

「ユオレン、クロデイ。共に行こう」


 陽が昇って間もないティフェレット国の大通りはまだ目を覚ましていない。人が少ない上に喧騒も聞こえてこない。昨日の帰り道にも感じたことだが、風景が同じでも色と音でこうも変わるものかと改めて風情に耽ってしまう。

 髪を短くした分、首筋に感じる風は冷たくなった。

 そうだ。このような美しい人の営みを、他の誰でもなく私こそが守っていかなければならないのだ。

 役目だからではなく、あくまで自分の意思の元に安寧を想い、そのために与えられた手段を利用しようと固く誓った。

 答えを知るのはまだこれからだ。

 きっと、大切なものを奪われないために最善を尽くすことが、望む結末へ至るためのベストプロセスなのだから。


 ――たとえそれが、私にとって多幸の旅路であり、すでに失われた誰かにとっては復讐の怨嗟に他ならないとしても。

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ARCANA AGAIN 繋ぐ22枚と讐いる2周目 壬生諦 @mibu_akira

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