旅の終わりの旅

サトウ・レン

旅が終わり、旅がはじまる

 星明かりに照らされて、深夜の駅のホームに一本の電車が姿を現した。終電を迎えてしまった後の、静寂に包まれた夜闇の向こうから、脈絡もなく、ふいに訪れるこの瞬間には、かけがえのない美しさがある、と俺は思っている。


 夏の終わりのすこし冷たくなった夜気が、ほおをかすめる。

 現実と幻想の境目が、俺の仕事場だ。ここに毎晩来るようになって、何年の月日が経つだろう。以前働いていた葬儀会社を辞めてから、だから、もう五、六年は経つはずだ。日中はネットカフェで働き、夜はこの海沿いにあるちいさな無人駅で働いている。働いている、と言っても、誰に言われるわけでもなく勝手にしていることなので、賃金なんて一度も貰ったことはない。だからきっとボランティアとか、そういう呼び方のほうが正しい。いや誰に望まれているわけでもないので、お節介という呼び方のほうがもっと正しいかもしれない。


「暇人だね」

 と言ったのは、出会ったばかりの頃の妻だ。


 その時はまだ彼女と結婚するなんて考えてもいなくて、彼女はただの家出少女だった。厳格な家庭に嫌気が差して逃げ込んだ先が、夜の無人駅で、その時まだ彼女は十七歳だった。俺のやっていることに興味を持った彼女は、色々と質問をしてきて、最後に「私も手伝いたい」と言ったのだ。家出少女を匿ったと思われるのも嫌なので、その時は彼女を送り返し、「親に迷惑を掛けているうちは駄目だ」と伝えた。こう言えば諦めると思ったら、彼女はその二年後、大学入学をきっかけに一人暮らしをはじめ、俺の仕事場に入り浸るようになった。妻はいま妊娠中なので、さすがにここに来ることはない。


 駅のホームに、すこしずつひとが集まってくる。

 三十人くらいだ。いつもよりちょっと多いくらいだ。高齢者がほとんどだが、中には若い男女もいる。もしかして、と思うことがあったとしても、何があったのかはあまり想像しないようにしている。みんな一言も発することなく、ゆるやかな足取りで、電車の中へと入っていく。俺は列を成した彼らの横に立ち、ひとりひとりにちいさく頭を下げる。


 声が聞こえた。本来、その場にあってはならないはずの、悲痛な叫びだ。


「行かないで。お願いだから、行かないで」

 生の息吹が混じっていた。


 子どもだ。外見から判断すると、小学校の中学年くらいだろうか。

 若い男女の手を必死で引っ張ろうとして、掴めずに、また引っ張ろうとして、を繰り返している。幼い顔からは大粒の涙がつたっている。その表情こそ、ここにいてはいけない人間の証明だ。若い男女は夫婦だろうか、そしてその手を掴もうとする少年の両親だろうか。あるいはもうすこし複雑な関係だろうか。俺に知るすべはない。分かるのは、引き止めようとする少年の必死さだけだ。


 その少年に、過去の自分自身の面影が重なる。

 俺にも、駅で彼らを見送りはじめるきっかけになった出来事がある。


 俺と祖父の、夢か現実かも分からないような出来事だ。当時、俺がまだ小学生の頃、祖父が大病を患った。祖父は声が大きく、肉体もたくましかったので、そんな祖父が病魔によって、やせ細っていく姿はもちろん悲しくはあったが、それ以上に怖かった。死んだらどうなるのだろう、俺は死んだらどうなってしまうのか、と。子どもなりに繰り返し考えても答えは出ない、堂々めぐりだ。


 そんな俺はある夜、気付くと駅のホームにいた。それまでの記憶がないまま、唐突に、放り込まれたように。見たこともない駅だ。だから夢のようではあるが、どうしても夢とは言い切れない奇妙な現実感があった。駅のホームに俺がいて、目の前には一本の電車があり、そこに乗り込む沈黙を貫くひとの列ができていた。


 列の中に、俺は祖父の姿を見つけた。

 俺は焦ってしまった。なんで焦ったのか、なんて俺にもよく分からない。ただ乗ってしまったら、もう二度と会えなくなってしまうような気がして。怖くなって、気付けば俺は叫んでいた。


「駄目だ。行くな。行くなよ。行かないでくれ」

 何度も何度も叫んでいて、静寂の中にあって、迷惑なくらいの大声だったはずなのに、列に並ぶひとは誰ひとりとして俺のほうを見なかった。もちろん祖父も例外ではない。手を掴もうとしても、触れることはできない。


 電車に乗り込もうとする祖父の足を掴もうとして、電車に入りかけた俺は、突然後ろから何者かに抱きかかえられた。その時まで、列の横に立っていた青年の存在に気付いてさえいなかった。


「ごめんな。まだきみはここに乗っちゃいけないんだ」

「だって、おじいちゃんが」

 彼は俺を地面におろすと、俺の頭を撫でて言った。


「いつかきみもここに乗る日が来る。ただきみはまだ、その時じゃない。旅の終わりの旅をする者たちだけが乗れる場所だから」

「旅の終わりの旅?」


 そう聞き返したところで、俺の幼き日に体験したこの出来事の記憶は終わる。

 また気が付くと、俺は自分の部屋にいて、部屋に入ってきた母が祖父の死を告げた。


 見たこともない駅の記憶は大人になっても頭の片隅にずっと残っていて、俺は当時の職場からの帰り道、何気なくいつもと道を変えたその途中で、あの日見た光景を見つけたのだ。そして俺は漠然とした確信とともにその場に居続けて、現実と幻想の境目と、『旅の終わりの旅』へと向かうあの電車とふたたび出会い、仕事を辞めた。もともと辞めようかどうか迷っていたので、結局この出来事がなかったとしても辞めていた、とは思うが、この場所との再会が強く背中を押してくれたことは間違いない。


 幼き日の俺を電車から引きずり戻してくれた青年とは会えていない。二十年近い月日が流れている。それでもまだじゅうぶんには若いけれど、もしかしたら、もう電車に乗って、旅の終わりの旅へと出てしまったのかもしれない。


 俺はふたたび少年を見る。

 だからこそ、おそらく両親と思われるふたりを引き止めようとするこの少年を、俺は他人のようには思えない。彼はかつての俺だ。そんなかつての俺が、あの時の俺のように電車の中に入り込みそうになっている。俺は少年を引きずり戻す。


「ごめんな。まだきみはここに乗っちゃいけないんだ」

「だって、お父さんとお母さんが」

 彼の頭を撫でる。


「いつかきみもここに乗る日が来る。ただきみはまだ、その時じゃない。旅の終わりの旅をする者たちだけが乗れる場所だから」

「旅の終わりの旅?」


 そう聞き返したところで、少年は眠ってしまった。体力も限界だったのかもしれない。疲れ果てたように。家出した末に迷い込んでしまったのだろうか。俺はあとで警察に送り届けようと、彼をベンチに寝かせることにした。同時に、ぽっかりと空いた俺自身の記憶の空白が埋まっていく感覚があった。もしかしたら俺も忘れていただけで、あの日、祖父が死ぬ、という事実に耐え切れず家出をして、警察にご厄介になったのではないだろうか、と思った。いまのいままで忘れていただけで。


 全員が乗り終えると、電車はゆるやかな速度で発進する。

 線路を逸れ、水平線へと向かうように、海の上の夜空を駆けはじめた。

 やがて電車は闇にとけこむように、俺の視界から消えていった。


 少年を送り届け、家に帰ると妻が、

「きょうはいつもより遅かったね」

 と言った。


「いや、つい要らないお節介を焼いてしまって」

「いいんじゃない。あなた、らしくて。ちなみにどんなお節介だったの」


 かつての俺を見つけたんだ、と言おうとして、照れくさくなってやめてしまった。

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旅の終わりの旅 サトウ・レン @ryose

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