初夏、君を思い、学ぶ。

篠橋惟一郎

初夏、君を思い、学ぶ。

 自習室を出ると、めまいのするような暑さの塊が澄斗を襲ってきた。一つひとつの教室はクーラーが効いていて涼しいのだが、西日の差し込むビルの廊下は酷く蒸しかえっている。大量の荷物を抱えたまま大講堂へ急ぐ。

 朝早くから塾の自習室に詰め、夕方と夜の講義に参加し、その後も家にかえってまた勉強。高三受験生の夏休みなんてこんなものである。周りにも同じ境遇の奴らがぞろぞろと歩いていく。このゾンビさながらの奴らを、突き動かしているものはただ一つ、“志望校に受かりたい”という執念である。来年の三月、来たるその日に笑うために、歯を食いしばって這い続けるのだ。

 いつもより数分遅れたせいか、普段隣同士で座る友人の右には、知らない奴が鎮座していた。彼、亮が、気まずそうに目配せしたのを確認してから、空席を探して視線を巡らす。

 前の方に、同じ高校の制服の隣が空いていた。見ず知らずの奴よりはいいだろう。

「隣、いいですか?」

 小さな問いかけに彼女は微かにうなずいて返した。

 耳にかけていた髪が、はらりとひとすじ、彼女の頬を撫でた。鬱陶しそうにそれを一度払いのけると、手首にかけていたゴムで、低めにひとつ結びにする。

 澄斗はその一部始終を、自分の荷物を取り出しながら、ちらちらと横目で見ていた。

「いおりぃ、ルーズリーフ一枚ちょうだい」

 突然、前に座っていた巻き髪ロングが振り向いた。

「あんた、忘れすぎだって」

 その隣のショートヘアの女子が苦笑いをする。

 いおり? ……あの市野伊織か! 見覚え、聞き覚え共に大いにある名前である。模試や学校の定期テストでも、その名は常に上位に君臨している。この塾に通っていることは知っていたが、高校のクラスが違うため顔を見たことがなく、今の今まで気づかなかったのだ。

 勉強の化け物は、さぞかし奇妙な見た目をしているのであろうと勘繰っていたが、蓋を開けてみればごく普通の女の子である。肌はまるで日を浴びたことがないかのように白く、切れ長の目と細い鼻筋は、どうにも近寄りがたさを感じさせる。

 リュックをあさっていた彼女は、取り出した紙の束ごと前の席へ乗せた。サンキュー、の声に、はーい、と軽く返す。どうやら3人はお互い知り合いのようだ。

 そのまま講義が始まった。木曜日の今日は二次試験数学対策。配られたさまざまな大学の過去問を、解答用紙にひたすら解いてゆく。勉強に自信のある澄斗ではないが、数学は唯一と言っていい得点元科目である。文系に身を置いており周りに数学を苦手科目とする者も多く、相対的に偏差値や順位は高くなる。

 普段なら、亮と競い合いながら解くのだが、今日のライバルは学部一の秀才である。隣の気配を静かに伺いながら、いつもよりもハイペースで解き進んだ。しんと静まり返った講堂にひたすらシャーペンを走らせる音だけが響く。時間が経つほどに空気がぴりぴりと張り詰め、苛立ったように激しく消しゴムをかける音も聞こえてくる。

 ガタン、と椅子の音が静寂を破った。最初の人間が解き終わったのだ。早い。こちらはまだ8割といったところだ。ちらりと目線を上げて見たそいつは、凱旋さながらゆっくりと階段を下り、講師のところへ模範解答をもらいに行く。おそらく理系だ。彼らには、やはりなかなか計算力では及ばない。

 結局その日の講義は、5番目くらいに伊織が先に立ち上がり、澄斗は最後の問いに上手い解法が見つからないまま、終了ギリギリになってからようやくペンを置いた。


「お疲れぇ。……あれ? キョウカじゃん」

 亮がいきなり縦巻きロールの肩を叩いて、久しぶり、と声をかけた。講堂は既に移動を始めた生徒たちでざわついている。

「おー! リョーじゃん。見て、こいつ前話した、クラブチームにいた、一番面白い奴」

 キョウカ、と呼ばれたその子は、連れの二人に話を振る。途端二人が笑い出したものだから、亮は口を尖らせた。彼がバスケをやっていたことを思い出しながら、このお調子者は、どんなお笑いエピソードを創造したのだろうかと考える。

 亮の自己紹介に合わせて、伊織と、そして巻き髪が杏果、ショートが唯と名乗る。

「そっちは? リョーの友達だよね?」

「あ、北橋高校の三本澄斗です」

 自分で思ったより声が低くなって、慌てて笑顔を作る。

「一緒じゃん。北橋」

 伊織がこちらへ目を合わせてふにゃっと笑った。その顔は、思いの外無邪気に見えて、険しい顔で問いと向き合う横顔とのギャップが、澄斗の心の隅をくすぐった。


 自己紹介以来、澄斗たちはなんとなく近くの席を取るようになった。伊織と言葉を交わす機会も増え、彼女のことが少しわかってきた。

 賢い奴らに多い、自分の成績を暗に誇示する習性はなく、“わからない”と伝えることを怖がってもいなかった。北橋高校—— 一応県下一の名門校である ——にはこの一単語を言ったら死ぬとまで思っている奴らがたくさんいるのだ。“わからない”を回避するためにあれやこれやと並べ立てられた言い訳に愛想笑いをするのには、もう飽き飽きしていた澄斗にとって、伊織は、畏敬の念さえ抱きそうになる相手であった。

「どうやったらそんなに勉強得意になれるの?」

 ある時ふと聞いたことがある。その質問に、彼女は、にやっと片方の口の端を持ち上げて笑った。これは自論を展開するときの彼女の癖であるようだ。

「すみーは、なんのために勉強する? 私は、冗談を楽しむためだよ」

 豊富な知見に基づくジョークが一番楽しい。歌うように語る彼女には、亮の呼ぶ、澄斗のあだ名が定着してしまった。

「たとえばで例を出すとね、ある芸人が漫才でゴッホとバッハを取り違えるボケをするとするよ? もし私たちがゴッホもバッハも知らなかったらそのボケを楽しめないじゃない」

 どうにも妙な例を出す。

「まぁあとは、いろんなフィールドの勉強が繋がってることが楽しいからかなあ。わかりやすいので言えば、地理と世界史とかね」

 何のために勉強をするのか。澄斗は、勉強の時給が二万円であるから、という程度の理由しか持ち合わせていなかった(彼女はそれも面白い、と言ってくれたのだが)。結局はおそらく彼女にとっては、知的好奇心を満たし、それを誰かとの会話に落とすことが一番の娯楽であるのだ。考える時には左上を向く瞳が、滑るように答案を埋めていくすらっとした白い指が、そして無尽蔵の知識を次々と繋げて話す様子が、全てが澄斗にとっては魅力的だった。 


「お前、伊織ちゃんのこと、どうなん?」

 例に漏れず、自習室である。この小さな教室の中で、壁から染み込んでくるような暑さに負けじとエアコンがうなりをあげている。

 唐突な問いに、澄斗は弾かれたように顔を上げた。押さえつけていた参考書が、ばさりと音を立てて閉じる。

「どうって、何だよ」

 図らずもつっけんどんな返しになった。それが答えになっている気もして、余計に癪だった。

「というか、まず伊織ちゃんと呼ぶな、気持ち悪い。市野さん、だ」

 自分で口にした“伊織ちゃん”が、妙に舌の上に残って心をざわつかせた。

「なにそれ、その指摘の方がきしょいだろ」

 にやにやと笑いながら、亮は明らかに面白がっている。舌打ちの一つでもしてやろうかと思ったが、しかし、この十年来の付き合いの友人は、良いやつとしての面をまだ失ってはいなかった。

「今日の講義前に、さりげなく探ってみようぜ」


 いつもの五人が揃ったところで、亮はなんの臆面もなくさっさと切り出した。 

「市野さんは好きな人とかいるの?」

 げぇ! 本当に聞きやがった! 

 もう少し前提の話を作ってから言えないものか、と親友を横目に睨みつけながら、それでもやはり気になるので黙っておく。

「え、そういえばあたしも聞いたことないんだけど!」

「それはそういう話になった時にあんたがひたすら喋り続けるからでしょ」

 唯が鋭くツッコミを入れると杏果は唇を尖らせた。恋多き縦巻きロールの乙女曰く、恋バナの量は対等であるべきらしい。伊織ばかり聞き手に回っているのはフェアじゃないという。詰め寄る杏果に、彼女は眉尻をぐっと下げた。

「それが、本当にいないんだよ」

 さらりと出された答えに一瞬胸がひゅっとなった。他の三人はえぇーっと声を揃える。

「伊織は勉強が恋人なんだよねー」

「エリザベス1世じゃん」

「彼女は臣民全てを夫としたけど、わたしは概念と恋人になるつもりはないぞ」

「じゃあ好きなタイプとかは?」

「えーっと、あたしはねぇ」

「また杏果の恋バナかい!」

 女子が盛り上がってきた脇で、亮が目配せしてきた。少し細めた目が問うている。

(これをどう考える?)

『いない』これが良い答えなのかどうかわからない。他に好きな人がいるよりはマシであるが、自分が全く恋愛対象に入っていないことの現れでもある。

(わからん)

 微かに首を振った時、盗み見た伊織と目が合った。


 あ、ばれた。


 瞬時にそう悟った。澄斗はひどい顔をしていたに違いない。思わずぽろりとシャーペンを取り落とした。それが床で音を立てるよりも先に、伊織はふいっと目を逸らした。

 その日、伊織が澄斗の方を見ることは、二度となかった。


 くそ、なんであの時……。駆け巡るのはその思いばかりである。あれ以降伊織とは気まずいままだ。嫌われたのか、気持ち悪いと思われたのか。どんなに亮と冗談を言い合っていても、休憩に面白い動画を見ていても、心の隅に暗く凝り固まったその懸念が、ふとした瞬間に頭をもたげてくる。こちらを見ないとわかっていても、無理やり引き剥がそうとしても、視線はどうしても彼女の元に引き寄せられてしまう。

 いっそ、彼女のことを知らないままだったら、それか、ふっと忘れてしまうことができたら、こんな思いせずに済んだのに。いつの間にかそんなことを考えるほど、彼女にのめり込んでいた事実にぞっとした。倫理で習った、ストア派のゼノンがなぜ禁欲主義を求めたのかがよくわかった。喜怒哀楽の感情による支配は、確実に澄斗の平静を蝕んでいった。

 そんな中で澄斗が唯一没頭したのは数学であった。赤本の20カ年に片っ端から手をつけた。頭が締め付けられるように痛み、脳がオーバーヒートするのを感じるほど難しい問題に取り組んでいる時だけは、全てを忘れられた。次第に結果がついてくるようになる。講習の終盤ごろには、解き終わる速さは、しばしば教室内で十本の指に入るようになっていた。


 いよいよ夏期講習の最終日がやってきた。まだ夏は中盤であるが、残りの後半戦は自分で計画を立てて勉強をやれるように、というのがこの塾の方針である。

 亮はもちろん、女子二人も、少なからず澄斗たちの間に漂う雰囲気を悟っているようで、前者は無理に会話を盛り上げようと振る舞い、後者は伊織を澄斗から遠ざけようとしているように見えた。

 今日が最後だ。なにも行動を起こさなければ、彼女との関係はそれで終わりだろう。彼女の記憶から澄斗は忘れ去られ、ちょっと仲良くなっただけで勘違いする男、という称号は戴かずに済みそうだ。逆にもし、振られでもしたら、おしゃべりレディースの格好の的になることが確定している。

 今日が最後だ。

 いつも通りの用紙一式が配られる。

「始め」

 教室全体が一斉に息を吸った。勢いよく問題用紙を裏返す。目に飛び込んでくる数式。頭の中で、幾つもの解答パターンを次々に当てはめていく。

 焦るな。呼吸は深く、頭に酸素を回せ。

 一問目は得意な微積。解法もよくあるパターンで、素早くかつミスなくを目標に解いていく。二問目の対数もそこまで悩まずに解けた。厄介だったのが最後の整数問題である。問題文がシンプルなだけに、色々と試しながらうまい方法を探っていくしかない。いつもならそろそろ早い奴らが終わり始める頃だ。しかしみんな苦戦しているのか、いまだに誰も立ち上がらない。

 はっと、気がついた。問題文に隠されたとある条件を使えば、求める範囲がかなり狭まる。いける! 素早く回答を組み立てる。頼む、誰も気づくな、誰も終わるな! 手汗で紙にしわが寄る。無我夢中で芯を紙に叩きつけた。

 できた! 

 思わず椅子を跳ね飛ばすようにして立ち上がった。隣の亮がびくりと体を震わすのが目の端に映った。一番。ここにいる全員の中で一番だ。講堂のあちらこちらから、微かな落胆のためいきや、悔しさにぐっと歯を食いしばる音が聞こえてくる気がした。

 震える手で用紙を掴み、慎重に階段を下ってゆく。トップを争う奴らは、いつもこんな景色を見ていたのか。全ての人間が、死に物狂いで机に覆い被さるようにしながら、等しく同じ問いに対し、頭を悩ませている。張り詰めた教室の中で、たった次の瞬間、二番目の成功者が立ち上がるかもわからない。この緊張、この凄絶な戦場を、自分は冷静な立場から眺められるのだ。これほどの贅沢はない。教授の席までの十数歩が、まるで数時間のような充足感をもたらしていた。

 用紙を提出し、模範回答をもらって席に戻る。その間に、すでに二人が解き終わり、階段を下っていた。前をゆく一人に、どきんと胸が跳ねた。

 伊織だった。顔を見ることなんてできないはずだ。それなのに、どうしても、目が吸い寄せられてしまう。伏目がちに歩いてくる彼女。すれ違う瞬間、彼女の唇が微かに動くのが映った。

『す ご い』

 驚いて振り返ると、悔しそうな笑みがちらっと見えた。知的好奇心の権化が、思わず漏らした感情だった。そのまま、颯爽と通り過ぎていく。澄斗はぼうっとしたまま、危うく、歩いてくる生徒とぶつかりそうになった。ごめんなさい、という囁き声に、すみません、と呟いて席に着く。模範回答を眺めながら、緊張が解けて足に力が入らなくなる感覚を味わっていた。

 

 授業終了のチャイムと同時に、思いっきり伸びをした。後ろの小さな窓から見える空は、すでに真っ暗だ。

「すみー、お前今日の……」

 呼びかけた亮の声は、ドンッという低い音に妨げられた。

「あ、始まった!」

「急ぐよ!」

 途端に教室全体が浮き足立つ。澄斗は何が起こっているかわからず、怪訝な顔を亮に向けた。

「今日の花火大会行く? って聞こうと思ったんだけど」

 言っているうちにまた次の音が聞こえる。

「裏の浜の?」

 そういえば毎年この時期に、塾の裏手の海岸では小さな花火大会がある。地元の人々しか集まらない小さなイベントだが、中高生にとっては夏の楽しみの一つであった。

「見ろ、市野さんたちも行くっぽいぞ」

 声をワントーン落として亮が囁く。

「実は、授業前に杏果に頼んだんだ。お前が花火の時市野さんに告白するから、さりげなく協力してくれって」

「はぁぁ?」

 思わず出した素っ頓狂な声が教室中に響いた。

「ばか、静かに!」

 亮が慌てて腕を掴んでくる。

「あの人と話せるのはこれがもう最後だぞ。ワンチャン狙ってけ」

 大真面目に言ってから、途端いたずらっぽい顔になる。しかしそれが、この親友からの、最大限の声援であると、澄斗は気づいていた。

「もし盛大に振られてもな、俺が大声あげて笑い飛ばしてやるよ」


 浜までを歩く道のりも、逡巡がなかったわけじゃない。亮は会話のほぼ9割方において、実体験に基づく告白の仕方理論を披露してくれていた。それに上の空で相槌を入れつつ、澄斗は、冷静になろうと必死だった。

 次第に砂っぽくなってきた坂道を登り切った時、磯の匂いとともに、空に咲いた一つの小さい花が、目に飛び込んできた。周囲がわっと湧く。

「くっそ、電波悪いな……。ラインが送れない」

 どうやら杏果たちを見失ったらしい。眉間に皺を寄せながら青白いスクリーンを見つめる亮にひっぱられながら、砂浜を降りる。

「前の方に行けば、逆に見つけてくれるかも」

 途中で、普通のスニーカーで来たのを後悔した。小さな砂つぶは、ほんのわずかな隙間から忍び込んできて、靴をじゃりじゃりにしていく。たまたま女子三人を見つけた亮に手を引かれて走った時には、ほぼ足の半分が砂に埋まっているようながしていた。

「よ!」

 おそらく満面の笑みで輪の中に突っ込んでいった亮は、いきなり喉が渇いたと言い出した。

「おれー飲み物買いたいからー、杏果、ついてきてくれん?」

「いいわよー。私もちょうど喉乾いてたのぉ」

 明らかな棒読みである。伊織が眉をひそめたのが暗がりの中でもはっきりとわかった。

「あ! 私トイレに行きたかったんだー!」

 唯までがあさっての方向を向いて大袈裟な演技をしたものだから、澄斗は微かにため息をついた。以前にも感じたが、奴の言う“さりげなく”は全く当てにならないらしい。そそくさといなくなった大根役者三人組を唖然、と言った様子で眺めている彼女に、澄斗はおずおずと声をかけた。

「とりあえず、座ろっか」

 腰をおろした砂は、真昼の暑さを全く感じさせず、ひんやりと冷え切っていた。陸の非熱が小さいというのも頷ける。

 スポンサーの名前を陳列する女声アナウンスの後に、色鮮やかな花火が三発立て続けに上がった。

 リヤカー無きK村に……。思わず語呂合わせを舌の先で転がした。

「炎色反応?」

 呆れた笑い顔。花火が一つ弾けるたびに、彼女の横顔を明るく照らす。瞳の中に映る小さな光は、まるでよくできたレジン工作のようだった。

「しょうがないだろ、もうそういう脳みそなんだ」

 ぼやいて返す。緑、ピンク、紫。

「銅、リチウム……、紫はカリウムかな」

「市野さんだって同じじゃん」

 共有した一笑いが、気まずい雰囲気を少し和らげた。

 どうして避けてたの? 僕のこと嫌いになったの? 聞かなければならないことはたくさんあったのに、この優しい空気が壊れるのが怖くて何も言い出せない。

「ねえ、わたし前から思ってたんだけどさ」

 急な切り出しにどきっとした。うん、ととりあえずの相槌を返す。亮の告白講座で、この言葉から始めるべきだと教わったからだ。彼女が、まさか? 息を詰めて次の句を待つ。

「花火大会はね、最後の大型乱れ打ちの時の“地面”を見るのが1番綺麗なんだよ」

 彼女の口をついて出たのは突拍子もない意見だった。

「どういうこと?」

 落胆するとともにちょっと安心もした。まだ心臓が微かに跳ねている。今はとりあえず彼女が喋ってくれるのが嬉しかった。

「背景の空は真っ黒なのに、地上は遠くまで見渡せるくらい明るくなるの。空だけが黒い真昼っていうか? とにかく不思議な感じがして好きなんだ」

 夜空でニコニコマークが弾けた。わぁすごい、とか、可愛い、とかいう周りの歓声が聞こえる中で、澄斗は伊織の言葉の意味を咀嚼していた。

 アナウンスが最終演目を告げた。スポンサーはここらで有名な、大手保険会社。さぞかし派手なのをあげてくれるんだろう。

 一発目に上がったのは、花火といえば、といった感じの金色のやつだった。それを皮切りにどかどかと連続で上がる花火に、次第にあたりが明るくなってゆく。

「もう、最後だ」

 伊織の呟き。それに呼応するかのように、一際大きいのが、ほぼ同時に五発上がった。その瞬間、澄斗は息を呑んだ。

 あたたかい光で照らされた砂浜。沖に浮かべられた小さな船。そして、どこまでも続く水平線。それは、昼に海を見渡す景色と全く変わらなかった。しかし、空を覆い尽くすのは分厚いカーテンのような真っ黒い闇。

 それが見えていたのはほんの一瞬だった。遅れて鼓膜と腹を振るわす轟音が積み重なったあと、大地を照らしていた巨大な照明は、小さな残り火と共に名残惜しそうに消えていった。

「ほんとだ。黒い昼。綺麗だったと思う。あの一瞬しか見られないから、なおさら綺麗なのかもしれない」

 余韻が抜けきれないまま、海を眺めてつぶやいた。たどたどしい感想に隣の伊織がふっと笑い声を漏らした。

「言ってもわかってもらえないと思ってたから、今まで誰にも言ったことなかったの。すみー、あなためっちゃいい奴だね」

 チャンスは今しかない。そうはっきりとわかった。澄斗は海岸線から伊織に向き直った。彼女にもこちらの緊張が伝わったのか、すっと表情を固くする。心臓は早鐘を打って、喉のあたりが苦しく口の中はからからに乾いている。一つ、息を吸って最初の一語を吐き出した。


「僕、市野さんが好きです。初めて会った時から」


 空気を微かに震わせたのは、平凡な決まり文句。それができる精一杯だった。

 伊織が、笑った。底抜けに優しく、そしてどこか困ったような笑顔だった。

「ごめん、いきなり。忘れて!」

 慌てて無理やり明るい笑い顔を作る。ここで気まずくなってしまったら、もう、ただの友達にすら戻れない気がした。早くこの場から逃げ出したい。腰を浮かせて立ち上がりかける。

 と、いきなりぐいっと服の裾を引っ張られた。

「違う! 嫌だったわけじゃないの」

 彼女の目が数秒泳いでから、真っ直ぐに澄斗を捉えた。

「わたしね、今まで、誰かを好きになったことが、一度もないの」

 彼女はため息をつくようにそう漏らした。

「自習室で言った、“好きな人はいない”っていうのは嘘じゃない。わたしには、みんなが言うような、誰かを恋愛対象として好きになるってことがわからないんだ」

 世間の区別ではアセクシャルって言うらしいよ、と、他人事のように述べる口調には、どこか諦めが感じられた。

「だからといって、すみーのことをなんとも思わないわけじゃない。一緒に話すのは楽しかったし、わたしが言う変な自論も聞いてくれて、考えてくれるのは嬉しかった」

 だからこそ、傷つけたくなかった。どれだけ澄斗が自分を思っていても、常人のやり方でそれに応えることはできないのだ。

「説明しても、理解してもらえないと思ってた。目に見えない気持ちの話だしね。だから、気づいてから、ずっとあなたを避けていた。ごめん」

 君は悪くない、と言おうとしたが、それは伊織が継いだ言葉に妨げられた 

「こう言うのはすごく卑怯かもしれないけど聞いてほしい。もし、わたしと付き合うことになっても、きっと恋人らしいことは何一つできないと思う。手を繋いだり、抱き合ったり、好きだって言い合ったり。全てはわたしにとって意味を感じられない行為だから」

 “普通の恋愛” はできない。これが伊織の答えであった。

「でも、わたしはわたしなりの方法で、確かにすみーのことを大切に思っている。それでもよければ……」

「それでいい! いや、それがいいんだ!」

 その言葉は、こちらが言いたかった。

「一緒にいろんなことについて考えて、議論して、笑い合う。それが僕にとって、一番大事なんだ! 僕と付き合ってください!」

 伊織の小さなうなずきに、思わず躍り上がりたい気持ちだった。諦めなくてよかった。亮、ありがとう。杏果も唯も。

 すでに人の引き始めた浜を吹く涼しげな風が、静かに、通り過ぎていった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初夏、君を思い、学ぶ。 篠橋惟一郎 @shinohashi10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画