第2章 ある日の記憶
「いぬがいない。いぬがいないんだ。」
突然酒場のドアが開き、青白い額に汗を浮かべた少年が叫んで言った。一瞬の沈黙とともに、一斉に視線は少年に向けられた。木造の小屋である酒場の橙色の照明が揺れる。そして、皆、その言葉を理解すると、どっと笑いが起こったのだ。彼は、息を切らして立っていた。なにかを訴えるような目をしていた。まだ準備中であるのに、集まっていた男達の、赤ら顔の一人が、がははと笑って言った。
「犬がいないだって?ステラ。ばかげたぁこたぁ、言っちゃいけないよ。ここをどこだと思ってるんだい。」
男の声は、がなっていて、少々舌が回っていないようであった。
僕は、テーブルを拭く手を止めて、窓から外を見たが、特にいつもと変わりはなかった。空は夕日で赤や紫、ピンクに染まり一段ときれいだったが、帰路に着く人と犬のすれ違う様子はこれと言って変わりない。
そうさ、Canis《いぬ》がいないなんてありえない。
少年は、まだ男達と言い合っている。
「おやおや、ステラじゃないかい。珍しいね。そっちの準備はおわったかい。」
と忙しそうに酒場のおばさんがカウンターの奥から出てきた。
僕が頷くと、少し息を吸って
「さあ、そろそろ営業を始めるよ。仕事を終えた奴らもぞろぞろ来るだろう。お疲れ様、お前たちはお帰り。」と言った。
僕はドアの札を「OPEN」にひっくり返して、ステラと家への道を歩き出した。レンガ造りの街並みがゆっくり過ぎてゆく。広場の噴水の前を通り過ぎるころ、
「なあ、ほら犬たちはいつも通りじゃないか。どうしたんだ。」
と彼のあんなに焦っている顔を見たことがなかったものだから不思議に思って聞いた。彼はうつ向いていた。その顔は、夕日に照らされ赤く染まり、今にも泣きだしそうに見えた。
「本当に、いないんだ。気づかないのか、、」
と先ほどの勢いはどこへいったのか、途切れ途切れに、独り言のように言った。
僕はやはり理解できなかった。街はいつも通りであった。
「どこの犬がいなくなったんだ?まさか人より多い犬を全部覚えているわけじゃあるまいよ。みぃんな名前がついているけどね。」
と冗談めかして言ってみた。笑うかなと思ったが、彼は一瞬息を飲み込んだようであった。僕は、また不思議に思ったが、ステラが笑い出したので僕もつられて笑った。
やっといつも通りに戻った彼は、
「最近の学校はどうだ?」
と聞いてきた。
この国は新しい国王になってから、6歳になった者は学校に行くことになったのだ。もちろん、10歳である僕も春から通っている。しかし、同い年であるステラは学校に行くことを拒んでいた。
前は一緒に遊んでいた友達も学校で忙しくなり、学校で友達と遊ぶようになり、ステラが前のようにみんなと遊ぶことは減った。各々充実した日々を送っていた。僕もそんなことが多くなり、課題に追われるものだから、彼と会うこと自体珍しくなっていた。
そういえば、ステラと会うのはいつぶりだったか。しかし、以前は毎日双子のように顔を合わせていたからか、彼と会うのは昨日のように感じられる。
さっきの出来事も寂しく思った為だろうか。ステラも一緒に学校へ行ったら、きっともっといいのに。
「楽しいよ。だって、色々なことが、わかっていくんだ。山に囲まれて、冬には雪で閉ざされるようなこんな小さい国の外の世界がいっぱい知れるんだ。今日だって―」と自慢げに教えた。僕は、学校に行くようになって、前より賢くなっている気がしていた。
「楽しそうだ。」と微笑み、頷いて僕の話を聞いている。そうして、時折、なぜ学校に行かないのか、と聞きたくなるほど熱心に聞いているのだ。ステラは、青空を、大地を、おひさまを感じさせた。口数は多くないが、自分の意思を静かに確かに秘めているようなやつだ。だから、僕は彼に、その理由を問うてみようとはしなかった。
「なぁ、やっぱり一緒に行こうよ。たのしいさ。」
と決め台詞になってしまった淡い期待が混じる言葉を、なるべくその言葉に混じるものを隠すように言う。いつも通り。
いつも通り、のはずだった。この時、僕の中で無意識のうちにかかっていた霧が晴れた気がした。ぼくは、はっとした。
そういえば、あの酒場だって、営業前は子供の遊び場でもあった。そして、家の為に準備で働く僕なんかを皆が手伝ってくれたり、ふざけたりもして女将さんに怒られたこともあったな。働く僕を憐れがる人もいたことを知っているが、僕はあの時間を楽しみにしていた。懐かしい。僕は初めて懐かしいなんて思った。
ひゅうと風が通り抜けた。もうこの時期の夕暮れは肌寒い。冬はもうすぐそこまで来ていた。
Canis 葉山 海 @HayamaKai
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