ご報告

饂飩粉

「ご報告」

 並んで椅子に座る神妙な面持ちの男女がそれぞれ頭を下げる。手前のテーブルに隠れて上半身だけしか映っていないが、二人とも暗い紺色のゆったりした服を着ていた。ペアルックにしては、随分と地味なチョイスだ。


「ハルです」

「アキです」


 短い挨拶。

 いつもならこの後「ハルアキチャンネルです」の掛け声に合わせ、Vの字型にした両手に互いの顎を乗せておでこをごっつんこする独特の挨拶をするのだが、今回の動画に限ってそれは行われなかった。

 心なしか、二人の椅子の距離は他のどの動画よりも離れている。

 カップルYouTuberのハルとアキは、その季節を感じさせる名前に合わせた"ぽかぽか系彼氏"と"ダウナー系彼女"のキャラで人気を博していた。

 ぽかぽか系彼氏ことハルはパーマのかかったくしゃくしゃの茶髪とぱっちりした二重が特徴的な男性だ。天真爛漫なアウトドア派で、ベタベタなデートやスキンシップを好む性格をしている。

 対するダウナー系彼女ことアキは濃い目のメイクとコロコロ変わる髪色が特徴の女性で、性格も好みもハルとは正反対と言っていい。

 「互いを動物にたとえたら何でしょうか?」という視聴者からの質問に答えた際、ハルはアキに大型犬と言われ、アキはハルにナマケモノと言われた(その際ハルはアキに肩パンされた)。

 一見して趣味や好みなどもまるで違っていそうな2人だが、互いを好いていることは動画の端々から感じられ、理想のカップル像であると若者の間で人気を博している。

 そんな彼らがいつもとは異なる厳かな雰囲気で挨拶をしたこの動画のタイトルは「ご報告」だ。


「えー今回の動画のタイトルにもある通り、えー、本日は皆様に、えー、ご報告があります」


 いつもの明るいハルからは想像もできないようなおぼつかない声音だった。ぱっちりした二重の瞳は伏目がちで、カメラの方を見ていない。まるで答えに窮して見当違いの答弁をする国会議員のようだ。以前チャンネルで投稿された「【同棲】ダウナーな彼女よりもさらにダウナーになってみた【モニタリング】」でダウナー系を本気で演じていた時よりもテンションが低い。


「その前に、一ヶ月ほどチャンネルの更新が止まってしまい、ご心配をおかけして本当に申し訳ございませんでした」


 アキは逆に普段よりもハキハキと喋っている。普段からダウナー系キャラを作っていたため「あー」とか「んー」とか「そーだねー」と語尾がだらしなく伸びた言葉遣いが特徴的だったが、今回の動画でちゃんと喋ろうと思えば喋れることが判明した。


 深々と頭を下げたハルとアキは、黙祷でもしたのかと思うほどたっぷりと間を置いてから顔を上げた。本来なら編集でカットするべきと思うほど、不自然に長い間だった。

 謝罪が先に行われなかった構成からも、二人がこの動画を編集する余裕すらなかったことが見て取れる。現時点でテロップもBGMもSEも使われておらず、


「えー、改めましてご報告と言いますのは、えー、僕たちハルとアキは、別れることに、なりました」


 何の回答も用意していなかった国会議員同然のハルの言葉に、アキが黙って頷いた。


「えー、順を追って経緯を説明しますと、えー、本来次に投稿する予定だった動画の撮影中に、えー、問題、といいますか、あることが発覚いたしまして」

「私達のTikTokも見てくださってる方はご存知かと思うんですけど、まずはこちらをご覧ください」


 アキが促すと、画面にはTikTokの動画が再生され始めた。

 ハルアキチャンネルはTikTokアカウントも有しており、宣伝活動の一環として利用している。

 彼らのTikTokアカウントには次回動画の予告的なものからすでに公開された動画のオフショットやNGシーンなどがアップされている。

 今再生された動画は直近で次回予告のハッシュタグがついたものだ。

 TikTokの動画ではハルとアキの住む部屋のインターホンが鳴り、玄関のドアを開けると着物を来た女性が立っていたところで終わっている。動画にはハル自身は映っておらず、アキの移動に合わせてカメラも動いていることから全てハルの手持ちのスマートフォンで撮影されたものと思われる。

 そして玄関の女性が映った際に挿入されたテロップには「この後アキの父親が来ることを全く知らない我が母www」とあるため、女性はハルの母親であることがわかる。そして動画の趣旨としてはいきなり互いの親を鉢合わせたら何を話すか、ということなのではという推測が立っている。

 しかしながらこの動画には、それとは無関係に奇妙な点があった。それはコメント欄でも多くのユーザーが指摘している通り、ハルの母の服装についてだ。

 それはハルの母親の着ている着物が白装束であり、左前になっているという点だ。

 さらには葬儀関係者を名乗るアカウントから「これ多分経帷子だよ。背面に経が書かれてると思う」とコメントがついたことで一時騒然となった。他のインフルエンサーも本動画を無断で切抜きし「ハルの母親は既に死んでいる?」「本当に母親か?」などといった憶測が飛び交った。


 TikTokの動画が終わると、すぐに元のハルとアキを映した画面に切り替わった。


「えー、説明しますと、まず先ほどのTikTokの動画に映っていたのは、えー、紛れもなく、えー、私の母でございます」

「そして、ハルのお母さんが着ていたのは経帷子であることに相違ございません。左前になっているという指摘も、その通りです」

「こちらについては、えー撮影直後に編集してTikTokにアップしたのですが、その時は、えー、僕もアキもそのことに気づいておりませんでした」

「パッと見で白い着物だったので、ん?って気はしたんですけど、私もハルのお母さんと会うのは実は初めてだったので」

「えー、あの、僕も実はアキのお父さんに会ったことがなくて、ってか、お互い片親だってのもこういう動画撮ろうって話になった時に初めて知ったんで」

「うん」


 アキも頷きを返す。その後も言い訳がましい内容をハルがつらつらと捲し立てていたが、ほとんど意味をなさない言葉の羅列になっていた。

 耐えかねたアキが、ハルを手で制した。

「ちょっと、ちょっと、もう多分動画見てもらった方が早いからこれ」

「あ、うん」

「では、TikTokに上げた動画の続きをお見せしますので、どうぞ」


——————


 玄関のドアを開けると、そこにはハルの母親が立っていた。左前の白装束のように見える着物に身を包んでいる。金の簪で髪を纏めた妙齢の女性だった。頬が若干弛んではいるが、背筋はピンと張っている。

「初めまして、ハルの母です」

 深々とした礼をした際、カメラにハルの母親の着物の背面が映り込んだ。何やら黒い模様のようなものが描かれていた。画面には映っていないが、カメラマン役のハルの「ん?」という声が聞こえた。

「あ、どうも、初めまして、アキです」

 アキもその服装の異様さと、気圧されるほどの気品ある一礼に狼狽えながらも礼を返す。

「お母さん、じゃあ、こっち。適当に座ってていいから」

 ハルが母親を促すと、彼女は廊下を音もなく歩いてリビングの方に向かっていった。

 カメラはその様子を背後から捉えていたが、ハルの母親の着物の背面には経がびっしりと書かれていた。

「え、ハルのお母さんっていつもあんな?」

 驚きを隠せないまま、アキが小声で耳打ちした。カメラは玄関前のアキに向き直る。

「いや、僕もあんな格好のお母さん初めて見た……」

「話した? 今日のこと」

「撮影はするよって言ったけど、アキのお父さんも来るとは言ってないよ」

「何だろ……ちょっとビビったマジで。変な汗出てきた」


 半笑いのアキの頬を、はっきりと一筋の汗が伝った。

 ハルもアキも、この時点ではハルの母親の服装が経帷子であることに気づいていないようで、ただただ奇抜な格好としか捉えていない様子だった。二人とも、教養がある方ではなかった。


「え、アキのお父さんは大丈夫?」

「いや、普通の人だけど……なんか不安になってきた。てかさっき撮ってたやつアップした?」

「うん、もうスマホで済ませた」


 画面にスマホを持ったハルの手が映った。どうやらここから先はハンディカメラでの撮影に切り替えているらしい。

 二人ともどことなく笑みが溢れているのは、ぼんやりと今回の撮影の"撮れ高"に期待しているからだろう。


「後で普段のお母さんの服装の写真探しとくわ」

「オッケー、ありがと」


 アキが人差し指と親指で円を作り、それ以外の指を立てたジェスチャーをする。

 そしてハルとアキの二人はハルの母親が待つリビングに向かった。勿論ハルの構えたハンディカメラでの撮影は続いている。

 二人暮らしのリビングはダイニング兼用で四方の壁の内一方はキッチンになっている。

 長方形の木製のテーブルのキッチン側の椅子に座ったハルの母親の隣に、アキがおずおずと腰掛ける。カメラマンを兼ねたハルはその向かい側に座り、二人の上半身を画角に収めた。

 ハルの服装は窺い知れないが、アキは夢展望というブランドから販売されている学生服のようなデザインのワンピースを着ている。アキはどちらかといえばフリルのついたロリィタ系のファッションを好んでいる。


「お母さん、準備いい?」


 ハルの母親は、カメラよりもずっと遠くの景色を見ているかのようだったが、ハルの声に応じてゆっくりと頷いた。

 アキは緊張からか、ハルの母親とカメラに向けて忙しなく視線を左右させている。


「じゃあ、始めるよ——はい、というわけで僕のお母さんに来てもらいました!」

「わー」


 アキが控えめな拍手を送る。


「改めまして、ハルの母親です」


 慣れているのか、いつもこうなのか、ハルの母親からは一切の緊張も見てとれなかった。しかし機械的というわけでもなく、その声色には温かみが感じられる。

「僕のお母さんね、動画出演は了承してくださったんですが、名前出すのはNGなんで。アキちゃん、なんて呼ぶ?」

「ええー? じゃあ……ハルママ?」

 アキが恐る恐る口にするが、半笑いの顔はカメラに向けられている。徐々に彼女の緊張も解けてきているのだろう。

 ハルが吹き出す。

「お母さん……ハルママでいい?」

「どうぞどうぞ。お好きに呼んでくださいな」

 経帷子さえ着込んでいなければ淑やかで少し天然気味な女性にも見えただろう。事実、経帷子のことを何も知らないアキはだんだんといつもの調子を取り戻しつつあった。

「じゃあその、ハルママに質問いいですか?」

「はい、どうぞ」

 ハルの母親——ハルママは柔和な笑みを崩さずに頷いた。

「ハルママは、その、見てますか? ハルアキチャンネル」

「勿論。息子がどんな女性とお付き合いしてるのか気になりますから」

「わああ、なんか恥ずい」

 カメラに向かって寒がるようなポーズをするアキ。

 その後も、アキからの他愛のない質問にハルママは淡々と答えていった。

 ハルママが一番お気に入りの動画は「【お忍び】彼女に気づかれないように服装変えて何度もすれ違ってみた【ファッション】」とのこだった。この動画の趣旨は推しのイベントに向かったアキに気づかれないようにハルが何度も服装を変えてアキのすぐ横をすれ違って気づくかどうかを試すものだった。最後には軽く肩がぶつかったにもかかわらず、普段とまるで違う格好をしていたハルにアキが気づくことはなかった。なおこの際にハルが着たコーディネートの数々は中国発の格安ブランドのアイテムのみで構成されており、動画開始時の左上には「プロモーションを含みます」のテロップが表示されていた。動画の最後には視聴者限定の特別クーポンコードの案内もあり、プロモーションの結果も上々だったという。


「アキさん、私からも質問、よろしいかしら」

「あっ、はい。どうぞ」

 おそらく台本にはなかったのだろう、アキが身構えるが、ハルはカメラを回すのを止めなかった。"撮れ高"というものは、思わぬハプニングからも生まれ出るものだ。


「アキさんは、出身はどちらなの?」

「あ、えと、東京の葛飾です」

「あらそうなの! ちなみにお父さんも同じかしら?」

「いや、父は三重だって……」

「——」


 三重。その県名を聞いたハルママの目が、すっと刃のように細くなったのをカメラは捉えた。

 それまで和やかな雰囲気に包まれていた空気は、その眼光の冷たさに一瞬で凍りついた。


「……お母さん?」


 ハルの言葉にも、ハルママは答えなかった。

 ただ、鋭さを増した瞳に憂いとも怒りともつかぬ感情を湛える様は、弓を引き絞ったまま獲物を待つ狩人のようだった。

 ハルもそれ以上何かを口にすることはできなかった。アキはハルに「私なんかダメなこと言った?」と言いたげな目配せをしているが、どうやらハルは気づいていない。

 全員が押し黙った空気を打破したのは、インターホンの音だった。


「あ、お父さん来た!」

 アキが逃げるようにその場を後にして、玄関口へと向かっていった。

「ちょ……」

 ハルも後に続こうとしたが、カメラに映るハルママがそれを許していないような気がしたのか、カメラが一瞬大きくブレただけに留まった。

 カメラのマイクが、玄関口にいるであろうアキとアキの父親の会話を拾う。


「お父さん、何その格好!?」

「——」

 アキの父親の声は小さくて聞き取れない。

「ちょっとお父さん勝手に行かないで!撮るから!ハルー!来て!」


 アキの呼びかけに応じる暇もなく、カメラの画角に半分ほど収まっている玄関口へと続く廊下の扉から一人の男性が姿を現した。禿頭と武将のように整えられた白髭、尖った鷲鼻、落ち窪んだ眼窩から覗く眼差しはしかし、肉食動物のような気迫を滲ませている。父親というよりは祖父と言われた方が納得できるほど老け込んでいるものの、背筋は竹のようにまっすぐ伸びている。

 ハルママの鋭い視線が、男性に向けられ、交錯する。

 驚くことに男性は、ハルママと全く同じ格好をしていた。両腕は体の前で交差させており、反対側の腕の袖口に通している。

「お父さ——」

 遅れてきたアキも思わず扉の前で足を止めた。

 画面は、ハルママとアキの父親——便宜上アキパパとする——が視線で火花を散らし合っているかのような画で停止したかのようだったが、カメラは止まっていない。


「やはり、あなたでしたか」

 口火を切ったのは、ハルママだった。

「願わくば、二度と会いたくはなかった」

 アキパパの声は小さかったが、張り詰めた空気の中に重たく響いた。

 す——と袖に隠れたアキパパの腕が動いたように見えた。

 その瞬間、座っていたハルママの姿が消える。否、消えたのではない。彼女はアキパパの真横に立ち、金の簪の先端をその首筋に突き立てている。


「——え? え? ええ?」


 ワンテンポ遅れてハルのリアクションがカメラのブレにも現れた。さっきまでハルママが座っていた椅子と、いつの間にかアキパパの隣に立つハルママを画角の中央に収めるように往復を繰り返す。フォーカスが忙しなく動き、何度も画面がぼやけた。

 画面上でも、ハルママはまるで編集で移動した様子をカットしたかのようにしか見えなかった。


「お母さん、ちょっと何してんの!?」

 ハルはテーブルの上にカメラを置いたのか、先ほどよりも低い位置で画面が固定される。ハルママとアキパパの首から上が見えなくなった。

 画面の端で、アキが腰を抜かしてへたり込む。

 ハルが見切れたまま画面に映り込んで、ハルママの肩を掴んだ。

 しかし、ハルママを揺さぶろうと力をこめたのに、ハルママは微動だにしなかった。


「ハル、あなたに伝えなければならないことがあります」

「アキ、お前も聞きなさい」

 二人の声には、有無を言わさぬ迫力があった。



 その後、ハルとアキはそそくさと椅子とテーブルを整え、テーブルを囲んで座る四人が見える位置にカメラを固定した。その様子は早送りされることもなくノーカットで流れたことからも、この動画が無編集である可能性は高い。

 テーブルを囲んで座った四人は勿論ハル、アキ、ハルママ、アキパパである。

 カメラはどうやらキッチンの側に固定されており、先ほどとは異なる壁が背後に映っている。長方形のテーブルの長辺に、それぞれハルとハルママ、アキとアキパパが向かい合うように座っている。画面的には、向かって手前側に、それぞれの親が座っていて、ピントは彼らに合わせてある。


 その準備が整ってからも、しばらくは誰も口を開かなかった。ハルとアキは話を聞けと言われたので完全に聞く姿勢で、互いの親の様子を伺っている。

 しかし当の親同士は、互いを忌み嫌っているかのようで、眉間に皺を寄せたまま睨みを利かせあっていた。双方共に50歳を超えているであろう大の大人が、恥ずかしげもなくメンチを切り合っているのだが、滑稽さは微塵も感じられない。ただ殺気のみが二人の間を陽炎の如く揺らめいていた。

 そこに、ハルが控えめに挙手をした。挙手をして誰かに許可を与えられなければ、とてもじゃないが口を開けるような空気ではなかった。

 余談だがハルアキチャンネルでは一度、交互に単独でライブ配信を行ったことがある。最初の1時間はハル、残りの1時間はアキのみが出演したそのライブ配信では、視聴者からの要望も多かった「互いのことをどう思っているかをぶっちゃける」という企画を行った。その際にアキはコメント欄で投げかけられた質問「ハルくんのどんなところが一番好きですか?」に対し、恥ずかしそうにこう答えている。「いざという時には勇気を出してくれるところ」と。

 その勇気が、今空間を支配している気まずさと緊張と殺気を打破すべく、挙手されたハルの腕に宿ったのだ。

「どうしたの、ハル?」

 ハルの挙動に気づいたハルママが、視線はアキパパに向けたまま言った。アキの質問に答えていた頃の柔らかな印象はそのままだったが、今やその温かみも仮初のものとしか思えなかった。

「えー、その、お母さんと、えー、アキのお父さんは、えー、お知り合い、なんですか?」

「ええ、知っていますとも」

 当然とでも言いたげな様子で、あっさりとハルママは認めた。

「え、じゃあ、アキのことも、えー、知ってたの?」

「この男に娘がいることは知ってたわ。それがアキさんでないと、願っていたけれど……」

「それはこちらの台詞だ」

 不意にアキパパが口を挟む。

「アキに我らの業を背負わせることなど、本来はあってはならなかった」

「その言葉、そっくりそのまま返させていただきます」

 親同士の言葉の応酬に、慌ててハルが待ったをかける。

「ちょ、ちょ、ちょっとお母さん、話が見えないんだって」

 挙手したままの手が、小刻みに震えている。ピントが合ってはいないが、アキは心配そうにハルを見つめているようだった。

「僕たちに話したいことって、何?」

 わずかにぼやけたハルの表情は、どんなことでも聞き入れる覚悟に満ちていた。

「……聞いてしまったらもう、後戻りはできないけど。いいの?」

 ハルママが、初めてためらうような素振りを見せた。

 その機微を察したアキパパが、くっくっと声を押し殺して笑った。

「何を今更……我らが交わした誓約の条件はとうに満たされている。今までも、それを先延ばしにしていたに過ぎん」

「なら、あなたの口から教えてあげたらいいのでは?」

「いいから教えてよ母さん!」

 バン! と挙手していた手でテーブルを強く叩いたハルが、ハルママに詰め寄る。

 ハルママが目を見張る。息子の怒りに驚いているようでもあるし、我が子の成長を愛おしむようでもあった。

「……わかったわ。ハル、そしてアキさん」

「は、はい」

 突然名前を呼ばれ、アキが姿勢を正す。アキパパは腕を組んだまま、目を瞼を閉ざしている。

「実を言うと、あなた達は——」


 余談だが、ハルとアキは同い年で誕生日が同じであるという共通点がある。ハルアキチャンネル開設当初はその話をしていなかったが、視聴者からのコメントに答える回で「お二人の誕生日を教えてください」という質問が上がり、少し勿体ぶりながら同い年で誕生日が同じであることを発表した。この発表は大きな話題となり、再生回数は動画の公開からわずか三日でで四百万回にも達した。それからしばらく経ち、二〇二八年の四月一日に「【ご報告】皆さんにお知らせがあります」という動画が更新された。その内容がエイプリルフールにちなんだジョーク動画であることは明らかだったが、その内容は「実はハルとアキは双子だった」というものだった。その動画は双子であると判明した後も互いを愛し続けることを誓うという流れで、エイプリルフールのジョークであると告げる直前には口づけを交わす一幕もあった。その際に、ジョークとはいえハルはこう語っている。


「たとえそれが事実だとしても、僕はアキを愛しています。僕とアキは一人の男性と一人の女性として大学のゼミで出会い、交際を始めました。それから五年以上も経ちますが、僕はそれを決して、血の繋がりがあったから互いを理解し合えたとは思いません。僕がハルで、彼女がアキだったから、互いを尊重し愛し合うことができるんです。僕らはこれからもお互いを恋人として、将来は結婚することも考えてお付き合いを続けていきます。どんな批判や罵倒も受け入れます。ですが、僕たちの愛を止めることは、誰にもできません。親にだって、神様にだって、絶対に止められません」


 このハルの告白パートは無断で切り抜きされYouTube以外のソーシャルサービスでも無断転載が繰り返されるほど熱烈な愛の告白であると話題になった。

 今でもこの告白セリフの「血の繋がりが〜」等の双子を仄めかす部分を意図的に切り抜いた動画が「これが本物のカップルだよね」と、バズりを狙うくだらないSNSアカウントによって定期的にポストされ、何も知らない無知なアカウントが大量にRTした後コミュニティノートにてハルアキチャンネルのエイプリルフールネタであることが言及されるまでが恒例となっている。


「実を言うと、あなた達は——忍の末裔なの」


 そこで再生が一度止まり、元のハルとアキが二人並んでいる画面に切り替わった。

「えー、先ほど流した映像の通りで、僕は甲賀の」

「私は伊賀忍者の末裔であることが判明しました」

 甲賀——その存在が仄めかされたのは戦国時代だが、決して歴史の表舞台に登場することなく暗躍し続けた忍の一族。江戸時代の終焉とともに役目を終え、潰えたかに思えた忍者集団はしかし、現代に至るまでその血を絶やすことなく生き永らえていた。

 そして伊賀——甲賀同様歴史の転換点において必ず存在していたとされるが、その正体を知る者は誰もいないもう一つの忍の一族。甲賀と同じく役目を終えたとされ、その力を利用した時の権力者によって悉く処刑されたと思われた彼らもまた、現代にその末裔を残していた。

 歴史上の権力争いにおいて、一方が甲賀忍者を味方につければ、もう一方は伊賀忍者を味方につけた。甲賀も伊賀も、権力のために与しているわけではなかった。両一族とも、どちらがより優れた忍の一族であるのかを決めるための戦場を現代に至るまで探し続けていたのだ。それぞれが門外不出の忍術を創造、継承し、血で血を洗う戦いを歴史の影で繰り返してきた。


「僕の母とアキのお父さんは、それぞれ甲賀と伊賀の忍の代表として忍術合戦を繰り広げ、引き分けた過去を持っております」

 ハル(本名: 卯月十兵衛光春)は覚悟を決めたのか、それまでの国会議員じみた間延びした言葉遣いが改まっていた。

「引き分けた父とハルの母は、自分達の代では互いの拮抗した実力では決着がつかないと悟り、その勝敗を次の世代へと委ねました」

 アキ(本名: 秋雨蛍)は画面外に手を伸ばした。その手が画面内に戻ってきた時には、仰々しい巻物が握られていた。紫檀という木を加工した軸に、蛇皮と和紙を組み合わせたものが巻かれている。

 アキはそれをテーブルの上に広げたが、分厚い巻物の全貌を窺い知ることはできなかった。

「こちらの巻物には甲賀と伊賀が代々争い続けた戦いの記録が記されています。動画の概要欄に巻物を全て広げてPDF化したものを公開したページのリンクを貼っておりますので、ぜひご覧ください」

「巻物の最後には、僕のお母さんとアキのお父さんとの勝負の結果が引き分けであったことと、"その勝敗は互いの血を引く子孫が相見えた際に子孫同士の戦いをもって決めるものとする"と記されています」

「これから私たちは、甲賀と伊賀の血を引く忍の末裔として、永きに渡る骨肉の争いに幕を下ろします」

「戦いの方法——忍術合戦についても、概要欄に詳細を記載しておりますのでご一読ください」

 ハルとアキがカメラに向かって一礼する。

 それが、二人がカップルYouTuberのハルとアキでいられる最後の瞬間であった。


「じゃあ——殺ろうか」

 顔を上げたハルの双眸は、ほんのりと涙で滲んでいた。

「ううん、もう始まってる」

 ハルとは対照的に、乾いた表情のアキが告げた。

「えっ——」

 ハルの顔の前を一匹の蝶がひらひらと飛んでいた。羽ばたく度にその羽の色を変える不思議な蝶は、いつの間にかカメラの画面を埋め尽くすほどに増殖していた。


「忍法、朧鳳(おぼろあげは)」


 アキの言葉とほぼ同時に、無数の蝶の群れが固定していたカメラを三脚ごと倒したせいで、画面は九十度傾いたままテーブルの下の隙間を映した。

 余談だが、カップルYouTuber時代のハルとアキはしばしば対決企画を動画として上げていた。「【互いに初心者】グダグダスマブラで掃除当番決めてみた」「【愛の試練】お互いの好きなところ言えなくなった方がケーキ奢るゲーム!」「【喋ったら負け】サイレント同棲生活」等、再生リストの「対決系」カテゴリには80以上の動画が登録されている。

 中でもアキは卑怯な手段を用いることを厭わなかった。カウントダウンでスタートするゲームも口頭でのカウントを早口で言ったり、ゲームが既に始まっていることを後からハルに教えたりするのは日常茶飯事だった。そんなアキにいつもハルは騙されてしまうのだが、稀にアキ自身が自らの策に溺れたりすることもあり勝敗の行方は意外にもわからないところが高評価に繋がっている。

 本動画の概要欄にある忍術合戦条項第一条には「忍術合戦は、甲賀と伊賀互いの代表がその旨を了承し、一礼することで開始の宣言とする」とある。

 カメラに向けた一礼を、アキは開始の宣言として解釈したのだ。朧鳳は無数の蝶で視界を覆う忍法だが、蝶の量を増やせば身動きすら取れなくなる。あとは忍刀で急所を刺せばそれで終わる。

 しかし、アキがそういう性格であることを一番よく知っているのは、ハルだ。


「忍法、襖抜け」


 圧倒的な物量で一つの塊と化した蝶の群れに椅子ごと倒れかかったハルの体だけが、リビングから消えたように見えた。

 その瞬間、カメラが寝室を天井の角の一角から映すものに切り替わった。リビングとは扉一枚隔てて繋がっているその部屋に、ハルは転がり込んでいた。扉が開いた形跡はない。もし扉が開いていれば、蝶の群れが押し寄せていただろう。

 襖抜けは、文字通り襖や扉、薄い壁を通り抜ける忍法だ。

「それでこそ、私の息子だよ」

 画面には映っていないハルママの声——どうやら天井の隅に体を張り付かせて、カメラを構えていたらしい。つまりハルはアキの先制攻撃を読み、ハルママはそんなハルが寝室に避難することを読んでいたのだ。

 ハルの暗い紺色の服装は、忍装束であった。アキもまた、同じ装束に身を包んでいたのだ。よもや二人の初めてのペアルックが忍装束になるとは、誰が想像できただろうか。


「やるじゃん、ハル」

 扉越しに、アキの声が聞こえる。

「アキが何してくるかってことくらい、全部わかるよ」

「ふーん、じゃあこれはどう?」

 ハルママが何かを察したのか、カメラは寝室のハルではなく天井に向けられた。壁と同様白色の天井には、中心に照明器具が取り付けられている。

 やがて天井から煙が吐き出されると、その中心部がどんどん赤く変色し膨れ上がっていった。それはまるで、金属を高熱で熱した時の色に似ていた。照明器具がベッドの上に落下する。器具の一部はドロドロに融解し、変色していた。


「忍法、炎転下(えんてんか)」


 超高温で熱され溶け始めた天井の隙間から、球状の巨大な火炎の塊が見えた。それが寝室ごとハル(とその場に居合わせたハルママ)を焼き尽くさんと迫る。

「忍法——!?」

 襖抜けは、使えない。

 忍術合戦条項第八条に「忍術合戦では、同じ忍法を複数回使用することは禁ずる」とある。これは、戦いとはいえあくまで忍としてどちらが優位かを決めることが趣旨であるため、一つの忍法を繰り返し使うよりも複数の忍法を使いこなすことが重要視されていることを示している。

「光春!」

 ハルママが叫ぶ。

 炎転下は相手の真上に出現させた無数の火球を雨のように打ちつける忍法だが、アキの炎転下は無数の火球を一つに融合させたものになっている。寝室内に、逃げ場はない。

 かつて「【ドッキリ】彼氏の寝起きの様子をノーカットでお届けします」「【ドッキリ】寝室にYes/No枕置いてみた」「なんか寝室に超デカいぬいぐるみがあるんだが……」等の数々のドッキリ企画の舞台となったクイーンサイズのマットレスに、火球から降り注ぐ火の粉で少しずつ焦げていく。

 もはや一刻の猶予もなかった。ハルは扉とは反対方向の窓ガラスに体当たりして、庭へと転がっていく。襖抜けした扉の向こうにはアキが待ち構えていると判断したのだろう。

 ほぼ同時に画面は、まるで細かいカットを刻むかのように天井、部屋の片隅、割れた窓、庭と画面が目まぐるしく切り替わる。カメラを持つハルママがそのように移動しているのだろうが、とても人間業とは思えない。

 外はまだ日が高かった。ほぼ真上から差し込む光に、青々と茂る庭一面の芝生が照らされている。

 ハルママと共にカメラが庭に飛び出すのとほぼ同時に、かつて寝室だった空間に火球が炸裂し爆発四散した。炎を纏った爆風が芝生を焦がし、干してあった洗濯物ごと洗濯竿を薙ぎ倒す。庭を囲う高さブロック塀の一部が、積み木のように反対側の道路へと吹き飛ばされた。

 ハルとアキが共に暮らす二階建ての一軒家は、アキの忍法により文字通り半壊していた。まるでケーキの一部をスプーンで掬い取ったかのように床や壁の内側の基礎が露出しており、十二帖あったリビングは二帖くらいしか残っていなかった。そして建物自体はキッチンコンロの爆発によって今もなお炎に包まれている。


 そしてハルは、庭に転がり込んだ瞬間にそこで待ち構えていたアキが振り下ろした忍刀を、右腕で受け止めていた。

 カメラは燃え盛る家を背にした二人の姿を影絵のように映している。

 かつて2人が「【DIY】暑すぎてプールに行く気力がないので、庭をプール公園にしてみた」の動画で巨大なビニールプールを広げたりダンボール製のミニウォータースライダー(一回滑っただけで壊れた)を設置していたかつての庭は、今や炎と煙の舞う戦場と化していた。

「——へえ、まだやるんだ」

 刀を受け止めたアキの腕は震えているものの、刃を通していなかった。アキが力を込めても、ハルの腕は鋼のように硬いのか、金属同士が擦れるような音が響く。


「忍法、針甲羅」

「——!」


 刀に体重を預けていたアキが、大きく上半身を反らした。ついさっきまで頭のあった位置を、無数の針が掠めていく。

 針は、ハルの皮膚だった。針甲羅は硬質化させた自らの皮膚を剣山のように変質させ奇襲する忍法だ。


 余談だが、甲賀と伊賀ではそれぞれ極める忍法が大きく異なる。甲賀は自らの肉体を武器とし、伊賀は自然現象や超常的な力を味方につける。平たく言えば、火や風を操るようなものは伊賀忍法で影分身や変わり身といったものが甲賀忍法に該当する。一見、伊賀忍法の方が強そうであるかのようにも思えるが、潜入や暗殺などには甲賀忍法の方が都合が良いことの方が多い。

 そして忍術合戦においても、甲賀忍法の奇襲性は派手で範囲の大きい伊賀忍法と十分に渡り合えるポテンシャルを秘めている。

 アキもそれを十分に熟知しているからこそ、範囲の広い忍法で追い詰めてから直接忍刀でトドメを刺す戦法を用いている。

 それでも、思わぬところから反撃の手を伸ばすのが甲賀忍法だ。伊賀とは忍法の発展の方向性がまるで違う。その違いは互いの一族の信念や方向性が所以であり、決して重なることのない主張だからこそ幾度となく衝突を繰り返してきたのだ。


「甲賀は、卑怯な忍法ばっかり」

「伊賀には、手品みたいな余興しかないみたいだけど?」

「っ——!」


 アキが刀を握る腕に力を込めて、ハルを弾き飛ばした。とてつもない胆力。つい1ヶ月ほど前まで一キログラムのダンベルすら満足に持ち上げられなかった女性とは思えない。

 ハルとアキは今回の忍術合戦に備えて、それぞれ自身の親に一ヶ月の稽古をつけてもらっていた。それまで忍法が使えないどころかろくに体を鍛えていなかった一般人の二人が、たった一ヶ月でここまで成長したのには理由がある。ハルとアキは幼い頃から今日に至るまで、無意識下で忍者としての修行を積んでいたのだ。それはハルママとアキパパが施した幻術による"無意識下での忍者英才教育"であった。

 その証拠として「【ドッキリ】彼氏の寝相がおかしいので隠しカメラで撮影してみた」では、深夜に突然起き上がったハルが筋トレを行っている姿が映っている。しかしハルにその記憶は全くなかったので、ヤバすぎる寝相として話題になったことがある。

 無意識下のうちに忍者としてほとんど完成していたハルとアキは、瞑想によりその修行の日々を自らの意識下に取り込んだのだ。故に短期間で親に匹敵するほどの忍として大成したのである。


 ハルとアキ、二人の激しい忍術合戦はその後も苛烈を極めた。

 忍法と近接戦の応酬は、決定打とまでは行かないにしろ、少しずつ互いの体力を削り合っていた。

 ハルママが構えたカメラでは捉えきれない戦いは、二〇分以上も続いた。辛うじて半壊だった一軒家はほとんど全焼し、庭の芝生も大半が焼き焦げ荒野のように変わり果てている。

 肩で息をするハルは、右腕を力無く下げている。アキの忍法蟒蛇瀑布(うわばみばくふ)を避けきれず、右肩を抉られたからだ。辛うじて腕はつながっているものの、もはやほとんど使い物にならない。

 圧倒的に優勢かと思われたアキはしかし、ハルと少し距離をとって身構えている。忍刀はハルの忍法燕車(つばめぐるま)によって刀身の半ばから折られ、右足は忍び装束で隠れているものの痣だらけで力を込めることすらままならない。化粧はほとんどが汗と血で流れ落ちていた。一重の瞼を二重にするためのシールも剥がれ、黒目を大きく見せるコンタクトも片方が外れている。

 ハルママの持ったカメラは、ハルを背中から捉えるような画角だ。ハルママは決して二人の忍術合戦に肩入れせず、ただその記録を残すためのカメラマンに徹していた。

「ハル…………」

 折れた忍刀を逆手に構えていた右手を、アキは下ろした。

「もう、やめにしない……?」

 ピクッ、と画面が振動した。アキの言葉に、ハルママの手が反応したのだ。

 ハルやアキが無意識下のうちに刷り込まれていたのは、忍者として必要な訓練だけではない。代々受け継がれてきた互いの一族への憎悪、怨嗟。歴史の中で、時に甲賀は伊賀の伊賀は甲賀の忍の命を奪ってきた。終わらない復讐の連鎖の鎖は、ハルとアキの首にしっかりと巻きつけられている——はずだった。

 今のアキからは、その憎悪が感じられない。痛みと疲労が、無理やり植えつけたような負の感情が薄れかかっているのだろうか。

「だんだんわかんなくなってきた……なんで私たち、戦ってるんだっけ」

「思い出せ秋雨蛍! お前は忌まわしき甲賀の忍を殺すためだけに生まれてきたのだ!」

 ハルママのカメラが僅かに全焼した家屋の方に向けられると、骨組みだけが残る屋根の上から、アキパパが見下ろしていた。経帷子に身を包み、組んだ腕を反対側の袖の中に隠している。

 アキパパの言葉に抗うように、アキは頭を抱えふらつき始める。

「嫌だ……ハルは…………ハルは私の…………この世で一番愛してる人…………」

「たわけ! そこにいるのは我らが伊賀忍者一族の生涯の敵ぞ!」


「そうだよ、アキ——いや、秋雨蛍」

 アキパパの肩を持つかのように、ハルが口を開いた。

「え……?」

「君はアキじゃない、秋雨蛍だ。そして僕はハルじゃない、甲賀忍者一族の末裔、卯月十兵衛光春だ」

「やだ……やだよ、ハル…………」

 汗でも血でもないものが、アキの頬を伝った。

 涙。

 アキは、汗や涙を流すのが嫌だった。「【感動】彼女が泣ける映画で涙を流すところが見たい」という動画内で『カールじいさんの空飛ぶ家』の開始五分や『ハロー!?ゴースト』、『アイアン・ジャイアント』を見たときも、化粧が崩れるからという理由で泣くのを必死に我慢するくらいだった。夏場の外出も、可能な限り拒んだ。アキはとにかく人前で泣くのを、たとえハルの前であっても嫌がった。

 そんなアキの瞳から、堰を切ったように涙がこぼれ始めた。

 それを見たハルの拳は、微かに震えていた。

 ハルママの持ったカメラからは、どんな表情なのかを知ることはできなかった。

 しかし——

「秋雨蛍、戦いに私情を持ち込むな。そんなお前を殺しても、何の意味もない」

 その言葉は今までのどんな攻撃よりもアキに効いた。

「ハル……」

「来い、秋雨蛍。全力を出したお前を討ち取ってこそ、甲賀が伊賀よりも優れた忍の一族であることの証左よ!」

「さすが、我が息子……」

 伊賀を憎む甲賀の忍者として迷いのないハルに、ハルママが感嘆の声を漏らす。

「ハル、そんな……」

「御託はいい。かかって来い」

「秋雨蛍よ、甲賀者を殺せ!」

 アキパパが叫ぶ。

「…………」

 アキは完全に戦意を喪失してしまったかのように項垂れていたが、何かをぶつぶつと呟いていた。カメラのマイクでは、何を言っているのかまでは聞き取れない。

 しかし、折れた忍刀を持つ手にだんだん力が籠ってきているのを、ハルもハルママも見逃さなかった。

 半歩下がるハル。不意打ちはアキの得意な戦法であるが故に、警戒は怠らない。

「ハル、私、決めたよ」

 アキがゆっくりと面を上げる。血と汗と涙とアイライナーを、拳でまとめて拭う。折れた忍刀を、両手で握る。

 そして、穏やかな笑みを浮かべる。

 その笑みは、すぐにキスやハグをしたがるハルを言葉では嫌がりながらも浮かべる表情に似ていた。

「もう、ハルとは戦わない」

「っ——」


 ハルの左手の指が、ぴくりと動いた。予想外の言葉に、一瞬の動揺が体の動きに現れた。


「ハル、愛してる。私がハルのことを好きなのは、ハルが私を好いてくれるからじゃない。ハルが私を一方的に嫌いになっても、すぐにハルのことを嫌いになんてなれない。今この瞬間も、私はハルのことが大好き。だから、戦わない。でも、戦いは終わらせないといけない。それなら——」


 アキは、両手に持った忍刀を逆手に持ち変えると、大きく振りかぶった。そのまま腕を下ろせば、忍刀はアキ自身を貫く——。

 しかし、振り下ろされかけた腕は空中でぴたりと静止した。それはアキにとっても予想外のようだった。

 そして体の自由が効かないのは、ハルもハルママも同じだった。カメラは一切のブレることなく固定されている。ハルもまた、身動きを取ろうと体を震わせているが、指の一本すらまともに動かせない。

「巫山戯るな! この親不孝者めが!」

 激昂したのは、辛うじて画角に収まっているアキパパだった。袖の中に隠されていた両手は今や露わになっており、不思議な形の"印"を組んでいるが被写体が遠くぼやけているため詳細が確認できない。

「お前、まさか!」

 その"印"がハルママには見えているのだろう。そして、その"印"がもたらす術の意味も——少なくとも、アキパパの忍法が三人の身動きを取れなくしているのは明らかだった。

 これは帷包(とばりつつみ)といい、一定の範囲内にいる者を金縛りにさせる忍法だ。伊賀忍法の中でも自然現象ではなく超常現象——霊的な力を顕現させる部類に該当する。金縛りを引き起こしているのは、無念のまま散った伊賀忍者の亡霊か、あるいは……。

 制圧力はあるが"印"を結ぶ必要のある帷包は、一対一には不向きだ。アキパパは、アキの洗脳教育が薄れた時点で"印"の準備をしていたのだろう。

 アキパパは帷包を展開しながら、更なる忍法をアキに向けて放った。


「忍法、傀儡舞踊(くぐつぶよう)」


 静止した世界の中で、アキだけがゆっくりと動き始めた。逆手で構えていた忍刀の切先を、ハルへと向け直す。

「何、これ…………体が…………勝手に…………」

 忍法、傀儡舞踊。文字通り、相手を傀儡のように操る忍法だ。今やアキの体は、アキパパの思い通りの操り人形にすぎない。

「秋雨蛍、とんだ伊賀の恥晒しよ」

 怒りに満ちたアキパパの声。

 アキは折れた忍刀を構えたまま、一歩一歩ハルに近づいていく。

「お前がやらぬと言うのなら、儂が引導を渡してくれようぞ」

「お父さん……やめて……」

 アキは必死に抵抗しているのか、表情は苦悶に満ちている。

 あっという間に、折れた忍刀の間合いに入るほどに、アキはハルに接近した。

「終わりだ、憎き甲賀の末裔よ」

「いやああああああっ!」

 カメラに背を向けているため定かではないが、位置関係からしてハルの左胸に、アキの持つ折れた忍刀が突き刺さった。

 

「アキ…………」


 やがて、ハルが口を開いた。

 帷包の効果が切れて、金縛りから解放されたのだ。

 ハルの声を聞いた瞬間、体の自由を取り戻していることに気づいたアキが飛び退いた。

 二人の間で、折れた忍刀がからん、と音を立てて落下する。

「ハル……ハル!」

「アキ…………」

 折れた忍刀の他に、もう一つ、二人の間に小さな箱のようなものが転がった。

 それは、ハルの忍装束の懐から溢れたものだ。青いベルベットの生地に包まれた、テニスボールよりも一回り小さい箱だった。

「え……?」

「試すような真似をして、ごめん」

 ハルが箱を拾い上げて、汚れを払った。一瞬映り込んだ箱の一面には、何かが深く突き刺さったような跡があった。

「これに助けられるなんて」

 アキが唖然としている間に、ハルはその場に片膝をついた。そして箱の蓋を開いて、アキの向けて掲げてみせた。


「僕と、結婚してください」

「——!」


 アキの瞳から再び涙が溢れた。

「ハル……本当にハルなの?」

「そうだよ、僕はカップルYouTuberのチャンネル、ハルアキチャンネルのハルだよ」

「アキ……アキ!」

 アキは倒れ込むかのようにハルを抱擁し、ハルはそれをしっかりと受け止めた。

「馬鹿! 私のこと、秋雨蛍って呼んだ!」

「ごめん、アキが本当にアキに戻ったのか、確かめたくて……」

「馬鹿馬鹿! もう絶対あんな噓吐くな!」

「うん。もう二度と、アキに嘘は吐かない」

「くそ……騙された……ハルに騙された……」

「ドッキリ仕掛けてきた数は、アキの方が多いでしょ」

 実際ハルアキチャンネルの再生リスト「ドッキリ」に登録されている動画は43本あり、内アキがハルに仕掛けたドッキリ企画の動画は29本のためこの指摘は正しい。

「光春……あなた、何を言っているの?」

 我に返ったようにハルママが二人に近づいていく。律儀にカメラは二人に向けられたままだ。

「その女は伊賀忍者よ? まさか、伊賀に与するというの!?」

「違うよお母さん。僕とアキは、抜け忍になる。甲賀にも、伊賀にも属すつもりはない」

「光春…………」

「僕はハルだ。ハルアキチャンネルのハルだ!」

 ぼろぼろの右腕でアキを抱いたまま、ハルは闘志を剥き出しにしていた。

「そんな……伊賀女に甲賀の精を注ぐだなんて…………」

 ハルママがカメラを持った手から力を抜いてしまったのか、荒野となった庭の上を転がった。回り続けているカメラは運良く三人の足元を映している。

「甲賀の女を孕むことなど、絶対に許さんぞ!」

 ハル達とハルママの間に、アキパパのものと思しき声と両足が降り立った。しかしその足は震えており、大きな疲労が伺える。帷包や傀儡舞踊は、おいそれと連発できるような軽い忍法ではない。

「お父さん、私はハルと生きる。ハルのお嫁さんになってやる!」

「この、恥晒しが……!」

「光春! もうあなたを、息子とは認めません!」

「経帷子を着るのは、お前達の方だ!」

 ハルママもアキパパも、それぞれの子に全てを託していた。自らの忍としての極意、甲賀と伊賀が極めてきた全ての忍法、代々争い続けてきた甲賀と伊賀の因縁の決着の行方……二人の親にとって、子は自らの分身といっても過言ではなかった。勝敗がどうなろうとも、決着を見届けた後は自決する覚悟だった。それ故の、経帷子だった。


 ハルとアキ、ハルママとアキパパは、ゆっくりと距離を取った。双方の足は間合いを測りながら、踊るように荒れ果てた庭を回る。

「忍法、蟒蛇瀑布!」

「忍法、卍通し!」


 先に仕掛けたのは、ハルとアキのようだった。二人の忍法が発動し、転がっていたカメラは画面にヒビが入り、やがてブラックアウトした。

 動画はそこで終わっている。

 二対二となった忍術合戦の勝敗がどうなったのかはわからない。

 しかし、しばらくしてこの動画に出てきた紫檀と蛇皮の巻物が火事の現場から発見された。

 その巻物の最後には、勝敗の結果ではなく、家系図のようなものが描かれていたという……。



 春秋忍法帖、完。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ご報告 饂飩粉 @udon-break

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ