とんでうたえよ夏の宵

田辺すみ

とんでうたえよ夏の宵

 あの青さは輝きなのだ、太陽の光が地球の大気に囚われて悶える青。


 僕はペットボトルから水を飲んだ。表面にびっしりと水滴が浮いている。コンクリの上に置くと、蒸気が上がりそうだ。暑い。この暑いのに屋上で練習とか、どうかしている。


 県立十葉高校演劇部は、由緒正しい弱小である。部員が減り続け、6年前には遂に廃部になってしまった。有志が集まって立て直したものの、既に部室も無ければ顧問もいない、予算もかつかつで、高校演劇大会には辛うじてエントリーできるが市大会にも進めない。現在の部員は全員掛け持ちである。僕に副部長のお鉢が回ってきたのは、比較的時間が自由になる文系クラスで文化系部活との掛け持ちだからだと思われる。部室が無いので、舞台稽古でなければ専ら東校舎の2階中央踊り場か屋上で練習することになる。恥ずかしさも一回りすると、もはや十葉高校演劇部の名物みたいになってくる。


 夏休みは文化祭と秋の大会に向けての準備を進めなければならず、この暑いなか屋上での立ち練習はかなりキツい。フェンスから校庭を見下ろせばラグビー部が走り込みをしているし、野球部が練習試合をしているので、彼らにとっては慣れた暑さなのかもしれないが、ワレワレは演劇部であるからして。高井さんがいたら「高校演劇はシン・体育会系ですけど何か」って突っ込まれそうだけど。


「元気だよなあ」


 茹ったような頭で眺めていると、薄い影が隣りに立った。暑いんだから、近寄るなよ…… 僕のげんなりとした視線をものともせず、姉崎は台本をウチワ代わりに扇ぎながら、肩を竦めた。


「どっかの空き教室でいいだろ。ナカ入んないと日干しになっちゃうぞ」


 甘い。この創立140周年を迎え、築ン十年の古い校舎に冷房は無い。廊下や体育館の天井には大型扇風機が付いているが、レトロな翼を優雅に回すさまは、眠気を誘うばかりである。要するに室内も暑い。風通しを選ぶか、日差しを避けるかの二択である。しかしなんでお前がいる、姉崎。


 姉崎が演劇部の練習に参加することは稀である。テニス部と掛け持ちしていて、何かの委員をやっているらしい。全く正反対のタイプなのでよく分からない。なんで演劇部に所属しているのかが最大の謎と言いたいところだが、コレは簡単だ。前副部長の露木さんと付き合っているからである。3年が引退した今、来る意味ないだろうと思うが、悲しいかな役者の数が足りない。脚本を決めたのは僕じゃない。部長の高井さんは今日塾の集中講義があって来られない。


「小嶋、中本、イッピ、つが、ノリ、依井ちゃん、谷ちゃん、下いくよ〜」


 僕が答える前に、みんなに声をかけて階段の方へ行ってしまう。つまり、今日集まった部員はこれだけである。もういいか、と投げやりな気分になる。どうせみんな僕の指示など聞かないし、僕だって副部長の柄ではない。高井さんがパワフルなので、それに頼ってばっかりなのも悪いと思うが、性格なのでしょうがない。


「宮下、俺のクラス多分空いてるから、そっち行こう」


 小嶋が戻ってきて眠たげに言う。水泳部と掛け持ちしている小嶋も夏は忙しいはずなのだが、水泳は個人競技だから、時間ずらして練習すればいいし、とよく顔を出してくれる。いい奴だ。おーい、階段の鍵持ってるの宮下だろう、と中本が階段脇のひさしの影から手を振る。太陽はますます輝き、僕たち以外を白く塗り込めていた。


 空き教室で暫く読み合わせと衣装・大道具の進捗を確認して、今日は解散である。僕は社会科教務室の土橋先生に屋上の鍵を返して報告を済ませると、隣の社会科準備室を覗いた。埃と古い教材の匂いが熱されて、籠っている。引かれたカーテンの隙間から日が差すだけで薄暗く、何だかファンタジー小説に出てくる古城や洞窟みたいな雰囲気である。ここはかつて演劇部の部室だったのだが、になっているうちに、鉄道研究部に乗っ取られてしまった。…… 別に鉄研に悪意は無い、ただ部室が欲しいなってだけである。


 準備室角の錆びたキャビネットには、以前の先輩たちが購入した演劇用脚本が並んでいる。近年は新しいものを買う予算が無いので古い作品が多いのだが、阿部公房、寺山修司、別役実、鴻上尚史、野田秀樹、唐十郎からキャラメル・ボックスまで、普段本屋やオンラインではお目にかからないものばかりだ。誰も読まないのでは勿体ないと思う。尤も、自分たちがこれを上演できるかと言えば、自信が無い。資源と人手が足りないことを言い訳にしているけれど、要するに演じる覚悟ができないのだ。演劇というのは登場人物の人生を追体験して表現することで、それがどれだけ真実味を持って観客に迫ってくるかが、役者の力量である。と、前部長の菅野先輩も言っていた。ような気がする。すなわち他者と自己を渡る旅路。ああ、夏休みだってのに。


 何冊か借りて廊下を戻っていくと、中央踊り場の窓際で、姉崎が携帯をかけているのが見えた。他のみんなはもう掛け持ち先か家へ帰ってしまっているらしく、明るくがらんとした踊り場で姉崎のハスキーな声だけが低く響いている。お先に、とジェスチャーして階段に向かおうと思ったら、姉崎は慌てて携帯を切りこちらへ駆け寄ってきた。だから、何で来るんだよ。


「途中まで一緒だろ、連れねえなあ」


 電話いいのかよ、と露骨に迷惑感を醸して言ってやっても、ああ親から。とあっけからんとしている。遅くなるから、晩飯テキトウに済ませてくれって。兄貴が一人暮らし始めてから、良くも悪くも子供にこだわんなくなったんだよね、ウチの親。露木先輩と話していたんじゃないのか、と僕はがっかりした。がっかりした? 僕ががっかりしてどうするんだ。暫く部活で顔を会わせていない露木先輩の様子が探れないかと、思っていたのだろうか。先輩の涼やかな目元とか、風に靡く長髪とか、夏服の半袖から伸びる白い肌とか、そんなものはキレイな思い出で、実際はよくしごかれていじられていたのだが。とはいえ別にそれを姉崎相手に口にする必要も無いと思うので黙っていると、あっちはニヤリと笑った。


「宮下さ、俺のこと苦手?」


 いきなり核心をつかれて、僕は内心跳び上がる。いつも愛想が良いくせに、気付いてやがったのか。


「俺が露木先輩と付き合ってるから? 部活にそういう関係持ち込むなってこと」


 問題なのはだから、それを気にする僕の方なのだ。僕に限らず、部活内での恋愛関係をよろしくない、と考えるのは、己れのやましい嫉妬心と膨れ上がる妄想を否定したいからだ。なのだが、例によって例のごとく、一般的な男子高校生にその類の思い込みを捨て去れというのは無理な話である。それが青春の有り様と紙一重であるために。なので、姉崎にはうーん、違う。と曖昧に返しておく。苦手っていうより、僕は必要無いんだろうなって。姉崎は切長の目を瞬かせた。


「菅野先輩も露木先輩もみんな、宮下贔屓じゃん?」


 今度は僕が『え?』と聞き返す番だった。姉崎の方が交友関係も広いし、みんなと上手くコミュニケーションが取れていると思う、と言ったら、笑いを噛み殺しているような微妙な顔をされた。


「そういうところですよ、宮下くん。いやあ、純粋ピュアって言うよりチェ、」


 僕は脚本の入ったバックパックを振りかざし姉崎の背中を小突いた。どうせ彼女がいたためしなど無い。それどころか学ランのダブつくなで肩と、高井さんの本気のドス声に負けるアルトはもはやコンプレックスに近い。


「じゃあ美少年って言っとく? とにかく演劇部には宮下が欠かせないし、俺は演劇部が無くなっちゃ困る」


 高井ちゃんも役者としては凄いけど、力み過ぎるところがあるからねえ、と姉崎は肩を竦めた。まあ、そうね。僕は唸った。悪かったよ、姉崎は演劇なんか好きじゃないと思ってた。付き合いで入部してるんだと思ってた。


「大声出すとスッキリするよな。あといろいろBGM探したり他校の聞いたりするのも面白い」


 次の脚本、アラン・ウォーカーとかハマると思うんだけど、と携帯を差し出してくる。なるほど、こういう演劇の楽しみ方もあるんだな、と僕は反省したようなわくわくしたような気持ちになった。そのまま東玄関脇の西日が強い中、姉崎の音楽談義を延々と聞き、二人とも汗だくになってくる。


「あー、アイス食いたい」


 汗が前髪に滴って目に入るのを拭いながら、姉崎は呟いた。十葉高校は丘の上に建っており、コンビニは校門前から伸びる坂道をずっと降りたところである。アイス食べにいこう、宮下。と姉崎は半袖の制服シャツを肩まで捲り上げる。僕も暑さで眼鏡が曇りそうなので、頷いた。


「あれ、おっぱいのカタチしたアイス」


 僕はもう一度姉崎の長身を叩いた。暑さのせいで猫被りが溶けてしまっているんじゃないか。人好きのする優等生はどうしたのだ。


「乱暴だな、ランボーなだけに」


 『水中の百合よりもジャムよりももっと、あなたの容赦みゆるしは冷たいものでございました』、ってか。アイスかよ。失礼だな。姉崎はけらけらと笑った。ゴム風船に入ったコンデンス・ミルク味のアイスは、丘の反対側の駄菓子屋にしか売っていない。校門から出るとかなり遠回りである。校舎裏には一ヶ所だけ通用門があるが、学生には解放されておらずいつも施錠されている。校舎から住宅地へ抜ける最も近道なので、遅刻ギリギリで滑り込もうとする輩や、授業をサボって抜け出す連中が後を絶たないためだ。


 要するに、おっぱいアイスを手に入れるためには、通用門破りをしなければならないのだ。生徒指導室は校舎裏に面している。鉄製の頑丈な通用門は約1.5メートルの高さ。僕は遠慮する、と言って下駄箱に向かったが、姉崎にがしりと腕を掴まれて、引きずられてきてしまった。


「宮下あのな、ドーテーは“捨てる”と言うだろう」


 校舎の壁に張り付いて盗み見る。手入れのされていない通用門周辺は、セイタカアワダチソウが伸び放題で、日に焼けた壁にはヒビが入っている。蝉が盛んに鳴いている。僕は駄菓子屋に行って、部員全員に棒状のスナック菓子を買ってきてくれた先輩たちを思い出した。制服のスカートで、あれを登ったのか、と思うと感慨深くて鼻血が出そうである。だから暑すぎるだろ。


「思考の転換だ。ポジティブに諦めることだ」


 何が。麦穂臑刺す小径の上に、僕は別におっぱいアイスにもチェリーにも西瓜にも困っていない。


「“したい“という個人的な情動が到達されるとな、それまでの自己中心的で狭い自分に気付くわけですよ。で、今度は”してあげたい“になる」


 こうして協調的社会が築かれるんだなあ、妥協とも言うけど、と姉崎は頷く。全く分からん。分からなくていい。暑さでどっちも何かが振り切れてしまっているのだ。ステージ・ハイみたいなものである。違うか。姉崎は通用門を指差して厳かに言った。君のスポットライトはあそこにあるのだ、宮下くん。


「それ行け」

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とんでうたえよ夏の宵 田辺すみ @stanabe

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