第78話:二度目の初恋

 歩みを進めて辿り着いたのは高台に位置する古びた神社。

 天国まで届くかと錯覚するほど長い階段を登り切った先で、彩心真優をそっと下ろし、俺は苔むした石の上で大の字に寝転んだ。夜のひんやりとした冷たさが、疲れ切った体に心地よく染み入る。この神社に祀っている神様の力ではないことを祈るばかりだ。

 神聖な場所で寝そべる行為は罰当たりかもしれない。もしも罰が当たるとしても、今回ばかりはこの街の女神様・彩心真優の笑顔に免じて許してくれるだろう。

 俺がそう確信しながら、額の汗を拭っていると——。


「お疲れ様、時縄くん」


 蹲み込んだ彩心真優が浴衣の隙間から白い足首をのぞかせながら呟いた。

 儚げな光に照らされた姿に、俺は思わず心を奪われそうになってしまう。


「お前のほうこそ大丈夫か?」

「おかげさまで大丈夫。足の痛みも結構引いてきたから」


 肌に触れる石の表面は夏特有の湿った空気のせいで夜露に濡れ、僅かに月の光を反射して冷たい輝きを放っている。

 昼間の強い日差しに温められた空気が嘘のように。


「悪かったな。今日はお前を連れ回しちまってさ」

「ううん、別にいいんだよ。とっても楽しかったから」


 満面の笑みを浮かべ、ピースサインを送ってくる彩心真優。

 予備校では決して見せない眩しい笑みに、俺は「ふっ」と鼻で笑ってしまった。

 やれやれ、情けないことにすっかり息も絶え絶えだ。喋るのも辛いぜ。

 もしかしたらさっきまで食ってたものを戻しちまうかもしれない。

 情けない姿をこれ以上見られたくないと思い、俺は神社の裏側を指差しながら。


「お前は花火を見てこい。無事に間に合ったんだから」


 ここまで来たのは、彩心真優のためだ。

 彼女は「来年この街に戻ってこない」と言った。

 今日が地元で迎える十代最後の夏祭りだと。

 だからこそ、俺は少しでも彼女にもっと楽しんでほしかったのだ。

 こんな田舎町も悪くないだろと。

 お前が一秒でも早く出ていきたいこの町にも良いところがあるんだぞと。


「嫌だよ。折角ここまで来たんだから一緒でしょ?」


 彩心真優が手を伸ばし、俺の腕を掴んでくる。

 もう動きたくなかった。全身汗だらだらで、今にも倒れそうだ。

 日頃の運動不足が祟っているのは承知の上。

 しかし、こんなにも体力が衰えているとはな……。


「お前が喜ぶだろうと来たんだぜ。台無しにする気かよ?」

「私一人じゃダメなんだよ」


 彩心真優は潤んだ瞳を浮かべ、真っ直ぐな言葉を投げてきた。


「時縄くんと一緒じゃないと、今年の花火は意味がないんだよ」


 絶好の場所で花火大会を見てもらいたい。

 その一心でここまで連れてきたのに、彩心真優は全く動こうとしない。

 やれやれ、誰のためにここまで俺がしてきたと思ってるんだか。

 溜め息を吐きつつも、彩心真優が強情な女であることは分かりきっている。

 一度決めたらこの女の意思は、てこの原理でも動こうとしないのだ。


「まぁ、折角だしな。お前だけ特等席で見るのはズルいからな」


 俺は口元を僅かに緩めて、ワガママな少女の願いを聞くのであった。


◇◆◇◆◇◆


 石段を数段登った先にある赤い社殿。

 参拝客がなけなしのお金を入れた賽銭箱を通り過ぎ、俺たちは裏手へと回る。

 柱や屋根を支える木材が歩を進めるたびに「ギィギィ」と音を立てた。かと言って、壊れそうな気は全くしない。


「あ、凄い!! ここから会場が一望できるんだ!」


 夏祭り会場は遠目からでもわかるほどに、人々がごった返し、様々な光が集まっていた。

 何処からともなく、人々の花火を待ち望む声が聞こえてくる。

 まだ打ちあがってもいないのに、会場内は熱気に包まれているのだろう。


「ここが特等席だ。俺が知る限りはな」


 社殿を取り囲む木製の柵。

 その隙間から足を出し、俺たちはジッと花火の登場を待つことにした。


「花火まだかな?」


 今か今かと待ち望むと、余計に待ち遠しくなる。

 彩心真優は頬をぷっくらと膨らませ、子供のように首を傾げた。

 疑問を投げかけた彼女に対し、俺は冗談交じりに答えた。


「さぁ、もしかして終わってしまったりして」

「いや、流石にそれはないでしょ!」

「無我夢中で走っている間に終わっている可能性はあるだろ」


 夜の寂しさが紛れるまで二人で言い合いをした頃、それは突然現れた。

 流れ星のように唐突に。俺たちへ心の準備さえも与えぬままに。


「「あっ!!」」


 静寂を破るように、夜空へと伸びた一筋の光が風を裂いて駆け上がる。まるで星々の囁きに導かれ、宇宙の果てを目指すロケットのように。途端にその光は止まり、瞬く間に無数の輝きを放ちながら、闇のキャンバスに大輪の花が咲き誇らせた。

 その数秒後、夏祭り会場から花火を眺めていた人々の歓声が何処からともなく聞こえてきた。

 何者にも縛られない自由な空間に咲き誇った赤と黄が入り混じる花びらは、風に揺られて儚く散り、星の粉となって夜の帳へ溶けていく。わずかな余韻を残しながら、再び闇が訪れると、まるでその一瞬の美しささえ幻だったかのように、空は何事もなかったかのように静まり返るのであった。


◇◆◇◆◇◆


「私、今日の花火のこと絶対に忘れない。一生の宝物にする」


 次から次へと打ち上がる鮮やかな光の玉を眺めながら、彩心真優はそう断言した。

 一生の宝物とまで言われるのは大変嬉しいことだった。お世辞かと思いつつも、彼女の表情を見るに、本気でそう言っているのだと分かった。

 空を彩る光の花に照らされ、隣に座る少女の黒髪が艶やかに輝く。


「この街のことは大嫌いだけど、今日の花火だけは好きになれそうだよ」

「この街が嫌い? どういう意味だ?」


 俺が疑問を投げ掛けると、少女は「はぁ」と深く息を吐いた。

 強い風が吹き渡り、神社の下に生える鬱蒼とした木々がざわめく。

 宇宙から送られてくる自然の光と人々の努力が滲む結晶の光に包まれた空間で。


「私はね、この街に束縛されて生きてるんだよ」


 自分と同じ歳の少女はそう哀しげに言葉を発した。

 彩心真優と出会ってから月日が浅い俺には到底彼女の苦しみなど分からない。

 ただ自由奔放に生きているようにしか思えない彼女にも、何かあるのだろう。

 それなりの事情とやらが。

 彼女がこの街を離れたいと願う理由が。


「束縛? 何かあったのか?」

「それなりにね」

「何があるのか聞いてもいいか?」

「聞いても面白い話ではないよ?」

「それでもいいさ。お前の心が少しでも軽くなるんだったら、それで」


 聞いたところで、彼女の問題が解決するはずがない。

 それは分かりきっている。俺の力でどうにかできるほど簡単な問題ではないと。

 しかし、目の前の少女が少しでも笑えるようになるのなら本望だった。


「私の家はさ、代々医者家系でこの街ではそれなりの権力があるんだよね」


 一般家庭に住む俺には全く縁がない話だった。

 容姿に優れ、周りにも頼られ、学業や文化活動でも好成績を残す才女。

 彩心真優は周囲の期待を受け、それを跳ね除けるように全てを完璧に答えてきた。

 ただ、彼女にとって、その生き方はあまりにも窮屈に感じてしまうようだ。

 どこに行っても「彩心家のお嬢様」「彩心家の娘さん」「大学病院の院長の娘」と言われ、【彩心家の人間】であることを求められてしまうそうだ。


「だから、私はこの街を出て、自由に生きてみたいんだ」


 この街を出れば、果たして本当に彼女は自由になれるのだろうか。


「この街にいる限りは、私は本当の自分になれないと思うから」


 この街にいる限り、彼女は本当の自分になることはできないのか。


「誰も知らない場所に行きたいの。そこで人生をやり直したいんだよね」


 同じ歳の少女が語る切ない願いは、夜空を彩る花火の音に掻き消された。

 それは紛れもない伝統を守り続けた奇跡の足跡であった。


◇◆◇◆◇◆


 夜空を彩る光が消え、月明かりだけが照らす頃。

 俺は手元の柵を掴み、座っていた木製の板から立ち上がる。

 突然立ち上がった俺を見て、彩心真優は「もう帰るの?」という眼差しを向けてくる。まだ彼女は余韻に浸りたいのかもしれない。だが、俺には用があるのだ。


「今日はさ、結愛の誕生日なんだよ」

「誕生日?」

「あぁ、だから今から結愛のところに——」


 最後まで言わせてくれなかった。

 彩心真優はジッと何も映らない空を眺めながら。


「行ってあげなよ、結愛さんのところに」

「いいのか?」

「いいよ、別に。都合が良いことだけが取り柄の女だから」

「悪いな。だが、ここで女の子をひとりぼっちにさせるほど俺も悪い男じゃない」

「優しくしなくてもいいのに」

「ただの自己満だから気にするな。階段を降りるまでは一緒にいるよ」


 神社の表に出る。

 赤い鳥居が聳え立っていた。雨風に晒され、時間の経過が垣間見せる。


「あ、そういえば……スマホ返してくれよ」


 俺がそう訊ねると、彩心真優は肩を震わせて立ち止まる。

 俯きがちになりながらもスマホを返してくれた。

 ふと画面を見る。そこに表示されていたのは——。


【結愛・不在着信】

【結愛・不在着信】

【結愛・不在着信】


 愛しの彼女から入った電話の数々。

 もしかしたら、電話越しで俺と一緒に花火を見ようとしていたのかもしれない。

 この街のどこに居ても、あれだけ大きな花火ならば見ることができるのだから。


「結愛も俺と一緒に花火を見たかったんだな。気持ちは一緒だったわけか」

「……………………」


 夏特有の湿気が多い空気が変わり、冷気が肌を触れる。

 風も消え、騒がしく揺れ動く木々も止まった。


「……私と花火を見てるとき、そんなこと思ってたんだ」


 えへへへへと口元だけで笑うものの、隣の少女は瞳を全く動かさない。


「私じゃなくて、あの子と一緒に見たかったって」

「……いや、そ〜いうつもりじゃないよ」

「いいよ、別に。私はあの子になることはできないんだからさ」


 切なげに話す黒髪少女の頬から滴が落ちる。

 彼女はそれを拭き取ることもなく、俺へと温かい眼差しを向けて。


「ほら、早く……あの子のところに行ってあげなよ」


 声色は明るいのだが、俺のちっぽけな心を責め立ててくる。


「私よりもあの子が大切なんでしょ?」


 弁解するべきか。

 そう戸惑いつつも、俺は決意を固めた。

 本懐結愛の元へ向かおうと。

 涙を流す少女を置いて、一人立ち去るのは男として恥すべき行為だ。

 それは当然だが、他人に涙を流す姿を見られたくないだろう。


「ごめん」


 俺は謝罪の言葉を述べ、自分の想いを告げる。


「ただ信じてほしい。俺も一生忘れないよ。今年の花火をお前と見たことは」


 俺みたいなダメな男に儚い恋心を抱いてくれた少女と花火を見た一夏の記憶を。

 俺は夏を迎えるたびに思い出すのではなかろうか。そう思いつつも、俺は踵を返して、神社の階段を降りようと試みる。


「————————ッ!!」


 しかし、その瞬間——柔らかな感触が背中に重くのしかかってきた。

 白い腕が伸び、俺の首筋へと回る。

 突然の事態に俺は身動きが取れないまま、立ち尽くすことしかできなかった。

 蚊が鳴くほどに小さな声が、俺の耳元で囁いてきたのだ。


「——行かないで」


 その切実な想いに応えたい気持ちはある。

 だが、俺には好きな人がいるのだ。愛すべき人がいるのだ。

 子供の頃から大好きで大好きで堪らない幼馴染みの本懐結愛が。


「…………ど、どうして言っちゃうんだろう。本当バカだ、私……」


 後方から抱きしめる少女は鼻声でそう言い、俺の背中に顔を埋める。


「こんなことを言っても無駄だってわかってるのに」


 鼻を啜る音が聞こえ、微かに震えながら切ない言葉が耳元で囁かれる。


「時縄くんは、あの子のことしか眼中にないってわかってるのに」


 それでも、と声を絞り出すように、少女は次なる言葉を吐いた。


「それでも……私、まだこの感情を捨てることができないんだよ」


 その言葉と共に彼女は急激に力を入れ、俺の動きを完全に止めてしまう。

 細い腕に華奢な身体。どこにそんな力があるのかと思えるほどの強さだ。

 俺は優しく彼女の腕を振り解こうと試みたものの、彼女は一向に離してくれそうにない。行動でダメなら、言葉で説得するしかない。そう思い、俺は苦し紛れに言う。


「俺には結愛がいるんだ。ごめん、その想いには応えられない」

「ただ一緒に居ただけじゃない? ただ過ごした時間が長いだけでしょ?」


 子供の頃から俺は結愛と同じ時間を過ごしてきた。

 他の誰よりも彼女と共にいた。

 それは「ただ」という言葉で片付けてもいいのだろうか。


「時縄くんと出会ったのは、私の方が遅かったかもしれない」


 俺と彩心真優が出会ったのは今年の四月だ。

 実際にお互いを知ったのは、数ヶ月前。


「でも、この先の人生のほうが長いんだよ」


 そう呟き、彩心真優は背伸びを行う。

 下駄と石段が擦れる音が静寂な夜に響く。


「だから今の長さなんて関係ない」


 俺の耳元で甘い言葉を囁き、少女は更なる言葉を吐いた。


「あの子以上にキミを幸せにしてあげるから。だから、私に夢中になってほしい」

「ちょっと待てよ。お前……言ったじゃないかよ。もう諦めるって」


 俺の言葉など無視して、彩心真優は俺の上半身を撫で回してきた。


「……諦めきれなかった。諦めようと努力したけど、やっぱり大好きなんだもん」

「だからって……俺がお前のことを好きになるとは——」


 言葉を続けようとした瞬間、俺の声は途中で止まってしまった。

 俺よりも身長が低い少女に顎を握られ、振り向き様に口を塞がれてしまったのだ。

 不意打ちなキスには抵抗の仕様がない。

 俺は彼女を突き放そうとするものの、彼女は余計に強くしがみついてくる。

 唇を閉じ、必死に抵抗するものの、それは時間の問題であった。

 人間は欲望に弱い生き物らしく、俺は彼女の舌を口内で受け入れてしまう。


「あの子はこんな激しいキスしてくれないでしょ? 求めてくれないでしょ?」


 本懐結愛が好きだ。

 その言葉に偽りはない。

 心の底から俺は本懐結愛を愛している。

 けれど、それと同時に——。

 俺はもう一人の少女にも恋をしているのかもしれない。

 これは決して抱いてはいけない感情だとはわかっている。

 ただ、この迸る想いを抑えることができないのだ。


「もっと気持ちよくしてあげる。もっともっと私を感じて欲しいから」


 交わした唇の感触がねっとりと熱くなる。ベロを出し、お互いの唾液を交換するような接吻。舌先を絡め合い、お互いの愛を確かめ合う。

 彼女持ちの俺が、他の女とキスを行う。それは最低な裏切り行為だと理解している。脳内では「ダメだ」「やめろ」「何をやってるんだ」と理性が訴えている。

 しかし、本能が求めてしまうのだ、更なる快感を。更なる興奮を。


「時縄くん、もっと舌を出して。うん、そうそうもっと気持ちいいことしよっか?」


 甘くて優しい悪女の誘惑に乗り、理性を失った俺は彼女の言うことを聞く。

 相手を思い遣る気持ちがあるからこそ、優しく、けれど乱暴になってしまう。

 相手を少しでも感じさせたくて。相手を少しでも気持ちよくさせたくて。


「だからさ、あの子と別れて、私と付き合おうよ。時縄くん」

「何を言ってるんだ、俺は。俺には……結愛が」

「でも、あの子もう死んじゃうんでしょ? あの子と一緒に居ても破滅の道を辿るだけだけ。どうせ死んじゃう子を好きになっても辛くなっちゃうだけでしょ?」


 八月二十五日、最愛の彼女——本懐結愛の誕生日。

 地元で最大の夏祭りが開かれ、多くの恋人が愛を囁く日。

 悪い女の言葉に惑わされ、俺の心は揺れ動く。

 いつの日か必ず訪れる最愛の彼女が死ぬ絶望を突きつけられて。


「人生はもっと上手く生きないとダメだよ、時縄くん」

「もっと上手く生きるって?」

「遊んだ者勝ちっていうでしょ? もっと人生を楽しまないとダメだって」

「もっと遊ぶ? もっと楽しむ? 何をするっていうんだよ」

「あの子と付き合いながら、私とも付き合っちゃえばいいんだよ」

「…………俺に二股しろっていうのか? お、お前は……」


 悪女・彩心真優のあまりにもバカバカしい話に、俺は思わず声を上げていた。

 彼女本人は嫌な気がしないのだろうか。二股されることに対して。

 彼女は得意気な表情で言う。まるで、自分の勝利が確定しているかのように。


「私は都合のイイ女でいい。でも、その代わり私にも少しだけでいいから……」


 大好きな人に愛されたい。

 その一心に飢える少女は続けた。


「私のことももう少しだけ愛してほしい。二人の邪魔はしないから」


 俺は、この日——人生で二度目の初恋を迎えるのであった。


◇◆◇◆◇◆


 まだ食べ足りない。

 そう話す二番目の彼女の言うことを聞くため、俺たちは夏祭り会場へと戻った。

 夏の風物詩ともいうべき打ち上げ花火が終わり、あれだけ煌びやかに並んでいた出店の殆どが閉店しており、客足も少なくなっている。


「閉店セール中だって!! 焼き鳥1本100円は安いし急ごうッ!!」


 この世で二番目に愛する彼女にそう促され、俺は食糧確保へと向かう。


「よしっ!! これだけ買えばもういいだろ? 帰ろうぜ、真優」


 彩心真優の自宅に戻り、そこで二次会を開く計画になっていた。

 結愛の病室に行こうと思っていたが、夜がもう遅いのである。

 結愛のことだし、もう寝ているかもしれない。

 そもそも論、病院は夜間帯に面会をしてはならないのだ。

 そう自分に言い聞かせ、俺は明日結愛の元を訪ればいいだろうと割り切っていた。


「……えへへへ、何か幸せだなぁ〜。私にも彼氏ができるなんて」

「二股するようなクズ彼氏だぞ? それでもいいのかよ?」

「幸せだよ。心臓の鼓動が鳴り止まないんだもん」

「都合のイイ女扱いされるだけの人生を歩むかもしれないのに?」

「大丈夫だよ。あの子よりも私のほうが魅力的な女の子なんだから」

「だから?」

「勇太くんが好きになるのは、時間の問題だから。私の魅力に気付いてね」


 異なる女の子と同時に付き合う。それは許されないことだろう。

 でも、俺がこの世で一番好きな女の子は、きっと長くは生きられないだろう。

 その関係がいつの日か「無」に返るのならば、もっと楽しんだほうがいいはずだ。

 彼女を愛せば愛すほどに苦しい思いをしなければならないのは俺なのだから。


「ん? 何だ、あれは?」


 今から楽しい二次会をする予定なのに、俺は前方の人垣が気になってしまった。

 周りの反応を察するにざわざわと騒いでいるのが分かる。

 耳を傾けると、どうやら誰かが倒れているのだけは伝わってきた。

 背中からジワッと汗が吹き出し、俺の汚れた心を逆撫でするように流れ落ちる。


「女の子が倒れてるっぽいね……それも病衣を着て——」


 話し声から集めた情報を述べる彩心真優を置き去りにし、俺の足は勝手に動いていた。呼び止められるものの無視を貫き、俺は人の壁を掻き分け、中心部へと向かう。

 結愛じゃない。結愛のはずがない。結愛は病院に居るんだ。

 そう思い込みたかった。でも、脈の鼓動は勝手に早くなる。

 進めば進むほどに嫌な空気が自分の喉元を掠め、上手く呼吸ができなくなった。

 人垣を掻き分けて辿り着いた先には——。


「結愛ッ!! 結愛ッ!!」


 この世で一番大好きな最愛の彼女——本懐結愛が倒れていた。

 土が付着した病衣を身に纏い、足下には病院から支給されたスリッパ。

 こんな姿で、どうしてこんなところに——。

 その問いが頭を過ぎるも、今はそれ以上にやらなければならないことがある。


「邪魔だッ!! 全員彼女から離れろ!! 俺の彼女に手一本触れるなあああ!!」


 地元の夏祭り大会中に、可愛らしい女の子が倒れる。

 その出来事は、何の面白味もないのどかな田舎町では格好のネタなのだ。

 多くの人間が十代の女の子が倒れている状況を目撃しているのに、何か面白いことが起きたとでもいうように、スマホを向け、彼女の姿を撮影するのである。

 その中には、野次馬精神がある人間や生身の女に触れたい輩もいるらしく、結愛の肌に触れようと手を伸ばす者さえもいた。


「ぬああああああああああああああああああああああああああああ」


 だから俺はそんな奴等に殴りかかるのであった。


◇◆◇◆◇◆


 夏祭り会場に救急車が到着後、結愛は病院へと搬送された。

 付き添いという形で俺も同じ救急車に乗り、結愛は精密検査を受けることに。

 医者の診断結果を聞くに——今回もまた発作を起こしたようだった。

 眠り姫状態の愛する彼女の隣で、俺は両手を合わせて神様に願う。


——お願いします、結愛を助けてあげてくださいと。


 その願いが叶ったのか、結愛は目を覚ました。

 それは、暗がりの空が赤く染まる朝方の出来事であった。

 俺はナースコールを押し、医者と看護師が現れるのを待つ。

 詳しい検査を行うということで俺は病室の外に出る。

 三十分ほど待っていると、医者と看護師が出てきた。

 特に問題もありませんとのことだった。俺は「よかった」と安堵の声を上げつつ、結愛の元へと急いで向かう。

 淡い朝焼けが病室の窓から差し込み、結愛の横顔を優しく照らしていた。

 その静かな光景に彼女が目覚めるまでの長い夜が報われた気がする。

 外を眺めていた視線をこちらへと向けて、彼女は曖昧な笑みを浮かべてきた。


「ごめんね、あたしのせいで……また勇太に迷惑をかけちゃって」

「何を言ってるんだよ」

「あたし、勇太と一緒に夏祭りに行ったのに途中で倒れちゃったんでしょ?」


 俺は結愛と一緒に夏祭りへ行ったわけではない。

 俺の隣にずっと居たのは、彩心真優だった。

 だが、目の前に居る少女は記憶が混濁しているらしい。

 俺と一緒に夏祭りに参加し、その途中で倒れたと思っているようだ。


「結愛」


 俺は彼女の名前を呼び、ゆっくりと愛する彼女を抱きしめた。

 二番目の彼女とは違い、柔らかさよりも骨張った感触が残る抱き心地だ。

 俺は彼女の髪を優しく撫でつつ、記憶を改竄してしまった儚い少女に告げた。


「無理しなくていいんだよ。結愛との思い出は俺の心にずっと残ってるから」と。


 俺の言葉を受け、彼女は涙を流した。

 簡単に俺の言葉に騙される彼女を見て、俺は思わず笑いそうになる。

 演技派の俺は込み上げてくる笑いを押し留め、ポケットからとある物を取り出す。


「本当は昨日渡すつもりだったんだけど、ごめん」


 それは——。

 一泊二日の小旅行中に、彩心真優と共に集めたガラスの破片で作った一品。

 ネックレスを作るか、ブレスレットを作るかで悩みに悩み、俺は結局前者を選んだ。

 貝殻も拾っていたのだが、予想以上に加工するのが大変で使わなかった。

 満月のように真ん丸な水色のシーグラスを研磨剤で何度も磨き、表面を光り輝かせている。それに穴を開け、紐を通して結べば出来上がりである。

 安上がりで、誰でにも作ろうと思えば作れる代物だ。

 しかし、俺が世界で一番愛する彼女は「ありがとう」と感謝の念を伝え、「大好きだよ」と愛を囁いてくれるのであった。

 俺もそのお返しに、愛する彼女へと「俺も大好きだよ、結愛のこと」と返した。



◇◆◇◆◇◆



【本懐結愛視点】


 最愛の彼氏と別れを告げ、一人残された本懐結愛はネックレスを見つめていた。

 どんな空や海よりも透き通ったスカイブルー色のシーグラス。

 彼がこれを作ったのは——。


(あたしが水族館に行ったとき、アクセサリー教室に参加したいと言ったからだ)


 ただ、その日は完全予約制で参加はできず終いになってしまったけれど。

 そのことがあったから、彼は自分のために作ってくれたのだ。

 これを作るために、どれだけの時間が使われたのかは分からない。

 ただ素人ながらに苦労したのが物凄く伝わってくる。

 本来ならその時間をもっと勉強に使えと叫びたくなるものの——。


(それだけ……あたしのことを愛してるってことだよね……?)


 最愛の彼氏から受け取ったネックレスを掴み、結愛は頬を緩めてしまう。

 丘の上にある病院の周りには木々が立ち並び、朝早くから蝉の声が聞こえてくる。

 朝一番に愛する彼氏に出会えたことに歓喜しつつ、結愛は彼氏が病院から出て行くのを眺めることにした。

 愛する彼氏は知らないが、結愛の病室からは病院の入り口が見えるのだ。

 愛する彼氏の姿が病院から出てくるのを見て、思わず口元が緩む結愛。

 しかし、次の瞬間には、その笑みはぐにゃりと曲がってしまっていた。


「…………あの女が、どうしてここにいるの?」


 あの女。

 病衣を身に纏う少女が悪意を持って言い放つのは、彩心真優のことだった。

 最愛の彼氏と同じ予備校に通い、同じく医学部を目指す才女らしい。

 自分とは違い、全てを手に入れる彼女の話を聞き、何度羨ましく思ったことか。

 何度、彼女のことを妬ましく思ったことか。何度、彼女を——。


「あれれ〜?? 何を楽しそうに話してるのかなぁ〜? 腕まで組んじゃってさ」


 遠ざかる二人との距離。

 ただその場所からでもハッキリと見える。

 自分以外の他の女と、世界で一番愛する彼氏が仲睦まじそうに腕を組む姿が。

 それに、あの女が浴衣を着ており、その手には出店で購入したと思う大量の紙袋があることに。それを押し付けるように、自分の彼氏に食べさせているのを。


「どうして満更でもない顔をしているのかな? 勇太」


 彼女以外の女と腕を組まれて、更には食べ物を恵んでもらって。

 それってさ、嫌なことじゃない?

 彼女以外の女に無理矢理そんなことされたら嫌だよね?

 拒否反応が出るのが普通のことだよね?

 それなのに、何を……普通に笑みを浮かべて、普通に食べてるのかな?


「あたしのこと……好きなんだよね? あたしのこと好きなはずだよね……?」


 結愛は震える声でそう囁き、手元のスマホを掴んだ。

 何度も着信履歴があった。

 そこには、【勇太・着信拒否】の文字が並んでいた。

 あの日、自分は愛する彼と一緒に居たのではないのか。

 それならば、何故自分は彼へと何度も電話を掛けていたのか。

 謎が深まるばかりだが、今はそんなことどうでもいい。


「どうして出ないの……? どうして出てくれないの?」


 頬を伝うのは涙なのか、それとも夏の暑さに負けて出てきた汗なのか。本懐結愛には分からない。ただ、一度も感じたことがない欲が、自分の心に芽生えてしまった。

 多分、この感情に名前を付ければ、こういうのだろう。


「あたしよりも……やっぱりあの女なんだね」


 嫉妬である。

 生まれて初めて、本懐結愛は自分の心に出てきた悪意ある感情に苛立ちを隠せなかった。あまりにも自分が未熟で、あまりにも自分が気持ち悪い感情が出てきてしまったのだから。


「嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き」


 手元の枕を掴み、それに対して、容赦無く殴りかかる。

 ボフボフと埃が舞うだけで、それ以上は何も変わらない。

 殴るたびに、逆に自分の感情が昂り、苦しいほどに胸が痛くなる。


「嘘吐き……嘘吐き……んあ、あああああああ!! 」


 彼氏に裏切られた。

 その感情は全くといっていいほどに湧いてこなかった。

 ただ、自分の存在価値が否定された。

 そんな気がして、本懐結愛は「自分が生きる意味」を見失ってしまった。













——夏編『時縄勇太は最愛の彼女と悪女の間で揺れ動く』——


——夏編完結。秋編へと続く——



————————————————————————————————————

 作家から


 ここまで読んでくれた方々には感謝しかありません(´;ω;`)

 本来ならば細かく分量を分けて投稿するのがいいのかもしれませんが……。

 今回の1話だけはどうしてもまとめて投稿したくて、このような流れにッ!!


——恒例の振り返りコーナー——


第72話


 受験勉強の方法を語りつつ、結愛と「一緒に夏祭りへ行こう」と約束する話。

 時縄勇太が「本当に自分は医学部を目指す意味があるのか?」と悩みつつも、本懐結愛が死ぬ未来を考えないためには勉強するしかない葛藤がいいよね。


第73話


 この回もまたしても、受験勉強の方法を語る回。

 その後、真優視点に飛び、「先手を打たれちゃったなぁ〜」みたいな部分がいいよね。悪女っぽい真優を書きたいと思い、執筆しましたが……。

 悪女になりきれず、まだ乙女な部分が残る彩心真優に恋をしてしまう。


第74話


 予備校の昼休み中にコンビニでおにぎりを選ぶシーン。

 毎回大広間教室のイチャイチャシーンだけでは飽きるだろう(マンネリ化を拭ない)と思い、このような形にしてみましたが……我ながらこのチョイスは神ってましたね。

 また、受験勉強の方法を前2話で語り、その結果を書いた回でもある。

 時縄勇太の人生は右肩上がりなのだが、本懐結愛の人生は右肩下がりなのも辛い。勇太が幸せになるたびに、結愛が不幸になる展開を書きたかったのである。


第75話


 病弱だけど健気な結愛に本気で恋してしまう展開。

 本音を語ると、勇太が真優と一緒に夏祭りに行く大義名分を作るための回。

 彼女持ちなのに、他の女と夏祭りに参加するのは浮気だからね(´;ω;`)


第76話


 自由奔放な彩心真優を描きつつも、祭り会場で本懐結愛を見つけるシーン。

 下書き段階では——。

 勇太と結愛は目が合い、勇太の隣に真優がいることを知る。

 雑踏した空間の中で、結愛の唇が動き——。


「どうして?」


 という言葉だけが、口元を見ただけで分かってしまう。

 で、その後——真優が勇太を引っ張って、結愛から逃げることに。

 ただ、後ろめたさがある勇太は結愛と連絡を取り、彼女の元へと行こうとする。でも、それを真優が引き止めて……という第78話みたいな展開になる予定でした。


第77話


 最高の夏祭りにするために、勇太が真優を特等席へと向かうシーン。

 途中、結愛から電話がかかってくるも、真優が勇太のスマホをマナーモードにしてしまう。これだけのシーンでも、真優の可愛さが滲み出る展開でした!!


第78話


 私の本気。

 これ以上面白い話を書ける気がしない。

 ただ、秋編・冬編はこれを超えなければならない事実。


最後に——


 投稿頻度が遅くて大変申し訳ない。

 ただ、手を抜きたくはない。最高に面白い小説を提供したいのだ。

 最後の最後まで目が離せない展開を書く予定。

 今後は修羅場が続くし、読者の心を容赦無く壊すような展開もある。


 今なら……まだ引き返せるぞ(´;ω;`)

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忘れちゃいなよ、初恋なんて 平日黒髪お姉さん @ruto7

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