第6話 短い鉛筆と黒い楽譜
母親が廊下を歩いている。その手には1枚の紙が握られていた。ピアノがある部屋からは、微かにではあるが奏音が弾いているピアノの音色が聞こえてくる。母親は思わず笑みがこぼれた。
「上手いじゃない……」
ボソッと呟くが、すぐ後に母親は自分に言い聞かせた。
「ダメ。甘やかしたらダメよ。もっと厳しくしないと」
母親は扉をコンコンと叩く。すると防音室特有のドアノブが回り、重い扉の向こうから奏音が現れた。
「おはようございます。お母様。」
「おはよう。今日はあなたにこれを持ってきたのよ。」
そう言うと母親は1枚の紙を奏音に渡した。
「これって……」
奏音の手に渡ったチラシには《全国ジュニア音楽コンクール》の文字が書いてあった。
「今年も来たわね。コンクールが。今年も1位を取らないとうちの子と認めないから」
母親は冷たく残酷に言い放った。
「承知致しました。お母様」
「今回のコンクールの課題曲だけど……」
また新曲を持ってくるんだろうな、奏音は少し絶望した。
「華麗なる大円舞曲を持っていくわよ」
「え?」
奏音は自分が考えていたこと全く違うことを言った母親に驚いた。
「1週間後までに完成させること。そこから更に詰める作業に入るわよ」
「分かりました。お母様」
奏音は内心嬉しかった。新曲ではないという嬉しさもあったが、それよりも自分が弾いていて「楽しい」と思う曲をコンクールに持って行ける。それが嬉しかった。
チラシに目を通す。コンクールには様々な部門が設定されている。声楽部門やピアノ部門、弦楽器部門などがあり、更にそこから細かく分かれていた。奏音が出場するのはピアノ《クラシック》部門。このコンクールに出場し、優勝したピアニストで有名ではない人は1人もいない。子供の頃に受賞し、大学は海外の大学に行き、プロピアニストとして絶大な人気を誇っている人ばかりだった。
奏音はこのコンクールで2年連続で1位を取っていた。コンクールの本戦に出場するためには、いくつもの予選を突破しなければならない。1か月後に控える、第1次予選は全国各地にあるホールで行われる。
奏音は早速曲の分析に入った。母親から教えられた曲の分析方法も、大人顔負けのものだった。曲の表現の分析はもちろんのこと、和音分析に進行の分析、時代背景分析など小学校1年生とは思えない難しい部分まで細かく分析していった。
窓の外を見るといつしか暗くなっていた。長かった鉛筆も短くなっており、楽譜も真っ黒で何が書いてあるか、他の人が見たら分からないほどになっていた。それでも奏音は書き続けた。奏音には読めていたのだった。
奏音の後ろにある扉が静かに開き、母親が覗き込んでいた。奏音の背中は小学校1年生とは思えない、「音楽家」の背中だった。
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