最果ての事務所

高黄森哉

悪魔


 ある科学者は、ある事務所に訪れていた。その事務所の場所は、この世に存在しないので、ここは、とある事務所としか、表すことは出来ない。そしてそんな座標にいるこの科学者も、やはり、ある科学者としか、言い表しようがなかった。

 そんな彼は知りたかった。この科学者は、科学者である前に、宗教家でもあった。なぜ完璧の神はこのような、混沌とした人間に厳しい世界を作ったのだろう。彼はそういうことが知りたかった。だから、この事務所に来たのだ。


「へへへ。どうもどうも」


 痩躯の男は、腰を低くしながら、その人間に接近した。へりくだる彼のお尻の辺りからは、ワイヤーのような尻尾が生えていて、その先っぽはスペードのような形をしている。皮膚は紫であり、蛇の鱗が隙間なくタイルのように敷き詰められている。


「どうしてへりくだる。お前は悪魔ではないのか。人間を超越した存在なはずだ」


 科学者は顔の角度を分からないくらいに変えた。とても微小な変化であるが、銀縁眼鏡の表面は劇的に変化した。天井の照明を反射したからだ。


「はいはいはい。どうもどうもどうも。小生が儲かっているのは、人間様様のお陰でして。だから、とても感謝しているのであります。そもそも私めの存在は人間ありきでして。といっても抽象的なことは、分かりにくうございましょう。おい、病原菌」

「はーい」


 奥歯を模した着ぐるみのような怪物は、とても低い声で返事をしてから、作業机から立ち上がった。怪物の目玉には瞼がなく、そのため舌を舐めずって、眼球を潤している。口に歯はなかった。


「私は病原菌です。例えば、下界で言う、ニパウイルスや天然痘、スペイン風邪に当たります。今も丁度、コロナウイルスの計算をしていたところです。私も、人間の存在には頭が上がらない存在であります」

「つまり」

「人間がいなければ、我々も存在できません。人間がいるからこそ、我々は、存在できるのです。多くの病原菌は単体では繁殖できません。例を出せばウイルスは細胞を経由しなければ増殖できないのです」


 病原菌の話し方が、見た目に反して紳士的なことに、科学者はむしろ好意を覚えた。その怪物は、デスクに戻り、再度、コロナウイルスの計算を始めた。人間が死滅しないように調整しているらしい。彼のぼやきから察するに、コロナウイルスの大流行は彼の初歩的な計算ミスから由来しているようだった。


「はいはいはい。どうもどうも。そして私め悪魔らも、人が悪巧みをするからこそ、ようやっと存在できるようなものでして。人がいなくなればお終いです。だれが我々を必要とするのですか」

「この世界は不可知論的なのか?」

「お鋭い。その通りでして。我々は人間に認識されなければお終いです。我々は恐れられることでそれを達成するのです。皆、消えないように必死ですよ。しかし、闇雲に畏怖させればいいというわけでもない。人間は限りあるので、少し減らすだけで、お叱りを受けます。あの病原菌様が、この下位の部署に配属されたのはそういう理由です。環境破壊なんて、今は、下水で仕事をしています。私ですか。私は科学の発展のためにここに来ました。科学の奴。次会ったら殺してやる」


 そして間が生まれた。静寂の間を、鉛筆やキーボードの音が滑っていく。この事務所で、世界中の様々な混沌や不利益が、今も生み出されているのである。


「おっと、話し過ぎましたかね。さて、今日はどのようなご用件でして」

「この世界は神が作った、で間違いないな」

「おっしゃる通りです」

「では、病原菌や悪魔、環境破壊などは、誰が作ったのだ」


 それが彼にとって謎だった。神は人類に慈愛を注ぐのではなかったのか。それとも疎まれているのだろうか。ならば、人類を作った。そして、消さない。消さずに恨みを晴らし続けているのか? 完全の神がそのような幼稚なことをするだろうか。


「それはもちろん神様ですよ。我々の会社の社長でもあります。今日はいらしてませんが。社長は明後日はお見えになられますよ。とても気さくな方でして。こんな小生と賭博をしてくださりました。私は完敗しましたよ。確か、ヨブとか言いましたかね」

「それはどうして」

「この世の中は不可知論的です。人間の見える範囲、だけ、世界は存在するのです。そして人間から畏敬などの念を集めるほど、地位や名誉は挙がります。我々のいう地位や名誉というのは、人間様には抽象的すぎるかもしれませんが、それらがあれば、とても良い思いが出来るのです。具体的には、買い物で割引されたり、税金が免除されたりします」


 人間は言葉を失った。つまり、この世の中に悲劇がなければ、神様は存在しないのだ。でなければ、我々は神にすがらないのだ。神とは、あらゆる不道徳、理不尽が、鏡に映ったものなのではないか。


「あれれ。神様、お見えになられましたか」


 人間は悪魔の一言を耳にして振り返った。そこには、見るもおぞましい、倫理に反する、非道徳の、グロテスクな、理不尽の、悪魔の、感染症の、災害の、犯罪の、強姦の、児童労働の、大量破壊兵器の、戦争の、事故の、不運の、悲劇の、………… …………。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最果ての事務所 高黄森哉 @kamikawa2001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説