第4話
浅い眠りから目覚めても、ユカちゃんは夢の余韻に包まれたままでした。
土曜日で学校がなく、普段ならだらだらとテレビを見たり、犬を散歩に連れ出したりするのですが、その日はちがいました。息の詰まるような、そわそわした落ち着かない気持ちが、ユカちゃんのなかに充満して、なににも気を向けることができなくなってしまっていたのです。そのくせ頭はひどく凍りつくほど冷静で、まるで心臓やからだを張り巡る神経が、頭にだけは届いていないような、そんな感じでした。
宇野くんに電話をすると、午後には会えるとのことでした。
受話器を置きながら、なぜ宇野くんに電話をかけたのか、一体なにを喋ったのか全然覚えていないことに気がつきました。怖い、とユカちゃんは思いました。しかし次の瞬間にはそのことも忘れ、とりとめのない空想に溺れてしまうのでした。
その間どうやって過ごしたのか、ユカちゃんには分かりませんでした。気がついたら、宇野くんの家の前にいて、それでいまはどうやら午後なのだと、ユカちゃんはまるで夢のなかをさまよっている心地のまま、インターホンを押したのです。
宇野くんが現れ、二階にある彼の部屋に通されました。ユカちゃんが口火を切るのも待たずに、宇野くんは話し始めました。なにやら彼は興奮しているらしく、一刻も早く自分の話を披露したくてたまらない様子でした。
「本当は月曜になったら、学校で話そうと思っていたんだ。今日は土曜日だろう? だから月曜まで待って、この重要な話をきみに、倉敷さんに打ち明けようと思ったわけさ。けれど僕としてはね、すぐにでもきみに伝えるべきなんじゃないか、という気もしたんだよ。そんな折にきみからの電話があった。あの口ぶりからすると、倉敷さんからもなにか伝えたいことがあるようだね? とにかく丁度いい機会だと思ったんだよ。お互いにとってね」宇野くんは一気にまくしたてました。いつもの控えめな性格の彼とは別人のように、彼は自らの昂りを抑えようともしませんでした。ぞくぞくっ、とユカちゃんは、背骨を通る神経の弦がふるえるのが分かりました。
「ついに、ついにだよ」宇野くんは勢い余って叫びました。それから自分の声の大きさに初めて気がついたように、それを恥じ入るように、ボリュームを絞るようにコホンと咳をしました。そうした努力にもかかわらず、宇野くんの声のトーンは、彼が言葉を継ぐにつれ、次第に上がっていくのでした。宇野くんの目はギラギラと輝き、前髪は汗で額に張りついていました。「現れたんだ。つい昨晩のことだよ。あの女の子だ。赤川ナオミだよ」
「赤川ナオミ?」ユカちゃんは吃驚して、訊き返しました。
「そう、それが彼女の……つまり、アカクビさんの話のモデルとなった女の子の名前だよ。実際にいるって言っただろう? 兄貴伝いに聞いたんだよ。あの首に真っ赤な痣がある女の子。男子からの悪戯が原因で死んでしまった可哀そうな女の子。僕は見たんだ。この目でしっかりと見たんだよ。まさにね、首のこの部分にね」宇野くんは顎を反り返すと、自分の喉の一部を指し示しました。「あったんだよ。クレヨンで塗りつぶしたみたいな、聞き及んでいた通りの、いやそれ以上だったな。とうとう加波さんでは飽き足らずに、僕のもとにまで訪れたわけさ。全然怖くなんかなかったね。ううん、なんて言ったらいいだろう? 普通の奴なら洩らしてしまうところさ。なんの行動もとれずに、餌食にされていただろうね。僕だって例外じゃない。なにも知らなければ、なんの情報も持っていなかったら、ひどく怯えて、おちおち目も開けていられなかったにちがいないよ。わんわんと泣きだしてもおかしくなかった。でもね、その直前にね、僕は兄貴に電話して色々仕入れてたんだよ。いわば、間一髪と言えるかもしれないね。もうその準備を整えて、先回りしていたんだ。赤川ナオミは……すなわちアカクビさんは、事件に関係した人間の居所を渡り歩くっていうじゃないか。復讐のためにね。知っていたかい? 復讐の悪魔なんだよ、アカクビさんっていうのは。恨みと怨念を燃料とする霊体なんだ。そもそもアカクビさんの話っていうのは、いじめを受けて、それが原因となって死んだ女の子が正体なんだって、言われてるわけだけどさ」宇野くんはここでだけ、はっきりと意識的に声をひそめました。「もうほとんど実体は残っていないんだよ。赤川ナオミの皮をかぶってはいるけど、その内側には復讐の念しか残されていない。だから相手がどのような人間であろうと、関係がない。見境がない。えてして悪霊というのはそういうものなんだよ。本来あったはずの性格が、他人の無理解によって歪められ、固められ、ついには悪霊そのものになり果ててしまう。でも……どんなものにも弱点はある。悪霊にしたって同じさ。弱点がある。もはや当人が記憶していなくても、今ではまったく持ち合わせないような性質のことだとしても、やはり弱点は弱点なんだよ。ねえ、分かるかな? それは霊体を存在させる、目には見えない糸のようなものなんだ……」
熱心に口を動かす宇野くんのうしろから「……くふふ」と声がしました。押し殺したような笑い声です。ベランダのところに血だらけの女の子が立って、窓越しにユカちゃんと宇野くんとを見つめていました。心なしかユカちゃんには、その女の子が自分になにかを訴えているように思えました。その思いというか念のようなものが、真っすぐにユカちゃんに流れ込んできました。どうすることもできませんでした。なされるがままに、ユカちゃんはそのエネルギーの奔流を受け止め、ぼんやりとしました。ぐらっと視界のフレームがずれる衝撃がありました。幾分、視界が曇ったような気がして、軽く首を振りました。空に浮かぶ綿雲が、箒で払われたような心地でした。ユカちゃんの心には、すこしの疑念も残りませんでした。むしろすっきりしたとさえ、感じていたのです。ユカちゃんは、ベランダに向かって軽くうなづいて見せました。もちろん宇野くんには気づかれない隙を狙ってです。
「”先生が来た”という言葉にはね」うしろの存在には注意も払わずに、宇野くんは話を続けていました。「赤川ナオミにとって尋常ならざる意味が含められているんだよ。兄貴とか兄貴の友だちとかに当たって、ようやくそのことを教えてもらったんだ。人けのないトイレに連れ込まれ、男子数人に首を絞められていた赤川ナオミが、そこで最後に聞いた言葉ってなんだと思う? それは緊張と好奇心に興奮していた男子たちを、一気に現実に冷めさせる唯一の言葉だった。”先生が来た”と知るやいなや、男子たちは蜂の巣をつついたみたいに逃げ出し、やっとのことで赤川ナオミは悪夢から解放されたんだよ。それが死んで二十年余り経った今でも、アカクビさんの魂にしっかり根づいているのさ。結局赤川ナオミは、その事件がもとで死んでしまうことになるけれど、自分に降り注いでいた、いつ終わるとも知らない、理不尽な暴力や辱めが、そのとき”先生が来た”という声を聞いたときに終わったんだ。
赤川ナオミは悪夢の終わりを、その宣告を、どのような気持ちで聞いたのか? そんなの推し量るまでもないじゃないか。”先生が来た”という言葉は、赤川ナオミにとっては、天からの救済の知らせだったんだよ。間違いなくね。だから復讐の霊体となった今でもその台詞を聞くと、霊体のつなぎ目がほころんで、アカクビさんのその存在自体が薄れるというわけなんだ。
昨晩、アカクビさんが僕の顔を覗きこもうとしたとき、僕は思いきり大声を出して”先生が来た”と言ってやったんだが、成功さ。アカクビさんの動きが止まった。実に恐ろしい顔が苦痛に歪んでいくのが、実際のところ滑稽に見えた。生塩も用意していたんだ。倉敷さんが儀式の際に忘れていた海水系の塩だよ。それがとどめとなった。あっけなかったな、はっきり言って。これで加波さんだって、僕の方を向いてくれるだろうよ。もう怖くなんかないよ。ちっとも怖くない。何度現れたって同じさ。所詮はいじめられっ子だよ。浅はかなもんさ。むしろ退治したことに誇りを覚えてるくらいだよ。はっきり言って、僕はもう一度その瞬間を体験したいよ。悪霊は殺さなくちゃならないんだ。害虫と同じだよ。つけ上がる前に叩き潰しておかなきゃ。それが赤川ナオミにとってもいいはずだし、それをしてあげる僕は感謝されてもいいくらいだよね……」
ユカちゃんは熱い衝動が頭の血管をたぎらせるのを感じ、思うより先に行動していました。夢のなかにいるみたいでした。自分が二つに分かれていて、一方は眠っているみたいに水の上にじっと立って、なりゆきを見守っているだけなのに、もう一方は激しく燃え上がり、冷たくて鋭い憎悪を爆発させているのです。ユカちゃんは自宅の台所から持ってきていた包丁を、パーカーのポケットから勢いよく抜き出すと、宇野くんのお腹にあてがい、一気に刺し込みました。刃先はズブズブと飲み込まれるように、宇野くんのなかに入っていきました。包丁自体はすんなり入りましたが、その周りでぶちぶちと色んな管がちぎれていく音が聞こえてきます。宇野くんは、なにが起きているのか信じられないといった顔で、ぽかんと口をあけていました。自分のおなかがぐちゃぐちゃになっているのに、それを分かってないように見えました。二本の腕が中空で止まったまま、微かにふるえているくらいです。ですが、それも一瞬のことにすぎませんでした。一気に宇野くんの顔は真っ青になり、水っぽい血を吐き出すと、ビクビクとからだを痙攣させたのです。さきほどまで、あれほど長広舌をふるっていたのが、嘘のようでした。電池の切れかけたロボットみたいに、人間ではないもののように、宇野くんは見えました。
ユカちゃんは包丁の柄を握る手にちからを入れ、宇野くんのなかから引き抜きました。宇野くんは前かがみになり、ゴボッと粘度のある赤黒い血を吐き出しました。宇野くんの頭が自立することができずに、ユカちゃんの方へ傾いてきます。だからバランスを取るために、包丁を今度はもっとうえのみぞおちの辺りに、刺し込みました。ズズッとなにかを引き摺るような音が聞こえました。
――宇野くんなんて死んでしまえばいいんだ。こいつのせいで、こんなしょうもない連中のせいで、赤川ナオミは辱められたんだ。
ユカちゃんは絶望にも似た怒りをたぎらせ、宇野くんを何回も何回も刺しました。自分が自分でない、妙な感覚でしたが、怒りの奔流に身を任せるのは気持ちのいいものでした。刺しては抜いて、抜いては刺しました。早く死ねっ、早く死ねっ、と口からこぼれました。そうしていると赤川ナオミの気配を、近くに感じることができました。気持ちいい、とユカちゃんは思いました。気持ちいい。とっても気持ちいい。体勢を崩し、ぐずぐずに血を噴くサンドバックみたいな宇野くんの背後に、赤川ナオミが立って一部始終を見下ろしています。ユカちゃんは轟轟と燃える火柱となって、何度も宇野くんにぶつかりました。ゆるせない、という思いが全身にたぎり、肌に接する空気を溶かしてしまうほど、脳とからだが沸騰しているのです。
――ゆるせない、本っ当にゆるせない。ちっぽけな快楽のためにこの子を苦しめ、痛めつけ、傷ものにした男どもだ……遊び半分で女の子の首を絞め、ゲラゲラと卑猥に笑うような、そういう男どもをのうのうと野放しにしておけば、また悪事に手を染めるに決まっている……そいつらはいずれ女のひとや子供を凌辱し、強姦し、吊るし上げる大人になる……決まってるんだ……宇野くんなんか死んだほうがいい……放っておくわけにはいかない……実際には手を下していないだけで、やっているのは同じなんだ、卑劣なんだ、赤川ナオミに塩を投げつけ、その存在を消すことを楽しんでいるような犯罪者なのだから、死んで当然だし、死ぬべきだ……本当に死ぬべき連中というのがこの世にはいる。それも大勢。そのなかの一部が、この子の人生を巻き込んで台無しにした、してしまった。宇野くんは死ぬべきだ、ゆるせない、絶対に死ぬべきだ、本当にゆるせない……。
ユカちゃんは気づくと、肩をふるわせて泣いていました。
快感のために涙が出たのは、これが初めてでした。
目の前には、大きな血だまりができていて、その真ん中に黒くなった宇野くんが倒れています。宇野くんは学校で見かけるときとちがって、からだの色んなところから黒い血を噴き出し、汚物にまみれています。臭かったし、なんていうか気持ちの悪い化け物みたいでした。
ユカちゃんは、じきに冷静さを取り戻していきました。絶頂の気配が薄らいでいくのが、名残惜しく感じられました。手の甲で涙を拭うと、きょろきょろと、いまや愛おしささえ感じる赤川ナオミの姿がないかと、目で探しました。すると彼女はなにやら勉強机のそばに立って、その上にある白い紙片のようなものを見ておりました。ユカちゃんが隣りまでいって、メモを取り上げると、そこに記されていたのはアカクビさん、つまり赤川ナオミに関してのことです。おそらく宇野くんのお兄さんやその友だちから聞いたと言っていた、その”情報”なのでしょう。読んでみると、そこには『アカクビさんを呼び出す方法』や、『標的へ憑りつかせる仕方』、あるいは『憑りつかれたときの対処法』などが、箇条書きにまとめられておりました。実際宇野くんが取った対処法も、そこにきちんと載っています。しかし、ユカちゃんはもっと気になる部分を、メモの下の方に見つけました。『赤川ナオミを救う方法』とそこにはありました。
ユカちゃんは、そんな方法があったんだ、と驚くと同時に、救う方法を知っていながら、あくまで『退治』をしようとしていた宇野くんに、ふたたび怒りが湧いてくるのを感じました。
ユカちゃんは腹いせまぎれに、ポケットのなかからクシャクシャになった紙封筒を取り出すと、机の横のゴミ箱に投げ込みました。封筒にはいつか加波さんから盗んだ給食費が手つかずで残っていましたが、ユカちゃんにとってそれはもうどうでもいいことだったのです。憎くて憎くてたまらなくて盗ったものでしたが、その気持ちも失せていました。ユカちゃんの頭からは、加波さんの存在そのものが希薄な、興味のないものになっていたのです。
「……みんな死んじゃえばいいのに」
そう呟いて、急いでユカちゃんは宇野くんの家をあとにしました。
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