後編
さて、続きといきますか。
──次の『おかしなこと』は、女が現れなくなってちょうど1週間してから起こったんだとさ。
※ ※ ※
梅雨が明けて、季節はすっかり夏。いまいち効きの悪いエアコンのせいか、そいつは夜中に眠りから覚めちまった。
生憎と平日のド真ん中で、明日も早くから出勤だ。ベッドから起き明からず、目も開けないままどうにかもう一度寝ようとしたんだが、これがまあ上手くいかない。
経験あるだろ?早く寝なきゃ寝なきゃって思うほど、焦って余計眠れなくなるの。寝返り打ってみたり、敢えて布団をかぶってみたりと色々努力をしたんだが、その甲斐もなく時間だけが過ぎっていた。
そのまま1時間くらいかな。いよいよ徹夜かと覚悟し始めたところで、何の前触れもなくそれは起こった。
──かり、かり。
部屋のどこかからか、そんな音が聞こえてきたんだ。決して大きな音じゃない、控えめなんだけど、まるで耳のすぐそばで鳴っているような音だった。
──かり、かり。
まるで竹の耳かきで、乾いた耳垢を剥がしてもらっているような、心地の良い音。
ASMRって知ってる?自律神経なんちゃらって……なんか流行ってるじゃん?ちょうどそれとそっくりな感じだよ。
──かり、かり。
本当に耳かきしてもらってるみたい……ってのは流石に言い過ぎなんだけど、耳元から繋がって何故か腰元の辺りがくすぐったいような、それでいて妙に落ち着きを覚える音だった。
結果、そいつはいつの間にかまた寝る事が出来て、仕事にも寝坊せずに済んだ。
どこから、どうして聞こえてきたのか。理由は分からない。
いわばあの女と同じ不可思議な出来事だったんだが、それと違って悪い気はしなかった。
何せ怖くて寝られないどころか、気持ちよく眠らせてくれるんだからな。
で、それ以来その音は、決まって眠れない夜中に聞こえてくるようになった。
──かり、かり。
1時を過ぎたかそれくらいに目を閉じていると、一定のリズムでかり、かり……それに耳を傾けているうちに、気が付けば朝までぐっすり。
一度どこから聞こえてくるのか気になって、聞こえてきたタイミングで起き上がった事もあったが、その時はすぐに音が止んじまって、その時だけは眠れないまま朝を迎える羽目になった。
それで遅刻してから結局、そいつは原因を気にするのも止めにした。もしかしたら、窓のすぐ外で猫が爪とぎでもしているんだろう。単身アパートの壁だったら聞こえてくることもなくはないかもって、深く考えなくなった。
──かり、かり。
それが聞こえてくると、どんな考えも
あとは熟睡一直線。
そんな気持ちのいい出来事が続いて半月あまり、思わぬラッキーに気を取られて忘れかけていたタイミングで……
そいつは再び、女の幽霊を見た。
その日もまた、夜遅くまで映画を見ていたせいでそいつはなかなか寝付けないでいた。
1時前。また今日も聞こえてくるだろうと、密かなワクワクを胸にベッドに入る……だが、いつまで経ってもかりかりの音は聞こえてこない。
おかしいな?と思いながらも待っていたが音も眠気も訪れず、代わりに玄関の明かりを消して異なことを思い出してしまった。
薄目を開けると、その先にある窓には微かに玄関のライトが反射している。面倒だなぁなんて思いながら立ち上がろうとした矢先──
突然ふっと、その光が消えたんだ。
あれっと思う間もなく背中をあの怖気が遅い、鼻の奥があの嫌なにおいを思い出す。
そしてあの日と同じように鏡へ目をやってみると、そこにはやはり例の女が立っていた。
だがそいつはもう焦らない。どうせ今までと同じように、梵字に弾き飛ばされて消えていくんだろうと高を括っていたからな。
だが、その日は違った。
どうも女の様子がおかしい。こちらに近づくでもなく、腕を振り上げるでもなく。
ただこちらに──鏡の方に、開いた掌を突き出していたんだ。
ぼさぼさに伸びた髪の間から少しだけ見えるその顔は、薄く笑っているようにも見えた。
やがて静かに、匂いと共にその姿が消える。久々のお出ましに不寝番を決めて見たものの、朝までその女が再び現れることはなかった。
で、その翌日からまたかりかりの音が復活したんだけど……困ったことにそれから、かりかりの聞こえない夜には女がまた現れるようになってしまった。
かといって何かをしてくるわけじゃない。臭さだけ我慢すれば無害で、少し待てばすっと消えていく。
その顔は決まって笑っている事まで、毎度同じだった。唯一違う事と言えば、現れる度鏡へ突き出してくる指の形だけ。
親指だけを曲げていたり。
その次は親指が小指を押さえていたり。
何故かピースサインをしていたり。
浮かべている表情もあって怖いというか、不気味だったね。
けれど危ない目には遭っていないし、万一があってもあの梵字があるから大丈夫ってんで、出た日は「あぁ、運が悪かったなぁ」としか思わなくなっていた。
それからわりとすぐの休日、8月の頭。
そいつはたまたまそのアパートの大家に会う機会があった。
まだ入っていないボーナスを当て込んで額の大きい買い物をしたせいで、家賃の口座に手を付けていた事を忘れていたんだ。引き落ちていない連絡を受けて折り返すと、たまたま近くの喫茶店にいるとのこと。
わざわざ振り込む手間と手数料も惜しかったし、丁度決済を終えた夏ボの残りが懐に入ってたんで、封筒に万札を何枚か入れて喫茶店に向かったわけだ。
無事に滞納分を納めて、ついでに珈琲をご馳走になりながらしばらく喋って、最後についでのような形で家賃の安さを訊ねたんだ。
何も別に、黙っていたことを責めたかったわけじゃない。
本当に下らない、冗談話の延長みたいな軽いノリで切り出したんだけど……その途端、大家は机に穴が開くんじゃないかって勢いで謝り倒してきたんだ。
もうびっくりよ。周りは一斉に何事かって注目するし、大谷のおっさんは頭下げたまま半分涙声になってるしで……どうにか落ち着かせてもう一杯コーヒー頼んでさ。それをが空になるくらいになって、やっとぽつぽつ話し出したんだ。
今から3年ほど前に、あの部屋では女が死んだらしい。
不運と言えばそれまでだけど、以前から付きまとわれていた男に無理やり家に上がり込まれ、口に布を突っ込まれて声も出せないまま、乱暴された挙句に首を絞められて殺されたんだそうだ。
その遺体は隠蔽され、数日経って異臭騒ぎの通報を受けて警察が見つける頃には……まぁ、言わなくてもわかるよな?
んで、どうもこの辺は法律の話になるから俺としても話半分で聴いてほしいんだけど、事故物件ってのは当然、その直後の入居者にはそれを伝える義務がある。
けど、更にその後に部屋主となった奴には、事故の事を教えなくても法律上問題ないんだと。
けれど、また事件が起きちまったらしい。事故の直後、クリーニングが済んだその部屋に住むことになった新社会人の男は、引っ越してふた月としない内に部屋で錯乱して入院。理由まではわからないけど、そのまま帰らぬ人になったそうだ。
あくまで亡くなったのは入院先での事だから、それ自体はアパートの瑕疵にはならなかった。
そこで魔が差したんだろうな。大家はもう、そこ事故物件であると伝えなくなった。その代わりと言っては何だけど、男が亡くなってからまたクリーニングも入念にし直して、設備も全部交換して、おまけに魔よけの札まで貼って、そのひと月後には次の入居者を迎えた。
……悪い事ってのは出来ないもんなんだな。何も教えなかったはずなのに、次も、その次の入居者もみんな3か月とと経たないうちに「幽霊を見た」だのなんだのって言って退去しちゃうんだそうだ。
半年近く住めている人間は、俺が初めてだったらしい。
その後は何を言うでもなく、大家の方から更新まで住む見返りと口止め料として、さらに家賃を5千円下げるって切り出してきた。
考える事もなく、そいつは二つ返事で受けたよ。
そりゃそうだ。これだけの好条件の物件が2度見つかるとは思えない。不気味だけど危険はないし、おまけに夜中になれば寝かしつけてくれるサービスまでついてくる。元から手放すつもりなんざなかったそいつは、そりゃあもうホクホクで家に帰ったんだ。
その夜のことだ。
女がまた、枕元に立っていた。
相変わらず、近づいてくる気配はない。だが今までと違って、女の髪が後ろへ流れて、その顔がよく見えていた。
──ゾッとした。そうだ。
血の気のない肌にはこれ以上似つかわしくないほど、目や、口や、顔に筋肉全部を使を釣り上げて、その女は笑顔を向けてきていた。
硬直するそいつに向かって、女は人差し指だけを立てた右手を前に出して、それからゆっくり曲げて親指にくっつけ、輪を見せた。
その意味が分からない内に女は消え、部屋に音が戻った。途端にどっと噴き出る汗を手で拭きながら、なんだったんだよと煙草に火をつけようとしたら……
──かり、かり。
初めての事だったよ。
女の姿が見える事と、その『音』が聞こえる事。その2つが同じ日に起こったのは。
けれど、あんなことがあったばかりじゃさすがにすぐには眠れなかった。数十分くらいかな。そいつは初めて、かりかりの音が止む瞬間まで起きていた。
それからベッドの上で座ったまま、段々と白んでいく空に明るくなっていく部屋の中で、そいつは気づいたんだ。
耳かきとか、猫の爪とぎとか喩えたけどああいう音って別に
人間の爪でも出せるんだよなってさ。
そこで頭を過ぎったのはあの女の、黒く歪んだ形をした爪だった。
もし音があの女によるものだとしたら、『どこ』で『何』を引っ搔いていたんだ?
今までの出来事を頭の中でひっくり返したあと、朝もまだ早いうちからそいつは大家に電話を掛けたんだ。
約束したといっても引け目があったんだろうな。朝飯時すらもまだなのに、皮肉のひとつもなく大家はすぐに用件を訊ねてきた。
質問はたったひとつだけだ。少しだけ黙った後、そいつは意を決して口を開いた。
『何枚も貼ったと言っていた札。あれはこの家のどこに貼ったんだ?』ってさ。
電話を切った後すぐに、そいつはクローゼットの扉を開けた。
ものぐさな性格もあって、着替えはベッドの下と壁のハンガーにかけているから、クローゼットはもっぱら物置扱いだ。中を開けるのは実に引っ越して以来だった。
頭を突っ込んで、扉の裏にスマホのライトを向けて──そいつは言葉を失った。
扉の下で、荷物に折り重なるように。
爪で剥がされた跡のある梵字の書かれた札が何枚も落ちていたんだそうだ。
そいつはその文字に見覚えがあった。
だって、何度もそれに助けられているんだから。
だが今、お札は全て剥がされているんだ。
女が突き出していたあの指は、もしかしたらカウントダウンだったんじゃないか。
最後の指はマルじゃなくて、ゼロ。
それが何を意味するか。
ほら、今、お前の後ろから……
※ ※ ※
(突然彼が大声を上げ、話に聞き入っていたあなたは驚きに声を上げる。
そんな貴方を見た彼はおかしくてたまらないと言った風に、両手を叩いて笑い出した)
いや、ゴメンゴメン。そこまで良いリアクションしてくれるとは思わなくってさぁ。
え?まるで俺に起きた話みたいにリアルだった、って?
はは、そんな怒るなよ。ほら、また日本酒冷えてきたころだろ。取って来るよ。
(あなたをひとしきり宥めた後、彼は立ち上がってリビングから出ていく。
冷蔵庫はキッチンに入ってすぐのはずだ。しかし足音は数歩続き、やがて妙に遠い彼の声が聞こえてきた)
悪い。俺、お前に嘘ついたわ。
大家にお札の事訊いたの、今朝のことなんだ。
ごめんな。
(遠くで玄関のドアが閉まる音と同時に、真後ろでクローゼットのドアが開く音が聞こえた)
夏の終わりに掌編ホラー『かりかり』 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi
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