第5話
土曜日の校舎は、職員室の明かりが点いてるだけで、ほとんど真っ暗に沈んでいました。
ユカちゃんは、職員用通用口から音を立てないように忍び込むと、靴を手にぶら提げながら、靴下越しにひんやりとした廊下の感触を味わいました。
ごわごわしたセーターが素肌にふれるたびに、チクチクとした不快感を感じます。血で汚れたシャツの代わりに宇野くんの部屋から拝借したものでしたが、どうして男の子っていうのは、このような肌触りの悪いものを身につけられるのだろう、とつい考えてしまいます。
途中だれとも会うことなく、三階まで階段を上がり、廊下の奥にある男子トイレへと辿りつくことができました。スッ、スッ、と床をする自分の足の音以外はなにも聞こえません。ユカちゃんは、窓から入り込むかすかな明かりの届かない真っ暗な闇が、あらゆるものを包み込んで、溶かしてしまうみたいに感じました。長い廊下の闇のなかに見知った顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消えていきます。加波さんや宇野くん、それに担任の藤崎先生の顔、クラスの女の子たちの顔……。そこには馴染みのないはずの男子たちの顔もありました。それら多数の顔たちは一切の闇のなかで、ユカちゃんの方を見、口を動かしてなにかを喋っておりました。しかし、窓の外の木々をゆらす風の音がわずかに聞こえるくらいで、彼らが一体なにを言っているのかは分かりませんでした。
トイレのドアは、水槽に沈んだ石のように重たく、鍵がかかっているのかと思われましたが、体重をかけると、扉はギイッという軋みを立ててひらきました。まるで内部が真空状態になっていて、外側のものを吸い込むような感じです。ユカちゃんは、内側に身をすべりこませ、静かに扉を閉めると、一面黒く濡れたような陰気なタイルを踏み歩き、一番奥の個室に入りました。
普段使われているのが嘘のように、非人間的な冷たさが辺りを覆っていました。
個室の錠を内側からかけると、ユカちゃんは鞄のなかから必要なものを取り出していきました。しんと静まり返り、窓から青い月光だけが射し込んでいます。引き返すことはできない、と強く感じ、ある種の恐怖心がユカちゃんの手を止めようと立ち上がっていきましたが、赤川ナオミのイメージに抱かれたような安心感が勝りました。ユカちゃんはゆっくりと手順を誤らないように、手鏡や細長い赤い布やジップロックにいれてきた生の塩などを、タイルの床に慎重に並べていきます。
廊下をだれかが通る音がして、ユカちゃんは身を強ばらせて構えましたが、その音はしかし、トイレまでにはいたらず、階段に戻り、上か下かに行ったようです。おそらく宿直の先生が見回っているのだ、とユカちゃんは思いました。
床に置かれた手鏡を覗きこむと、闇のなかにぼおっと顔が浮かんでいます。
中心に向かって黒いモヤが渦を巻いていて、そこに映る像ははっきりと定まりません。ユカちゃんは袋から塩をつかみ出すと、手をすぼめて鏡面の上にサラサラとゆっくり落下させていきます。
焦ってはいけない、とユカちゃんは自分に言い聞かせました。
ゆっくり時間をかけて、慎重に落ちていく肌理の細かな生塩の流れを見守ります。すでに塩は鏡面に小高い山をつくって、手のひらには汗でくっついた少しばかりの塩が残っているばかりです。口をあけて息をすると、まわりの臭いが強く感じられ、ユカちゃんは眉をしかめました。汚い、胸の悪くなる臭いです。ユカちゃんは悪臭から逃れるように、右手の底に付着した塩を顔に近づけ、舌先で掬うようにして舐めとってみました。すると口腔の水分に塩がこびりつき、ユカちゃんは余計苦しそうに噎せることになりました。
便器の水は月光の反射を受けて、真っ暗ではありませんが、底が見えず、その水面は硬い鉱物のように見えます。呼吸をやめ、息を飲み込んで、口先にあてがっていた右手をそのなかに差し入れていきます。水ではない、ドロッとした感触が走り、ユカちゃんは大きく身震いをしました。あえてなにも考えないように、とユカちゃんは強く思い、ドロッとした液体をつかむと、塩の盛られた手鏡の上にチョロチョロと流し込みました。細かな塩の粒が化学反応を起こして溶けていきます。濁った水が鏡面をふちまで流れていきます。それはまるで異なった世界への入口みたいに夜の底で光っています。
ユカちゃんはべとついた手を服の裾で拭うと、手鏡を持ち上げました。
――アカクビさん、
喉が渇いて、舌がざらついています。
鏡面には黒いモヤがゆっくりと漂って、その奥を隠しています。
――アカクビさん、
ともう一度。
赤川ナオミの姿が胸のうちで、おぼろな像をとっていくのが分かりました。
自分のものとは思えない、聞き慣れない響きがひとりきりの個室にこだましました。
七回唱えたところで、
あっ、とユカちゃんは思いました。
黒いモヤのなかに白いセーラー服の女の子が映っているのです。
……くふふ。
もう何十回、何百回と聞いた、彼女の押し殺した笑い声が聞こえました。赤川ナオミが長い黒髪のあいだから、猫のように鋭く光る目を向けています。それはとてもはっきりと分かりました。彼女の輪郭が次第に色濃く、明瞭に鏡面に映っていくのを感じながら、目をとじて「たすけてください」とユカちゃんは声に出し、目をひらくと、個室のドアをコンコンと二回、それから四回ノックしました。
小さな鏡のなかで、モヤが徐々に薄くなっていきました。隠されていたモヤの背後から、女の子の姿が浮かび上がってきます。かつて不幸を一身に背負わされた女の子、赤川ナオミ。彼女が目の前に出現するのを見ると、ユカちゃんは無性に泣きたくなりました。この女の子はなにも知らないのだ、と思いました。綿毛を揺らすゆるやかな風のことも、この地上にあふれる光のことも、街中に流れる騒音のことも。いたるところで交わされる怒号や叫声のことも。なにも知らずに、なにも知らないままに奪われたのです。閉じ込められたのです。狭量な教室の暗く湿った空気のなかに。光すら射しこまない窓の墓場に。そういったことを思うだけで、胸がとても苦しく、狂おしいほど愛おしさでいっぱいの嗚咽が喉を突いて、ユカちゃんは思わず両手で、手鏡の柄をきつく握りしめていました。
……宇野くんはバカだ。宇野くんはゴミだ。赤川さんの首を絞めた男子と同じだ。彼女のことをひとりにして、置き去りにして、狭いところに押し込めて、そのうえ彼女の存在を消そうとした。
……赤川さんを憎しみに引き渡したのは、そもそも男子たちの方ではないか。一時の気まぐれや悪意にそそのかされて、彼女を傷つけたのはあいつらなんじゃないか。だれひとりとして、赤川さんの孤独を分かろうとしたものはいなかった。だれも自分ひとりの恐怖や保身から、彼女に手を差し伸べようとはしなかったんだ。
宇野くんから癪にさわる英雄談を聞かされたときから、ユカちゃんの心は決まっていたのです。ベランダの女の子の顔が、悲しみに歪んでいるのを見たときから決まっていたのです。赤川さんのか細く、耳の内側に絡みついてくる声が聞こえてきます。
「くふ、くふふ……やっと、会え、た、ね」
真っ暗い空間で、手鏡が壊れたテレビ画面のように鈍く光ったかと思うと、その中心からパリパリと亀裂が走り、勢いよく鏡面は砕けました。手鏡に映っていた女の子の声は、いまやすぐそばで、ユカちゃんの後ろから聞こえてきます。
振り返ると、壁に背をつけて、気ままに腕をさすり、片足をあそばせている赤川ナオミがいました。
「うん……やっと会えた」
ユカちゃんは立ち上がることさえできずに、呆然と彼女を見上げていました。はじめて赤川さんと向かい合えたことの嬉しさに、胸の奥がしめつけられ、瞼からあふれる涙がほろほろと頬のふちを落下しています。夢のなかで何度も描いた姿、そのままでした。夢のなかで何度も感じたからだ、そのままでした。見えずとも身近に感じていた肌感覚の持ち主が、その実体が、目の前にあるのを思うと、なんだか切なくて苦しくて、たまらなくなりました。
「……くふっ、怖く、ないの、あたし、のこと?」
獰猛な輝きを宿した赤川ナオミの目が、暗闇のなかで赤く光っています。
「アカクビさん……いいえ、ナオミさん。あなた、まだ許せないのね?」
「……くふふ。なにを言って、るのか……分か、ら、ないわ」
「男子たちのこと。先生たちのこと。許すことができないから、ずっと一人で、前よりもっと孤独になっているのでしょう? だれの声も届かない場所をずっと歩いているのでしょう?」
「……くふっ、どう、し、たの? 怯えて……いるの、ね」赤川さんは妖しく微笑みました。
「あなた、長いこと、ひとりだったんでしょう」
ユカちゃんの声は掠れていました。
ひどく聞こえづらかったかもしれません。それでも赤川さんは笑って見ていてくれました。それに勇気をもらい、ユカちゃんは胸にたまった空気を言葉とともに吐き出しました。
「ねえ、赤川さん。わたしが……それならわたしが居場所になるよ。あなたの居場所に。聞こえる、赤川さん? わたし、あなたのそばにいるのよ。近くに感じるの。赤川さんは感じる? 聞こえる? わたしの姿が見える? そばにいるのよ。あなたを感じているわ。ねえ、もっとこっちに来て。許さなくていいわ。もう許そうとしなくていい……。ほかのだれも関わりのない場所で過ごしましょうよ。わたし、心の底から許すわ。あなたが何一つ許せなくても、あなたを許すわ。ねえ、聞こえるかしら。あなたの居場所になりたいのよ……」
ユカちゃんの手は宙を横ぎり、憎しみや殺意の塊と呼ばれた女の子に宿る、まだ消えていない温度のもとへ向かいました。
「……くふっ、いっぱい、喋る……のね」赤川さんは手を広げました。
喜びを分かちあう存在がはじめてできた幸福感に押しつぶされそうになるユカちゃんに、ちっぽけなからだが覆いかぶさってきて、確かな重量を感じることができました。強い光をたたえる三白眼、汚水の臭い、骨と皮ばかりの小さなからだ……。赤川さんが上から抱きしめるように両手を広げて、ユカちゃんの視界を隠しています。タイルの暗がりから赤い布が消えていることに、ユカちゃんは気がついていません。
気を失うまでのほんの一瞬、熱をもった彼女の声がユカちゃんの耳元をくすぐるように聞こえてきます。
……ほんと、馬鹿な子ね。
翌日、倉敷ユカ(十一)が三階の男子トイレで首を吊っているのが、男子生徒によって発見されました。
首には痛ましい赤黒い痕がはっきり刻まれているにもかかわらず、その表情はあらゆる死体がそうであるように、どこか穏やかそうに見えました。
(了)
アカクビさん 四流色夜空 @yorui_yozora
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