夏の終わりに掌編ホラー『かりかり』
三ケ日 桐生
前編
(玄関が開き、中からラフな服装の男が顔を出す)
おー、久しぶり!ここまで迷わんかった?
しっかしまだまだ暑いよなぁ……あ、お土産?別にそんなん気にしなくていいのに……まぁ、とりあえず上がって上がって?
(促され、あなたは彼に手土産を渡しアパートに上がる。間取りは典型的な1Kだが、中は小奇麗で広々としており、設備も古さを感じさせるものは見当たらない)
急でびっくりさせちゃったかな?つうか、予定とか入ってなかった?大丈夫?
(あなたが首を横に振るが、それでも彼はどこか申し訳の無さを残したままの顔ではにかんだ)
前に会ったのってゴールデンウイークの入り端だっけ……つうと、4か月近く間が空いたのか。ホント、社会人になると時間があっちゅう間ね。学生の頃は殆ど毎日顔合わせてたのにさー。
(彼は途中で右へと曲がりキッチンへ。あなたは前に見えるリビングのドアを開ける。7~8畳ほどの部屋の中央には一人で使うにはやや大きめの、長方形をしたテーブルが置かれ、窓のある左手にシングルベッド、反対側には事務机、テレビ、そして壁に引っ込む形でクローゼットの扉が見える)
これ、冷蔵したほうがいいやつ?
(あなたは頷き、中身を説明する。持ち寄ったのは先週実家へ戻った時に会社の上司への手土産に買った日本酒の余りであり、彼は大の酒好きだった)
あ、お酒?田舎の?楽しみだなぁ。
(予想通りの反応に満足し、あなたはテーブルの短辺、ベッドサイドに置かれているクッションに腰を下ろそうとする)
……あぁ、そこじゃなくてそっち座んなよ。ベッドの前狭いでしょ?
そうそう、反対。クローゼットの前にクッションあるっしょ?それが一番柔らかいから。
(言われるがままに移動したあなたは、先に座ろうとしたものより数段心地の良いクッションに落ち着き直す)
グラスグラス……どこ行ったかな?あ、飯ってもう食った?渇きもんだけでいい?
(肯定の返事をしながらふと横を見ると、丁度こめかみの高さに取っ手のあるクローゼットの扉が、僅かばかり浮いていることに気付いた)
中は覗くなって!いや、その、恥ずかしいからな……ほら、一応年頃の男子だしな!
(いつの間にかリビングに入ってきていた彼に軽く驚いたあなたは、照れ隠しついでに滑ったギャグへの乾いた笑いを挟む)
とりあえず、飲みますか。持ってきてくれたポン酒は冷えた後でのお楽しみとして──
(言葉の途中で差し出されたグラスをあなたが手に取ると、彼は白い歯を見せながらビールのプルトップに指を掛け、慣れた手つきで注ぎ始めた。
グラスの中が見事な比率の液体と泡で満たされ、彼もまた自分のグラスにビール缶を傾ける)
じゃ、乾杯。お疲れ様です……っと、一体何がお疲れ様なのかは未だにわかんないんだけどさ。
(あなたも同調して笑い、お互い一息にグラスを空にする。良く冷えたビールの炭酸が喉を下る刺激は、残暑の陽の暑さが残る夕暮れを歩いてきたあなたにとって何にも代えがたい心地良さをもたらした)
※ ※ ※
もう結構な時間だけど──
(積もった話も大方尽きた頃。4本目のビールを空にした彼が立ち上がり、やおらに窓を開ける。しかしすぐに顔を顰めて閉じてしまった)
いうて、外はまだまだ暑いな。悪いね、エアコンちょっと調子悪くてさ。
(一瞬首筋を撫でた生暖かい風に、彼がすぐ窓を閉めた理由を察したあなたは首を振る。彼の言う通り吹き出し口から出る音の割に冷えは良くないものの、我慢が出来ないほど部屋の温度が高くなっているわけでもなかった)
なんかさぁ、年々無理ゲーな暑さになってくよな。甲子園とかもそうだけど……この日中にスーツ着て外回りしてる奴とか、普通に尊敬しちゃうよ。
(慣れの問題だと返すあなたに、彼はどこかうんざりした様子で手をひらひらと振りながら立ち上がる)
盆休みくらい、仕事の話はよすべぇよ。振っちゃって悪かったわ。
(若干ふらつく足取りの背中で話しながらキッチンへ向かった彼は、少しの間の後であなたの手土産と少しばかり不似合いなほど洒落た
『いい酒は良い器で飲むべし』って先輩に教わってさ。冬ボで奮発しちゃった。
(ポン、と蓋の外れるふくよかで弾けるような音がリビングに響き、それと同時にふわりと生酒の甘い香りがあなたの鼻をくすぐった)
おお、こりゃ冷やして正解……
(彼の景気良い飲み干しぶりを見届けた後、あなたもグラスを傾けた。
たちまち口の中を熟した果物のような甘い香りが支配する。しかしよく冷やされていることで変に引きずる事もなく、すっと消えて舌の上に爽やかな余韻だけを残した)
んん、美味い!けど、つまみがないな。
(辺りを見回しすこし残念そうに呟く彼へ、あなたは自分が買ってくることを提案する)
いいよいいよ。コンビニまでちょっと歩くし……なにもつまみは食べる物だけじゃないって。
(意味が分からず首を傾げるあなたに、彼は僅かに据わった眼と赤くなった顔をずいと向けてきた)
ちょうど、こんな暑い夜にぴったりな話があるんだ。いわゆる怪談話ってやつ。酔いで火照った体にも良さそうだろ?
(なるほど、とあなたは頷き、それを見た彼はだらしなくななめに崩していた姿勢を
※ ※ ※
『そいつ』はさ。ちょうど俺達みたいにこの春から引っ越しして、新しい生活を始めていたんだ。
勤めているのは都内で、当然住処も23区で見つけていた。とはいえだ、普通新卒の稼ぎじゃなかなかいい物件は見つからない。結構なボロ屋だったり、駅がめちゃくちゃに遠かったり、じゃなかったらウナギの寝床みたいな狭さだったりと……どーしたって、我慢のしどころのひとつやふたつあるもんだ。
だが、そいつの家は違った。
最寄り駅から徒歩5分にして築10年未満。その上バストイレ別でワンルームでもないと来たもんだ。それで家賃は破格の5万割り込み……ま、そこまで聞きゃあ大半の奴は何か察するわな。
はい正解。
『事故物件』ってやつだ。
大家からは特に何の説明もなかったが、そいつは内見の段階で薄々感づいていた。つうか、この条件でこの値段だったらそうじゃないほうが不自然だ、ってな。
けれど幸か不幸か、そいつは幽霊の存在なんざ全く怖がっちゃいなかった。
『とっくに死んだ奴が今を生きている奴に何が出来るんだよ』ってのが信条で、そんな奴にとっちゃこの部屋は単にお得で綺麗な部屋にしか見えなかったってわけさ。
事実、引っ越しを終え社会人としての生活が始まってしばらく経っても何も起こらなかった。不満と言えば夜の買い物がちょっと面倒いくらいで、そいつは周りと比べて財布に余裕のある、快適な暮らしを満喫していた。
事が起きたのは、ゴールデンウイークが開けた頃だ。
梅雨の先取りみたいなじとじとした雨の降る夜。5月の連休明けともなれば研修もいよいよ本格的になってくるし、ぐったり疲れてたんだろうな。
クッタクタになって帰ったそいつはビールを1缶開けるなり、着替えもそこそこにベッドへ倒れ込んでそのまま寝落ちしちまったんだ。
普段は豆電球のひとつでも点いてると寝られないくらい明かりに敏感なのに、それだけ疲れてたって事なのかね。
それから何時間経ったか……そいつはふと、真夜中に目を覚ました。
そしたらさ、部屋が真っ暗なわけ。
シャッター下ろした窓に向いた横向きの姿勢のまま、まだボーっとする頭で「あれ、いつ電気消したっけ?」なんて考えていると、どうにも下半身がごわつく。
そういえばまだスラックス履いたままって事を思い出したそいつは、ひとまず着替えようと身を起こそうとしたんだが──そこで気付いた。
身体が動かない。
同時に、急に背中へぞわっと走るもんを感じた。
悪寒なんてもんじゃない寒気と、気配なんてもんじゃない、『後ろに何かがいる』って確信。そいつが伝えて来るんだよ。
振り向けないんじゃない。
振り向いちゃいけないんだって。
耳の裏側じゃあ頭痛がしてくるんじゃないかってくらい、心臓の音がうるさくなってた。
でも部屋は相変わらずシンと静まり返っているし、息遣いのひとつも聞こえちゃこない。
でもわかるんだ。背中のすぐ後ろで『何か』が息を潜めて立っているって。
見ちゃいけない。起きている事に気付かれてもいけない。もはやそいつの頭の中は『事故物件』とか『幽霊』とか……とにかくそんな文字でいっぱいだった。今が何時だかわからない、けれど1秒でも早く陽が登ってくれることを祈った。
……そのままどれだけ時間が経ったか。後ろの『何か』はそいつに何をするわけでもなく、気配は近づき遠ざかりもしない。
人間の適応ってのは怖いもんでさ、今まで不可解な出来事への恐ろしさでいっぱいだった頭も、時間が経つにつれちょっとずつちょっとずつ、余白が出来ていった。
そうなると余計な事を考えたり、ある気付いたりしちまうのが性ってもんだ。
例えばそう──後ろにいるのは本当に幽霊の類なのか、とかな。
何せ着替えもままならんまま、電気を消したことも覚えてないような状態で寝落ちしてたんだ。その調子で玄関の鍵もかけ忘れているとしたら、後ろに立っているのは幽霊とかじゃなくもっと地に足のついた……例えば泥棒とかなんじゃないか、って。
そうして浮かんだ新しい可能性にもう一段階冷えていったそいつの頭が、あることを思い出す。
ベッドの枕元にあるスタンドミラーのことだ。部屋を背に窓の方を向いて横になっている自分と、丁度向かい合う形で置いてある卓上サイズの鏡。
振り向かずに、自分の後ろを見られるかもしれない。幽霊でも泥棒でも嫌だが、このまま分からず朝を待つのは心がもちそうにない。
そいつは部屋が真っ暗であることも忘れて、恐る恐る薄目を開いてみた。
そして、深く後悔した。
『どっちでも嫌?』冗談じゃない。
泥棒、いや強盗だったとして、そのほうが何万倍もマシだった。
後ろに立っていた影はぼんやりと立っている、痩せぎすの女だった。僅かに腰を曲げて、表情が隠れるくらい長い髪を前に垂らして自分の背中を見ていた。
それを目にした瞬間に、そいつにはわかってしまった。あれは見た目こそ人のカタチをしているけど、もう人でなくなった何かなんだと。
目を開けなければ良かった。そう思っているうちに鼻の奥がツンと痛んだ。泣きそうになっていたのはそうだけど、そのせいじゃない。
その姿を見た途端、異様な匂いが鼻をついたからだ。
……ああ、つまみがなくてよかったかもな。言っちまえばそいつは、他人のウンコと小便の匂いによくよく似ていたんだ。
耐えがたい悪臭に、そいつは思わず息を止めた。止めちまった。
それが最大の失敗だったって、わかる?
どくどく鳴り続ける心臓は、あっという間に身体の酸素を使いつくしちまう。その結果、脂汗が滲むほどの我慢も虚しく──30秒もしない内に、そいつは「ぶはっ」と口を開いてしまった。
それまで身じろぎひとつ見せなかった女の肩がピクリと動き、髪の間から限界まで見開かれている血走った目がそいつを睨んだ。
それだけでそいつはまた動けなくなった。食いしばるように結んだ口の中で、奥歯だけががちがちと鳴り続けていた。
──びちゃ。
粘り気のある水音を鳴らして、影が1歩近づく。それだけで心臓が鷲掴みにされたように、そいつは声にならない叫びを漏らす。
骨と皮だけの腕がゆっくりと持ち上げられ、その先端にはボロボロに黒ずんだ不揃いの爪が伸びていた。
やばい。
あれに裂かれたら、いや、触られるだけで、終わる。
そいつの本能はそう叫んでるんだけど、相変わらず身体は動かない。瞼を瞑って逃げる事さえ許されない瞳が、振り下ろされる爪を妙にゆっくり捉えていた。
だが、そいつの命運は尽きていなかったんだ。
万事休すかと思ったすんでのところで、突然部屋中にバチン!って音が響いた。ちょっと前までコンビニの軒先とかに、紫に光る殺虫機があったろ?あれにでかい虫がぶつかったような──とにかくそんな音と一緒に、女の腕が弾き返されたんだ。
いつの間にかそいつと女の間に、割り込む形で崩した漢字のような模様がぼんやり空中に光ってたんだよ。
幽霊はもう一度だけ爪を振り上げて、またその文字に吹っ飛ばされて、それからものすごい形相でそいつを睨んで消えた。気が付いたら窓の外も、薄っすら明るくなっていた。
九死に一生。動けるようになって、汗びっしょりのままのそいつは真っ先に何したと思う?
やおらスマホ取り出して、記憶を頼りに浮かんだ模様の事を調べたんだと。
いや、他にやることあるだろって?それな。俺も今、そう思うわ。
で、そいつを守った模様ってのは、梵字の『バン』って読むサンスクリット語を書くための文字だった。
ググってみ?ああ、そうそうそれ。完全の『完』って字を縦に崩したみたいなやつ。
とにかくそいつが護ってくれたんだって、仏様に感謝した……合ってるかはわからないけどな。
その後も何度か同じような事があったが、その度浮かび上がる文字の前に幽霊は手も足も出ない様子で、だんだんそいつも恐怖に慣れていった。
もしかして、この文字は俺の内なる力なんじゃないかとか見当外れに考えちゃって、やっぱり幽霊何もるものぞって自信を取り戻した。
そのうちに懲りた女の霊も現れなくなり、再びコスパの良い生活を謳歌しましたとさ。
めでたしめでたし。どっとはらい。
※ ※ ※
(そこで言葉を切った彼に向かって、空になったグラスを手にしたままのあなたは不満そうな視線を向ける)
おいおい、そんな顔すんなって。
「で、お終いならば良かったんだけど~」って、続けようとしたんだからさ。
……ちょっと温くなっちまったな。またビールで良いか?
ああ、そこ動かなくていいよ。話の腰を折ったお詫びに取って来るから。
(瓶を手にした彼はあなたに有無を言わさず立ち上がり、すぐに再び冷えたビールを手に戻ってきた。あなたの前に缶を置いた彼は、天井でもがく煙草の煙を逃がすために窓を開ける)
……静かだな。車の音も聞こえない。
まるで俺達以外誰もいないみたいだ。
(確かに通りの方からは、クラクションどころかロードノイズのひとつも聞こえてこない。深夜の静けさと少しばかり冷たさを取り戻した風に心地のよさを覚えながら、あなたは頷く)
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