Chapter 3


 ブッチを失ってしまってから、アトリはふさぎこみっぱなしだった。

 日がな一日ベッドから離れもせず、寝るか座ってぼーっとするかのどっちかしかしていなかった。勿論、食事なんて論外だ。

 事情が事情だったから、エメさん夫婦は干渉せずそっとしておいてくれた。といっても、そもそもその事情自体を知らないエメさん夫婦にしてみれば、そうするしかなかっただけなのだろうけれど、

 されど、マックスだけは違った。本犬ほんにんなりに、そんな様を見るに見かねたのだろう。

 マックスは、今日もやって来た。アトリが食べないと分かっていても、毎日律儀にレシピを色々変えては作って持ってきてくれるケサダと一緒に。

 ケサダは食事を置いて部屋を出て行ったけれど、マックスは残った。

 大方、残す食事を狙ってのことなのだろうと、アトリは思っていた。マックスの意地汚さは、よく知っているつもりだ。

 料理を冷めるころを見計らって、床に置く。「待ってました!」と食いついてくるかと思いきや、マックスは動かない。


「……マックス?」


 首を傾げる。


「……食べないんですか?」


 しかし、マックスは動かない。


「……わたしなんかに遠慮なんかしないで食べていいんですよ、どうせわたし、食べないでしょうから、ほら……」


 そう言って、料理の皿をマックスの方に押しやろうとして――


「……ひぅっ!」


 思わず、声を引き攣らせてしまう。


「……マ、マックス?」


 ヴ~ッ! と、マックスは唸り声を上げていた。他ならぬ、アトリに向けて。


「……べ、別に、食べたからって、なにをするとかってわけじゃ……って、ひぅっ!」


 再び、ヴ~ッ! という唸り声が上がる。気のせいか、若干凄みが増しているような気がする。


「……気に、障ったのですか、もしかして?」


 そろそろと、料理を引き戻す。

 とことことマックスがやって来る。

「うんせっ!」とばかりに立ちあがり、ベッドの上になにか置いた。よくよく見れば、口にものを咥えている。

 ベッドシーツの上に、茶色い物体が転がった。シーツの白を、茶色い物体から染み出た液体とマックスの涎が汚す。


「……ちょ、ちょっと、マックス? ……って、これって」


 上に置かれたそれを、摘み上げる。よく見たらそれは、骨付き肉を焼いたものだった。おそらくマックスのご飯だ。

 同時に、マックスは「ばうっ!」と大きく吠える。つぶらな黒い目は、アトリを真っ直ぐ見ていた。


「……マックス?」


 マックスは答えない。ただじっと、アトリを見つめている。

 答えないのは当然だ。マックスは犬でしかないのだから。

 だけれども、じっと見つめてくるその眼は、アトリになにかを言おうとしているように見える。アトリからの答えに対するもの以外のなにかを。


「……マックス?」


 再び呼びかける。だけど、マックスが答えることはない。


「……なんですか?」


 手持ちぶさたになりはじめてきた骨付き肉を、アトリは床に置いた。

 すかさず、マックスは駆け寄ってきて咥え――ベッドの上に置く。

 再びアトリは、骨付き肉を床に置いた。

 すかさず、再びマックスは駆け寄ってきて咥え――ベッドの上に置く。

 三度目の正直とばかりにアトリは、骨付き肉を床に置いた。

 すかさず、三度目の正直とばかりにマックスは駆け寄ってきて咥え――ベッドの上に置く。


「……だから、なんですか?」


 マックスは視線を外そうとせずじっと見据えてくるばかり。

 さっきみたく、吠えもしない。


「……なんですかっ!?」


 らしくもなく、癇癪を破裂させてしまう。

 マックスの行いは、アトリの癪に無性に障った。

 マックスは犬でしかない、人間の言葉なんて持っていない――それは分かっている。

 だから、分からない。マックスが一体なにを伝えたいのかなんて、アトリには分からない。


「……だからっ、なんですかって聞いてるんですよ、言ってるんですよっ……わたしはっ!」


 はっきり言って、マックスの行いは気持ち悪いものでしかなかった。まるで、気持ちの押し売りをされているみたいで。

 もしかすれば、ブッチの行いだって同じようなものだったのかもしれない。

 護衛を引き受けて一緒にいてくれたのだって、【存在】が失われてしまった唯一無二の相棒ザ・サンダンス・キッドを取り戻すためでしかなかったわけだし。


「……言っておきますけど、わたしはただの浅倉アトリっていう一個人でしかないんですよっ……そうであるはずなんですよっ、そうでしかありえないはずなんですよっ……!

 ……超能力者でも名探偵でも天才でもありえない……一般人でただの凡人でそこらに転がる石ころみたいにありふれているだけの存在でしかありえないはずなんですよっ……!

 伝えたいことがどうあれ、なんであれ、分かれ、分かってくれって言われたって、理解出来ないものはどうあったって理解なんて出来ないんですよ! 出来るわけなんてないんですよ! それが大事で……大切なものであるんなら、尚更なんですよ!

 大体、誰だってみんなそうなんですよ、誰も彼も! 自分が思っていること、自分が考えていること、その全部全部全部がちゃんときちんと相手に伝わっているのが当たり前だって思わないでくださいよ!」


 言葉であれ気持ちであれなんであれ、自分が伝えたいなにかがあったって相手に伝わらなきゃ、意味なんてそもそもないのだ。

 それがどれだけ大切なものであったとしたって、きちんと相手に伝わらなかったら、ただ無意味に終わってしまうだけなのだ。

 でも、後々――それもかなる時間を経てしまった今更、その無意味がなんの因果か意味になりえてしまったら、それがきちんと相手にきちんと伝わってしまったら――それも、取り返しのつかない大事が終わってしまった後だったら、尚更でしかなくて――


「わたしは結局、なにをすればよかったっていうんですか!?

 わたしは結局、なにをどうすればよかったっていうんですか!?

 わたしは結局、なにをどうすれば、みんなはよかったっていうんですか、正しかったっていうんですか!?

 わたしはなにをどうすれば、どうしたらよかったんですか……それがちゃんと出来たら、出来ていたら……ブッチさんだって……【あの人】だって……」


 後悔の本音の言葉を吐き出すのと同時に、頬を涙が伝い落ちていく。


「……わたしは結局、なにをすれば……なにをしてあげれば、よかったっていうんですか?」

「お嬢さんがなにか腹にお入れになって、元気を取り戻してほしいですよ。とりあえず、アタシとしては」


 不意に割り込んできた声にはっとなる。いつの間にかケサダがいた。言葉をただただ吐き散らしまくっていたアトリが気付かなかっただけだ。


「すいやせん、なんど声をおかけしても返事がなかったもんで、勝手に入ってきちまいやした」

「……い、いえ、わたしの方こそ……すみません」


 いつからケサダがいたのか分からなかったけど、驚くより羞恥の方が勝った。

 こんな聞き苦しいことを、どこから聞かれていたのかって思ったら。


「……すっ、すみません。……なんか、すごく見苦しいものを見せちゃった、みたいで」

「とんでもねぇですぜ。むしろ、それが当たり前なんじゃねぇですかい?」

「……え?」

「失礼な物言いになっちまいますがね、お嬢さんみてぇなことになっちまったら、子供ってのは大体そうなっちまうんですよ……大体じゃなく、みんなみんな。おかしいことなんかじゃちっともありやしませんよ、むしろそれが当たり前じゃなきゃ、おかしいってもんなんですよ。

 自分の胸の内に溜まっちまった、もやもやしたわけのわかなねぇモンの抑えがきかねぇんなら、尚更ですよ。

 むしろ、どうにもならねぇ理不尽だ不条理だにぶち当たっちまって、頭ン中がこんがらがってわけもなにもわからなくなっちまったら、ぎゃあぎゃあ泣いて喚き散らすしかねぇじゃねぇですか。アタシゃ、それが普通なんだって思っていやすぜ」

「…………」

「でも、だからって……」

「……だからって?」

「失礼を承知でお言いしやすけどね、お嬢さん。アタシもエメもマックスも、お嬢さんがそこまでご期待してくださるぐらい万能な人間になんぞ出来上がっていやしやせん。首魁ボスですらも、きっと」

「……えっと、それは、どういう……?」

「お嬢さんに限らず、全ての人間同士どころか生きる存在同士が誰とでもお互いに、それこそ蟻か蜂みてぇに、なんでもかんでもちゃんときちんと分かり合えられりゃあ、世の中もっと平和に出来上がっているはずじゃねぇですかい?」


 ケサダの言うことは、正直見当違いだ。

 だって、アトリが言うことじゃなくて、アトリがそう言うっていうことへのフォローと若干の非難だし。


「それよりマックス、お前ぇ、なにやってんだい……って、ああああ! お嬢さんのベッドシーツに、脂の染みが……」


 シーツを見て、ケサダは悲鳴を上げる。


「全く、この馬鹿犬……お前ぇってヤツぁ」


 そして、「敷物にしてやる!」と、続く――はずだった。


「この、ろくでなしが……。ろくでなしが……。食い意地ばっか張ってろくでなしの馬鹿犬でしかねぇはずのお前なのに、この……」


 それどころか、声をつまらせて、鼻をすすり始めている。


「……また、って?」

「お嬢さん、マックスの奴はね、友達ダチを殺されてるんですよ、ここに来る途中で」

「……!?」

「官憲や賞金稼ぎや探偵にぶっ殺されちうまうってのは、認めたくありやせんが、無法者アウトローの一種の宿命みてぇなモンで、別にそう珍しいことじゃねぇんですよ。けど、マックスの奴の友達だった奴ぁ、無法者アウトローとしてそういう死に方をするには、あんまりにも若すぎやしてね」


 つぶらな黒い目のフォーンホワイトの毛色の食い意地が張ったウェルシュコーギー犬に、とてもそんなバックグラウンドがあるなんて思わなかった、思ってもみなかった。


「……でも、とてもそんな風には」

「そりゃあそうでしょう、お嬢さんが知っておいでになられているのは、ヤンチャで食い意地が張った馬鹿犬なんですから」

「……!!」

「死んだ友達のこともあったかもしれやせんが、コイツなりに見ていられなかったんですかね」


 じゃあ、さっきのマックスのあの行動は――

 瞬間、羞恥の赤がアトリの頬を染め上げる。

 さっきの言動は、あんまりといえばあんまりじゃなかっただろうか。いくら知らなかったとはいえ。

 そんなアトリに対し、ケサダがこれ以上なにか言うことはなかった。

 骨付き肉を摘まみ上げると、アトリがなにか言う前に部屋を出て行ってしまったからだ。マックスもその後に続く。

 アトリは再び、部屋に一人きりになる。

 思考と感情と理性は、既に元通り――というより、叩き治されている。


「……わたし、傲慢どころか駄々っ子もいいところじゃないですか。……当たり前すぎることへの分別も、全くつかなくなっちゃっていて……」


 考えるより前に、身体が動いた。

 ベッド脇のテーブルの上に、それは置かれている。

 口をつけられぬまますっかり冷えてしまった豆とベーコンのトマトスープ――それと、パンが。

 スプーンに手を伸ばす。思い切って、口にする。

 口内に、冷え切ってしまっているけれど素朴で優しい豆の味、ベーコンの脂と塩気、トマトの心地よい酸っぱさが、口一杯に広がる。

 その後はもう、止まらなかった。空っぽになってしまっていたアトリの胃袋は、勿論一口だけで満足なんかしてくれない。 

 飢えたコヨーテみたくがつがつとスープを食べる、パンを頬張る。


「アトリは、アトリだろうが。アトリでしかねぇはずだろうが」


 さっきの本音は、断固否定するべきだ。ブッチの言葉を思い出す。

 あの時のあの場を取り繕うための咄嗟の虚言うそであったなんて、到底思えない。

 それぐらいのわきまえ、アトリにだってある。

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