第4話 解決編

私は例の絵本を手に取って、めるこの前に掲げてみせた。


「この本、大事なのはタイトルや中身でも、描かれた絵でも、中に貼られた住所でもなかったの」

「え……」

「本当に大事だったのは──これ」


 くるり、と絵本をひっくり返す。

 艶のあるネイビーの、空っぽの夜空が描かれた裏表紙。


「この裏表紙の色……見覚えない?」

「え? 待って、よく見せて……えっと……」


 めるこの瞳がじっと裏表紙を見つめて、なにかを思い出すような色をする。数秒後、ぱちり、と睫毛がまたたいて「あ!」と彼女は私を見た。


「これ、智くんの鞄の、裏地の色!」

「そう。艶のある、深いネイビー。すごく良く似てる」

「でも、色が一緒だからってなんなの?」

「一緒なのは色だけじゃないよ」


 そう言うと、私はトートバッグを手にとって、視線よりずっと高いところまで掲げた。シーリングライトの逆光を背負って、バッグのシルエットがくっきり際立っている。


「見て、ここ。ちょうど同じ形」


 私はバッグの底面に、ぴたりと絵本を押し付けた。1リットル牛乳パックとよく似たサイズの、独特の細長い形状。それはこのバッグの底と、まったく同じ形、同じサイズだった。


「ほんとだ……」


 めるこが目を丸くする。私は掲げていたバッグを下ろすと、その中に絵本を収めた。ぎゅっと押し込めば、本はぴったりとバッグの底部にフィットする。


「色も形も一緒だから、パッと見ただけじゃ、ここに本があるなんて気付かないよね」

「それはそうだけど……なんのために?」

「ここからは推測だけど……彼はこの本で鞄を二重底にすることで、その下になにかを隠したかったんじゃないかな。無断でバッグをあさるような〝誰か〟に、『それ』が見つかったらまずいから」

「え……見つかったらまずいって、まさか、浮気──」


 さあっ、とめるこの表情が青ざめる。私はどう言ったものか悩んで、顔をしかめた。


「彼がなにを隠したかったのか、正確なことはわからない。ただ、持ち物が絵本と財布だけだったのなら、それはもう相手に渡してしまったか、まだ手に入れていなかったか、どちらかだと思う。あなたの目を警戒したってことは、たぶん後者かな。そしてこんなことになっても『相手』が名乗り出ないってことは、あなたが危惧したような事態になっていたか、あるいは──」

「っ……」


 めるこの瞳が、絶望的に見開かれる。へなへなと細い身体がうなだれて、まるで彼女の全身から、魂や生気といった、生きるために必要なエネルギーが全て抜けてしまったようだった。


 私は慌ててめるこの両肩を掴むと、前後にゆすった。


「ちょっ、今『あるいは』って言ったでしょ⁉ 続き、続き聞いて!」

「…………」


 だめだ、ぜんぜん聞いてない。もっと言い方を選ぶべきだったか。

 めるこは呆然と目を見開いたまま、床の上にへたりこんでいる。私はどうしたものか悩んで、たとえまだ不確かで、根拠のない推測でも、彼女のための推理を述べようとした。


 そのとき。

 めるこのポケットから、ピロン、と音が鳴った。メッセージアプリの着信音。


 めるこがゆるゆるとスマホを取り出す。死んだような目をしたまま、派手なネイルの指先が何度もスワイプを繰り返して、そして。


「──え?」


 ぽつり、と小さな声が落ちた。


 ゆるゆると、めるこの顔が持ち上がる。病み系のメイクを施した瞳がゆっくりとまばたき、丸くなった目が私を見た。


「ど、どうしたの」

「智くんの、妹ちゃんから、連絡が……見て、これ!」


 ばっ、とスマホを突きつけられる。

 そこには、メッセージと数枚の写真が添えてあった。


 事故現場付近の百貨店のアクセサリーショップから『予定を過ぎても商品を取りに来ない』と連絡が来た。

 注文していたのは写真の商品で、よかったら引き取ってあげてほしい。



 添付されているのは──ペアリングの写真。

 リングの内側に、刻印が掘られている。




『Love Forever Tomo to Melco』




「──ッう、うぅうう……っ!」


 その途端、今まで一度も涙をこぼさなかっためるこの瞳から、ぼろっ、と一粒の雫があふれて、落ちた。けれどめるこはそれ以上の涙を落とすことなく、歯を食いしばって耐えている。


 ぎりっ、と奥歯を鳴らし、ぶるぶると肩を震わせ、めるこは絞り出すように叫んだ。


「──智くんのバカ‼ なにこれ、うそつき、ぜんぜんフォーエバーじゃないじゃん‼」


 目にいっぱい涙を溜めて、けれどそれ以上は一粒たりともこぼさずに、戦うように耐えている姿に胸が締め付けられる。


「めるこさん……」


 私の呼びかけに、めるこは逃げるように顔を背けた。ずっ、と鼻をすする音がして、しゃくりあげたいのを必死で堪えるような、ふっ、ふっ、という短い呼吸。


 めるこの横顔から、震えてよれた、消え入りそうな、掠れ声が絞り出される。


「こんなサプライズいらないよ……指輪なんかいいから、どんなに不安でも我慢できるから……だからもっと、もっと一緒にいたかった……!」

「っ……」


 それは愛に飢えきった女の子が口にするには、あまりに懸命な言葉だった。けれどそれを聞くべき人は、もうどこにも存在しないのだ。


 めるこはただ肩を震わせ、歯を食いしばって、耐えていた。痛いほどの沈黙の中、時折めるこが鼻をすする音だけが、かすかに部屋に響いている。


 めるこが落ち着くまで席を外そうかと思ったが、そんな気遣いを彼女は嫌がるだろうと思った。だから、できるだけそっと尋ねた。


「めるこさん……これから、どうするの」


 おずおずとした私の問いかけに、めるこは真っ赤になった目元をかすかに歪めて、あっさりと言う。


「……死ぬ」

「は⁉」


 思わず目を剥いた私に、彼女は淡々と続けた。


「智くんがいないなら、生きてる意味なんかない」

「いや、でも……」

「だって。あたしはこんなだし、家族はクソだし、智くんの家族だって、智くんがいなくなったら、きっともうあたしの相手なんかしてくれない。友だちもいない。智くんも死んじゃった。あたしにはもう誰も残ってない」


 そう語る彼女の瞳は痛々しいほど静かで、その深いところに思い詰めたような色が宿っていて、『智くん』がめるこにとってどれだけ大切な存在だったかを思い知らされる。


 めるこは悲痛な覚悟を決めた目で、ぽつり、と続けた。


「だから──生きてても仕方ないの」


 その声音があまりにも哀切で、心臓が痛くなる。私はがしがしと頭をかくと、ああもう、とため息をついた。


「……めるこさんってさ」


 めるこは返事をしない。私は続けた。


「思い込みは激しいし、妙にアグレッシブだし、人の話は聞かないし、すぐヒス起こしてキレ散らかすけど──」

「うるさい、わかってる……」


 弱々しく反論するめるこ。その痛ましい表情をそっと見つめて、私は小声で言った。


「でも……あなたがいい子だってのは、良くわかる」

「──え?」


 ぱちり、とめるこがまばたきをする。たった一粒の涙、それしか自分に許さなかった、強い瞳。その瞳をじっと見つめて、私は自分が持っている中で、いちばん優しい顔をした。


「ずっと戦ってきたんでしょ? 彼が死んでから、泣くのも我慢してたんじゃない?」

「え……」


 どうして、と彼女は言う。私は目を細めて、できるだけやわらかな情をこめて、笑った。


「わかるよ。彼のこと、ほんとに、大好きだったんだよね」

「っ……」


 めるこの瞳に、みるみる涙が溜まっていく。こくり、こくり、とめるこは何度も頷いて「うん、うん……っ」と引きつった返事を繰り返して。


 そして彼女は私に飛びつくと、ぎゅっと首元にしがみついて、



「──うわぁあああああん‼」



 子供みたいにわんわん泣き始めた。


 とうとう泣き崩れためるこは、ひぐっ、うぐ、と喉を鳴らして、何度もしゃくりあげている。引きつった呼吸が苦しいのか、ひっ、ひっ、と子供のような涙声。


 泣きじゃくり、震えている背を、私はそっと抱き寄せた。震えている丸い背を、ぽん、ぽん、とゆっくり叩いてやる。肩口を濡らしていく涙のぬくもりを感じながら、私は思った。



 ──ねえ、『智くん』。

 ──あなたがこの子を愛した気持ち、少しだけわかるよ。



 メンヘラで、ヒス持ちで、めんどくさくて疑り深くて、生きるのが下手くそで──だけど健気で純粋で、愛することに一生懸命な、年下の女の子。


(……こんな子となら、私、友達になりたいな)


 すすり泣く少女の背中を、ゆっくりと撫でさする。肩口がますます湿り気をましていく。


 投げ出されたスマホの画面で、果たされることのなかった永遠を誓うリングの写真が、きらきらとまたたいていた。



── END ──  



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【完結・ミステリ】夜空の下に Ru @crystal_sati

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