第5話 鍵盤の上の円舞
入学式が終わってからも、奏音の生活は変わることなくピアノが中心の生活となっていた。
今までもピアノ中心だった生活に、さらに学校生活が加わるという日常が奏音をさらに苦しめることとなった。
朝は4時30分に起きてピアノがある部屋に閉じこもり、そこから2時間30分みっちり練習。7時になると母が呼びに来て朝ごはんを食べ、学校に行く準備をする。学校から帰ると、夕食までの時間はずっとピアノの前で鍵盤とにらめっこ。夕食を食べ終えてからも寝る時間までは練習という、普通の人なら耐えることの出来ないであろう生活を奏音は過ごしていた。自分の時間に費やす時間があるなら、ピアノに時間を費やせ、それが母から毎日言われている言葉だった。
「次の曲はこれよ。これを2週間で完成させなさい」
「この曲をですか…?わかりました…」
奏音に次に課された課題曲はロマン派の有名作曲家、フレデリック・ショパンの「華麗なる大円舞曲」だった。この作品は誰しもが1度は耳にしたことがあるであろう名曲である。輝く美しさをイメージさせる変ホ長調の曲。三拍子で優雅なリズムが、聴く人をまるで舞踏会に参加したような気持ちにさせる曲である。普通であれば、小学校高学年から中学生になったころにコンクールやコンサートで弾くこの曲を奏音の母親は小学校1年生、しかも1年生になったばかりの娘に弾かせることにしたのである。ベートーヴェンの悲愴第2楽章とは違って、テンポも速いため相当な技術がないと弾けない。
楽譜に目を通した奏音は一気に不安になった。2週間で完成させろなど無理難題に等しい課題をわが娘に突きつける母親に奏音は反抗したかったが、反抗すると見捨てられるかもしれないという不安に襲われ、従うしかなかった。
楽譜をピアノの譜面台に置き、鍵盤に指を置く。奏音は目を閉じて深く息を吸う。吐きながら目を開ける。この時の奏音の姿は小学校1年生とは思えない雰囲気を醸し出していた。鍵盤を押す。柔らかく上品な音。その1音が舞踏会の始まりを告げる。そこから一気に世界が変わり、貴婦人たちが優雅なドレスに身をまとって踊っている。はねるような音型も貴婦人たちがドレスの裾を持ち楽しげに踊っているようである。だが、貴婦人のオーラはキラキラしたものであり、子供が楽しく踊っているような雰囲気ではなく優雅なものである。ピアノという1つの楽器から出る音はまるでオーケストラが演奏しているかのような様々な音色を持ち合わせている。元気な音色から色気の溢れる音色まで。
奏音の指運びはまるで、鍵盤の上で
奏音は鍵盤から指を離した。額には汗がにじんでいる。無我夢中になって奏音は弾いていた。あらかじめ言っておくが、奏音はこの曲を初見で弾いたのである。1度楽譜を見ただけで表現豊かに演奏することは容易ではない。
「この曲…楽しい…」
奏音はつぶやいた。本心だった。今までやってきた曲は奏音には重すぎたのかもしれない。ショパンの「華麗なる大円舞曲」は優雅さを残しておきながらも、3拍子のワルツであるため、奏音にとっては踊るように楽しく演奏できる曲だった。奏音は心の中でこの曲をコンクールに持っていったら楽しいだろうな、と思っていた。
翌日から、奏音は「華麗なる大円舞曲」の譜読み作業に入った。細部の表現、この曲にどのような物語を持たせるか。貴婦人はどんな姿で、どんなドレスを着ていて…という風に奏音は想像を膨らませていった。考えたことや表現を楽譜に書いていくと楽譜はすぐに文字で埋め尽くされた。その作業をしている奏音の目は輝いていた。
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