第三話 腐臭(その七)
「そうよ、そうなのよ。駄目、だから駄目なのよ。この子が居ないと駄目なのよ。だめよだめだめだめだめ。わたしから此の子を奪うなんて駄目よ、だめだめだめだめだめ・・・・」
「先生」
声を掛けてみる。だがもう彼女からの返事はない。
教師だったものは、下腹を大事そうに抱えてぶつぶつと独り言を呟くだけのオブジェと化していた。時折くすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。それだけだった。
「壊れちゃったかな」
いつの間に現れたのか、キコカの隣には夏岡が立っていた。
「もう最初から壊れていたのよ」
「最後の安全ピンが抜けちゃったんだね」
日中、夏岡に中野教諭を紹介したらすぐにソレと判明した。
詳しく教える必要も無い。彼女の名前を告げる前に顔を見た途端一発だった。彼に言わせれば腐敗したアレの臭いをまき散らしていたのだそうだ。
垂れ流しの体液に臭いは無いが、乾いてしまえば異臭を放つ。そんな有様で校内を徘徊すればそこら中に臭いをバラ巻くハメになった。本人は意図せず自らをカモフラージュしていた訳だ。
アレの臭いは普通の人間には嗅ぎ取れない。だが中野教諭にははっきりと知覚出来た。それこそ真っ白な紙の上に落とされたインクの染みのように、もうそれはそれは気になって仕方が無かった。
だからあちこちに消臭スプレーを噴霧した。衣服は言うに及ばず、自分の使う椅子机教科書から時には階段の手すりまで。そして特に狩り場は薬用のアルコールで丹念に拭き取った。それこそ自分でも嗅ぎ取れないほどにまで徹底的にだ。お陰で臭いが奇妙な偏りをみせて余計にまばらな印象となった。
過敏になっていたのは肚の子の影響だろうか。それとも蹂躙されたときに身体に染みこんだ体液のせいだろうか。いずれにしても普通の人間以上に鼻が利いていたのは間違いない。そして告白があろうと無かろうと教師を続けることなど不可能だった。
もう完全に踏み外している。身も心もだ。だからこうして誘い出し問い質したのだ。
「彼女に会うまで、学内に満ちていたのが胎児の腐敗臭だと気づけなかったのはボクの落ち度だ。確かに元から腐ったような臭いで判別は難しいんだけれどもね。でも分かっていたらもっと別のアプローチもあったよ」
彼女がバラ巻いていた消臭剤やアルコールのせいで幻惑されたのだという。
「そう」
言い訳がましい台詞だったがどうでも良かった。自分一人では何ともならなかったのだ。責める資格は無い。それに彼が自責するほどの手落ちとも思えなかった。たとえ言うように手早く解決出来ていたとしても、今日の解決が昨日であっただけだろう。犠牲者の数は何も変わらなかったのだ。
「でも、こんな普通の女性に前任者はしてやられたのかな」
キコカはポケットの中からスマホを取り出して写した写真を見せた。睡眠薬だの致死性の劇薬名が記された薬瓶や錠剤薬袋だのがいくつも写っていた。
「彼女の部屋で撮ったモノよ。ご覧の通り、彼の遺留品も引き出しの中に有ったからほぼ間違いないでしょうね。何処で手に入れたのかは知らないけれど、ネットの裏街道を徘徊すればそれ程苦労はしないわ」
「一服盛られたってこと?やれやれだね」
使いかけの錠剤は幾つもあったから、薬を盛った相手も一人や二人では無かったはずだ。それこそ手慣れたものだったのだろう。
「ある程度あたりを付けての接触だったのでしょうけれど、相手が人間だから躊躇しちゃったのかもね。気付いたときに連絡すればそれで済んだのだけれども。あたしたちの相手はアレであってヒトじゃないんだから。
でも所詮それは後知恵、油断すれば明日は我が身よ。お互い他人事じゃないんじゃない?」
「これらからどうするの」
「どうもこうもないわ。連絡して迎えを寄越してもらうだけ。此処の結界はこのままにしておきましょう。おかしな連中に踏み荒らされては元も子もないし」
「事情聴取は難しそうだね」
「この教室に入ったときから会話は全部録音しておいたわ。報告書に添付して提出するからもう後は上の連中の仕事よ」
「用意周到だね。それに過去の類似事件までよく調べていたよね。さすがキコカちゃん」
「以前の報告書くらい目を通して置きなさい。あなたもプロなんでしょう」
「ボクがプロのDKならキコカちゃんはプロのJKだね」
「下らない」
当局の対処班から人員が到着して、彼らに彼女を引き渡すとそのまま学校を後にした。東の空には少し黄色みがかった半月が気怠そうに町を見下ろして浮かんでいた。
何ともイヤな光景だなと思った。
人気の無い敷地は驚くほどに音の通りが良いモノだから、不穏な気配は遠くからでも直ぐにそれと知れる。北側の駐輪場置き場を背に立てば、街灯に照らされる白い校舎の壁に一人分の影が張り付いていた。
「あんたまだ居たの」
深夜の校内を巡回していて奇妙な人影があるなと思えば、何のことは無いコイツだった。
「ご挨拶だなぁキコカちゃん、でもそれはボクの台詞でもあるよ。仕事は終了したんだろう?」
「一週間の事後観察よ。それで異常が無ければそれで初めて終了というのよ」
「相変わらず生真面目だなぁ。そんなの監査官に丸投げしちゃえばいいのに」
「そうはいかないわ。それよりも」
言葉を切って深めに目を据わらせると、ヤツの軽薄な笑顔が更ににこやかになった。
「夏岡十里、ナニをしてきた。なんの帰りだ?」
「なんのこと?」
「とぼけて誤魔化せるとでも思っているの。あんたほどじゃないけれどあたしの鼻はまだ鈍っちゃいないわ」
「やだなぁそんなに怖い顔しないでよ。単にボーナスで遊んでいただけさ」
「ボーナス?」
「今回の仕事っぷりがボクの上司に高評価でね、報酬以外に五日間の滞在が許されたのさ。勿論その間は『規定に抵触しない限り何をやっても構わない』。きちんと許可をもらっているからとやかく言われる筋合いは無いよ」
「・・・・・」
「今夜は一人だけだよ。ナリ替わりしか相手にしていないんだから何も問題は無いでしょう?居残ったヤツはあんまり居ないんだ。一息で全部ヤっちゃったら勿体ない」
がん、と硬い音がして飛んできた鉈が校舎の壁に突き刺さった。その場所は夏岡の首があった場所だった。
「危ない危ない、今のは相当にスリリングだったよ。キコカちゃんは予備モーションが無いから避けるのは一苦労なんだよね」
「相変わらず口は減らないようね」
「口だけじゃない腕前だって健在さ。良かったよぉ先程のあれは。
夜道で何も知らない女の子を後ろからそっと愛で、鋭い終焉で悲鳴も上げぬ間も無く静かな安息の地へと導いて行く。
懸命に藻掻く肢体。その滑らかな首筋、震える唇、ぴしりと緊迫する細い背筋。びくびくと痙攣する全身の筋肉。流れる熱い涙。
火傷しそうなほどの脈動が迸り、尊い命が昇天してゆく刹那の瞬き。吹き上がる奈落への喪失感。強い鉄の臭いと生さ臭さ。鼓動を失ってゆく心臓の儚き最後の灯火。
そして明滅と消滅。
その一時に訪れるのは、何ものにも替え難いぞくぞくとした歓喜さ。
ヒト為らざるモノと知ってはいるものの、奪うモノと奪われるモノとの関係が変わる訳じゃ無いからね。正にホンモノそっくりだからね。恍惚としちゃうね。未だに掌に感触が残っているよ。祝福の声音が聞こえて来そうだよ。たまんないよ。
震えて悦びの声が天に届きそうだよ。
この至高の愉悦に比べれば強姦なんて正に下衆の所業・・・・あ、ちょっと!何で予備なんて持ってるの!」
踏み込む足音と厚肉の刃物が風を切る音が聞こえてきた。一回、二回、三回目には悲鳴が混じっていた。
「ちょっと、ちょっと待ってよ。ボクら同士の私闘は禁じられてるでしょう!規約に抵触しちゃうよっ」
「私闘じゃないわ。ただの駆除よ」
「詭弁だっ。ちょっと待ってよ落ち着いてっ」
四刀目を振ろうとして手を止めた。目の前に居たヤツの姿が薄っぺらい影になって、ぐにゃりと崩れて落ちたからだ。
ちっ。
そう言えばコイツは目眩ましも使えるんだった。
「まったく怒ると見境無いなぁ」
暗がりの何処かで声が聞こえてきた。右側から聞こえて来るような気もするし、左側からのような気もするし、背後からのような気配もあった。
「お楽しみの余韻で調子に乗っちゃったのは謝るよ。でもナリ替わり如きにムキになるのは解せないなぁ。アレはヒトじゃないんだよ」
「虫唾が走るのよ。とっとと此処から失せな」
「ええぇそれは非道いよ。まだ四日も残っているのに」
「それとも自分の命を
「ああ分かったよ、もう今夜で出て行くよ。でもやっぱり本気のキコカちゃんはぞくぞくするなぁ、替わるモノなんて無い。ボクの首を捧げるのはやっぱり君しか居ないよ。キコカちゃん以外のヤツに殺されるのはごめんだね。じゃあまたね愛してるよ、つぎはぎ姫さま」
アデューと言ったきり声も気配も消えて失せた。
と同時に、あたしも大きく息を吐き出した。
やれやれだ。
「所詮ケダモノはケダモノだね」
壁に突き刺さった鉈を抜き取ろうとすると、暗がりの中からデコピンがじっとこちらを見つめているのに気が付いた。
「別にあんたのコトを言ったわけじゃないよ」
鉈を腰の後ろに吊った鞘に納めようとして、足元に何かが落ちていることに気が付いた。拾い上げてみればそれは名札だった。落合と読め、小さな血痕の跡があった。ヤツが落としていったものに違いない。
果たしてコレを付けていたのはどんな少女だったのだろうか。二回も殺されるなんて全くついてない子だ。
ナリ替わりはこの名札本来の持ち主であった子の記憶を携えていたはず。最後の瞬間にどんな気持ちで逝ったのだろうか。同じ感情があったのか、記憶を吸い上げると魂も一緒に宿るのか。もちろんそんなモノが本当に在ればの話なのだけれども。
「ホント、なんであたしはこんなコト気にしているんだろね」
無害な愛玩動物なら兎も角、己や家族友人を喰らうモノ相手に忖度するなど莫迦げている。情を移した挙げ句、自らを窮地に追い込んでどうするのだ。
ちょっと困ったように笑む中野教諭の顔が思い浮かんだのは一瞬のことで、すぐに消えた。
また小さく溜息をついて、名札はスカートのポケットに仕舞い込んだ。この所どうにもおかしい。こんな状況こんな場面それこそ飽きるほどに見てきているというのに。ナリ替わりを始末したことだって一度や二度では無いと言うのに。
「デコピン、今夜はもう帰ろうか」
声を掛けたのに身動きもせず、ただじっと固まったまま動かない。瞬きもせずに瞳孔の開いた丸い目でじっと見つめ続けるだけだった。
「どうしたの」
腰を屈めて両手を伸ばし、おいでとすると初めて動き出して腕の中に収まった。火照った毛むくじゃらの身体から心臓の鼓動が伝わってくる。
「疲れたのかい。あたしも今回は疲れちゃったよ」
時間のせいか昨日よりも少しだけ高めに昇っている半月が見えた。白々とした色合いだったがやっぱりイヤな月だと思った。
そして邑﨑キコカは猫を抱いたまま、自分のねぐらへと帰って行ったのである。
えげつない夜のために 第三話 腐臭 九木十郎 @kuki10ro
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