ヤヒロの家にて

 じりじりと汗ばむ暑さに、目が覚めた。

 エアコンはついているのに、嫌な湿気が、体に粘りつく。

 目の前には、見覚えのある天井があった。ここはヤヒロ自身の家だ。

 そして思い出す。昨日は疲れ切って、弥子やこをベッドに寝かせた後、自分はリビングの床で倒れるように寝てしまったのだった。

 体を起こして周りを見渡す。昨日、出て行った時と同じ状態だ。

 立ち上がり、寝室を覗いてみる。ベッドに弥子が、穏やかな寝息を立てて寝ている。

 ヤヒロは起こさぬように、静かにリビングに戻ると、冷蔵庫を開ける。中には、昨日、弥子と食べようと作った料理にラップがかけられて、入っていた。冷蔵庫から麦茶ポットを取り出すと、コップに注ぎ、一気に飲み干した。冷たさが喉を通り抜け、胃に刺激を与える。その感覚が、まだ眠気の残っていたヤヒロの頭を澄み渡らせる。

 どこを確認しても、昨日のままだった。ということは、昨日の出来事は夢ではなかったということになる。

 まるで空想の世界のような出来事だった。とはいえ、今後、妖怪たちに会わなかったり、あの洞窟に行かなければ、空想の世界で終わる。

 ヤヒロには、あの洞窟に行って、人知を超えた力を使って探検したいという思いと、もう危険な妖怪と戦って、怖い思いはしたくないという、真逆の気持ちが、せめぎ合っていた。

「もし、夢だと思ったら、私に確認してください。その時に夢じゃないことを確認し合いましょう」

 弥子の言葉が、ヤヒロの頭に蘇る。そうだ、起きてきたら再度、確認し合おう。昨日の出来事を話し合って、思い出話として笑い合って、過去のことにしてしまおう。そうしたら、忘れられる。忘れた方が良い出来事だったんだ。あの洞窟は、人間には危険すぎる。

 何も音がないと、色々と考えてしまうので、ヤヒロはテレビをつけた。

「このケーキ、クリームがふわっふわしていて、美味しいです~。こんな美味しいケーキは…」

 芸能人らしき女性の声が流れてくる。画面の端を見ると、十二時を示すデジタル表記があった。

 昨日の疲労が、まだ抜けきっておらず、ヤヒロは、画面から流れてくるキンキン声に顔を歪めた。頭に響く。それに耐えられず、チャンネルを変える。

「今年、十三歳になりました。これからも、競技は続けていくつもりで」

「これは家族全員で、熱々で召し上がっていただくのが美味しく」

「タンパク質も炭水化物も取れる、素敵なお弁当で、旦那さんも大喜び」

「一部の家庭は金銭的に子育ては厳しく、政府は対応を考えており」

「株式会社〇×は、経営が厳しくなり、買収も考えているという意見も発しており」

 次々にチャンネルを変えていく。昨日のことを思い出して、気持ちがざわつかないように点けたのだが、普段、テレビを見ないヤヒロには、逆効果だった。テレビから発せられる明るい声が、神経を逆撫でた。

「何か、イライラするな」

 昨日のことの整理がつかない。いっそ、弥子を起こして、話をするかと考えるくらいに、ヤヒロの神経はざわつき、体中がむずむずして落ち着かなくなっていた。

「先日、十九時半頃、Vtuberをしている猫山ねこやま魅兎みとさんは、富士の樹海で発見した洞窟で撮影をしていたところ、何者かに襲われ、撮影スタッフ二名が行方不明となり」

 報道番組のアナウンサーの言葉に、ヤヒロの手が止まった。猫山魅兎が誰か分からなかったが、Vtuberという言葉が出てきたことと、事件の状況から、兎月うづき猫彌ねこみの中の人だろう。ということは、この状況、昨日、ぬらりひょんと話していた、まずい事態の始まりに違いなかった。

「弥子! 弥子! 起きてくれ!」

 起こすのが悪いという気持ちは、吹っ飛んでいた。いち早く、このニュースを見せなくてはと、体のバランスを崩しながら、慌ただしく寝室に飛び込む。

「う~ん…」

 弥子も相当疲れているのだろう。ヤヒロの声に反応はするものの、目は開かず、夢うつつであることが伺えた。仕方なく、ヤヒロは弥子を抱きかかえる。完全に脱力状態で、重心が定まっていない。

 ヤヒロは落とさないように気を付けつつも、急いでリビングに運んだ。

「弥子、起きろ~」

「うぅ~ん…」

 リビングに座らせ、耳元で声をかけて、やっと薄っすらと目を開けた。

「大変だ。まずいことになったぞ」

「どうしたんですか~…」

 弥子は未だに眠そうで、脱力状態が続いている。少しずつ、ずれてゆき、放っておいたら、そのまま横になってしまいそうなくらい、体が傾いている。ヤヒロはその間に体を入れ、弥子を支える形で座った。

「テレビ見てみろ」

「ん~」

 ヤヒロに寄りかかりながら、テレビを見る。その姿は、まるで液体のようだ。そして、片目がもう閉じかけている。

「行方不明になっているのは、不知火しらぬい美那みなさん、椿井つばい草摩そうまさんの二名に加えて、通報を受けて洞窟内に向かった警察官二名とも、連絡が取れなくなっており。山梨県警は、消防と協力をし、約五十人の捜索隊を組み、洞窟内の捜索を実行するため、協議をしています」

 うつろに聞いていた弥子だったが、ニュースの内容を聞いていき、次第に覚醒していった。

「先輩、これってもしかして…」

「ああ、あの洞窟だろうな」

 猫彌のスタッフが、行方不明のままということは、ぬらりひょんたちは、残念ながら発見することは出来なかったわけだ。

「どうしましょう」

「どうしましょうも何も、俺たちには何もすることができないぜ」

「それはそうなんですけど…」

 弥子は悔しそうに唇を嚙んだ。

「何が起きているのか知っているのに、何もしないのも、嫌な感じなんですよね…」

 今にも泣きそうな、悲しい顔をする。弥子の言い分は分かる。ヤヒロだって、本当のことを言って、捜索を止めたい。でも、こんな荒唐無稽な話を、一体だれが信じるだろうか。妖怪という単語が出た時点で、門前払いだろう。

「悔しいが、俺たちには何もできない」

 捜索隊の五十人が洞窟に侵入したら、人数が多いため、全員の口を封じることは出来ない。必ず噂となって、妖怪のことは世間に知れ渡るだろう。

「先輩。SNSが凄いことになってます」

 弥子がスマホを見せてくる。トレンドには、ゴブリンが上がっていた。

「配信を観ていた人たちが、色々と投稿してるのか」

 昨日の猫彌の配信は、化け物に襲われているところで、急に切れる。それを視聴していた人たちは、企画だと思ったから、特に騒ぎにはならなかったが、実際にスタッフが行方不明になった上に、捜索に向かった警察官も行方不明になっているのだ、化け物が実在すると騒ぎになっても、おかしくはない話だった。

 加えて、昨日の視聴者のコメントは、出てきた化け物をゴブリンと言っていた。その文言が、そのままトレンドとなったのだ。

 SNSの投稿には、ゴブリンでなく別のものを考察する者。ゴブリンの面を被った殺人鬼を想像する者。緑色に染められた毛の熊だと発言する者。多種多様な投稿があった。中には「異世界転生のはじまりか!」などと書いている人もいた。

 ヤヒロは投稿を見て、奥歯を噛む。あそこは、アニメや漫画で描かれる、異世界みたいな生易しい場所ではない。地獄の入り口だ。生半可な気持ちで入ったら、命を落とす。

 ヤヒロたちだって、運良く、ぬらりひょんに会えたから助かったが、会えていなかったら、今、行方不明になっている人たちと同じことになっていただろう。生きて、ここには戻れなかった。対峙した本人だから、確証を持って言える。

「そういえば、ぬらりひょんさんが去り際に、また近いうちに会うって言ってなかったか?」

「確か、そんなこと、言っていたような気がします」

「まだ、何か起こることを、ぬらりひょんさんは予想しているってことなのか…」

「そうだとしたら、今後が怖いですね」

 何かが起きる。でも何もできない。そのことに、ヤヒロも弥子も、もどかしかった。

 少なからずとも、捜索隊が突入したら、怪我人は出る。最悪、死者も出てしまう可能性がある。その未来に、二人とも憂鬱な気持ちにならざるを得なかった。

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迷宮関所官渋谷 キキカサラ @kikikasara

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