藍と盲目
名取 雨霧
藍と盲目
宇宙飛行士になるのが、
好奇心旺盛な彼女は、憧れを抱くだけでなく小学校に入っても勉強を欠かさない真面目な子だった。男手ひとつで育ててきた、自慢の娘だ。
「鳩梨さんは凄いです。クラスメイトの子達への気配りが本当に凄くて頭が上がりません」
「あはは、それはどうも」
担任の教師からの信頼も厚いようだ。三者面談のあと、鼻高々に家路を闊歩していると心なしかむっとしたような表情の娘が嗜めてきた。あんなに褒められたあとだっていうのに、なぜご機嫌斜めなのだろうか。
「お父さんが得意気にならないの」
「いやいや、こんなん言われて嬉しくない親がいるかよ」
「こんなんで喜んでたら、私が宇宙飛行士になったときどうするのよ」
「そりゃ泣いて喜ぶに決まってるだろ」
「インタビューとかで恥ずかしい顔全国に見せないでよ?」
小学五年生にもなると反抗期に入るのか。親としては順調に育ってくれている反面少し寂しいものだ。
「お父さんのくしゃくしゃの泣き顔全国放送されたら他人面するしかないわね」
撤回。かなり寂しい。
娘はすくすくと育っていった。中学校に入学してからも部活のバスケに打ち込みつつ、学校の勉強、そして宇宙の勉強を欠かさなかった。鳩梨が育ってきたからこそ、家事を2人で上手く分担して仕事で家を開けることが多くなった。思春期の鳩梨ものびのび過ごせているみたいだ。
変わらない日々の歯車は、唐突に噛み合わなくなって崩れた。
帰り道、家に着く直前、妙な煙っぽさを感じて俺は駆け出した。まさかな。俺は鳩梨のいるマンションの前に立つ。
屋上から黒い煙が出ていた。
俺たちの住む5階を含め、3階から屋上の7階まで全て炎で包まれていた。入口は消火作業消防車が囲む。
すぐさま鳩梨に電話をかけても繋がらない。LINEも既読がつかない。俺は気が動転した。
燃え盛るマンションのロビーに飛び込む俺の身柄は消防隊によって拘束された。殴りかかってでも振り払おうとした俺の携帯電話は震える。
相手は近くの大病院だった。
「鳩梨さんの火傷は顔の大部分でした。皮膚に関しては植皮手術で多少元通りになりますが......」
医者は口ごもりながら続けた。
「両側の眼球にも重度の火傷を負っているようです。経過観察でどうにかなるものではなく、視力に関しては移植が必要です」
俺はそれを聞いて絶望した。
自分がこの年のこの立場で、娘のように夢に向かって一直線であったらどうだろう。絶望なんて陳腐な言葉では表現できないほどの無力感を感じるはずだ。夢を見続けてきた彼女を俺もまた見ていたからこそ、それが痛いほど分かる。
「視力に関しては仕方がないです。私の注意不足で、もっと早く火事に気づいていれば逃げられました。それより、顔を綺麗に直してくれてありがとうございます」
けれど、娘は物分かりが良い子だった。
医者が努力の限りを尽くして自身の焼けただれた顔を直してくれたこと、永久の失明ではなく移植という選択肢を与えてくれたことに感謝していた。
絶望にひれ伏すような表情ではあったが、それはこれ以上駄々をこねても仕方がないという諦めにも捉えられる。
彼女はまだ中学二年生だ。大人でも飲み込める人は少ない現状をきちんと噛み砕く彼女は、大人過ぎた。いや、俺が大人にさせ過ぎたのかもしれない。男手一つで育てるうちに、プレッシャーをかけてしまったのかもしれない。もっと我儘を言わせることができたのかもしれない。
俺は親としては三流なのだろう。自分の娘が大人であることに、俺はとてつもない悲しさを覚えた。
補助金と貯金で買った新居は、今まで住んでいたところよりも見晴らしの良い高層ビルだ。もちろんセキュリティやバリアフリーも最新で、駅や病院からも近い。
鳩梨の希望で、中学校は今まで通り登校することになった。授業やイベントは変わらず出席し、テストは鳩梨だけ特別に口頭試問の形が取られた。失明しても進級できる学力を持つ鳩梨は、やはり凄い。
朝晩と送り迎えをするようになった俺は、今までより鳩梨と会話することが多くなった。学校のこと、部活のこと、時事ニュースなど。その中で、一つだけお願いをされた。登下校や外出するときは、何か宇宙に関するクイズを出してほしいらしい。
「ハレー彗星が地球に最も接近した年は?」
「l986年だね。今年2023年は一番地球から遠ざかってるはず」
「あ、ああ。ばっちりだ」
彼女の知識は無限だ。幼い頃から積み上げてきた長期記憶があるからこそだろう。もし彼女が失明しなかったら、なんて思うとやり切れない。諦めてもおかしくないくらいの絶望があったのに。
「お父さん」
「どうした?」
「私まだ、諦めてないからね」
俺の悔しい気持ちを、目の見えない彼女はどうやって見透かしたのだろうか。
中学を卒業したあと、彼女は盲学校に入学した。彼女だけでなく、目の見えない人たちに向けた高等教育を行う機関である。目の見える人達に向けた授業よりもきっと分かりやすく教えてくれるだろうし、同じ境遇の友達ができることは親としてもありがたかった。
また、アナウンスのバイトも始めた。点字で示された文をショッピングモールの館内放送で流すもので、本人も点字の勉強ができてお金ももらえて一石二鳥だと満足している。
盲目でも怖いほどに前を向いている彼女は、泣かない。
目が見えなくなるまえも、あとも。
母親が3歳の鳩梨を残して持病に殺された日。友達と絶縁寸前の大喧嘩をして帰ってきた小学三年生のあの日。俺が叱った中学一年生のあの日。
彼女が俺の前で涙したのはせいぜいその3回。見えないところで泣いているのだろうか。その疑問を突きつけられるほど、俺は自分が不甲斐ない父親なのではないかと落ち込んでしまう。
「お父さん!!入試の結果今日!」
彼女は点字対応のある名門大学の大学入試を受けたいと言ってきた。彼女の人生の一切を応援することにしていた俺は、パンフレットの取り寄せ、視覚障害者対応の塾の契約、勉強環境の整備などできることは全てやった。
ホームページをクリック。
入試受験者用の個人ページを開くとそこには大きく結果が表示されていた。俺は少し涙を流した。
「はは、なんで試験は点字対応なのにここは音でねえんだよ」
「はいはい。じゃあお父さんが代わりに教えてよ」
「合格って書いてあるみたいだぞ」
「よっしゃあ!」
俺と鳩梨は飛んで跳ねて喜びを露わにした。念願の大学合格が成就した嬉しさは、親の俺すら人生で指折りのものだ。
「今日はたんっっまり美味いもん食うぞ!」
「うんうん!」
娘は嬉しそうにするも、目標のなかの一到達点の過ぎないといった表情で満足気に頷くばかりであった。
その時、俺の携帯に電話がきた。
相手は鳩梨の手術をした病院だ。
「はい。え、分かりました!すぐにお受けします。よろしくお願いします」
俺はスマートフォンの通話を切り、彼女に振り返った。
「もしかして」
「おう......鳩梨、今日はめでたい日だなぁ」
俺の涙はさらに勢いを増した。
どうやら、一度にやってくるのは悲しいことばかりではないみたいだ。
盲目という夢を追うには絶望的な状況で腐らなかった鳩梨は、夢見る健常者と何一つ変わらない道を歩んでいた。そして、今までと変わらぬ推進力のまま彼女についていた枷が外れるのだ。
手術の予定日や術後の管理などを考慮すると、彼女の目が日常生活に支障なく使える時期は20歳になったくらいだそうだ。それでもまだ若い。その事実に、彼女は合格よりも高く跳ねて喜んだ。
俺は彼女がきっと叶える夢に向けて、背中を押せる第一号というわけだ。お祝いは派手にしたい。
そこで俺は彼女に提案する。
「20歳の誕生日、どっか出掛けないか?」
こんな風に誘ったのは母さんの時ぶりだろうか。齢40過ぎのおじさんが言うセリフにしてはいかにも臭いセリフだったが、彼女は笑いかけてくれた。
「なんか全然慣れてない感じで誘ってくるじゃん」
「仕方ないだろうが、慣れてないんだから」
「まあ仕方ない。いいでしょう、20の誕生日はお父さんと一緒に過ごしてあげます」
「それはありがたい」
今どきこんな提案を呑んでくれる娘がいるのだろうか。今日は本当に嬉しいことばかりだ。火事で全てを失ったかと思ったあの日から5年経った今も、あの日見た地獄は脳裏に焼き付いている。娘の最後に見た光景だって地獄そのものだっただろう。
それをもっと神秘的で、綺麗なものに塗り替えてやりたい。その一心で、俺は計画を立て始めた。
「お父さん」
寝る前に背中の方から声が聞こえた。
俺は振り返って娘に言う。
「どうした?早く寝ないと、明日友達に会う時遅刻するぞ」
「ありがとう」
「どうしたんだよ改まって」
「いや、お父さんは本当に私のことを思ってくれてるんだなって。お父さんみたいに人、なかなかいないよ」
「当たり前だろう。そんな当然のことより、早く寝なさい」
「わかったおやすみ」
鳩梨は嬉しそうにその場を立ち去った。
彼女の手術は大学1年の10月に行われた。当初は、彼女が目を開けた瞬間を綺麗な景色で埋め尽くす計画のありかと思ったが、あまりにも非現実的過ぎて却下した。病院の眼科でちゃんとリハビリを受けて、満を辞しての方が彼女も心置きなく見れるだろう。移植は無事成功し、眩しさに慣れていく訓練の日々は秋から春先まで続いた。
彼女の誕生日は20年前の4月14日。
桜吹雪が舞うよく晴れた春の日だった。
「母さんが妊娠してる時な、実家の梨の実を鳩が突っついて食べてて、その様子が凄くほのぼのってしててそれで鳩梨だぞ。おしゃれだよな」
「本当にそれだけ?」
名前の張本人が疑り深くこちらを見上げる。相変わらず察しがいい。その察しの良さは、母さん譲りだろう。
「母さんの好きなアナウンサーが羽鳥さんだったらしいな」
「それ苗字でしょ。ほんとお母さんあり得ない。天国で説教されてこいっ」
「まあそう怒るなって、お母さん鳩梨が生まれたあとは24時間365日ずっと溺愛してたんだから」
「それはまあ......なんとなく分かるけど?」
鳩梨は優しく墓石に水を掛ける。
20歳の誕生日は、鳩梨の希望もあって母さんの墓参りから始まった。
お供物や線香が終わったら彼女は一人で歩き始める。もう杖も補助もいらない後ろ姿を見て、俺は相変わらず涙腺が緩む。
それから俺たちはバスに乗った。
新宿駅から長い長い旅路の末、天空に一番近いと言われる村まで5時間揺られる。若者の間でも流行っているらしいその場所の名前を彼女は知っていただろうが、知らないフリをしていた。
阿智村のスキー場ともなっている山のリフト乗り場ではすでに無数の星が輝いていた。東京じゃなかなか見れない上に、とてつもなく長い間暗い銀河に囚われていた彼女にとっては、薄ら見えるこの天の川すら宝物の一つ一つなのだろう。
「そんなんしてたら山行く前に肩凝って台無しになるぞ」
「いい。今日はもう酷使する」
一度気に入ったものは拘り続けるその執念も、昔から変わらない。彼女のその諦めない気持ちが、宇宙飛行士への道を歩ませているのだから。それが感じられるたび、俺は嬉しくなる。
リフトを降りると夜空を見渡すための障害物は消えて、プラネタリウムのような夜空が広がる。息を呑むような光景だった。
一等星しか見えない東京の夜空とは別物のような、天空全体に広がる芸術はイラストや写真集で見るよりも幻想的だった。
鳩梨は、夢中になって空を眺める。文字通り、夢の中にいるのだろう。宇宙飛行士になった自分がこの空へ飛び立つ、夢の。
一方俺は、そんな横顔を眺めていた。
俺にとってはこんな綺麗な夜空よりも価値があるもので、彼女の輝かせている眼をずっと見ていられたのだ。
「お父さん、例えばの話なんだけど」
「どうした?」
その瞬間娘はとぼけたことを言った。
「人の心の中身が見えるんだよ私」
「え」
空に向けていた顔をわざわざ俺の方に向けてきた。彼女のつぶらな両眼には雄大な銀河を背景に、阿呆らしく口を開けた中年男が一人、場違いに映る。
「その眼で20年間ずっっと、この世界を見続けてきたの」
彼女は再び目の前の銀河に目を移した。
「そのせいで、裏表がひどいクラスメイトと喧嘩はしちゃうし、せっかく褒めてくれた担任の先生のお世辞にむっとしちゃうしで、なかなか大変だったんだよ」
「そ、そうか」
俺は頭上の銀河とこの話の日現実性についていけなくなっている。返事がうまくできない。
「だから、宇宙飛行士の夢もとっくの昔に諦めてたんだよ。周りの期待だって、応援だって全部本物じゃなくて出まかせなんだって気づいちゃったから」
「鳩梨......そうか」
鳩梨のためにこの光景を用意した俺から言わせれば、凄くショックな事実だった。鳩梨の思い出をとびきりいいものに書き換えたいと思って考えた事が、完全に裏目に出てしまったのだ。夢を諦めた彼女にとってこんなプレゼントは皮肉でしかない。
「帰るか。温泉でも入って宿でゆっくりしよう」
俺は困ったように笑い、野原に下ろしていた腰をあげようとする。
無言で彼女は俺の腕を掴んだ。
「もしお父さんがお父さんじゃなかったら──の話ね」
鳩梨は俺の腕を引っ張って腰を上げた。
「馬鹿みたいに純粋に私の幸せばっかり願ってさ、自分のことより私のやりたいことを優先してくれてさ、受験の時だって一生懸命支えてくれてさ。心なんて読めなくても分かるよ。本当に良い父親に見えるなって」
尻についた草を払いながら彼女は「でも」と続ける。
「それが『心から』のものだって感じることが出来たのが、私の一番の幸せだったよ」
その時、あたりを照らしていたライトは全て消えた。消灯の時間があるとは聞いていたが、真っ暗闇を照らす星空がその一瞬だけいっそう輝いて見えた。
暗がりの中でも、彼女の啜り声だけは聞こえる。やっと、やっと泣いてくれたか。
「べつに......泣いてないし」
「うそつけ......」
満天の銀河の下、泣きじゃくる娘1人と親1人。俺の前で涙を滅多に見せない彼女が心を開いてくれたことが、親としての誇りだ。頼りない親だけれど、娘の心休まる場所になれただけで生きている甲斐があったというものだ。
「お父さん。20年間、こんなに立派に育ててくれてありがとう」
「鳩梨はさ、本当に人の言ってほしいことを言うよな」
「これは間違いなく私の本心だよ」
彼女の瞳にはもう銀河は映らない。
俺と真っ直ぐ向き合って、その俺の涙に星々が反射している。きっとこんな夢みたいな時間が続くのも、今のうちだろうか。
そんなことはない。
今日、彼女は視力を取り戻して0地点に戻っただけだ。大学を卒業して、宇宙飛行士候補生になって、訓練を積んで宇宙飛行士となって飛び立っていく。それまでに結婚をしたり、子供を授かったりするかもしれない。これからその一つ一つを共にできるなんて、夢みたいだ。
俺はその幸せを噛み締めながら、再び天の川を仰ぐ。盲目じゃない彼女は、藍色の空に浮かぶ星々に何を思うだろう。
盲目のときもずっと焦がれていた、頭上に広がる藍の一枚絵に何を感じるだろう。
「愛でしょう」
また心が読まれたことにゾッとした俺を横目に彼女はふふん、と得意げに笑って告げた。
藍と盲目 名取 雨霧 @Ryu3SuiSo73um
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