(4)

 その時、がらりと勝手の引き戸が開いてハツが入って来た。手に提げた桶には、水の代わりに雪が満杯に入っている。

 同時に振り返った法師と下男に、ハツは驚いたようだった。

「あとはおらで出来でけますけえ、男衆おとこしょは休んでてくんなせえ」

 火を起こしておいてくれた下男に、ハツは微笑んだ。

(やはり――この娘は雪女なのか)

 法師の内心も知らず、ハツは竈の前に屈みこんで火の加減を見はじめた。

 法師は感情のない目でじっと見つめていたが、ふいに近づき、背後に立った。ハツは気づかずに竈の火に竹筒で息を送っている。その首筋にそっと手を伸ばし、触れた。

 ハツはびくりとして振り返った。

「ど、どうかなされましたか?」

 法師は弾かれたように手を引っ込めた。

 凍てつくほどに冷たかった。火を前にしているのに。

 表に出て雪を取ってきたさいに冷えたのかもしれない――そんな思いがわずかに過ったが、すぐに打ち消した。こんなにも冷たいのは、化け物であるからだ。

 法師は生唾を飲み込むと、ハツを見据えた。

「……身がだいぶ冷えているな。先に湯に浸かるがよい」

 ハツは目を丸くした。とんでもございません、と大仰に顔の前で手を振る。

「わたしがいいと申しているのだ」

「いえ、法師様より先にお湯を使うわけには――お屋形様に叱られてしまいます」

 ハツは頑なだった。その必死に拒否するさまが、より怪しく思えた。

「そんなに風呂が怖いのか?」

 詰め寄ると、ハツは怯えたように見上げた。やはりこの態度――雪女である確固たる証拠ではないか。

(こんなところで、こころざし半ばで化け物などにられてたまるか!!)

 法師は、掬い上げるようにハツを抱え上げた。

「いいから入れっ」

「や――やべれっやあ!!」

 ハツが叫んだ言葉の意味は分からなかったが、その声は恐怖に駆られてた。

 かまわず、法師は湯船に放り込んだ。

 脚をばたつかせて猛烈に暴れるハツを、渾身の力で押さえつける。細身であるのにものすごい力だった。法師も必死だった。ごぶごぶと泡を吐きながら必死で起きあがろうともがく、その両肩を掴んで力任せに押しもどす。反対に腕を掴まれた。爪が食い込み――痛みに怒りが増した。

 殺されてなるものか。

 殺してやる。殺してやる。

「――すけ太刀だち致しましょう」

 ふいに下男が横から右手を差し入れると、ハツの額をぐっと沈めた。血走った目がカッとばかりに見開かれ――やがて抵抗が緩み、ぐたりと動かなくなった。

 法師はぜえぜえと激しく息をきらしながら、湯の中で揺蕩たゆたう女を見下ろした。

 美しかったかんばせは恨みと苦しみで醜く歪んでいる。

(……どうゆうことだ。正体など、現さぬではないか)

 たちまちざあっと血の気が引いていった。

(人を、あやめてしまった……?)

 足元から震えが込み上げ――恐怖から逃げるように下男につかみかかった。

「お前が! お前が雪女などというから……!」

 見下ろす下男の目は冷ややかだった。ぞっとし、思わず手を離す。

(……そうだ。庭先にむくろを埋めてしまえばいいのだ)

 法師は湯船の中の女を抱えようとし、思わぬほどの重さによろけた。衣が水を吸っているのだ。それでも何とか担ぎ上げると、自らもびしょ濡れになりながら門口かどぐちに向かった。足袋のまま土間におり、がらりと戸を引き開け――そこで立ち尽くした。

 外は一面の雪景色である。どこに埋めようというのか。

「六尺は積もっておりますよ」

 背後から下男の声が静かに響いた。

「この降りでは、掘った先から雪で埋まってしまいます。たとえ地面にたどり着いたとて、すぐに土を掘っているのか雪を搔いているのかわからなくなりましょう」

 ――そんな。

「わ、わたしは、連歌を世に広めてゆくという使命が……」

 はぁっ、はあっ――呼吸があらぎ、肺の腑に冷気が入りこんだ。その苦しさに思わず膝をつく。

 むくろがずり落ち、ごとんと土間に転がった。

「うう……」

 絶望の呻きがもれた。戸口から吹き込んだ雪の大粒が、顔に張り付いては溶けて水になり、涙と共に顎を伝ってゆく。

「息を落ち着けて。私が何とかいたします」

 淡々とした声音に顔を上げると、下男はむくろをひょいと抱き上げた。あれだけ重いものを――法師は唖然とする。

 下男はそのまま外に出ると、むくろをうず高く積もる雪に向かって無造作に放った。うつぶせにずっぽりと埋まる。

「こうすればいいのですよ」

 下男は軒下に手を伸ばし、軒下に檻の柵のごとくに連なる太い氷柱つらら手折たおった。ハツに向き直り、その後ろ首にぐっと押し込む。じわっと血が溢れ、周囲の雪が湯気を立てて溶けていった。

屋根おおいから氷柱と共に落ちてきた雪に押しつぶされ、雪解けにしかばねが出る――よくある話でございます」

 下男は切れ長の目を細めて笑った。

「よってハツは来なかった。それで良いではございませんか」

 そう言った下男を、法師は恐ろしいものを見るような目で見た。

 そこで下男の右手に気が付き、悲鳴を飲み込んだ。肘の先からしぼんで、皮ばかりになっていたのだ。

(そう言えば、奴は右利きであるのに、氷柱を手折った手は左手であった――)

 法師の視線に気づいた下男は――ああこれ、と腕を掲げて見せた。袖から皮がぶらりと垂れ下がる。

「ハツを押さえつけるさいに湯につけてしまいましたゆえ。まあこんなもの、すぐになおります」

 下男はまともなほうの左手で雪を掬うと、しゃくりと口に入れた。放心したように見やる法師の前で、次々と雪を食らってゆく。萎んだ皮はみるみる膨らみ、たちまち元の引き締まった腕に戻った。

 あまりのことに——がくがくと震えが込み上げた。

「ま、まさか、お主こそが――」

 ふふふ。

 下男が禍々しい笑い声をたてた。法師は戦慄し、後退る。

 下男の両の眼球がめりめりとせり出して、ぽとりと落ちた。ぽっかりとあいた眼窩から大量の雪片が噴き出した。その口からも同様に。

「ひぃッ」

 法師は仰天して濡れた土間に尻餅をついた。

 下男は空気が抜けるようにみるみるしぼんでゆき、やがてくしゃくしゃの皮だけになって雪の上にぱさりと落ちた。

 下男から雪片せっぺんは、渦を描いて巻き上がった。それはまるで京の桜吹雪のようだった。おぞましく怖ろしいものであるはずなのに、その光景は夢のように美しく――法師は正気のたがが外れそうになっていることを自覚した。

 雪片の渦はやがて巨大な女を形作った。紛れもない――あの時の雪女だった。

 雪女は入道のごとく見下ろすと、すでに雪に埋もれつつあるハツに視線を馳せた。

「人の女の分際で邪魔立てしおって。――やっと二人きりになれたの」

 それはもう乾いた下男の声ではなかった。腹の底を震わすほどに低いが、そのしっとりと艶やかな響きは、確かに女のものであった。

「下男の……下男の中身はどうしたのだ」

 震えを堪えて問うと、雪女は歌うように応えた。

きつねむじなにくれてやったわ」

 言葉を失う法師に、雪女は巨大な顔をぬうと近づけた。

「まことに欲しかったのはお前さまじゃ」

「うわぁっ」

 法師は吹雪の中に飛び出した。

 たちまち雪に足がとられ、雪の中に突っ込んだ。そこに雪女の顔が迫る。

(殺される……!)

 かたく目を閉じた法師に、雪女は白い息を吹きかけた。

 たちまち冷たさは暖かな心地よさに変わった。呆然としていると、周囲を荒れ狂う雪片のひとつひとつが五色ごしきに輝き出した。

 この世のものと思えぬ美しさに、法師は圧倒された。なんて綺麗なのだろう。まるで極楽浄土の景色だ。

 ――これを、歌にしたためられたら。

 きっと誰も達していない領域に行ける。それこそが、すべての歌人が希求してやまない到達点だ――そんな思いが法師の中を閃光のように貫いた。

 だれも為せなかったことを自分がやるのだ。

 痺れるような高揚感に、法師は奮い立った。


  ※


 雪の中に大の字に倒れたまま陶然としている法師を、雪女はじっと見下ろしていた。

 やがて巨躯きょくを曲げ、覆いかぶさるように顔を近づけると――あんぐりと大口を開いて法師を頭からばくりと喰った。

 極彩色サイケデリックに彩られていた法師の視界はたちまち暗転し、意識はぶつりと途切れた。


   ――完――

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雪女 うろこ道 @urokomichi

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