依子さんは魔性
いぬきつねこ
依子さんは魔性
「刃牙で一番好きなキャラ」から「藤田和日郎作品で一番好きなキャラ」に話が移って、スト2で負けたやつが一気を経た頃にはテーブルの上には缶チューハイの空き缶が溢れ、床には哀れな男たちが転がる午前2時20分。依子さんは煙草に火をつけてぷかーっと煙を吹き出して言った。
「今期アニメのヒロインはチャラ男に寝取られて陥落しそうな子が多くて最高」
依子さんはその日、黒地に酒瓶がたくさん描かれた短い柄シャツに腰履きのカーゴパンツ姿で、僕は依子さんが冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとが屈むたびに背中が見えるので話どころではなかった。そのおかげで僕は酔い潰れて床のゴミにならずに済んでいる。
二流私大の文化系サークル。漫研ともアニ研ともつかぬ、主な活動は飲み会という、うだつの上がらないこの魔窟に依子さんは燦然と存在している。
よく見ると黒髪ではなくてブルーがかっているのがわかるショートカットに、猫みたいな大きな目ははっきりしたアイラインでさらに強調されている。
168センチの高身長。手足は長く、腰は細く、全体的にスレンダーな依子さんはスカートよりもパンツが似合う。
社会学科の3年。大学院に行くから就活はしていない。
そんなプロフィールを誦じられるくらいには、僕は依子さんが好きである。
「
「えっ」
ほんの半年前まで田舎の純朴な高校生だった僕は、憧れの人から話しかけられて完全に動揺していた。
「僕はダメです。かわいそうで……かわいそうじゃないですか……なんか……アレで……」
「男が?女が?」
依子さんは灰皿に煙草の灰を落とし、「絢瀬くん煙草吸わない人か」とまだ吸いかけの煙草を揉み消そうとした。
「大丈夫です!吸ってていいんで……」
「じゃ、あげる」
依子さんは煙草を僕の手に握らせた。
「いけないこと覚えるのも大事だよ」
薄い桃色に塗られた唇がにっと笑いの形になって、八重歯が覗いた。
僕は煙草に口をつけることができなかった。
手の中で、ほんの一瞬まで依子さんの口に入っていた煙草をもたもたと持ち替え続ける。
「んで、絢瀬くんは男がかわいそうだと思ってるの?女がかわいそうだと思ってるの?」
手の中の煙草が短くなっていく。じんわりと熱を上げて、煙になっていく。
「両方かな……。2人が築いたものが崩されちゃうわけじゃないですか」
「そうだねえ。信頼関係がぶち壊れるとこまで含めて旨みみたいなとこあるからねえ。あたしは、大事に大事に育ててきた恋の尊さが寝取りによって輝きを増すんじゃないかと思うよ。失って初めて見える煌めきみたいなもんが……。ごめん、酔ってるからキモいこと言ってるわ」
えへへへへと変な笑い方をして、依子さんは冷蔵庫を開けると2リットルの天然水をぐびぐび飲んだ。
そして、「トイレ〜」と宣言して部室を出ていき、そのまま戻ってこなかった。
僕は渡された煙草を消して、そして口に咥えた。
めちゃくちゃ気持ち悪いやつだな、僕。悲しくなって、1人でテーブルを片付けた。
おそらく、サークルのメンバー全員が依子さんに惚れていた。
なんでこんなバカみたいな集まりにいるのかもわからない美人。話すことは面白く、酒と煙草が好きで、漫画が好きで、一番好きな漫画は竹易てあしの「おひっこし」。好きなアニメは「コゼットの肖像」の依子さんは誰の話題にもついていけた。自分からグイグイ喋るわけでもないのに、オタクたちを気持ちよく喋らせてしまう。結果的にみんな依子さんに惚れる。
そんな依子さんは、社会人の恋人がいる。
皆が名を知る大企業の2年目社員。依子さんが2回生の頃から付き合っていて、交際も2年目に入るのだという。
正直、オタクにモテるタイプの女ではない。服装は独特だし、メイクはきつい。それなのに、依子さんには独特の魅力があった。
魔性だ。依子さんは魔性なのだ。
「依子さんはカレシがいるのに何で毎回飲み会出てるんですかあ?」
依子さんの他にも女子のメンバーはいる。
その子が枝豆をつまみながら尋ねた。
「楽しいから?」
依子さんはメガジョッキのハイボールを飲んで答えた。
僕は2年になり、依子さんは大学院の入試を終えていた。合格が決まったということで、祝勝会である。大学近くの安居酒屋だった。
「カレシさん許してくれるんだ〜優し〜」
「あんまり束縛しない奴だから」
「いいですね!あたしもそういう人いないかなあ」
依子さんの魔性は同性にも有効で、彼女を悪くいう者はいなかった。
あれから僕と依子さんはそこそこ喋るようになり、飲み会でみんなが酔い潰れた後に色んなことを話した。
漫画とか、小説とか、音楽とか。
僕は勧められるがままにCDを買い、漫画を買い、小説を買った。映画も見た。「ミネハハ」を読み、「レヴォリューション」を観て、「ワールドエンドガールフレンド」を聞いた。「妄想代理人」は一緒に部室で見た。古いブラウン管テレビの明かりに照らされた依子さんの横顔しか覚えてない。
聞きました読みましたと依子さんに報告すると、彼女は僕の感想を聞きたがった。
八重歯を見せながら、「絢瀬くんの話が聞けて嬉しいよ」と静かに笑う依子さんのことを僕はずっと好きだった。
僕が3回生に上がった夏の日。依子さんは大学院を辞めた。就活が始まって、思うように行けなくなった部室に久々に顔を出した僕は、依子さんが部室に置いて行ったという「ボーイズオンザラン」と「ブラッドハーレーの馬車」古くて角に擦り傷があるプレステ2に出迎えられた。
「依子さん、結婚するんだと。子どもできて、カレシは婿養子になるらしい。依子さん、実家がめちゃくちゃ太いの知ってたか?」
2回目の留年で部室に入り浸る部長が、風船の空気が抜けるみたいな声で言った。
「オレ、ワンチャンあるかなと最後まで思ってた……」
僕は何も言えずに立ち尽くした。
あまりにもあっけなく、依子さんはいなくなった。
依子さんとの再会は、転勤先のイオンモールだった。
特に何かを得るものがなかった大学生活を過ごした僕でも、5年も社会人をやっているとそれなりに色々知らなくていいことに気がついていく。
それでも、僕の思い出の中で依子さんは魔性だった。ミステリアスで、変な柄のシャツが似合って、知らないことを知っていて、少し悪いことを教えてくれる。
依子さんがちらつくせいで、恋人ができてもすぐに別れてしまった。依子さんならこんな音楽は聞かない。依子さんなら、こんなに表現が浅いな映画は見ない。僕の中で醸造されて輝きを増す依子さんは僕の恋を破壊する。
「もしかして絢瀬くん?」
イオンモールの雑貨屋の前で僕は呼び止められた。
最初に目に入ったのは旗がついた子どもを乗せられるショッピングカートで、そこには大きな目をした2歳くらいの男の子が載っていた。アンパンマンの人形を両手で抱いている。
カートを押しているのは、依子さんだった。
化粧は薄くなり、髪は柔らかなミルクティー色に変わり、ふんわりと内巻きに巻かれている。
ざっくりしたベージュのニットに、黒いストレートパンツ。グレーのスニーカー。
ほっそりしていた頬には幾分肉がついていたが、あの大きな目は変わっていなかった。
「――依子さん」
僕は慌てて依子さんの彼氏の苗字を思い出そうとしたが、婿養子に入ったなら苗字は変わらないはずだ。
「すごい偶然!こっちにはお仕事?スーツ着てるからびっくりした」
「転勤です。営業所がこっちにあって」
カートの中の子どもが依子さんのニットを引っ張る。
「ごめんね。ちょっと待っててね。ママのお友達だよ。はいこんにちは。こんにちはは?」
「わ」
子どもがぺこりとお辞儀をする。
「お子さんですか?」
「そう。
「ママ、こっちの買い物終わったよ」
「ママーっ!早くう!」
後ろからわいわいと声がした。
ポロシャツ姿の男と、大きな袋を抱えた女の子が手を振っている。
「あれが旦那。上の子は
僕は呆けた顔をしていたと思う。
ママ。依子さんを、ママと呼んだ。依子さんがママ?
のろのろスマホを取り出して、お互いのアカウントを交換した。依子さんのアイコンは子どもの写真だった。
「便利になったよねえ。あたしたちの頃なんてメールしかなかったもんね。あ、アイコン『パプリカ』なんだ。部室で妄想代理人見たの覚えてるよ。それじゃ、また」
依子さんはくるりと回って去っていく。
依子さんから連絡があったのは一月後だった。
「大学の思い出を話しませんか」
子ども2人が頬を寄せ合うアイコンの隣の吹き出しにそうあった。
「土曜19時なら空いてます」
僕はメッセージを返した。
依子さん。依子さん。僕は変な柄のシャツを着て、煙草を指に挟んで笑っていた依子さんを思い出す。
――信頼関係がぶち壊れるとこまで含めて旨みみたいなとこあるからねえ。あたしは、大事に大事に育ててきた恋の尊さが寝取りによって輝きを増すんじゃないかと思うよ。
依子さん、本当にそうなのでしょうか。
19時。5分早くやってきた依子さんは、白いTシャツに丈の長いジャンパースカートを合わせていた。胸元に真珠が一粒光るネックレス。
薬指に指輪はない。
居酒屋で、依子さんはジャスミンハイを頼んだ。
「本当に久しぶり。絢瀬くんはあれからどうしてた?」
「普通ですよ。普通に就職した感じです」
「そう。あたしは実家に帰って、2人目が産まれて、上の子が小学生。小学校入れば少しは手がかからなくなるかと思ったら、雨が降れば車で送ってかなきゃならないし、習い事も始まるしもう大変。旦那もこっちの支社に転勤してくれたんだけどね。仕事忙しくて……」
僕は全然依子さんの話を聞いていなかった。
依子さん。あなたはいつから人の話より自分の話をするようになったんですか。
「あ、そうだ。絢瀬くん。あれ観た?『花束みたいな恋をした』」
依子さんの顔が、部室で酒を飲んていた時の顔になった。
「観たら感想聞かせてね。あたしたちみたいなのには、刺さると思うよ」
「観ました。ただ、僕には辛くて。関係がうまくいかなくなる過程ってしんどいんですよね」
「うん。同じものが好きで繋がっていた分、辛いよね」
依子さんはグラスの水滴を指で拭った。
もっと話してと視線が訴える。大学の頃よりもメイクはナチュラルになっていたけれど、そこに確かに依子さんの片鱗を感じて、僕は縋るように話し続けた。
「旦那は出張。子どもはお母さんが見てくれてる」
22時を回って、依子さんは言った。
僕は、そうなるだろうなという陳腐な予想があった。
どこにでもあるようなラブホテルの、特に何か目を引くようなものもない部屋で、僕は依子さんを抱いた。
――子どもができてから夫が変わった。
――寂しい。
――自分の時間なんてない。
――戻りたい。あの頃に戻りたい。
吐息の間に、依子さんは泣いた。
僕は生温かい依子さんの体温を感じながら、恋が終わるのを感じた。
僕が好きだった依子さん。
ミステリアスで、漫画に詳しくて、悪いことも知っていて、僕を翻弄する依子さん。
依子さんは魔性だった。
こうして腕の中に抱いてしまえば、ただのぶよぶよした肉の塊で、人間だ。
誰でも翻弄できたわけじゃない。そこまでの魅力は依子さんにはない。中途半端にサブカルで、中途半端にオタクで、でも社会性も捨てきれない男たちをからかって遊ぶことで承認欲求を満たしていたかわいそうな女。
そんなどうしようもない思い出の中でしか生きられない女。
僕は、僕の中にいた魔性の依子さんを寝取ってしまった。信頼が、積み上げてきた思い出が、キラキラと乱反射して崩れていく。
確かに綺麗だ。
砕け散った欠片が七色に光って僕を刺す。
欠片の中にブラウン管の光に照らされた依子さんの横顔が見える。
僕の中で育ってきた依子さんの虚像だけが、いつまでも僕の中にいる。
「依子さんは大丈夫ですよ。きっと、旦那さんとうまくやれます」
ありきたりな台詞を吐いて、僕は依子さんの頭を撫でた。
その後、依子さんに連絡することはなかった。
彼女から連絡が来ることもない。
スマホが壊れた時、一緒にラインのアカウントも消えてしまったから、二度と連絡することもないだろう。
僕はまた東京に戻り、恋人と付き合ったり別れたりしながら日々を過ごしている。
それでも、通勤途中に聴く音楽の中に、ふと見つけた漫画の中に、映画館で見たリバイバル上映のポスターの中に、人混みでふと香る香水の中に、依子さんがちらつく。
本物の依子さんではない。僕の中にしかいない魔性の依子さんを、僕はそこに見る。
依子さんは魔性 いぬきつねこ @tunekoinuki
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