いとしのマリー

クニシマ

マリー!

 その子はマリーと呼ばれていて、ひどく底が厚いブーツを履いていて、あ、それを僕はいつも脱ぎにくそうだと思って見ていたんだけれど、いつもひらひらのリボンを頭につけていて、でも聞くところによれば男だったらしい。僕はマリーの恋人だった、そのはずだったんだけども、そういえば最後までそのことを知らなかった。

 マリーは僕と同い年なのに、そう、大学の三年生なのに、早生まれだからとっても華奢で背が小さくて、いつでもふわふわと裾の広がったドレスみたいなスカートを履いていた。冬になるとたまに丈の短いマントのような上着を羽織っていて、変なマントだね、と言ったら「ケープっていうんだよ」と教えてくれた。

 マリー、僕の大好きなマリー、けれども本当の名前は真理マコトで、そうして先週の火曜日、僕の車に勝手に乗ってどこかへ消えてしまった。

 マリーには親がいない。ママはマリーを産んだときに死んで、パパはマリーが十六のときに事故に遭ったらしい。だから誰もマリーを気にかけてくれない。今、マリーのことを考えているのは僕と警察ばかりだ。いや、警察だって本当にはマリーのことを考えてなんかいない。彼らはただ、遠い山中で見つかった車の残骸の近くにあるであろう青年の遺体を捜索しているだけだ。

 マリーはあんな見た目で、そして言動もちょっと変わっていたから、いつも悪い噂ばっかりされていた。あばずれだとか、薬漬けだとか、何度も補導されているとか。けれども僕はマリーに一度微笑まれただけでだった。奇妙で、厄介で、ひどく重くて、ひどく軽い子だなんて、そんなこと誰に言われなくたってわかっていた。それでも、一直線に切り揃えた前髪の下から覗くあの大きい目が三日月みたいにきゅっと細まるのを見れば、どうしたって好きにならずにはいられなかったのだ。

 僕はマリーに言った。君にとって最後のキスの相手になりたい、と。マリーは声を立てて笑って、そうしながら「最初の、じゃないんだね」と言った。僕はそれを聞いてなんだかひどく恥ずかしくなり、そんなのもう無理だろ、とつぶやいたけれど、マリーはまだ笑いながら僕の目をじっと見つめて「そう思う?」と尋ねてきたのだった。僕はもう泣き出しそうになって、それでもなんとか震える手をマリーの背に回して、その細い体を抱きしめた。そうやって僕たちは恋人になった。

 マリーの最初のキスの相手になるのは、けれどもやっぱり無理だった。マリーは保育園の頃すでにそれを済ませていたそうだ。付き合い始めてしばらく経ったある日の夕方、大学から駅へ向かうバスの中で、マリーはなんでもないことのようにそれを伝えてきたのだった。確かにそれはなんでもないことなのだけれども、やけにさみしく思ったのを覚えている。だましたつもりないよとマリーは言った。事実、マリーは嘘をついたわけではないから、僕は黙ってうなずくしかなかった。不満を隠しきれずに窓の外へ目を逸らした僕を見て、マリーはいたずらに微笑した。そして僕の肩にその頭を乗せ、ぴったりと身を寄せて、小さな小さな声で「好きだよ」と言ってくれた。

 僕はマリーのためなら何を失おうと構わなかった。マリーは体を売って学費を稼いでいる、という噂を聞いたときには、どうしても肩代わりしてあげたくて実家の金を持ち出したのだけれど、工面できたのは十万にも満たない額で、それを渡そうとしたらマリーは悲しそうな顔になって僕を叱った。

「そんなことして不幸になろうとしないでよ。コウジくんは、不幸じゃないくせに。謝って」

 何を言われているのかよく理解できなかった。差し出した金の引っ込め方さえわからなくなりながら、僕は消え入りそうな声でどうにか謝罪の言葉を口にした。けれどもマリーは首を横に振って「マリーじゃなくて、コウジくんのパパとママに謝るの」と真っ当なことを言ったのだった。そうだ、マリーは他人が噂するようなひどい子なんかではなかった。マリーは物事の善悪をちゃんと知っていた。それはきっと僕よりもずっとそうだった。

 僕は父さんと母さんに頭を下げて金を返した。思っていたほどの叱責はなかった。僕は平均より甘やかされて育ってきた子供なのだと思う。父さんと母さんのどちらがそうだったのかまでは知らないけれど、どうにも子供ができにくい体質で、様々な手段を試して疲弊した末、これでだめならもう諦めようと決めた最後の機会に授かったのが僕だったのだそうだ。だから、マリーの言うとおり、僕は不幸ではない。どれだけ頭が悪くても、鈍くさくても、何ができなくても父さんと母さんがこの上なく僕を愛してくれている。

 では、マリーは不幸だったのだろうか。不幸だったのなら、それはなぜだろうか。家族はもういないのだとしても、僕に愛されているのに。僕では不足だったのだろうか。こんなふうに取り返しがつかなくなってしまうまで、マリーが男だということさえ知らなかったような僕では。

 そうだ。僕たちは恋人どうしだったのだから、そうしようという気さえあれば僕はいつだってそれを知ることができたはずなのだ。けれども僕はそうしなかった。そうしないままでいた。そうするだけの、そうできるだけの勇気がなかった。これは言い訳だ。結局のところ、僕はマリーの本当を知らなかったのではなくて、知ろうとしていなかったのだろう。手を繋いだり、デートをしたり、稀にキスをしたり、僕はそれだけでひとまずの満足を得ていた。それ以上のことをして、もしもマリーが僕にがっかりするようなことがあったり、僕がマリーにがっかりするようなことがあったらと思うと、恐ろしくてたまらなかったのだ。

 昨日、僕は近所に住んでいる従兄に会いにいった。従兄は僕よりいくつか年上で、無愛想だけれどもどことなく頼りになるような雰囲気のある人だ。僕にとって彼は昔から父さんにも母さんにも話しづらいことを話せるたったひとりの相手だった。

 恋人がどこかに行ってしまった、と僕は話した。何も言わず僕の車に乗っていって、車だけが遠くの山の中で見つかって、そんなことになってから初めてその子が男だったと知ったのだと。従兄は右の眉をやや動かして「そうか」とつぶやき、写真があれば見せてほしいと言ってきたので、遊園地でデートをしたときに撮ったソフトクリームを食べているマリーの写真を見せた。彼は首をかしげながらしばらくそれを眺めていた。

「確かに、まあ、女に見えるな。でも触ればわかるんじゃないか」

 手でも繋げばすぐわかりそうなもんだ、とひとりごとのように彼は言った。そんなことは僕にはわからなかった。マリーの手はいつも冷たくて小さかった。けれどもきっとそんなこともわからないような僕だったからマリーはどこかへ行ってしまったのだと、それだけはわかるような気がする。

「まあ、そんなのも経験のひとつだ。そのうちまたもっといい子が見つかるだろ」

 従兄はそう言って僕を慰めてくれた。その気持ちはありがたかったけれど、マリーよりもいい子などいるはずがないし、出会えるわけもないのだ。

 明日でマリーがいなくなってからちょうど一週間が経つ。警察からはなんの連絡もない。まだマリーの遺体は見つかっていないのだろう。このまま見つからなければいいのにと思う。見つからなければ、マリーは死んでなどいないと信じたままでいられる。ただ少し僕の前から姿を消してみせて、あわてる僕をどこかで笑っているだけだと。そうしていつの日か、僕の元へひょっこり帰ってくるのだと。

 そうしたら僕は今度こそマリーを幸せにしてあげよう。けれどもちょっとは文句も言わせてほしい。まずはなんと言おう。恋人だというのに本当の名前すら教えてくれなかったことを言おうか。散々言って、そのあとで、マリーは口をとがらせて、だましたつもりないよと言うだろう。そうやって、三日月みたいな目をして、きっと笑ってくれるだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いとしのマリー クニシマ @yt66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説