第三話 腐臭(その六)

 中野教諭の顔は血の気が引いて蒼白であった。まさに蝋人形のような有様だった。

「あなた、何者?」

他所よそから学内の清掃を命じられた女生徒、と言っても信用してはもらえないでしょうね」

 そう言うと軽く肩を竦めた。

「出頭と一緒にお腹のソレを病院で取り出してもらいましょう。まずはそれからです」

 努めて平静平穏を気取ったつもりだったのだが、受け答え方が拙かったのかもしれない。或いはその態度だったのだろうか。

 彼女の貌が見る見る内に変形してゆく。ものの見事だ。

 それはまるで、般若のようだった。

 彼女が隠し持っていたナイフを繰り出したのはまさに次の瞬間だった。思いの他に素早くて目にも留まらぬと言っていい。何の躊躇も無く喉を狙ってくる辺りも大したものだ。

 だがそれはあくまでヒトにしては、というだけの話。アレやその眷属を相手にする者にとって然したる脅威じゃない。軽く手首を取ってヒネり、取り落とさせた後それを教室の端まで蹴り飛ばした。果物ナイフだった。

 相談室に呼び出した男子生徒に使うつもりだったのだろうか。

 そのまま中野先生の腕を身体ごと振り回して床に叩き付けた。ぎゃっと悲鳴が上がった。手加減したつもりだったが肩の関節が外れる音がした。

「大丈夫ですか」

 髪が乱れ、蒼白の顔が怨念を刻んだまま見上げている。痛む肩を押さえて唇がわなわなと震えていた。

 不意に体をかわし、逃げだそうとしたその襟首を掴まえて勢いよく引き戻すと、そのまま床を滑っていって並んだ机と椅子にぶつかって派手な音を立てた。さっきよりも力は込めなかったのだがまだ強かったらしい。

 狼狽と共に幾重にも折り重なった感情を貼り付けて、彼女は親の敵のごとくあたしを見据えるのだ。

「さ、駄々をこねないで下さい。あたしと一緒に行きましょう」

 突如として「嫌よ」と叫び喚きだした。

「嫌!嫌、嫌、嫌、嫌、いやよっ!絶対に駄目っ、ダメよっ!」

 完全に裏返った金切り声だった。目が吊り上がり血走っていた。一瞬前まで平静温厚だった女教師の姿など微塵も無い。

 端から見れば全ては突如の変貌に見える。が、それはただの上っ面。裏側はもう薄く張り詰めて限界ぎりぎり破裂寸前の風船だった。ただそれが針の一突きで割れただけのこと。

 今、在るのはただ狂気の色合いだけだった。

 彼女は叫ぶ。自分がどれだけ苦労したのか。どれだけの葛藤をもってソレに従事していたのか。それは事細かにわめき始めた。溜め込んでいたものを一気に吐き出すかのような勢いだった。

 大学を卒業して意気揚々と務めた教職。信じていた生徒たち。裏切られ男子トイレで輪姦されたときの哀しみと苦悶。そしてその男子の一人が突如として人外の「ナニか」に変貌したのだ。そしてそのままこの身体はソレにまで蹂躙された。

 驚愕と絶望、それ以外は何も無かった。一緒に居た男子も残らず食われ、自分はその場で朝まで陵辱され続けた。助けてと幾度叫んだことか。

 朝日が昇る頃、屍は残らず集まって来た小ぶりな某かに食われ尽くされていていた。血溜まりすら綺麗さっぱり舐め取られ、自分はそのまま冷たいタイルの上に放り出されていた。

 何が起きたのかまるで理解出来なかった。理解したくなかったというのが正しかったろう。身も心もぼろぼろのまま、茫然自失の体で自分の部屋に戻り三日三晩寝込んだ。

 そして四日目の朝、じっとしていても何も始まらぬ。少なくとも食われた男子生徒たちの顛末も含め相談する必要があると決心し、登校してみて心底仰天した。死んだと思っていた生徒が皆、何食わぬ顔で席に座っていたからだ。

 顔も体つきも受け答えすらも寸分違わぬ、いやむしろ以前より従順で大人しい生徒へと変貌し周囲が驚くほどの「平穏な生徒」に成り果てていた。

 どういうことか。

 誰かに尋ねてみたかったがそれに相応しい人物は思い当たらず、よもやまさか警察に届け出る訳にもいかない。そもそも信じて貰えるかどうかも怪しいモノだ。

 心を入れ替え、模範的な生徒になったというのなら全てを自分の胸にしまい込み、推移を見守るというのも一つの手だと思った。だが、あの場所でのあの殺戮が夢幻ゆめまぼろしであったとは到底思えない。何か自分の与り知らぬ某かがあったのは確かだか、ソレが何なのか皆目見当も付かなかった。

 混乱し考えがまとまらぬまま時間は流れ、アレは悪い夢だと思い込もうとした。陵辱劇に混乱した自分が生み出した妄想だったのかもしれないと、そう信じようとした。

 だが自分が妊娠したことを知った。この肚の子の父親は生徒の誰かだろうか。それともあのおぞましい何か、なのだろうか。

 いやいや違う、アレは妄想なのだ、追い詰められたわたしが見た歪んだ現実。真実なんかじゃない。でも、このお腹の子はどうしよう。

 堕ろすか否か迷う内、やがてその父親が知れた。あるときずるりと下着の隙間から、触手と思しきモノが這い出てきたからだ。ひくひくと蠢くソレに悲鳴を上げそうになった。だが、ぐっと堪えた。嫌悪感よりも自分の腹の中で新たな命が宿っていると、奇妙な感慨の方が勝ったからだ。

 生きて居るではないかと、殺してくれるなと訴えているように思えたからだ。

 肚の中でソレが蠢く度に、ゆっくりと自分の中の何かが変わって行くのが分かった。これが母になるというコトなのではないかと思った。

 やがて教壇に立ち生徒たちを見下ろしていると、どの子が美味しそうなのかと品定めをしている自分が居た。でも特に驚きはしない。腹の子が求めているのだと知っているからだ。

 堪らない、と思う。

 だがその一方で我慢をしなければとも思った。流石に教え子に手を掛けるのは気が引ける。食っても構わない相手が居るのなら別ではあるが。例えばあの男子トイレの中で狼藉を働いた愚か者とか。

 渇望が日に日に強まって行く中である日、下着に血が着いていることに気が付いた。僅かではあるが出血している。我が子が死ぬ。今すぐ肉が必要なのではないかと直感があって胸が激しく騒いだ。きっとそれは絶対に必要なコトなのだと、使命にも似た何かが降り立つ感触があった。

 ある日我慢が出来ず、一人の子を相談室に呼び出した。素行の悪い子だった。真面目に授業を受ける気配も無い学校の問題児。高いハードルを越えて入学してきた生徒である筈なのに、何故こんなモラルや秩序遵守の意識が薄い者が居るのか。心底理解しがたかった。

 そしてこれが最後の警告と、そのつもりだった。

 その腹づもりがあったせいだろうか。「説得」は端から剣呑で、そのまま口論になり気が付くと彼を殺めていた。部屋から出て行く際、後ろから隠し持っていたハンマーで後頭部を打ち、そのまま失神した少年の頭を滅多打ちにした。最初の一撃にぐうと呻いただけで悲鳴も何も無い。呆気ないほどの顛末だった。

 何の感情も湧いてこなくて呆然と立ち尽くしていると、何処かで見たあの小ぶりな某かが現れて来て少年の死体を貪り始めた。何匹も何匹も集まって来て、見る間に黒いかたまりが少年だったモノを覆い尽くし食らいつくしてゆく。

 本当に見る見る内に小さくなってゆく。ものの見事だった。

 待って、と言った。

「それはわたしのモノよ」

 そしてその某かと一緒に先を争って生徒を食べた。味なんか分らなかった。だが必要なのだと信じた。お腹の子も喜んでいるに違いないと、そう思った。この子の死はお腹の子に新たな命を吹き込んで立派な大人へと成長するに違いない。その為にわたしはこの子を授かったのだとそう確信した。

 やがて骨すら無くなって、流れた血すらも舐め取られ、血の染みたボロボロの制服だけが後に残った。まるで生徒など端から存在しなかったかのような有様だ。

 自分の服も血まみれだが、自分と彼の衣服さえ始末してしまえば証拠すら残らないではないか。

 思わず、あははと笑った。

 この子の変わり身はまた何処からかやってくるに違いない。前もそうだったからだ。

 そうだ、コレだ。コレで良いのだ。

 素行の悪い者を矯正し素直な良い子へと作り替えてゆく。これが自分に与えられた新たな使命なのだ。正に天恵を受けた気分だった。

 一人目を屠ると二人目からは何の呵責も抱かなくなった。これは死ではない。自分の子となって生きる新たな再生なのである。食べないといけない。もっともっともっと。早くしないとこの子が死んでしまうから。


 全てを叫び、語りきった後に中野教諭は座り込んだまま放心していた。

 焦点の合わぬ目つきでぼんやりとキコカを見つめている。

 だが、それだけだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る