第7話 プレゼント

「そういえばさ、奏音ちゃんって習い事とかやってる?」

「うん…ピアノ」


 入学して2か月が経った頃。朝だとはいえ、ホームルーム前の教室は明るい雰囲気に包まれていた。この頃になるとだんだんと仲のいい子も固定され始めてきて、あるグループはあやとりをやっていたり、あるグループは本の読み聞かせをやっている子もいる。小学校1年生らしい光景だった。

 奏音は椅子に、奈緒は机に座って話していた。


「ピアノは小さいころからやっているの?」

「うん。お母様の話によると、0歳のころからピアノやってたみたい」

「へーそうなんだ……奏音ちゃんはお母さんのこと『お母様』って呼んでるの?」

「あっ……」


 実は母親から学校の友達と話すときは『お母様」ではなく『ママ』と呼べ、と言われていたのだった。奏音はなぜだかわからなかったが、理由は聞かなかった。お母様なりの考えがあるんだろう、と思って心の内にとどめておいたのだった。


「あ、えっと……なんかテレビで聞いたから、私も言ってみたくなったの」

「そうなんだ!」


 奏音は安堵で胸をなでおろした。『お母様』と言ってはいけないという理由は謎だが、母親の言った言葉は必ず守らなければならないという縛りが、奏音のことを苦しませていたのだった。


 朝のホームルームが終わると、1時間目は国語の授業だった。チャイムが鳴り、子供たちが席に着く。先生が漢字のプリントを配った。この日、学ぶ漢字は「犬」という字だった。プリントには左上の隅に大きく書かれた「犬」という字。奏音は、鉛筆を握りしめて、必死に犬という字を書いていった。


『犬…「子犬のワルツ」の「犬」か……』


と心の中で考えていた、一見変な覚え方かもしれないが、小さいころからピアノを弾いてきた奏音が、一番身につくと思う考え方だった。

 奏音が書く「犬」という字には、子供っぽさが残っていた。まだいびつな形の漢字。かわいらしさの残る字が、6歳の子供らしかった。


 2時間目は体育だった。この日は、雲一つない青空だったので、グラウンドで50メートルを測ることになっていた。

先生が引いた白線の後ろに1年生が2列に並んだ。次々に子供たちが走っていく。走り終わった子たちの中には、友達とタイムで競争していた子もいたのか、勝っただの負けただの言っている子たちもいる。そんな姿を眺めていると、いよいよ奏音たちの番になった。奏音の相手は奈緒だった。


「がんばろうね!」

「うん」


 そういって、先生の笛の合図とともに走った。

 奏音がコースを見たときはそこまで長くないな、と思っていたが実際に走ってみるとあまりの長さに走っている途中で絶望してしまった。

 何とか最後まで走りきると、タイム係の別の先生が奏音たちにタイムを伝えに来た。


「藤崎さんは9秒50。海谷さんは11秒32ね」


 奏音は驚いた。自分の中では9秒台だと思っていたが、本当は11秒台だったことに。


「奏音ちゃんって運動苦手?」

「う、うん……」


 不覚にも核心を突かれてしまった奏音は少し落ち込んだ。


 3時間目は算数、そして4時間目は音楽だった。

 この日の音楽の授業では最初に音符について教えられた。この音符は少し長くて、この音符は少し短い。わかりやすく砕いていても、1年生には難しすぎる内容だった。だけど1人だけ理解していた人間がいる。奏音だった。奏音にはすべて理解できていた。


「実際に手で叩いてみましょう!」


そう言って先生はホワイトボードに白丸と黒丸を描く。


「黒丸はタン、白丸はターンです!白丸、黒丸、白丸、白丸が描いてあるので、ターン、タン、ターン、ターンと手を叩きましょう!!」


先生は実際に手を叩きながらレクチャーした。


「せーの!」


の声に合わせて子供たちも先生と一緒に手を叩こうとするが、なかなか叩けない。


「難しいよ……」


子供たちはもう諦めた様子だったが、奏音は表情1つ変えずに叩いていた。その後も同じような事をやったが、子供たちはなかなか叩けない。だが、奏音はどんなリズムが来ても叩けていた。躓くことなく、平然と叩いていた。もちろん、小学校1年生が最初からホワイトボードに描いてある丸に合わせて叩くなどできるわけが無いと思っていた。授業を通して出来るようになって欲しいと思っていたが、奏音は最初から出来ていたため先生の予想とは反した現実に驚いていた。


「では次は歌を歌いましょう!」


と言って、教科書に載っている「うみ」を弾きながら先生がまずお手本で歌った。そのあと、先生に続いて子供たちが歌う。先生は子供たちの歌を聴いていると、1人だけ音程がしっかりと合っていて、リズムも合っている子がいることに気づいた。


「あ、さっきの子……」


ピアノを弾きながらボソッと呟いた。奏音は音を何一つ外さず、リズムも正確だった。しかも、子供たちは初めて歌った曲だ。誰しも初めて歌った曲は音も分からなければリズムも分からないだろう。だが、奏音は正確なリズムと音程で見事に歌った。


「あの子は何か違う」


先生はそう思った。奏音は先生がそう思っていたことに内心気づいていた。


帰りの会が終わり、奏音は静かな廊下を歩いていた。奏音が目指す先は音楽室だった。

音楽室の重い扉を開けると、音楽の先生がいた。


「先生、ピアノ貸してください」


そう言うと、先生は


「いいよ。何を弾いてくれるのかな」


と言って奏音にピアノを触らせた。

奏音はピアノに座る。蓋を開け、指を鍵盤に置き目を閉じる。次の瞬間、奏音が弾いた曲に先生は言葉を失った。

奏音は先生が弾いていた「うみ」を完璧に弾いたのである。子供たちに配った教科書に伴奏譜は載っていない。先生がオリジナルで伴奏をつけたものだった。先生が驚いていると、奏音は弾き終わり、先生の方を振り返った。


「先生、私はあんまり言ってこなかったけど、テレビで流れてる音とかお店で流れてる音が全部ドレミで聞こえてくるんです。唯一お母さんだけには言いました。だけど、お母さんは『みんなそうだから。それは普通よ』って言ってくるんです。だから、音楽に詳しい先生にも聞きたいと思ったんです。私が歌った時、『何か違う』って思ったんじゃないですか?そういう表情だったから…だから教えてください。これは普通なんですか?」


先生は唖然とした。普通なんかじゃない。これは、『絶対音感』だ。みんながみんな持っているものじゃない。私だって持っていない、先生はそう思いながら奏音の母親に対して違和感を抱いた。先生はやっと口を開くと


「それはね、みんながみんな持ってるものじゃないんだよ。先生だって持ってない。それは神様から貰ったプレゼントなんだよ。人によって神様からのプレゼントは違う。あなたも素敵なプレゼントを貰ったのね。大切にしなさい」


そう言って先生は優しく微笑んだ。

音楽室の窓からは柔らかく温かいオレンジ色の光が射し込んでいた。

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