日ノ本大学ノ教科書

たけもとピアニスト

第一章 テニス人口は大学から急増する【縦読み奨励】

日ノ本大学ノ教科書




「では、次回に一~五回分の講義を基にした確認テストを行います。本講義の二十パーセントを占めるテストなので、単位を落としたくない人はきちんと出席すること。しっかりと講義に出席していた生徒は心配ないと思いますが」

 そういって教授は講義の終了を告げた。

 チャイムが鳴るよりも早くに講義室は騒がしくなる。たった今、私立立志大学、経済学の講義が終了したところである。

 眠そうにスマホを操作していた折笠は、大欠伸の後にグンと伸びをした。

「一~五回分の講義ってちゃんと聞いてた?」

「聞いてなかったし、聞いててもお前には教えたくない」

 彼女の言わんとすることはわかりきっている。自身の怠慢で欠席を続けていた講義の単位を取得したいがために、講義内容を教えてくれと持ち掛けているのだ。

「え~、何でよ?聞いとけよぉ、毎回出席してるんだし」

「そうだけど、あんなつまんない講義ずっと聞いてられるわけないだろ。YouTubeとにらめっこだ」

「んじゃ、吉田もサボればいいのに。」

「出席点欲しいじゃん。それにまあ必修だし」

 別に、こっちは講義をサボりたいわけじゃない。

「…なんていうか、俺たちって、昔はもっと「ちゃんと」してた気がするよな」

「ちゃんとって?」

「「ちゃんと」は「ちゃんと」だよ。朝起きて、授業に出て、ノートを取る」

「高校生と大学生じゃ違うじゃん?別にあたしたちって強制されてないし」

 同じような問答をしたことは、折笠以外にも何度かあった。

吉田真守を形容する言葉として挙げられるのは、「ケチ」「適当」が大衆意見である。

自分を四字熟語で表すのなら、真守は迷うことなく「事大主義」とつけるだろう。「自分自身の信念を持たず、強いものに服従すること」。まさしく自分を表している。

「みんなやってる」というのは非常に都合のいい言葉だ。周囲が怠惰であれば自分も怠惰に興じるし、周囲が奔放であれば、自身もその奔放さに流される。世間とはとどのつまり「相対評価」の集合体であり、周りに白い目で見られない様に、つまはじきにされないように努めているのが最もよい。だから、往々に適当で自堕落な真守も、周囲のこなす「最低限」は日々更新できるよう、ネズミの体長ほど小さく低い志で生きてきた。

しかし、この大学に入学してから一年、その褒められたものでない意志でさえ、真守の中で揺らぎつつあった。

「ていうかさぁ、出席なんてあってないようなモンじゃん、あの教授」

「そこはムカつくんだよな。講義概要には出席点の記載があるのに」

「八つ当たりじゃーん?そもそも悪いのはあたしじゃなくて、出席しなくても気づいてない教授の方だって。ちゃんと管理されてれば、私も仕方なく出席するし。」

「仕方なく出席って…仮にも自分で選択した講義だろ」

ときに真面目なトーンで話そうとしても、いつもこうやってヘラヘラとした態度で話題をかわすのは、同学部の同回生、折笠詩織。入学前から知っていたわけでも、入学後に他より多く関わったわけでもないが、真守が在校生の中でもよく話す生徒の一人である。

 というのも、彼女がよく接触している生徒というのは、なにも真守一人というわけではないのだ。

「ま、他の奴に見せてもらおうや」

「それが見当たらないから困ってんじゃーん。みんなだって、この講義が出席しなくても出席点ちょろまかせるって知ってるんだもん」

「他の連中もおんなじ調子かよ…」

 ため息が出そうになるが、これは今に始まったことじゃない。そしてこの事態が、真守の二十年間の価値観を大きく揺らがせている問題なのだ。

「なぁ、前から思ってたんだけど、折笠…ていうよりウチの学部連中って、全体的にだらしなすぎないか?講義はサボるし、平気で遅れて入ってくるし…」

「そう?それくらい普通じゃん?」

 ていうか真守だってよくやってるじゃん、という視線が向けられる。それは事実なのだが、それは自分の本位じゃない。「周りに流された」結果である。

「普通じゃないだろ。さっきの続きだけど、俺たち高校まで毎日決まった時間に登校して、ちゃんと決められた時間に授業受けてたんだぜ?」

 平気で遅刻をしてくるような人間。平気で途中退出をする人間。スマートホン片手にカップ麺に湯を注ぎ、椅子を数脚使って眠っている人間。慣れてしまえば「こんなもの」で済む光景だが、熟考してみればいやはや異常である。

「だから、高校生と大学生を比べられてもさぁ…環境も違うし、立場も全然違うじゃん」

「お前の言う通りだよ。高校生よりも基本的に年上で思慮深いはずなんだから、高校生のしない醜態をさらすなんてのは疑問でしかないんだ」

「それでも単位取れてるし」

「そこなんだよなぁ、俺も真面目にしたいわけじゃないし」

 結果至上主義。資本主義国家に生きている限り、この主義主張は正義であるし真守もそれは正しいと思っている。ということは、これが世間の「一般的」なのだろうか。

「じゃあ、時間守ったりきちんとルールを守ってる人間って、つまらない人間ってことになるのかね?」

「どうなんだろうねぇ、あたしは何とも思わないけど」

「まあ、俺も思わないけど」

 押し付けてくるやつは、ちょっと鬱陶しいかもと心の中で付け加える。

「ねえねえ、とりあえずそういう話はあとにしてさ…」

「ああ、そうだな。早急に事態を片付けちまおう」

「「ノート取ってるやつを探しに行こう」」

 クソである。我ながら真守の感性は、まだそう感じていた。





「そもそもさあ、真守だって今まで結構やんちゃしてきたわけじゃない?」

 そう言って折笠はうどんを一すすりで口に含む。

「そりゃま、講義トぶくらい何度でもあるわな」

 トぶ。いわゆる造語である。講義のドタキャン、予定なく欠席をすること。今となっては日常会話に使われる。

「まあ実際、あたしも自分が褒められたことしてないってのは自覚してるよ?けどそれで世間が回ってるってんだから、サボらなきゃ損ってもんじゃんか」

 真守はノートの記録に成功していた堅田との交渉を終え、折笠との議論を再開させていた。首の皮一枚。こういう時に折笠の顔の広さは役に立つ。

「私的にはだけど、大学生っていわば社会に出て職に就くまでの最後の猶予期間じゃん?だったら出来るだけ羽目外して、好きなことするべきだと思うんだよね」

「それはルールに則ったうえでじゃね?」

「別に法律じゃないんだから。それに、講義だって各教授ごとにルールがあるじゃん。途中入室を認めてない教授だっているし」

「それは…」

 確かに、正論である。

「大学生ってある意味自己責任だからさぁ、自分の決めた講義を決めたスケジュールで受けて、それで卒業できるようにするってだけだから」

「だからどうなっても自己責任だし、迷惑かけなければ好きなことしてもいいって…そういうことか?」

「そうそう!そういうこと。」

 他人のノートにたかるという行為は、相手に対する迷惑行為には該当しないのだろうか。

「猶予期間、ねぇ…てことは、やっぱり社会人になったらこんな自堕落な生活は認められないってことだよな?」

「当然じゃん。吉田ってもしかして思ったよりもバカ?」

「いやぁ…だとしたら反動が強いだろうなって話」

 そう。今の時間が出来すぎていて、とてつもなく甘美な時間であることなど、世の中の学生たちは無意識のうちに理解している。だからこそ、この時間を終えて社会に足を踏み入れるということは、どれほどまでに苦痛であり名残惜しいことなのか、想像するに難くない。

「俺、働いて一年もたない気がする」

「あ、分かる。あたしも真面目に働ける気がしなーい」

 毎年五月前後にSNSに出没する早期退職自己申告集団の正体は、未来の自分たちなのかもしれないのだ。

「けどさ、未来のことなんて、考えたって仕方ないじゃん?今が楽しければいいんじゃないの?あたしはそう思ってるけど」

「その発言もかなりバカそうに聞こえるけどな」

 にやっと笑う折笠を脇目に、真守はボーッと空想に興じた。それなりに努力して勉強をして、それなりの金額を親に支払ってもらい、奨学金というそれなりに返済しやすい借金をして、自分たちは大学に通っている。単位を落とすということは、それほど多いわけではない。せいぜい一年間にひとつやふたつ程度だ。卒業は難しくないだろう。

「……何かもっとこう、かけがえのないものを手に入れたいよなぁ」

「どうしたのさ。今日はずいぶんポエミーだね」

「別に何もしたいことないんだけど…お前の言う通り、大学生って自己責任かつ自由じゃん?俺の持ってる「自由」の使い方を、もうちょっと考え直すべきなんじゃないか、って思ってるんだよ」

 そう、真守は元来ケチなのである。時間とは資産だ。そして、その中でも「自由」な時間というのは、代えがたい財産なのだ。

「折笠って休みの日なにしてる?」

「コミュ障の導入会話かよ」

「いいから答えろよ」

「いろいろ」

「具体的に言えって」

「だって、ホントに色々なんだもん」

折笠はうどんの汁を飲み干しながらそう返した。胸をどんどんと叩いている。下品である。

「逆にさ、あたしってやりたいことばっかりなんだよね。今年の夏はサーフィンしてみたいし、あとシュノーケリングもしたい。キャンプの約束も入れてるし、今から夏休みが待ちきれないんだから」

「多趣味なやつ…よくそんな体力あるな。それに、知識も必要だろうに」

「そういうことやってる知り合いと一緒に行くんだよ。去年は初めてスノボやってみたんだけどね、楽しかった」

 そう。お気づきかもしれないが、そうなのだ。

 今目の前でげっぷをしたいが為に胸部に拳を打ち、まじめな話をけらけらとかわすのが得意な講義サボりの常習犯である折笠詩織は、学内一顔の広い生徒として知られている。一説には、学内の学年問わず、果ては教授、姉妹校、学外の他大学にもその名を轟かせているという。講義に使うはずの時間を、この女は娯楽に興じることで顔を広げているのだと、真守は察知していた。そもそも五月時点で夏の予定が決まっているということ自体、真守からすれば意味不明、摩訶不思議な事態である。

「それじゃ、ちょっと手貸してくれよ。俺もちょっと趣味とか見つけたいと思ってたし、夏休みの空いてる日に、俺に何かオススメの遊びとかさぁ…」

「えー、休暇中はほぼ無理だって。予定詰まってるもん」

 大学生の意味もなく長い夏季休暇がすべて埋まっているなんてことがあってたまるか。…と、そう言い切れないのがコイツの特徴である。

「それに、あたしって色んなことを手広く、じゃん?たぶんだけど、そういうのって真守にあってないと思うよ。飽き症だし、めんどくさがりだし」

「お前は俺のお母さんかよ」

 しかし、正論であり、正解である。

「だから、参考にするなら何か一つに打ち込んでる人間に聞いてみれば?」

「そりゃあ確かにそうだけど、あいにく俺の周りにそんな殊勝なやつはいないよ」

「だろうね。そもそも真守って友達少なそう」

「失礼なやつだ」

 しかし、これもまた正論であり、正解である。そんなことを思いながらふてくされていると、待望のげっぷを終えた折笠が笑った。

「いいよ、じゃあ紹介してあげる」

 


十人十色、類は友を呼ぶ。「ヒト」に関連する言葉やことわざは数多くあり、そしてそれは往々にして現実世界に当てはまることが多い。そりゃあ、人間が十人いれば十人分の個性があるに決まっているし、馬の合う奴が固まってグループになるのは自然である。この先大学生活を通じて、奇人変人、どうしようもない人間や愚直な人間、はたまた自らに酷似した人間に遭遇しても、それは至極当たり前に現実に起こることであるし、対応していかねばならない「最低限」のことである。

 だから、これから記すこの話は、そんな人生のオアシスを快適に過ごすための、まさしく大学生の教科書にすべき話なのだ。


*第一章



 汗と血と涙を流し、そのしょっぱい味をかみしめて成長をしていく。スポーツというものに抱くイメージというのは、おおかたこのようなものだろう。人間がはるか古代の時代から受け継いできたそれらの競技は、時代によって若干の形を変えながらも、広く現代人の生活に浸透していた。

「スポーツできる人ってかっこいいよねぇ」

 これもまた、日本男児諸君は耳にタコができるほどに聞いた言葉ではないだろうか。それとも、「運動できない奴はダサい」だろうか。どちらも同義である。少なくとも小学校、場合によって中学校に至るまでの人生の十数年間、権力を握るのは足の速い人間であり、ソフトボールを遠くまで投げられる人間であり、シャトルランを最後の一人になるまで走り続け、「まだいけるけどね」という顔をして立ち止まる人間なのである。

「真守は何かスポーツやってたの?」

「高校のときは陸上部だったな」

「えー意外。走るのとか嫌いそうなのにね」

「まあ実際嫌いだしな」

 折笠は目を丸くした。確かに端から聞けば意味不明である。

「うちはべつに強豪でも真面目でもなかったからなぁ、いくらでもサボれたんだよ」

「うわサイテー。本気で陸上やってた人から嫌われてたんじゃない」

「そんな殊勝なやつウチにはいなかったよ」

 口ではそう言ってみるものの、身に覚えはある。入部当初、堕落しきった我々上級生を一年生が侮蔑のまなざしで見つめていたことには気づいていたし、そのような扱いを受けるにたる醜態であったことにも気が付いていた。しかし、半年もすればすべてチャラ。結局は同じ穴の狢、堕落という快楽には逆らえないのである。

「高校までは案外、「部活強制入部」ってトコも多かったからな。大学に入ってもスポーツ続けてるってことは、それなりに真面目なやつだろ」

「だから、そういう人間を紹介してほしいってことね」

 すっかりと目論見を見抜かれてしまっている。とどのつまりそういうことだ。

 折笠に連れられ向かっているのは、本大学の中でもひときわ大きな規模を誇る、テニスサークル「クラウド」のコートである。

「真面目にやってる人間に知り合いたいなら、サークルじゃなくて部活動のほうがいいんじゃない?」

「バカ、折笠。部活動やってるやつは根っからのやつだろ。俺が参考にできるわけない。俺は趣味を探してるんだから」

 それもそうか、と納得の顔をされる。そう、求めているのはあくまでも趣味。本当に心から、汗と血と涙の味をかみしめようなんて根性は真守の中にはない。

「で、そこの副部長と知り合いなわけだ?」

「そう。遊佐ゆさね。彼高校のときに県大会準優勝になったんだって。テニスもかなりうまいし、副部長になったのは今年から」

 テニスサークル「クラウド」は、主に一回生から三回生で構成されている。四回生は就職活動、三回生も後期から、場合によっては前期から、大学という「猶予期間」の終了に背中を押され、社会へ出るべくサークルに顔を出す頻度が減っていく。サークルにもよるだろうが、いまの時期の副部長は、実質サークルの部長としての権限を持っているに等しい存在といえるだろう。

「活動頻度ってどれくらいだ?」

「確か、週三回くらいだって聞いてるけど。夏には合宿があって、冬にも任意参加の遠征があるの。って言っても、冬はテニスじゃなくてスノボだけどね」

「えらく詳しいんだな、お前」

「だって私もメンバーだし。去年のスノボはそのサークル」

大げさに驚いてみたいところだが、聞いたあとすぐに納得した。折笠は大学内でも随一の顔の広さを持っている。そして、フットワークの軽快さたるや、空気中に舞うハウスダストよりも軽いのではないかと真守は分析していた。

「ちなみにだけど、お前ちゃんと週三回参加してるわけ?」

「してないよ。だって参加って任意だし。「クラウド」のメンバーって一〇〇人近くいるけど、たぶん半分くらい幽霊部員だよ」

 そんなことだろうと思った。

「あ、けど大丈夫。遊佐は毎回参加してるから。ていうか、むしろサークルの中心人物って感じだし」

「そりゃあ、そうだろうさ」

 次期部長が幽霊部員なら、そんなサークルはとっとと潰れてしまえばいいのだ。

「うーむ、しかしいいねぇ。趣味でテニスをたしなむ大学生。いかにも優雅って感じがするじゃないか。遊佐とは仲良くなれそうだな」

「だといいけどね。遊佐は………」

 折笠が言いかけたとき、目の前に見えてきたテニスコートから、談笑する声とこちらを呼ぶ声が聞こえてきた。

「おーい詩織、こっちだこっち!」

 日の光に照らされて、屋内で見るよりもひときわ明るく見えているのであろう茶髪、へらへらとした表情は、どこか折笠に通じるものがある。

「あ、いたいた。真守、あれが遊佐」

 こちらに駆け寄る間もなく勝手に自己紹介を終えられた遊佐は、ラケット片手にこちらへとやってきた。

「この人が入部希望者?」

「いや、ひとまずは見学なんだけど…」

「オーケーオーケー、大歓迎だって!ちょうどみんなで休憩してたとこなんだ!サークルのこと説明するよ!」

 遊佐は邪気のない笑顔を向けて、真守に手を差し伸べてきた。握手を求められていたと気づくのに、ほんの少し遅れた。

「俺、遊佐。吉田君…?って、タメだよね?じゃ、耕平こうへいでいいから!テニスの経験とかって、今までにある?」

 「吉田君」と呼ばれながら「耕平」と返す勇気はない。真守は偏屈なことを思いながら、「いや…実は一度も」と相槌を打つ。すると遊佐は、またにっこりと笑って首をぶんぶん横に振った。

「ぜんっぜん大丈夫!サークルのメンバーも、たぶん八割くらい初心者からのスタートだから!テニスって大学から始める子も多いから、吉田君もすぐに慣れるよ!」

「そう?なら助かるけどな。実のところ、ちょっとした趣味感覚で始めようと思ってたからさ…」

 口にしてから、もしかしたら失礼になるかもしれないと思った。県大会準優勝するほどにテニスに打ち込んできた彼からすれば、「趣味感覚」というのは少し鼻につくのではないかと。しかし、その表情をみて杞憂だとすぐに分かった。

「みんなそんな感じだよ。詩織なんてイベントごと以外はこねぇんだもん」

「あはは、テニス自体にそこまで興味ないしねー」

 軽口も通じるやつらしい。

「ま、久しぶりなんだからお前も寄ってけって。吉田君もいきなり一人にされたら、ちょっと居心地悪いだろうしさ」

「そうだね。真守はシャイだから」

「お前は俺のお母さんかよ」

 本日二度目である。




* 




 公共の施設を間借りしているのだろう。テニスコートは全部で三面あり、サークルメンバーがそれぞれ固まりを作って談笑をしていた。今日参加しているメンバーだけで判断すると、男女比としては少し女学生が多いだろうか。

「…で、さっきも言ったけど、うちは経験者が少ないから基本的には俺がテニスについてレクチャーすることになってんだ。」

 そう説明する遊佐は少し得意げだ。何かを探すようにあたりを見渡すと、ラケットを持って雑談している女学生たちのもとへ駆け寄っていく。

「そうそう、ラケットの持ち方はそれでオーケー…うん。硬式の球は、そんなに強く振らなくても向こうのコートへ届くよ。本格的にしたいなら別だけど」

 レクチャーを受けながら、時折女学生たちがクスクスと笑う。話し方ややり取りを見ていると、どうやら一回生らしい。

「こんな感じかな。どう?何か質問とかある?」

「脇に座って話してるやつらが多いけど、ああいうのはいいのか?」

 質問すると、遊佐は快活に笑ってみせる。

「そりゃあ、俺らのサークルは任意参加だしね。みんな真面目に練習に打ち込み続けなくちゃいけないってことはないよ。個人のペースさ」

「いいね」

 思っていたよりもいい具合に生ぬるい環境である。中には必ず、「真面目に練習しよう」などという雰囲気も情緒もぶち壊しにしてくる輩がいるものだが、どうやらこのサークルにはそういった人物はいないらしい。

「強制されても楽しくないもんな。せっかくのサークルなんだから楽しまないと」

「おっ、いいねぇ吉田君!俺たち思ったより気が合うかもな!」

 男二人でげらげらと笑っている横で、折笠はアイスクリームを頬張る。「神聖なコートでけしからん」などという者もいないので、至極平和である。

「それで、今年も大会には出るの、遊佐?」

「大会?「クラウド」って、大会に出場とかしてるのか?」

 遊佐は「もちろんだ」と胸を張る。

「まあ団体戦じゃなくて個人戦だけどな。去年俺は準々決勝まで行ったし、まだまだ身体も腐ってないってことだ」

「へ?けど去年は団体戦もエントリーしてたじゃん」

 折笠がそういうと、初めて遊佐の顔が曇ってみえた。ほんの一瞬口ごもったようなそぶりをした遊佐だったが、すぐに「ちょっと今年はスケジュール合わなくてな」と付け足す。

「詩織みたいに掛け持ちしてるやつも多いし、まあそういう年もあるさ」

「まあ、いつもうまく回るってわけじゃないもんな」

 遊佐をさりげなくフォローしながら、真守は今一度自分の心に問いかけてみせた。

 サークルの環境としては、一見申し分ないように思える。真守のように二回生の途中で入部してきたメンバーも少なくないようで、その活動風景も平和そのものだ。

「で、どう?吉田君?入部する気になった?」

「えっ?ああ、うーん、そうだなぁ…」

 遊佐も悪いやつではないように思う。そもそもこれだけ大所帯のサークルなのだ。全員そろって仲良しというわけにはいかないだろうが、少なくとも今日参加しているメンバーたちは、それぞれがグループとなり、自分たちで居心地の良さを作り上げている。高校生までのような、与えられたクラスや集団ではないのだ。自分たち個々人で、過ごしやすく馬の合う人間を見つけることが出来るのだろう。

「遊佐さん、そろそろ今日は上がりにしません?」

 真守が悩んでいると、女学生の一人が遊佐に話しかけてきた。

「ん?ああ、そうだね。じゃあ、そろそろ撤収しよっか」

 遊佐は笑顔で応対すると、真守に再度向き直った。

「俺ら、これから晩飯行くんだ。よかったら二人もどう?そこで決めてくれたらいいからさ。なっ?俺の奢り」

「いいねぇ、いくいく!」

 真守の返答も待たず、折笠が声を上げた。お前はたかりたいだけだろう。

「…まあいいか。奢りなら。別にこのサークルも嫌いじゃないし」

「よっしゃ決まった!それじゃあ、みんな今日は終わり!予定空いてるメンツは、いつものとこでぱーっとやろう!」

 メンバーたちから歓声が上がった。



「えー、では改めて。新入部員の吉田君歓迎を込めて、今日はいつも以上に楽しくやろう!」

 遊佐のコールが乾杯の音頭となり、店内はいっそう騒がしくなった。あのあとそのまま移動してきたのは、大学最寄り駅にほど近いチェーン店の居酒屋。入部するとは決めてないが、今日は思う存分ただ酒にありつくとしよう。

「吉田君って、ほかにサークル入ってんの?」

「いや、どこにも入ってないよ」

「あ、そーなんだぁ。テニス好きな感じ?」

「まあ、本気でやるわけじゃないけどさ。程よく運動できそうじゃん」

 隣に座っていたサークルメンバーと話していると、相手は「やだぁ」と言ってグラスを仰いだ。

「だよなぁ、やっぱ程よい運動って大事だよな!」

「え、あ、うん。まあ、大学生になると運動する機会も減るしな。俺体育の講義とってないし」

 話していた二人がどっと笑った。コスパのいい酔っ払いである。

「ごめんねぇ、吉田君。ウチのサークルうるさいやつ多いでしょ?」

「ああ、いいよ。暗いやつよりマシだろ」

「そう言ってもらえると助かるわー。俺も内心、ウザがられてないかビクビクしてたもん」

 遊佐は相変わらずへらへらとしているが、そのへらへら成分も先ほどにもまして強まっている気がする。彼もまた、酒には弱いのだろうか。

「俺さー、たぶん来年このサークルの部長になると思うんだよね。先輩らが継いできたサークルだから、伝統とか規模とか、何とか維持していかないとなぁって結構不安で…噂とか流れて人が入りにくかったりもあるからさ」

「あー、そういうの、ありそうだなテニスサークルは」

 遊佐が言わんとしていることはわかる。大学生たるもの一度は耳にしたことがあるであろう格言、「テニスサークルはヤリサーである」だ。

 日本国内におけるスポーツの市場として、やはり目を見張るものは野球やサッカーだろう。しかし、こと大学内においてはこの数的関係はひっくり返る。どこの私学文系大学(一般的に私文という)の学内でも、ほとんどの場合テニスサークルというのは強大な規模を誇り、いわゆる「イケてる男女」の集まるスポットだったりする。

 そういった性質が相まって、しばしばテニスサークルは「男女の社交場」として使われることが多い。いや、実際のところを真守は知らない。ただ一般常識的に…少なくとも真守の周囲の大学生を基にした一般常識の範疇では、そういったイメージは共通認識のように横行していた。

「まあそういうこと話題になりがちだからな?」

「そうなんだよ。そういう話をしたいなら最初から言えって思うんだよなぁ」

「わかるわかる。特に男はそうだよな」

「いや、コレ案外女子に多いの!俺の経験上だけど」

 意外だった。自分が男だからゆえに知らなかったことだが、なるほど女もそういった話題を平気で持ち掛けてくるものなのか。

「なんかそういう駆け引き…みたいな?いちいち説明とかするの面倒でさ~。もー副部長になんてならなきゃよかったよ、面倒ごとばっかでさ」

「ご愁傷さまだな」

「はは。ま、いいことがないわけじゃないんだけどね。後輩とか、ちょうどいいし」

 確かに、昼間の様子をみていても、遊佐は後輩の面倒見が非常によさそうである。経験者だからこそ教えることにも抵抗がないのだろう。

「にしても、飲み会参加してるやつって、今日来てた人数よりも少なくないか?」

「ん?ああ…予定が空いてれば、だからね~。強制参加とかないよ」

 ますますいいね。程よく騒ぎたいときに参加できれば、いい刺激になる。

「いいね。あんまりこういう大学生活って想定してなかったけど、思ったより悪くないかもな。なあ、折笠?」

「いいんじゃない?パリピ楽しいしね」

「下品な言葉使うな。俺はパリピじゃない」

「真守って妙なところにプライドあるよね」

折笠はおおよそ人間が広げられる最大のサイズだと思うほどに大きな口を開けて唐揚げを頬張ると、そのまま席を立った。

「なんだ、もう帰るのか?」

「ううん、便所」

 ちゃんとお手洗いっていいなさいよ…これじゃ今度はこっちがお父さんである。

「ところでさぁ…吉田君と詩織って、デキてるの?」

「は?できてるって何が」

「だからぁ、付き合ってるの?ってことじゃん!」

向かいに座った女学生が茶化してくる。顔色を見るに、結構出来上がっている感じだ。

「いや、そういうのはないよ。ただの友達だな」

「あー、そうなの?まあ、それもそっか。彼女同伴でこのサークルに来るとか、滅多にないもんね」

「そうなのか?」

「そりゃーそうでしょ。だって、彼女いるならサークル入らなくったっていいじゃん」

「街コンじゃないんだから」

「似たようなもんでしょ。そういうの目当ての人ばっかりよ?ココ」

「まーまー。吉田君だって、もっと酒入れなきゃ本音も話せないって。ねぇ?」

遊佐はへらへらと笑って肩を組んできた。こっちもすっかり出来上がってしまっている。すると、遊佐は小声で真守に囁きかけてきた。

「で、吉田君は誰狙ってんの?」

「は?」

 は?

「俺的にはね…さっきから絡んでくるその子。麻美ちゃんは割といい線いってると思うよ。あ、一回生なら……」

「待て待て。今って何のはなししてんだっけ?」

 状況を整理してみようと思った矢先、ほんの少しずつ、真守は理解を深めていった。いわれてみれば、話が絶妙に嚙み合ってなかったかも。

「いや、だから…真守くんは今日誰目当てで来たのかな…って」

「テニス目当てだよ!」

店内は騒がしく、こちらのやり取りは誰の耳にも入っていないようだ。お笑いの舞台なら、爆笑必至のツッコミタイミングだったであろう。

「いやいやいや、ちょっと待ってくれ。あれ?俺がおかしいのか?だってさっき、そういう根も葉もない噂がどうとか言ってなかったか?」

「いやぁ、ははは。噂は噂だけど、根も葉もあるよ。たぶん入ったばっかの下級生とか、自慢したがりの先輩が漏らしちゃうんだよね~」

 遊佐は浴びるように酒を飲み干すと、「お品書き」に手を伸ばした。

「体験入部にわざわざ来てさ、「ここって本当にそういうサークルなんですか?」とか聞かれることが増えたわけ。まいっちゃうよ」

「いやそりゃあ聞くだろうがよ。そんなどす黒い噂流れてたら。え、女がそういう会話多いってそういうこと?それ多分ただの警戒だよ」

「いやぁ、そういう「てい」でしょ?大学になってテニスやろうなんてやつ、いるわけないもん。みーんなヤリ目的だよ」

 テニス県大会準優勝の口から決して出てはならない言葉である。

「まあ、俺副部長だし…経験者も少ないから、そういう機会は多くってありがたいんだけどね。後輩とかちょうどいいっていうか…同回生より積極的だし。はは」

「今俺の中でお前の好感度が急落してるの気づいてる?」

 そういうと、遊佐は慌てて付け加えた。

「あっ、いっとくけど、無理やりとかしてないよ?ちゃんと相手に確認もとるし、付き合うつもりないよっていうときもあるし…」

「余計最悪なんじゃないか?」

「え、そう?合意の上ならもう子供じゃないんだし平等だと思うけど…」

 遊佐は不思議そうな顔をして、運ばれてきた新しいグラスをグイっと傾けた。ちょうど同じタイミングで、折笠が席に戻ってくるのがみえた。

「おい折笠どういうことだよ。俺が爽やかテニス少年だと思ってた遊佐君が、実はしたたかペニス少年だったなんてオチは聞いてないぞ」

「いやだって、「クラウド」がヤリサーなんて学内でも有名な話じゃん」

 ケロリと言ってのける折笠の頬をビンタしてやりたくなる。

「じゃあ、何でそんなサークル紹介したんだよ?」

「いや、けど遊佐は真守の言ったとおりの感じだよ?実際テニスは上手いし、趣味で大会とかに出ながら、ダラ~っとテニスしてるから」

 真剣すぎず、趣味で。確かに自分自身が注文したことだが、ついてきたトッピングが賛否両論ありすぎる。

「帰るぞ。このサークルはダメだ」

「真守って、実は真面目ちゃん?」

「そういう意味じゃねーって!俺は複数の女の子を愛せるほど器用じゃないだけだ!」

「やることやっちゃった後で、面倒ごとに巻き込まれるのが嫌なだけじゃない?」

 コイツは、どこまでこちらのことを観察しているのだろうか。




 夏が近づいてきてじんわりと蒸し暑い日が続いていたが、日が落ちるとまだ外は涼しくて心地が良い。少量のアルコール摂取が、夜風をさらにそう感じさせた。

「実際、遊佐はいいやつだよ?お酒が入るとちょっとハイになっちゃうだけで、遊佐とヤッた子からも、悪い話とか全然聞かないし」

「ヤッたとかいうな。」

 お前もそういうことあそこでしてたのか?と、喉まで出かかった言葉を真守は飲み込んだ。セクハラで捕まるには、これからの人生が長すぎる。

「真守は真面目っていうか、もしかして潔癖症?」

「そういうわけじゃないけど、少なくとも同じサークルの中で乱交する勇気は俺にはないよ。」

 真守は大きなため息をついて、それから物思いにふけった。あれが大学生の模範ともいえる姿だというのなら、自分は到底それにならえそうもない。

「…いや、次だ。次はもっと、ちゃんとしたことに打ち込んでる、貞操観念がしっかりしたやつを紹介してくれ」

「一気に注文がピンポイントになったねー」

折笠はけらけらと笑う。次にこんな詐欺被害にあったら、この女を訴える準備を整えなくてはと心に誓う。


家路につく電車を待つ中で、真守のスマホがブルッと揺れた。「通話ボタン」を押すと、声の主が母親だと分かった。

「ああ、ごめん。もう今から帰るから。」

『ああ、いいのいいのそれは別に。それより、さっきいとこの佳代子ちゃんから連絡があってねぇ…』

 このまま通話に付き合い続けると、話が長くなってしまう予感がした。電車が来る前に片を付けてしまおう。

『ほらあの子、来年受験じゃない?いろいろと悩んでるみたいなのよ、進路のこと。だから現役生に聞いてくれって、向こうからそんな話が来るもんだからさぁ…』

「俺が今アドバイスできることは一つしかないよ、母さん」

 そういいながら、真守は耳からスマホを離した。

「テニスサークルには絶対に入部するな、ってこと」




(第二章につづく)

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