童貞珠

尾八原ジュージ

童貞珠

 男は善良な村人であった。ある冬の夕暮れ、朝からの雪が積もる里山で、彼は鶴を獲る罠にかかって震えている童貞を見つけた。

 童貞は寒さで青褪めていた。またその姿を見れば誰でもそうとわかる程に明らかな童貞であった。男は大変同情した。このまま放っておけば凍え死ぬか、鶴ではなく童貞がかかったことに怒った猟師から、酷い目に遭わされるやもしれぬ。

「どれ、おれがこの罠を外してやろう。鶴を逃がすわけではないから、猟師だって困りはすまいよ」

 そう言って助けてやると、童貞は涙を流して感謝した。そして懐からなにやら白く輝くものを取り出し、男に差し出した。

「何だい、これは」

「これは童貞珠という宝物でございます。命を救っていただいた御礼に、貴方様に差し上げます」

 童貞珠とは、童貞の中でも選ばれた、ほんの一握りの特別清らかな童貞の体内でのみ精製される宝玉である。童貞は肚の中で何年も何年もかけてこれを練り、満月の夜に人知れず吐き出すのだという。

 今、男の目の前に出されたものは、鶏の卵ほどもある大きなものであった。色は混じり気のない乳白色、傷一つない表面は艶々と美しい。これほどのものを作るにはさぞかし長い年月がかかったであろうと、初めて童貞珠を見る男にすら察せられる逸品であった。

 しかし男は、先程述べたとおり善良である。もとより謝礼が欲しいなどという気持ちで童貞を助けたのではない。従って彼は童貞の手を押し戻し、「そんな高価なものは受け取れない。おれはただ、ほんの少し手を出したばかりなのだから」と断った。

 童貞はそのとき、寒さのせいばかりではなく、震えた。自分を拒絶されたように感じたからである。その間に男は身軽に立ち上がり、童貞に別れを告げると、来た村の方へと歩いていった。

 山の端に、白く鈍い陽が落ちかけていた。


 さて、残ったのは童貞ひとりである。

 まさか世にも珍しい宝珠を突き返されるとは思ってもみなかったから、その動揺はいかばかりであったろう。この宝珠は生まれて初めて童貞が吐き出したもので、所謂「童貞珠吐き童貞」を捨てさせた特別なものでもあった。童貞にとってはこの上なく貴重な宝である。ましてあの男、男であるからには童貞と無関係ではあるまい。なのにこの宝珠を受け取らぬとは何事か等と考え始めると、感謝を押しのけてふつふつと怒りすら湧いてきた。

 しかし童貞はその気持ちを抑えた。怒ったからといって大それたことのできる童貞ではなく、また大それたことができたのならばとっくに童貞など捨てていたであろう、そういう類の童貞であった。

 落ち着いて考えてみれば、命を拾った上に大事な宝はこうして手元に残ったのだから、文句を言う筋合いはなく、むしろ幸運だったのだ。今更あの男をわざわざ追いかけて宝珠を押しつけるのもおかしな話であり、またそれを強いて実行する思い切りと積極性があれば、やはりとっくに童貞を捨てていたであろうと思われる童貞である。そういうわけで、童貞はふたたび童貞珠を懐へとしまった。

 さてこの宝珠をどうすべきか。童貞は考えた。無論大切なものだが、たった今失う覚悟をしたものでもある。この機に使ってしまえばよいのではないかと考えた。

 ではどう使うか? それが問題である。街で売るのがよいだろうか? 悪くはないが、単に金に換えてしまうというのもつまらない気がした。それに街には、童貞というだけで後ろ指を指す輩が出るという。柄の悪いやくざ者や優しくないギャル、恐ろしいぼったくり店などもあると聞くではないか。そのことを考えると、童貞の童貞たる部分は寒さのせいばかりでなく縮みあがった。

 やはり村の誰かに贈るのがよかろう。しかし、誰が相手でもいいというわけではない。どうせ贈るのならば、それ相応の贈り方をせねばなるまい。

 そこで童貞の頭に閃いたのが、ひとりの娘の姿であった。こんな場合に思いつくくらいだから、憎からず思っている娘である。それは村一番の物持ちである庄屋の一人娘で、ほのぼのとした色白の満月のような頬と、栗鼠のような瞳と、フレアスカートから覗くふくらはぎが、童貞にはあまりに眩しかった。ひとつお近づきになりたいという気持ちはあれど高嶺の花には到底手が届かぬ……というか、まず何を話せばいいのかわからない。二人はまだ、会えば挨拶くらいは交わすというくらいの間柄に過ぎなかった(ちなみに庄屋の娘は気立てがよかったので、例えそれが単なる顔見知り程度でも「こんにちは」と言われればにこやかに「こんにちは」と返した)。

 しかしこの世にも貴重な宝玉を贈れば、かの娘も童貞を気に入ってくれるのではあるまいか。

 なにしろ希少なものである。ほんの一握りの特別清らかな童貞たちの中の、さらにほんの一握りだけが生み出すことのできる、童貞珠の中でもとびきりの逸品である。大きさ、そして色、艶、輝き。どれをとっても明らかに優れている。裕福な家の娘であれば、必ずやこの素晴らしさを理解するであろうと童貞は確信していた。

 あの娘に話しかけ、我が半生の集大成であるところのこの童貞珠を白くやわらかい手に包んでもらえば、その喜びは如何ばかりであろう。またその上で童貞のことを心の片隅にでも置いてもらえたら、いやもうちょっと中央の方に置いてもらえたら、いやいや随分と気に入ってくれ、あわよくば童貞を捨てられるのではあるまいか――そんなことまで童貞は考えた。胸が弾んだ。

 童貞を捨てる。それは童貞にとって重大な問題であった。童貞はその瞬間に童貞ではなくなり、美しい宝玉を二度と作ることはできない。ほんの一握りの選ばれた童貞ではなく、ありふれた一人の男に変わるのである。

 しかし童貞は、それでも一向に構わぬと思った。相手があの娘ならば、むしろ本望ではないか。

 童貞は村に向かって歩き出した。懐には例の宝玉を入れてある。彼女の住まいはどこか、童貞はもちろん知っている。親しくなって教えてもらったわけではなく、庄屋の家だから村中の人が知っているのだが、ともかく知っていることに変わりはない。

 とうとう太陽が山の向こうに沈み、夜がやってきた。急に気が急いで、童貞は走り出した。冷たい風が吹いたが心は燃えるようだった。思いがけず拾った命に、たった今生きる意味が付与されたような心地がした。

 おれは今から意義のあることをするのだ。童貞は考えた。先程の男も、尊い命を救ったものだと喜ぶことであろう。おれはこうして返しそびれた恩を返すのだ。童貞の心はますます高揚した。

 雪を蹴り、夜気を顔に受けて童貞は走った。馬のように熱い息を吐いて駆けた。みるみるうちに村へと着いた。この宝珠を娘が受け取ってくれさえすれば、最早それは童貞を捨てたも同然――そのような気さえした。

 だが、村へ足を踏み入れた童貞は、そこではたと立ち止まったのである。辺りを伺い、程々に人の気配があることを確かめると、

「……色々考えたのだが、やはりこの宝珠はこれ以上おれが持っているべきものではないなぁ!」

 と、独り言にしては大きな声で語り始めた。

「確かに大変貴重で価値のあるものだが、それでもおれはこれを手離さねばならないだろうな。こいつに固執していては、これ以上の宝珠を生み出すことは到底できまいて」

 村の中を練り歩きながら、童貞はなるべく低く、しかしよく通る声で独り言ちた。近くの家から「お前たち、構うんじゃありません」という子供を嗜める母親らしき女の声が聞こえた。童貞はなおも続けた。

「この珠を都で売れば、なかなかいい金になるであろうなぁ。この大きさ、色、表面の艶、どれをとっても最高級と自負してよいものだ。しかしなぁ、やはりおれにとっては記念碑的な、非常に愛着のある珠だからなぁ。いくらいい値がついても、金銭で贖われるのは気が進まぬなぁ。やはりこの価値がきちんとわかる者に譲るのが望ましいなぁ! ああ、そういう者がおらぬものかなぁ!」

 童貞は高らかに、唱えるように独り言ち続ける。「やはり教養をもち、心が美しく、かつ宝飾品に関心のあるような者に渡すのがふさわしかろうなぁ!」

 決して下心をもって娘に渡そうと言うのではない、というアピールをしつつ、童貞はキョロキョロと辺りを見回した。娘は家の中かもしれないと考えると、勇気が挫けそうになった――が、庄屋の屋敷の角を曲がると、そこに見覚えのある、一輪の花のような姿があるではないか。童貞の胸は高く鳴った。

 が、庄屋の娘は一人ではなかった。

 先程童貞を助けたあの善良な村の男と、二人きりで何やら話しているのだった。

 童貞は咄嗟に物陰に隠れ、二人の様子を見守った。娘は薔薇色の頬を輝かせ、見たこともないほど楽しそうな顔で男と語らっている。男の方もまた頬を赤く染めながら、慈しみ深い目で娘を見つめている。男が何か言い、娘は頷いた。そしてたおやかな両腕を男の首に回し、爪先立ちになった。二人の唇が重なった。

 童貞は走った。

 二人がいる方向の、反対側へと疾走した。

 走って走って、やがて村はずれへとたどり着いた。荒い息を吐きながら、動悸を鎮めるために胸を押さえると、ごろりとした手応えがあった。懐に入れた童貞珠であった。

 童貞は宝珠を取り出し、しばらくそれを眺めた。そして再び懐に入れると、決然とした足取りで歩き始めた。


 こうして村を出た童貞は、ネオン輝く歓楽街へと向かった。宝珠を売り、その金をもって童貞から素人童貞へと変身を遂げる決心を固めたのである。やがて質屋から出てきた童貞は、やけくそになった人間だけが持つ光をその目に宿しながら、やくざ者や優しくないギャル、ぼったくり店の呼び込みなどが渦巻く夜の街へと姿を消した。

 その後のことはわからない。童貞が童貞を捨てるに至ったのか、それとも未だに童貞珠を体内で育てているのか、それを語るものはいない。

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