ひとつ隣りの車両には

干月

ひとつ隣りの車両には

 阪急御影駅。大阪梅田行きの電車の、六号車の、優先座席の前。

 私はいつもそこで、五号車に乗っている彼の横顔を眺めている。

 名前も知らない、ただ同じ高校に通っていて、一つ上の先輩であることしか分からない彼。

 野暮ったい眼鏡をかけて、妙に垢抜けない髪で、いつも単語帳を見ている。その単語帳にはたくさんの付箋が貼ってあって、受験生なんだなあというのが伺える。

 私は彼のことを、それだけしか知らない。彼は足が早くて、その分改札口を出るのも早い。私はいつも人並みに飲まれてしまって、気付けば彼を見失っている。

 だから、私が彼を見ていられるのは、御影駅から芦屋駅までの、たった二駅分のみだ。帰りの電車なんて、私は部活をしているからかち合うわけもない。

 だから本当に、数分間のみだけ。

 その毎朝、厳密には月曜日から金曜日の登校日の朝の二駅分しか、私は彼に会うことは出来ない。それも、二枚のドア越しに。

 否、分かっている。隣の車両に私も乗ればいいのだ。同じ車両に乗り合わせるなんてそう珍しいことでは無いし、単語帳しか見ていない彼が私に気づくとも到底思えない。

 けれど、私はここから見る彼が好きなのだ。一年前からずっと。


 彼を初めて見たのは、一年の七月。その日は面倒なことに二年生との交流会的なものがあって、各学年から選ばれた人がそれぞれ発表していた。発表の後、二年生二人と一年生二人で組まされたグループ内で、発表内容について話し合うのだ。

 彼は私と同じグループ─ではなく、一つ前のグループだった。彼はそれぞれグループで出た意見を発表する時にグループ代表として喋っていて、あ、この人陰キャっぽい見た目にしてはハキハキと喋るやん、とか、失礼なことを考えていたことを覚えている。

 そんな彼と同じ時間同じ電車に乗っているのだと気付いたのは、翌日のことだった。彼は両耳にイヤホンを付けて、欠伸をしながら、ぼんやりと外を眺めていた。岡本駅で少なくとも六十は越えているであろうお年寄りが乗ってきた時、彼はすっと立ち上がって、にこやかに何かを言ってドアの傍まで移動していた、はずだ。ドア二枚越しというのは視界が狭くなってしまって、正直よくは見えなかった。

 けれど、ああ、この人はきっと明るくて、優しい人なんだろうなと思った。時には目の前にいるベビーカーの赤ちゃんを、変顔で笑わせていたりなんかして。

 時には隣のおじさんが彼にもたれかかって爆睡し始めるのを、苦笑いしつつ放っておいたりして。

 もちろん、声なんか聞こえない。ドアを二つ挟んでいるんじゃ、電車の音に全てがかき消されてしまって聞こえるわけなんかない。

 けれど、その光景は私の脳に音を届ける。温かな、オレンジ色の熱を私に届けてくれる。

 忙しない朝も、彼を見ていると穏やかな朝に早変わりだ。その日一日を元気で過ごせるような気すらする。

 分かっている。この気持ちが恋か、あるいはそれに近い何かであることを。名前も知らない彼。彼に至っては私の名前どころか顔も知らないだろう。

 別に彼の顔は私の好みどストライクという訳でもない。私はもう少し彫りの深くて、渋めの顔立ちが好きだ。彼のような平べったい顔とは真逆。髪だってもう少しスッキリしていて欲しいし、眼鏡だって別に趣味じゃない。見た目は好みとはまさに真逆で、私の好きになりそうなタイプでは、一切ない。

 だと言うのに、私は、もうすっかり彼に惚れ込んでしまったようだった。それはまるで、広大な海の中で一人取り残されてしまったような、そんな不安定な浮遊感。時に暖かい陽だまりが私の顔に降り注いで、私はその為だけに生きているのだと錯覚する。

 彼に話しかける勇気もないのに、彼に惚れてからというもの、容姿を磨いた。特に興味のなかったスキンケアだとか、ヘアケアだとか。顔痩せ、だとか。

 その甲斐あってか私は、両親や友人にも努力の成果を褒められるようになった。もっとも、彼は変化前も、まして変化後も知らないのだけれど。


 時の流れとは早いもので、彼と出会ってからもう一年の月日が経とうとしていた。日差しはまだ強くは無いけれど、彼の背を確かに照らしている。逆光だから表情こそよく見えないが、その単語帳を見つめる顔は真剣そのものに違いないのだろう。

 彼はどの大学に進学するのだろう。地元を出てしまうのだろうか、それとも関西で進学するのだろうか。兵庫県内の大学だったり?

 できることなら、彼と同じ大学に入りたいと思う。私は成績はよくないし、もし神大、なんて言われたら、無理な気しかしないけれど。関関同立─否、産近甲龍すら厳しいかもしれない。けれど、彼のためなら頑張れる気もするのだ。なんて、話したこともないくせして随分と重たい。


 ─次は芦屋。芦屋に止まります


 私は改めてスクールバッグを担ぎ直して、ドアのそばまで歩いた。今日はもう、これでおしまい。



 そんな私に転機が訪れたのは、六月の下旬のことだった。その日は文化祭の二日目だった。初日はステージを見て、二日目は校内を回るような設計だった。

 私はまず行きたいところがあった。文芸部だ。私は図書館に置いてある、不定期に出される文芸雑誌を読むのが好きだった。お気に入りは「翠川緋音」という方が書いている小説。多分、みどりかわあかね、と読むのだと思う。

 この方の書く文章は、確かに少し難しくはあるのだけれど、それでもどこか夕陽のような包み込んでくれる光と暖かさが合って読みやすい。内容も設定もさっぱりとしている学園モノだ。恋愛ものではなくって、こう、男の子同士が馬鹿やってるみたいな、そんな小説。

 私は甘酸っぱい少年少女の心揺れ動くシーンが描かれる青春も好きだけど、夏休みにカブトムシを取りに行くような、川で水を掛け合っているような、そんな青春も好きだったりする。

 後者を書いているのが、翠川先生だ。私は去年もこの人の小説を買いたくて、文芸部に足を運んだ。五百円と文化祭の出し物にしては少々値は貼るけど、本なんてそんなものだと思えば簡単に出せた。

 私は真っ先に文芸部のところに足を運んだ。そう早くに売り切れるとは思わなかったけど、それでも早く翠川先生の小説を読みたかった。


「良ければ文芸部覗いていってくださーい!」


 やはり客足は少ないのか、教室の前で、文芸部員らしき子が声を上げていた。ネクタイを見ると黄色。なるほど、一年生か。

 私は迷わずに中に入った。そして私は二度見した。

 商品を、じゃない。店員を、だ。

 中に立っていた彼は、今日も朝、電車の中で見た彼だった。彼は私の顔を見上げて、嬉しそうにぱあっと笑顔を咲かせる。


「いらっしゃい!君は来てくれる思ててん!」


 彼はそう言って手招きをした。


 ─君は来てくれる思ててん?


 私は彼の発言に首を傾げた。彼は私のことを知っている?話したこともないのに、どうして?


「え……ど、どうしてですか?」


 思わずそう聞いてしまった。胸の高鳴りが、うるさい。あまりにも早く心臓が動きすぎて、倒れてしまいそうだ。

 彼はあっけらかんとして笑った。


「去年もうてくれとったやろ?それに、いつも図書館で読んでくれとうやん。俺、記憶力はええねん」


 どうにもならないほどに、熱が顔に集まるのを感じた。ああ、知っていたのだ、私のことを。去年の今頃は私は彼のことを知らなかったから覚えていなかったけれど、彼はどうやら私のことを覚えていたらしい。


「好きな人おるん?」

「えっ?」


 彼から不意に尋ねられて、胸がドキンと跳ねた。彼はぺらりと文芸誌のページを捲って、部員紹介の欄を開く。


「お気に入りの人。いつも熱心に読んどうやん?おるんかなって気になってん」

「あ、あぁ……」


 何だか少しガッカリしたような、そんな気持ちを抱えながら、私は翠川先生を指さした。彼はへえ、と声を漏らす。


「学園モノが好きなん?」

「あ、はい……。それもありますし、なんか文章があったかいから好きなんです」

「あったかい?」

「ありません?文章読んでて、この人の文章は冷たいなあとか、楽しそうやなあとか、そんなん」

「何となく言いたいことはわかるわ。けど、感性豊かやね」


 彼はくくっと楽しげに笑った。


「ずっと声掛けたかってんけど、顔も知らん先輩に声かけられるとか恐怖でしかないやん?やから遠慮しとってん。今日聞けて良かったわ」


 彼はグッ、と親指を立てた。にっと笑う口から見える歯は白くて、その顔はまるで太陽そのもの。

 内容がなんにせよ、私に話しかけたかったと言ってくれたことが嬉しくて、実際こうして話をしてくれたことが嬉しくて、身体中の血液が巡る感覚がする。まだ夏に入りかかっている段階だと言うのに、背中がやけに暑い。


「去年と変わらず今年も上下巻式やねんけど、どっちか買ってく?」

「あ、はい」

「どっち買う?翠川緋音のが入っとうのはこっち」


 彼の指が、上巻を指さした。ペンだこが出来ていて、これは原稿を書いているからできたものなのか、はたまた受験勉強をしていたからできたものなのか、なんて考える。

 勇気を出すなら今だ。出費が二倍になるのは痛いけれど、それでもどうってことない。


「先輩のはどっちに入ってるんですか?」


 声が微かに震えた。緊張が声からも漏れ出ているようだ。

 彼は呆気に取られたような顔をして、照れたように笑った。


「夕焼けの下で会いましょう、や」


 彼はそう言って、私に上巻を渡した。


「またうたら感想聞かせてや。作家にとっては感想が一番嬉しいんやから」


 私は彼が、タイトルを言ったことを悟った。頷き返して、会計の場所に移動する。五百円分の金券を手渡して、私はその場を後にした。友人はまだ店番をやっていることだろう。終わるまでは、彼の小説を読んでいようか。


 私は校舎の外にある適当なベンチに腰掛けて、胸の高鳴りをそのままにページを開いた。目次を開いて、目的のタイトルを探す。


 夕焼けの下で会いましょう─翠川緋音 十二


 さらに心臓の高鳴る音がした。ああ、しまった、名前を聞きそびれたなんて、そんなことを考える暇もなく、私はページを捲る。肝心の十二ページが全然開いてくれなくて、くっついた二枚の紙に少しのイライラと楽しみを募らせて、私は深呼吸をした。


 その小説は、十ページほどの、普段よりも長い小説だった。けれどその分読み疲れるなんてことはなく、ページを進める手は止まらなかった。テンポよく進む話に、ところどころに散りばめられた笑いどころ。ほんのりと温まるようなストーリーは、心を落ち着かせてくれた。

 

 翌朝私は、六号車ではなく、五号車に乗った。初の試みだった。案の定彼は既に乗っていて、単語帳と睨めっこしていた。

 ドア二枚の隔てがないからか、顔がよく見えた。

 声をかけるかどうか悩んだところで、彼と目が合った。どうやら彼は、停車駅を確認するために顔を上げたようだった。


「めっちゃおもしろかったです。いつもより長かったのに、そんなん気になりませんでした。主人公たちが泥だらけになって笑ってるシーンが一番好きです」


 私がろくな挨拶もなしに感想をつらつらと並べると、彼は幾度か瞬きをして、くしゃ、と笑った。


「ありがとう。こんなはよ感想貰えるとは思てなかったわ」


 彼は立ち上がって、ドアの方を指さした。移動しよう、ということらしかった。私は頷いて、彼が案外背が高いことに驚いた。


「いつもこの時間に電車乗ってんの?」

「はい」

「そうなんや。全然気づかんかったなあ」

「隣の車両なんで、私がいつも乗るん」


 彼は私の発言に目を丸くした。


「俺がいつもこの車両乗るん知っとったん?」

「いつもおるなあと思てました」

「声掛けてや」

「顔も知らん後輩にいきなり声かけられるん怖ないすか」


 ひそひそ声で話すのに、彼の声がはっきりと耳を通る。


「まあ、それもそうか」


 彼の納得したような声がした。


「これからは声掛けてや、ぼっち登校なんか寂しいやん」

「……まあ、はい。気が向いたら」


 阪急御影駅。大阪梅田行きの電車の、五号車のドアの前。

 私はいつもそこで、隣に座っている彼の顔を眺めている。

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