T市コンビニトイレ未解決事象

サトウ・レン

トイレに行きたい

 入るな、と言われれば、入りたくなる。それは真理だ。だけどこれが物語の導入ならば、入るな、と言われて、入った人間の末路は大抵、悲惨だ。


 だから私は、入るな、という言葉を守って、その日までは絶対に入らなかった。


 何の話か、って。コンビニのトイレの話だ。

 これはいまから十年近く前の話だ。私はもう長くその店の前を通っていないので、いまでもそこに、あのコンビニがあるのかは分からない。当時の店長やスタッフは存命だろうし、もしもまだあのコンビニがあるのだとしたら、悪評が立つかもしれない。なので場所が限定できないよう、北陸地方の田舎、T市内にあるコンビニ、としておこう。いやこれだけでも分かるひとに分かってしまうのかもしれない。まぁその時は仕方ない。許してくれ、と事前に謝ることで許してもらおう。


 当時、フリーターだった私はそこのコンビニの、主に夜勤として働いていた。

 書店が隣接したコンビニで、私はちいさい頃からその書店に通いつめていて、本当はその書店で働きたかったのだが、面接で落ちてしまった時に行きづらくなるのが嫌で、その横にあるコンビニを受けたのだ。すると面接当日に合格が決まってしまった。


 私はフリーター時代、近辺の複数のコンビニに勤めていた経験があるので、自信を持って言えるのだが、そのコンビニはこれといって特色のないどこにでもあるコンビニだった。ただ、その付近のコンビニの中で、ひとつだけ他の店舗と違うところがあった。それは、トイレの貸し出しが禁止、ということだ。いまだったらコロナの影響もあって、一時的な貸し出し禁止というのは見たし、あるいは治安が悪い場所ではトイレの貸し出し禁止にしているみたいな都市伝説は聞いたことがある。ただすくなくとも私が暮らしていた十年前のT市に限っては、一般的ではなかった。


 それはお客さんにだけ適用されるのではなく、スタッフにも適用された。当時でもう六十代だった白髪のダンディな雰囲気の店長が、「絶対にあのトイレを使ってはいけないぞ」と私に言った。いつもの温厚な笑顔が嘘のように、怖い顔だった。変なところに地雷があって、怒ると怖いひとでもあった。そのトイレは男女関係なく、絶対に使ってはいけない。この辺りのコンビニはどこでも深夜はワンオペになるのだが、そのコンビニだけは、絶対に二人体制で、その理由が、「相手がトイレに行かないかどうかを見張るため」という噂がスタッフ間で回っていた。そしてそれは真実だった、と私は考えている。


 入るな、と言われれば、入りたくなる。

 私はかたくなに守っていたが、実際にこっそり周囲の目を盗んで、入った人間は何人かいるのだ。入った人間のその後はふたつに分かれる。店長側、つまり禁止する側の人間に回るか、仕事を辞めるかのどちらか、だ。急に禁止する側になった人間は、『入った』と思え、と私は先輩たちから教えられてきた。トイレの中はどうなっているのか、言いつけを守ってはいても、やはり気にはなる。さりげなく聞いてみても、誰も教えてはくれない。


 じゃあトイレに行きたい時はどうするのか、というと、隣の書店が営業中の時は書店のトイレ、営業時間外の時は向かいにあるビジネスホテルのトイレを貸してもらうことになっていた。もちろん無許可ではなく、ちゃんと許可は取っているのだが、ホテルの従業員さんなんかはトイレを借りにきた私を見て、「なんで自分のところのトイレを使わないんだろう」と不思議そうな表情を浮かべていた。


 一度だけ、私はそのトイレに足を踏み入れてしまったのだ。

 あれは深夜の二時頃、店長と一緒にシフトに入っていた時だ。いつも以上に、お客さんのすくない暇な夜に、「あぁ負けた負けた。クソが」とパチンコに負けた酔っぱらいが怒鳴り込んできたのだ。常連、というほどではないが、何度か見たことのある顔で、その中年男性は、素面の時は物静かな雰囲気だったこともあり、余計に驚いてしまったのを覚えている。


 店長は、警察は呼ばずに、男を店の外へと追い出して、怒鳴り合いの喧嘩をしていた。レジから外の様子を伺いながら、はやく終わらせてくれないかなぁ、と思っていた。私はその時点から、お腹が痛くなっていたのだ。


 ちょうど「トイレ、行ってきます」と言おうと考えていたところで、その酔っぱらいが現れたからだ。なんとか我慢していたのだが、二十分、三十分、といくら待ってもふたりの口論が終わる様子もない。店内にはお客さんもいなくて、店の前で喧嘩しているコンビニに外から誰かが入ってくる気配もない。無人にしてビジネスホテルに行ってしまっても問題ないのでは、という気もしたが、もし万が一、お客さんが来たら、と生来の生真面目な性格がわざわいして、動くことができなかった。


 ぎゅるるるるるるる。

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 苦しみとともに、限界が寸前に迫ったことを告げる音がお腹から鳴り出した。こんな時にのんきに酔っぱらいやがって、という酔っぱらいに対する怒りと、警察に任せろやそんなもん、という店長に対する怒りで爆発しそうだった。肛門からは糞便が、脳内から殺意が漏れ出しそうだった。


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 あ、うっ、うわぁぁぁぁぁぁ。もう出る、出るよ。このままはみ出たら。こんな年齢になって、このうえなく恥ずかしい。私はすこし泣いていたかもしれない。小学生の頃、下校の途中、我慢できず漏らしてしまい、大泣きに泣いてしまった夕暮れを思い出していた。親には怒られなかったが、当時、思春期真っ盛りだった姉には数ヶ月、白い目で見られた。あの、あの悲しき幼き日の思い出が鮮明によみがえってくる。


 中学生の頃、授業中にトイレに行きたくなって、行けず、休み時間にトイレの個室に駆け込み、ズボンを脱ぎ、便器に座る寸前に糞便を撒き散らしてしまい、トイレットペーパーで必死にふき取り続けているうちに、次の授業に遅刻してしまった昼過ぎが鮮明によみがえってくる。「なぁなんか異様に臭くない?」と個室の向こうの小便器あたりから聞こえてきた誰かも知らない同級生の声が、私をよりみじめな気持ちにさせた。


 そもそも私はこういう時、気軽に、「じゃあトイレ行ってくる」とは言えず、我慢してしまうところがあるのだ。というか私はなんでもかんでも我慢してしまうのだ。大学の時の飲み会だってそうだ。「飲め、飲め」と周りから言われて、別に好きでもない酒を我慢しながら、しこたま飲んで、酔っぱらいに酔っぱらった私は、口からゲロを吐き散らかしながら、尻から糞便を漏らしていた。あの時はジーパンもパンツも履いていて、被害はパンツだけの最小限だったが、「このパンツ、どうすんべよべ」とよく分からない創作方言がゲロを吐いた口から漏れ出て、あぁそうだトイレットペーパー、と紙でぐるぐるに巻いたパンツを、トイレのゴミ箱に捨てたんだ。ごめんなさい、あの日の居酒屋さん、居酒屋の店員さん。悪気はなかったんです。謝りには行けないけど、心の中で謝らせてください。


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 あぎゃぎゃぎゃ、びゃらばゅらぎょって。あんじぇらりるりるりるりりゅ。あ、駄目だ。もうつらすぎて、いつだったかいじめっ子たちを殺すために覚えた呪文しか唱えられない。店長、店長。もうそいつ殺していいですから。とっとと戻ってきてくだ……


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 あぁ、もうだめだだめだ。もう行く、あのトイレを使ってやる。

 私はコンビニのトイレの個室に飛び込んだ。


 そこには洋式の大便器がひとつあり、トイレ自体は大変、綺麗な状態だった。私たちスタッフは誰も掃除はしていなかったが、もしかしたら店長は定期的に掃除をしていたのかもしれない。室内のほこりっぽさもそこまでではなかった。あの野郎、こっそり使ってやがったな。私の腹の痛みによる怒りの矛先が、店長に向く。


 トイレの蓋を上げようとしたが、動かない。あまりの重さに。

 力を込めたせいで、肛門から糞便が漏れ出そうだ。

 あっ、も、も、だ、


『汝に問う。トイレを使いたいか』

 いきなり頭上から声が降ってきた。その驚きですこし肛門から排泄物がはみ出てしまった。見上げても、誰もいない。だけど声は間違いなく聞こえる。


『汝に問う。トイレを使いたいか』

 もう一度、聞こえた。


「あなたは?」

『我はこの世のトイレを統べる、トイレの王だ。汝に問う。トイレを使いたいか』

「つ、使いたいです」

『ならば、我の質問に答えよ』

「は、はい」

 私は馬鹿みたいな声を出していた、と思う。


『お前はトイレを汚したことがあるか』

「汚した、ですか?」

『そうだ。たとえば、立って小便をした、とする。床に小便を撒き散らかして、トイレットペーパーで拭きもせず、帰ったことは?』

「あ、ありません」

 私はとっさに嘘をついた。


『嘘をつくな!』

 怒号が飛んできた。


「ひ、ひぃ。ご、ごめんなさい。あります、ありました。いま思い出しました」

『よろしい。では、次だ』

 一問じゃないのか。駄目だよ、もう。もう、駄目だよ。パトラッシュ、僕はもう。


『お前は、大便に間に合わず、トイレの個室に糞を撒き散らかしたことはあるか?』

「……あります」

 こいつはきっと私のトイレに関する過去のすべてを知っている。嘘をついても仕方ない。


『その時、汚物を撒き散らかされる便器の気持ちになったことがあるか。便器だって、嬉しくてお前たちの糞便を受け止めているわけじゃない。それでもお前たちが礼儀を守っているから、仕方ない、という気持ちで受け止めているんだぞ』

「す、すみません」

『じゃあ、次だ。お前は漏らしたパンツをトイレのゴミ箱に捨てたことがあるか』

「あ、あります。ごめんなさい。悪気があったわけじゃ」

『別にまぁこれはゴミ箱の問題だから、俺はとやかくは言わん。ただゴミ箱や店員さんの気持ちを考えて、袋に入れてやれ』


 いいのか。じゃあなんでわざわざ言ったんだよ。あと袋なんかなかったんだから仕方ないだろ。私は言い訳したい気持ちになったが、反発すると、トイレを使うことができない。


「お願いです。いままでのことは反省しますから、トイレをさせてください」

『分かった。これからも世の中のトイレを使わせてやる』

「あ、ありがとうございます」

『だが、その前に、一度だけお前には便器の気持ちになってもらう』

 するといきなり、頭から水が降ってきた。アンモニア臭のするそれは。


「わー、わぎゃわぎゃわぎゃ。こ、これぇ、しょ、しょんべん」

 気付けば、私は小便の滝でずぶぬれになっていた。ようやく止まる。それだけで終わると思っていたら、次は真っ赤な尿が降ってきた。いや、これは血か?


「血、血は関係ねぇいだりょう」

『尿に血が混じったことだって、人生で一回くらいはあるだろ!』

「そりゃ、ありゅかみょ、でゅあけど」

 口の中にも大量の尿を含んでいて、うまくしゃべれない。苦しい。


 そして最後に、大量の糞が降ってきた。

 私の身体がどんどん汚されていく。


 もうここまで来ると、自分の便意なんかどうでもよくなり、私は便器にも座らず、その場の大量の糞便の中に、自分の大便を混ぜた。


『あっ、こいつ。またトイレを汚しやがった』

「お前に言わりぇたゃくねぇよ」


 まだ何かを言っているような気がしたが、私はその声を無視して、汚れきった姿のままトイレを出て、そして喧嘩のまだ続いている店長と客も無視して、自分の車に乗り、以降、一度もそのコンビニには行っていない。店長からの連絡も無視して、自然消滅的にその店を辞めた。店長に確認したわけではないが、あの店でこういう辞め方をするとしたらきっと、と私が辞めた理由に勘付いているはずだ。


 あれから十年近い月日が経った。


 以降、私はトイレに入るたびに怯えている。また同じことが起こるのではないか、と。だって私は、トイレの王を怒らせてしまったのだから。なんとかまだ、私はトイレを普通に使うことができている。もう二度とこんなことが起こらないように、


 きょうも私は、トイレを綺麗に使う。

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