夏祭りにもう一度

一齣 其日

夏祭り

 夏祭りは人の海でごった返していた。

 普段は車が二台分も通れる通路は、立ち並んだ屋台と人、人、人に埋め尽くされていた。

 お好み焼きやクレープ、イカ焼きなどの屋台には多くの人が並んで舌鼓を打っている。

 射的にサメ釣りに興じて、一喜一憂する子供達の声がそこかしこから聞こえてきていた。

 祭りという非日常に、みんな胸が疼くのを止めることはできないらしい。

 この非日常に距離を詰めようとする恋人たちもいれば、気が大きくなって酔っ払っている大人たちも少なくなかった。

 誠馬は、そんな大人たちにほんの少しばかり冷ややかな視線を送っていた。

 ほんの少しなら別にいいが、どうしても度を超える人たちも出てくるのが祭りの空気というものだ。

 あんまりに飲み過ぎて酔い潰れている大人もここまで来るまでに見てしまったし、隠れてキスをしているカップルなどは論外だ。

 人目も憚らず羽目を外す大人にはなりたくないな、と中学二年生の少年ながらに思わずにはいられない。


「せいまっ、なに突っ立ってるのさ! 次は金魚すくいだよっ!」


 溌剌とした声に誠馬は振り返る。

 振り返って早々、ちょっとため息をつきたくなってしまった。

「ユミナ、お前さ……ちょっとは色々弁えろって」

「ふえ?」

 白の布地に淡い水玉をあしらった浴衣の少女は、きょとんとした面持ちで誠馬を見やる。

 彼女の両手にはわたあめ、お団子、焼き鳥と食べ物でいっぱいになっていた。

 というか、もうすでに食い歩き上等らしい。口元には何かしらのタレがついていた。

 容姿自体は幼い顔立ちながら可憐な雰囲気を纏っているというのに、これでは少々台無しか。


 ──いやまあ、今日くらいはいいか


「ねえねえねえ、なにぼうっとしてるのさ。金魚掬いったら金魚掬いだよ! ほら行こっ!」

 ユミナの小さな手が差し出される。

 早く掴んでと言わんばかりの視線を送られるが、十四歳の少年にとってその手を掴むのは少々躊躇いが生まれてしょうがなかった。

 十四歳、思春期の真っ只中、どうしても異性に意識をしてしまう年頃だ。

 例え、目の前の少女が昔っから散々一緒に時間を過ごしてきた幼馴染だとしても、肌に触れるのはどうしたって気恥ずかしさがあった。

 同級生にも見られたくはない。誠馬は学校では少し喧嘩っ早い不良に片足突っ込んでると見做されている少年である。後から何を言われるかわからない。

 などと思案を重ねていると、ぐっ、とさらに手が伸びてくる。

 ユミナとの距離が、さらに近くなる。

 眩しいくらいに弾ける笑顔が、すぐそこにあった。

 この笑顔に、誠馬はどうしたって敵わなかった。


「……しゃあねえな。はぐれねえようにするためだからな」

「むっふふふ!」


 恐る恐る出した誠馬の手をユミナは思い切りにぎゅっと掴むと、早速と言わんばかりに金魚すくいの屋台に向かって駆け出した。

 人の海をかき分けて、前へ前へと進んでいく。

 あまりの溌剌ぶりに少し心配になる誠馬だったが、この鬱陶しいくらいの人の海すらユミナは楽しんでいるようだった。


 金魚すくいの屋台に来ると、ユミナはさっそく浴衣の袖を捲って瞳に闘志の炎を燃やす。

 持っていた諸々の食べ物は当然、誠馬に押し付けられていた。

 目当ての金魚を見つけるとその場にいた誰よりも気合の入った構えをとるので、周りの子供は当然、屋台の店主ですら少し唖然とした表情を浮かべていた。

 どうやら、この祭りで一番羽目を外しているのはこの少女らしい。

 こうなると、大人たちを馬鹿にはできないな、と誠馬は思い返さずにはいられなくなっていた。

 なお、少女は金魚掬いがド下手であった。

 力一杯にポイを水面に入れるので、すぐに紙は破れるし水飛沫が飛んで浴衣が濡れる始末だった。

 なのに少女は、自分のド下手さに悔しがる──どころではないらしい。


「あひゃひゃひゃっ、失敗しちゃったねえっ!」


 どうしてツボに入ったのか、ゲラを止めることができずにいた。

 あんまりにも笑うものだから、周りに唖然とした空気がどんどんと広がっていく。

 誠馬は店主やそこにいいた人たちに頭を下げて、ユミナの手を引っ張っていくことしかできなかった。

 顔が真っ赤になりそうだった。

 あの羽目の外しっぷりも。

 そして、夢中で掴んでしまったユミナのちっさな掌の柔らかさにも。


「もーう、まだ私とり足りなかったのに。というか、一匹もとれてない!」

「お前はちったあ人の迷惑も考えろ、バカッ」

「バカって……誠馬の方が私よりバカじゃん、テストの点数私よりも低いくせしてっ」

「今その話はやめろッ! くそ、補習のこと思い出しちまったじゃねえか……」

「ふふふ! ねえねえ、次は射的行こっ、しゃて……」


 ふらり。

 掴んでいた手の力が一気に抜けていくのが、すぐにわかった。


「危ねえッ」


 ゆっくりと倒れていこうとするユミナの体を、誠馬は咄嗟に胸で受け止めていた。

 異様に早く脈打つ鼓動が体を伝って聞こえてくる。

 冷や汗が止まらなかった。

「はれ? はれれ……どうしちゃったのか、な……」

 おどけた声に、力はない。

 祭りの熱に当てられて紅潮していたはずの顔は、すっかり青白くなってしまっていた。

 ぐったりと、ユミナの体重がのしかかってくる。

 のしかかっているはずなのに、羽のような軽さが逆に誠馬を焦燥に駆らせた。

「ッ……一旦人混みから離れるぞ!」

 ユミナの体を背負うと、誠馬はすぐに駆け出していった。

 肌と肌が触れ合うことに躊躇いなんてかけらもなかった。

 そんな余地がないほど、焦燥と不安でいっぱいになっていた。


 せっかくの夏祭りだからって、甘く見過ぎた……!


 ──昔から、ユミナは心臓が弱かった。

 ユミナの母親も、彼女が幼い頃に心臓の病で亡くなったという。

 遺伝的なものだろう、というのが医者の見方だった。

 そのため、体を動かす機会は少なく、体育の授業などもいつも不参加。

 誠馬も、そのことは知っていた。

 自分が外で遊んでいる時、物憂げに窓から校庭を見やるユミナの眼差しも知っていた。

 だからだろうか、中学に入っても疎遠にならなかったのは。

 声をかけられたら無視もできないし、なんだったら人のことを放って置けない性分の誠馬だから、自分から声をかけにいくのもしばしば。

 祭りに誘ったのも、誠馬からだった。

 小学生の頃、祭りに行ったんだという話をした時、いつも溌剌とした笑みをしているユミナの顔が、ほんの一瞬曇りがかったのを忘れることができなかった。

 ずっと、喉に骨が引っかかったようなものを覚えていた。

 ユミナの親にも直談判をして、絶対にユミナを無事で帰すと約束をして、今日この祭りに連れ出してきた。


 それが、このザマかよ俺は──ッ!


 人の海から外れ、神社の境内に入って二人は腰を下ろしていた。

 冷や汗に一杯一杯になりながらも、誠馬はユミナの背中をさすり続ける。

 こうなる可能性になること自体、わかっていたはずだった。

 腹はいくらでも括ってやると、意気込みだってあった。

 だのに、ユミナの異様な動悸を前にして、あるのは自分を押し潰さんばかりの恐怖。

 ユミナの発作に立ち会ったのはこれが初めてじゃない。

 でも、いつもすぐに大人が駆けつけてきてくれた。

 その大人は、今はどこにもいない。

 今この場でユミナの側にいれるのは、誠馬ただ一人。

 括ってきた腹は、どうにも器が小さかったらしい。

 任せてくれなんて言えるほど、自分が大きくなっていなかったことを自覚させられていた。


 ──このまま治らなかったらどうしよう

 いや、ユミナがもう帰ってこないところまで行ってしまったら、どうしよう──

 

 渦巻いた不安はもう止まらない。

 弱音がとめどなく喉奥から込み上げてくる。

 吐き出したら、どんなに楽だっただろうか。


 けれど、誠馬はそいつを必死に飲み込んだ。

 飲み込み続けて、一心にユミナの背中をさすり続けた。

 荒い息が小さな口から何度も漏れる。

 呼吸音が鼓膜にこだまするたび、弱音なんて飲み込まずにはいられなかった。


 そうだよ、どうして俺が弱音を吐けるんだッ

 一番しんどいはずのこいつは、弱音の一つも吐いちゃあいねえのに……ッ!


 ぎゅっと握った胸の内に、いったいどれ程の苦しさがあるのか誠馬にはわかるわけもない。

 ただ、自分が負ってきて経験してきたものとは決して比べられない──比べちゃいけない代物だということ嫌というほど理解できた。

 そんなユミナにさらに自分のことを背負わせるような真似は、死んでもできなかった。


 弱音まで吐いて自分の不安を一緒に背負わせようなんて、できてたまるか


 誠馬は胸を押さえていたユミナの手をぎゅっと握っていた。

 腹の中をぐるぐる渦巻く不安や焦燥に付き合うよりも前に、もっと向き合わなきゃいけない人がいる。

 一人で孤独に戦っているユミナのことからもう目を背けまいと、ぎゅっと強く小さなその手を握りしめていた。

 

 十分。

 二十分。

 三十分、足らずか。

 徐々にユミナの呼吸は落ち着いてきていた。

 不協和音のようにけたたましかった鼓動も、規則正しく脈を打ち始めてきていた。

 びっしゃりと汗に濡れた顔にはまだ少し青白さが残っていたが、それでもさっきの色と比べたら全然よくなってきているようだった。

「だ、大丈夫……か?」

「……う、ん。もうだいじょうぶ、かな」

 こっちに顔を向けて、にっこりと精一杯に笑顔を向けるユミナ。

 後悔が誠馬を襲う。

 なんて無粋なことを聞いてしまったのだろう、と。

 大丈夫なんて聞かれたら、否が応でも大丈夫と返してしまうのがユミナじゃないか。

 何年も幼馴染をしているのに、こういう気が利かない自分が自分で嫌になりそうだった。

「……悪ぃ」

「へ? なあに謝ってるのさ。むしろ、私の方がごめんだよ」

 へらりとユミナは言うと、ぽんぽんと誠馬の頭を小さな手が撫でる。

 ほっとしていたせいもあるのか、その仕草に顔に火がぼっと上がった。

 振り払おうと出した手、だけど目の前にあったユミナの笑顔に目が止まると、これがどうして出すことができなかった。

「ふふふ、そうやって大人しく頭を撫でられるが良いぞ良いぞ、私のために頑張ってくれたもんね」

「るっせ。俺は何もしてねえよ」

「そんなことないのになぁ。さっきの手、暖かったよ。──ありがとね、誠馬」

「……るっ、せぇ……て」

 花が咲いたような笑みがとうとうトドメを刺したか、誠馬はふいと目線を逸さずにはいられない。

 帰ってきてしまった思春期は、年頃の少女の笑みにはどうしたって弱いらしかった。

 

「さて、と……」

 すっかり調子が戻ってきたのか、立ちながらうんとユミナは伸びをする。

 水玉模様をあつらえた浴衣の袖が吹いた風に揺られていた。

「そろそろ、祭りに戻ろっかな」

 どきり、とその言葉が誠馬の胸を刺す。

「ん? どうしたの、誠馬……? 早く行こうよーっ」

「……」

 早く早く、とユミナが差し伸べる手をどうしても掴めなかった。

 また、ユミナの発作が起きたらどうしよう──そんな不安が脳裏をよぎって仕方なかった。

 さっきのことは運が良かった、と言ってもいい。

 でも次は?

 さっきのように治まってくれるのか。

 次もきっと大丈夫だ、だなんて胸を張ることが誠馬にはできなかった。

 誠馬の曇った顔を見てかユミナも察したらしい。

 伸ばしていた手が、そろそろと降りていく。

 その仕草にまた、誠馬の胸がちくりとした。

「……わりぃ」

「ふふ、今日は謝ってばかりだね、誠馬」

 誠馬が腰を下ろしている隣に、ユミナもまた腰を下ろす。

 すうっ、と深く息を吸って、吐いた。

「別に謝らなくていいんだよ、悪いのは私の体の方なんだから」

 そう言って、ユミナは自分の胸に手を当てた。

 か弱く、鬱陶しいほどままならない、小さな心臓に。

「ほんと、いやんなっちゃうね、この体は」

「……」

 返す言葉がなかった。

 きっと、どんな言葉も気休めにもならない。

 ずっと付き合ってきた体のことを、どうこう言える立場じゃない。

「でもさ、今日くらいはわがまま言っちゃいたいんだよね」

「ユミナ……?」

 そっと立ち上がると、もう一度ユミナは誠馬の前に立つ。

 そして、またその小さな手を誠馬の前に差し出した。


「ねえ、もう一度お祭りに一緒にいこっ?」


 朗らかな笑顔の影に、痛ましいほどの切実さが滲んでいた。

 だのに、手をとる勇気が出なかった。

 このまま、ユミナの手を引いていける自信が、今の誠馬にはなかった。

 情けなさに、顔が俯く。

 彼女の笑顔を向けられる資格など、もう自分にはない。

 そう歯噛みする誠馬の感情と裏腹に、俯く誠馬にさらに伸びてきたユミナの手。

 ──どころじゃない。

 誠馬の頬を両手で掴むと、ぐいと顔を上げられた。

 瞳に涙の溜まったユミナの顔が、目の前にあった。


「ごめんね、誠馬。誠馬が心配するのもわかるよ、私。──だけどさ、こんな形で祭りが終わるのは、私は嫌だ。もっと誠馬と祭りを楽しみたい。誠馬が連れてきてくれたお祭りを、誠馬と一緒に楽しみたいっ! だから誠馬がいるなら、苦しいのだって我慢する、しんどいのだって我慢するっ。……私まだ遊び足りないっ! 誠馬と遊び足りないんだっ! せっかく誠馬が連れてきてくれた夏祭りを台無しにしたくないっ。もう一度も来ることができないかもしれないんだから……っ! これだけは、我慢したくないっっ!」


 額と額がこつんと当たる。

 涙がボロボロと落ちてくる。

「──お願いっ」


 ヒュルルルル、と何かが空に飛び上がっていく音がした。

 瞬間、夜空に花開いた光がパッと眩く辺りを照らした。

 花火が始まった。

 さっきの一発を皮切りに、次々と色とりどりの花が夜空で火を噴いて咲いていく。

 決して距離は遠くないのに、花火の音は心臓を強く叩いているはずなのに、ずっと遠くで聞こえいるような感覚だった。

 

「──バカだな」


 頬に触れていた小さな手を、誠馬は優しく手に取った。

 ハッ、としたようにこちらを向いたユミナの瞼は、真っ赤に染まり上がっていた。

「ば、バカってなんなのさあ……」

「もう一度も来れるかわかんねえだって? んなことぜってぇにねえよ。来年も、再来年だって俺がここに連れてきてやる」

 誠馬は、顔を上げた。

 泣き腫らしたユミナの瞳から、もう逸らすことは無かった。

 絞り出してくれた言葉を、しっかりと受け止めたかった。


「もう一回も二回も──何回だって絶対に俺が連れていく、ユミナをこの祭りに連れて行ってやる。だからさ、来ることが出来ないかもなんて言ってくれるなよ、ユミナ」


 うん、うん、とひっぐひっぐとしゃくりあげるユミナの頭を、誠馬は撫でる。

 さっきと立場が逆になってることに、少しおかしさを覚えてならなかった。

 自信がないとか、資格がないとか、考えるのはもうやめた。

 こんなにも真っ直ぐに、自分に言葉を向けてくれた少女の手を振り払うなんて、少年には出来なかった。

 怖いことばかり考えるよりも、もっと楽しいことを。

 いつまでも続くかわからない日々だというなら、せめて色とりどりに彩りたい。

 あの、夜空に咲き乱れていく花火のように。

 だから、その小さな手を、誠馬は取った。

 ぎゅっと、握った。


「ま、今日はさ、あとは花火見るくらいにしておこうぜ。俺、ユミナにあんまししんどい思いも苦しい思いもしてほしくないんだよ」

「むぅ……」

「……だ、あー……うん、わあった。わあったから、じゃあ、屋台で美味しいもの奢ってやるから、それで手打ちにしようぜ。また、来年遊び倒すってことでさ。だから、そんな口とがらせるなって」

「……約束」

 そう言うと、ユミナはそっと小指を突き立てた。

「約束だよ。絶対、来年も行くって、約束してくれたら誠馬の言うこと聞いたげるっ」

「しゃあねえな、全く」

 ちょっと幼さが過ぎる仕草に呆れる誠馬は思いが込み上げるが、応えるようにユミナの小指に小指を絡めた。

 指切りげんまんと、懐かしい歌を二人で歌う。


「それじゃあ行こっか、誠馬っ」

「おう、はしゃぎすぎんなよ、ユミナ」


 にへらと顔に笑みを咲かせると、きゅっと二人は手を結ぶ。

 気恥ずかしさだとか、照れ臭さはあったけれど、もう離したくない気持ちでいっぱいだった。

 まだ、花火も祭りもフィナーレには程遠い。

 歩幅を同じに、二人はあの賑やかな雑踏へと歩みを踏み出していった。

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夏祭りにもう一度 一齣 其日 @kizitufood

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