第8話 Tremble
―あなたも素敵なプレゼントを貰ったのね。大切にしなさい。
奏音は、家のピアノの椅子に座って先生に言われたことを反芻していた。何度も何度も思い出しては、心が温まっている気がしたのだった。ただ、先生に言われたことは母親には秘密にしておこうと思った。母親に先生に言われたことを言ったとて、何も思われないどころかむしろ、「そんなの普通よ」と言って無視されるのが分かっていたからだった。
奏音は、ふと壁にかかっているカレンダーに目をやる。今日の日付には赤く丸がしてあり、「予選まであと1か月」と書かれている。
「あと1か月か……」
少し焦りを感じ、予選で発表する曲を練習することにした。楽譜がたくさん収められている本棚に向かい、『華麗なる大円舞曲』の楽譜と『ハノン』を取り出す。ハノンは言わずと知れた指の練習曲である。声楽では歌う前に必ず発声練習をする。これは喉を傷めないためであって、ピアノもそれと同じなのである。いきなりピアノを弾くと腱鞘炎になりやすくなったり弾きにくかったりする。そのためハノンのような指の練習曲集を用い、準備運動をするのだった。もちろん奏音はハノン1冊を数えきれないほど弾きこんでいる。
ペラペラとめくりながら、ここだと思ったところでめくるのをやめる。このようにしてその日に行う練習曲を決めるのだった。この日当たったのは30番だった。トリルの練習に最適の練習曲だった。メトロノームをつけ、それに合わせて弾く。ゆっくりやればやるほど指は疲れていくが、指がどんな動きをしていてどんな角度で鍵盤に落としているのかを分析できるため、奏音はいつもメトロノームはゆっくり目に設定するのだった。
30番以外にも数曲弾き、指が温まったところで『華麗なる大円舞曲』の楽譜を開く。びっしりと書き込みがしてあるが奏音には読み取れていた。
息をゆっくり吸いながら目を閉じる。息を吐きながら目を開け、鍵盤の上に指を置いて「華麗に」弾き始めた。
弾き終え、息を整える。
「お母様に聴かせなきゃ」
そう呟き、奏音は母親を呼びに行った。
母親はピアノがある部屋に入るなり、奏音の後ろに座った。部屋に緊張が走る。息を整え、奏音はピアノの鍵盤の上に指を置いた。
最初の1音で、その曲がどのような雰囲気になり、どのように仕上がっていくかが決まる。奏音はいつも最初の1音を自分の納得いくまで練習するのだった。奏音が弾いた最初の1音。それは奏音も納得のするものだった。
奏音は弾きながら、貴婦人たちが優雅に踊っているところを想像していた。周りにいる愛しい男性たちに見せつけるように。私が1番輝いているわ、と言わんばかりの表情で踊っている。楽しんでいる反面、自分の権力や神々しさを表すために踊っている、奏音はそう解釈していたのだった。
曲も中盤に差し掛かり、奏音は気持ちよく弾いていたが突然奏音も目を見張るほどのことが起きた。
「あっ……」
ミスタッチをしたのだった。演奏中に弾き違えてしまうミスタッチ。しかも、いつもは難なく弾けるところでミスタッチをしてしまったため、奏音は焦ってしまった。もちろん母親の反応は言うまでもないが、顔をしかめ首を傾けていた。そのミスタッチを皮切りにその後も何度も何度もミスタッチをしてしまった。焦りが表情に出てしまっている。
「何故…どうして…あんなに練習したのに……」
奏音はもう演奏に集中できていなかった。むしろ早く終わってくれ、と願っていた。
やっとのことで演奏が終わり、奏音は鍵盤から指を離し太ももの上に置いた。驚くほど震えている。震えを抑えるためこぶしを握り締め、黙っていた。今でも泣きそうなほどであった。またお母様に認めてもらえない。また怒られる。あんなに練習したのになぜ自分はできない、と自分のことを責めていた。
恐る恐る振り返ると母親の表情は何も変わっておらず、驚くほど冷酷で見下してもいるかのように見えた。
「ミスした場所は分かるわよね?」
「はい」
「それならいいわ。今日の練習はおしまいにしなさい」
そういって母親は出ていった。母親は、奏音が振り返ったときに奏音の握りこぶしに目をやっていた。端から見ても分かるほど震えていた。そのため練習したとて意味がないと母親は思っていたのだった。
「本番まであと1か月しかないのにどうしよう…なぜ…なぜできないの…?」
気が付くと指がさらに震えていた。奏音は涙が止まらずに静かに声を殺しながら泣いていた。奏音の瞳からこぼれた涙が、握りこぶしに落ちていった。
Mousike-ムーシケー- 春称詩音 @shion_haru
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