恋に弱気な辺境伯爵は、侯爵令嬢に愛を乞う

蒼あかり

第1話


 デルムランド王国の国境沿いを、黒塗りの気品ある馬車が走っている。

 その後には付き添いの侍女や使用人を乗せた馬車。そしてその周りには警護の騎士たちが囲むように山道を進んでいた。


 鬱蒼とした木々の中、デルムランド王国に無事入ることが出来、馬車の中は安堵の雰囲気が漂い始めた。

 もう少しで森を抜けハソシオン辺境伯の広大な領地が望めると思った矢先、突然馬車が止まった。

 どうしたのだろうと、馬車の中からトラント侯爵は窓のカーテンから盗み見るように外の様子を伺う。


「あなた、何かあったのかしら?」

「うーん。静かすぎる気がする。何事もなければ良いのだが?」


 馬車にはデルムランド王国のトラント侯爵と夫人、そしてその娘であるヘンリエッタが乗車していた。

 馬の蹄の音が近づき、小窓をノックする。カーテンを開け少し窓を開けると警護騎士が馬上から身をかがめ小声で告げてきた。


「周りを囲まれました。盗賊かもしれません。なるべく身を小さくし、中から鍵をかけ絶対にドアを開けないでください」

「わかった。くれぐれも頼んだぞ」

「はい。心得ております」


 騎士は静かに馬車を離れ、腰から剣を抜くと周りの騎士に目配せをし始めた。


「お父様……」

「ヘンリエッタ、大丈夫だ。我が侯爵家の騎士たちは皆優秀だ。任せておこう」


 妻と娘を安心させる言葉をトラント侯爵は口にする。

 だが、只ならぬことになっているのは間違いない。彼の背中に汗が一筋つたった。


 一瞬の静寂ののち雄叫びのような、怒号のような声と共に、馬の足音や男たちの野太い怒鳴り声が聞こえる。剣を重ね合う音がすぐそばで聞こえ、馬車の中で三人は身を寄せ合い小さくなっていた。

 

「ぐああ!!」

 叫びのような声の後、馬車に何かがぶつかる音がする。敵なのか味方なのかもわからない、誰かが馬車にぶつかり揺らしていくのだ。

 剣が馬車を切りつける音なのだろうか? 聞いたことのない音や声が辺りを包み、恐怖で身が震える。


 剣がぶつかり合う音と共に馬車のドアを突き破り、剣の切っ先が中まで入り込んで来た。

「ひっ!」侯爵の声が漏れ、ヘンリエッタは覚悟を決めた。


「お母様、お父様の腕の中に」


恐怖で声を上げることすら忘れた母を守るため、ヘンリエッタはドレスの裾をまくり上げると、太ももに固定して止めておいた短剣を取り出した。


「ヘンリエッタ。お前はまた!」

「お父様。お叱りは無事を確認してからです。今はその時ではありません。なんとしても生き伸びねば」


 ヘンリエッタは短剣の柄をしっかりと持ち、自分の胸元で構えた。

 剣の訓練は積んで来た。だが、侯爵令嬢が実戦などしたことがあるはずもない。

 どんなに訓練を、試合を重ねたところで、所詮は血を浴びる覚悟の無いお遊びだ。

 短剣を持つヘンリエッタの手が自然と震える。それを両親に悟られないように、歯を食いばり耐え続けた。


 長い時間に感じる。

悲鳴にも叫びにも聞こえる声と、剣のぶつかる音。そして馬の嘶きや足音が聞こえる。馬車の中は張りつめた空気で、精神を正常に保つのも限界に近い。

 

 少しの静寂の後、馬車のドアを開けようとする音が聞こえる。

 鍵がかかり開かないそのドアを体当たりで壊そうとするのか、大きな音とともに馬車は左右に大きく揺れ出した。

 三人は身を寄せ合い馬車の真ん中にしゃがみ込み、身を重ねるように丸くなる。

 その瞬間、馬車のドアが壊されそこには目つきの悪い、いかにも盗賊と言うような男が立っていた。

 

 「ほお。これは、これは、上玉だ。今日は当たりだったぜ」


 男はヘンリエッタを値踏みするような目つきで上下に視線を動かすと、にやりと口元を上げその手をヘンリエッタに伸ばした。男は彼女の燃えるような赤髪を鷲掴みにすると、力ずくで引っ張り出そうとする。

 ヘンリエッタは座椅子にしがみつき、その体を両親が支えなんとか車内に踏みとどまることが出来ている。

 「「ヘンリエッタ!!」」

 父と母の手の力強さを体に感じながら、彼女はもう一度短剣を握りしめると、男が握りしめる自らの髪を思い切り断ち切った。


 力任せの行為に男はバランスを崩し、片足をかけただけだった体は車外へ放り出されそうになった。

 ヘンリエッタもまた、突然離された体は馬車の床に叩きつけられた。


「ヘンリエッタ。早くこちらに」

 父の言葉に体制を立て直し、もう一度短剣を握り直す。


「お父様、お母様。何があっても私がお守りします。諦めてはダメ」

「ヘンリエッタ、何を言うんだ。お前たちを守るのは私の役目だ。早く私の後ろに下がりなさい」


 トラント侯爵は妻と娘を守るために二人の前に移動しようとする。それを手で制すヘンリエッタ。


「お父様はお母様をお守りください。私は自分の身は自分で守れます。その訓練は受けております」

「な、馬鹿な事を言うな、そんな……」

「おい!! 金目の物とその小娘だけで良い。老いぼれは黙ってろ!!」


 言うが早いか男はヘンリエッタの腕を掴み馬車から引きずり下ろそうと、力任せに引っ張り出そうとする。

「手を離しなさい!!」ヘンリエッタは力の限り大声で叫ぶと、男の腕に短剣を刺そうと剣を構えた、その時。

突然男が「ぐおぉ!!」と叫び声をあげ、背中から血しぶきが飛び散る。首根っこを掴まれた男はドサリと後ろに投げ飛ばされた。

 その後に姿を現した男はボサボサの髪に髭を生やし、黒いマントを着た大男だった。

 警護の騎士ではない、始めて見る男。敵か味方かもわからない。

 無言で睨みつけるようにこちらを見つめる男の手が、馬車の中に伸びてきた。

 そしてその手はヘンリエッタへと向かっているようだった。


「何者だ!」トラント侯爵の声に男は「私は……」と口にしかけるが、返事を待つ間もなくヘンリエッタの短剣が男めがけて切りかかる。

 咄嗟の事で気を許していた男は腕を少し切られはしたが、ヘンリエッタの腕を反射的に掴むとねじりあげるように彼女を押さえつけた。

 痛さでヘンリエッタの手から短剣がこぼれ落ちる。

「くっ!」顔をゆがめ痛みに耐える娘に、トラント侯爵と夫人が声を上げ彼女の手を支えるように抱きしめた。

「お前は何者だ! 娘から手を離せ!!」


 トラント侯爵の言葉に男は素直に手を離すと、


「本日、隣国よりお戻りのトラント侯爵とお見受けいたしますが?」

「いかにも、私がトラントだ」

「やはりそうでしたか。馬車に紋章がありませんでしたので、確認が遅れました。

 私はこの地を守るハソシオン家のグレゴリーと申します。予定の到着時刻を過ぎておりましたので、我が私兵とともに様子を見に参った次第です。お助けするのが遅れ申し訳ありません」

 そう言って深く頭を下げた。


「辺境伯様?」

 ヘンリエッタの言葉に、グレゴリーは無言で視線を這わすとすぐに反らした。


「新しい馬車がすぐに参ります。そちらに乗り換えられ、まずは我が邸へ」


 それだけを言うと背を向け、足早にその場を去って行った。





 ハソシオン邸に着いた一行は互いの無事を確認し合い、安堵した。

 付き添っていた執事、侍女や使用人達に大きなケガはなく、警護の騎士の怪我も命に別状はなかった。

 惨事があったのだ。今宵は何も言わず皆がハソシオン家の使用人の世話になり、ゆっくりと体を休めることにした。

 

 食事も各々の部屋で取り、夜を迎える。


 興奮した神経が簡単に休まることなどない。安心できる状況にあっても、ヘンリエッタの心は静まることを知らず、目を閉じれば浮かぶのは下劣な男の顔。


 寝台の上に座り、窓から月明かりを見つめる。窓ガラスに映る自分の姿は滑稽だった。

 男に髪を掴まれ引きずられそうになった時、とっさに自分の短剣で髪を切ってしまった。

 ヘンリエッタの右側の髪は耳の下辺りの長さになっている。それなのに左側は、今までと同じように腰まで届くほどの長い髪。それを見た母は娘の行く末を案じ涙した。


 彼女の燃えるような赤い髪は時として忌み嫌われてきた。情熱的と言う者もいるが、その言葉の裏には身持ちの軽い女と言う意味も含まれる。そして、血を連想させるこの色を嫌う者もまた多い。侯爵令嬢の立場が彼女を守ってはくれるが、それでも陰で色々と言われていることは知っていた。

 しかし、大好きだった祖母と同じ髪の色を、ヘンリエッタはとても気に入っていたのだ。


 湯あみをしてもらった時に、辺境伯家のメイドに髪を揃えようかと言われたが、ヘンリエッタはそれを断り鋏を借りた。危ないからと難色を示されたが、無理を言って我儘を通した。

 自らの手で残りの髪を切ることで、今までの自分と決別をする覚悟を決めたのだ。



 鋏を持ちベランダに出ると、夜風が彼女の長い髪をすくうように流して行く。

 月明かりの中、ヘンリエッタは残りの髪を片手で掴むと、もう片方の手で持った鋏を髪にあてる。深く呼吸を一つし、ゆっくりとそれを動かした。


 『ジョキッ』という音と共にその刺激が頭皮に伝う気がした。一度では切れないほどの豊かな髪を、ヘンリエッタは何度も何度も鋏を動かし切っていく。

 最後の鋏を入れ赤い髪の束が頭から離れ、その手の中に握りしめられていた。


「ふうぅ」と息を吐き、ゆっくりと月を見上げる。

その時、ヘンリエッタの頬に一筋の涙が伝い、肩を震わせ声を殺して泣いた。


 貴族令嬢が髪を切ることは、只ならぬ事があったと知らしめる行いだ。

 病気にしろ、事件や事故にしろ、問題があったと世間は認知する。

 それは、令嬢としての花を捨て去ったと同じ事なのだ。

 現在17歳のヘンリエッタが再び髪を伸ばすには、何年もの月日がかかる。

 その間、問題のあった令嬢としての醜聞が広がり婚期を逃すことにつながる。

 

 特別、結婚や恋愛に憧れていたわけでは無い。むしろ剣を持ち鍛錬に励む姿は興味が無い令嬢として映っていたに違いない。本人も自分のことながら、そんな風に考えていた。

 だが、失って初めて気が付くこともある。

 ヘンリエッタは結婚や恋愛に憧れる、普通の令嬢であったのだ。

 もう戻れない事を悟り、覚悟を決めたはずなのに、彼女の頬が渇くことはなかった。

 その頬を拭うこともせずに、立ち尽くし泣き続けた。

 とめどなく溢れる涙は月明かりに照らされ、光輝いていた。

 


 そして、その姿を庭の陰からそっと見つめる影が一つ、静かに揺らめいていた。




 明け方近く、やっとウトウトとすることが出来たヘンリエッタの耳に、剣を振るう音が聞こえて来た。

 ベランダのドアを開けたまま寝てしまったようで、ひんやりと冷たい空気に少し身震いをするとそのままベランダに飛び出した。

 見下ろした辺りに人影はない。どこか遠くで朝稽古をしているに違いない。そう確信したヘンリエッタはガウンを肩にかけると部屋を飛び出した。


 まだ朝早くトラント家の者は皆寝ているのだろう。

 廊下を小走りで進むと、辺境伯家のメイドに止められてしまった。


「お嬢様、そのようなお姿でいかがされましたか?」

 言われて「はっ!」と気が付いた。今の自分は寝巻にガウンを羽織っただけだった。


「ごめんなさい。あの、剣の、朝稽古? の音が聞こえたものだから。それでつい……」


 頬を赤らめ、しどろもどろで言い訳をするヘンリエッタに


「剣ですか? きっと、お館様の朝稽古ですわ。ご覧になられたいのですか?」

「ええ。でも、ご迷惑ですわよね?」

「見るだけなら大丈夫だと思いますよ。ですが、そのお姿ではさすがに……。すぐにお着替えのお手伝いをいたしましょう」


 ヘンリエッタは自分の荷物の中から一番簡単なドレスを取り出し手伝ってもらう。

 社交の場ではないのだ、令嬢としての品位を落とさなければそれでいい。

 

「お嬢様、髪をご自分で?」


 鏡台の前に座るヘンリエッタの髪をくしで梳かしながら、眉をよせメイドがささやく。


「昨日借りた鋏はとてもよく切れたわ。ありがとう」


 そう言って鏡越しにほほ笑むと、メイドは寂しそうに少しだけ微笑み返した。

 短くなった髪はくしで梳かすだけで終ってしまう。それが少し嬉しいような寂しいような、そんな複雑な気持ちだった。



 メイドに案内された場所は、庭と繋がった広場のようになっている場所で、普段は稽古をしたり、有事の際には拠点の一部になるらしい。

 邪魔にならぬようメイドの案内で近づくと、昨日グレゴリーと名乗ったハソシオン辺境伯家の騎士が剣の稽古をしていた。

 辺境伯家の騎士達とともに汗を流す姿を見て、メイドにそっと問いかける。


「あの、お髭の騎士に昨日助けていただいたのですが、あの方が辺境伯様なのかしら?」

「はい。ボサボサ頭に髭モジャの方が我が主、グレゴリー様でございます」

「ああ、髭モジャ……」その言葉に「ぷっ」と思わず噴き出した。


 朝もやの中、剣の音と鳥のさえずりくらいしか聞こえないこの庭で、ヘンリエッタの声は思いのほか響いたようで、剣の稽古をしていた騎士達が一斉にこちらに視線を向けた。

 一瞬たじろいだヘンリエッタだが、侯爵令嬢としての淑女教育はこういう時に役に立つ。

彼女は騎士達に向かって余裕の笑みを浮かべて見せた。



「少し休憩だ」

 グレゴリーの合図で騎士たちは思い思いに動き始める。

 ヘンリエッタは笑顔のままグレゴリーに近づくと

「ハソシオン辺境伯爵様。昨日は慌ただしく、ご挨拶が遅れ申し訳ございません。

 わたくしはトラント侯爵家のヘンリエッタと申します。昨日は助けていただき、心から感謝いたします。それと……、腕の傷は大丈夫でしたでしょうか?」


 最後の傷の話は小声で、そっと問いかける。

 剣の鍛錬を重ねているヘンリエッタは、騎士としての矜持も心得ている。

 たとえ剣の手ほどきを受けた者であったとしても、小娘に手傷を負わされるなど騎士として、果ては国境を守る辺境伯としての沽券にかかわるだろうと察してのことだった。


「あ? ああ、これか? これくらいの傷、騎士にとっては擦り傷程度です。大したことはありません。それより……」


 グレゴリーは言葉を詰まらせ、視線を泳がせる。だが、チラリと向けるその先はヘンリエッタの耳元あたり。自分で切ったザンバラな髪を見ているのだろう。


「申し訳ありません。見苦しい物をお見せいたしまして。昨晩、じぶ……」

「おじょうさまーーーー!! ヘンリエッタおじょうさまー!」


 彼女を呼ぶ声で、ヘンリエッタの言葉は遮られてしまった。

 自分を呼ぶ声に少しだけ苦笑いを浮かべながら、彼女には誰の声か振り向かずともわかっていた。話しの途中だが一応は挨拶を済ませたのだ、礼を欠いてはいないだろう。

 ヘンリエッタは「申し訳ありません」とグレゴリーに告げると、少しばかり引きつらせた笑みで断りを入れる。そして振り返りながら「マリア……。朝からうるさいわ。少し落ち着きなさい」と、睨みをきかせた。

 走りながら駆け寄る侍女のマリアは、はたと足を止めると「お嬢様。そ、その髪は」と、目に涙を貯めながらヘンリエッタに近づく。


「おはよう、マリア。昨日の夜、自分で切ったの。でもバラバラだわ、切りそろえてもらえる?」

 ほほ笑むヘンリエッタに

「はい。お任せください。飛び切り可愛くいたします」

「可愛くしてほしいなんて言うような年齢じゃないわよ」

そう言ってマリアの手を取り、邸へと足早に戻って行った。



 ヘンリエッタが去った後、彼女を目で追い続けるグレゴリーの肩をカイルが『ポン』と叩いた。


「髪、切ったんだな。昨日はまだ半分あったのに」


 カイル・マークレー。マークレー子爵家の子息で、グレゴリーの乳兄弟だ。今はこのハソシオン辺境地で私設騎士団の団長を務めている。

 昨日の現場にグレゴリーと共に駆けつけ戦った一人だ。


「ああ、昨日の夜更けに自分で切っていた」

「あ? なんで知ってんの?」

「見たからな」

「見た? どこで? 部屋に潜りこんだの?」

「そんなことするわけないだろう! 昨日の晩、庭を見回っていたらベランダに彼女の姿があって、自分で切っていたんだ」

「へえ。で? それを遠巻きにずっと見てたんだ? 見つからないように、こっそりと?」

「別におかしくはないだろう? 見回りの時に偶然見ただけだ」

「偶然ねえ……」

「何が言いたい?」

「別にぃ」


 いつの間にかグレゴリニーと肩を組みながら、少し照れた様子の顔を覗き込んだ。


「お前、昨日馬車の中で思わず彼女に手が伸びたろう?」

「っ!!」

「俺が見てないとでも思った?」


 耳を赤く染めたグレゴリーがオタオタする中、冷静な口調でそっと耳打ちをする。


「いいか、チャンスは待っていても来ないんだよ。チャンスは掴むものなんだ。そして掴んだら離すな、絶対に! いいか、必ずものにしろ。わかったな?」

 

 目を見開き口をパクパクさせつつ、言葉にならないグレゴリーに、


「お前がこんな風に女性に対して意識するのなんて、始めただろう?

 ま、ドレスの中に短剣と言えど隠し持つなんて普通の令嬢じゃないのは確かだが、この辺境の地にはそれくらいで丁度いいさ。

 それに、不意を突かれたとはいえ、お前が手傷を負うなんて中々だ。このまま手放すのは惜しすぎる。辺境の地に嫁ぐに相応しい令嬢だと俺は思うが、どうだ?」


 グレゴリーは無言のまま、ヘンリエッタが去った後を見つめていた。

 昨日のあの一件以来、彼女の事が頭から離れないのだ。

 バタバタと事後処理で慌ただしく、まともに会話もしていない。夜が明け、今日改めて挨拶をする段取りにはなっているが、それにしてもだ。

 それにしても、もっと声をかけ気遣ってやれば良かったと反省をしていた。


 何もない辺境の地で国境を、領地を守り続けるだけの日々で、辺境伯爵としてのマナーなども勉強不足だし、何より若い令嬢をエスコートする術も持ち合わせてはいない。

 逃がすなと言われても、何をどうすれば良いかもわからない。


「これは無言の肯定と受け取っていいんだな?」


 ニヤリと悪ガキのような顔をしたカイルに、


「だとしても、こんな片田舎に長居する理由もないだろう。落ちついたらすぐに帰るさ」

「居座らせればいい」

「居座らす? どうやって?」

「そんなの、いくらでも理由をつければいいだろう」

「理由って、我が領地は若い娘が喜ぶような物は何もない。留め置く理由なんかないだろう」

「なければ作ればいい」

「はあ。無理だ」


 ため息を吐くグレゴリーに、カイルが真面目な顔で問いかける。


「お前はどうしたい? お前の気持ち一つで周りはいくらでも動かせる。

 このまま黙って帰らせるか。それとも、彼女を少しでも長くそばにおいておくか。

もちろん彼女の気持ち次第だ。だが、このまま帰せばもう二度と会えないかもしれない。

 さあ、どうする?」


 答えなど最初から決まっている。ただ、女性に対する免疫の無さで自信がないだけだ。

 実戦で命をかけるよりも答えは簡単なこと。ダメでもともと。二度と会えなくなるだけだ。

会えなくなれば、このチクチク痛む思いもいつしか消えるだろう。


「チャンスは掴むものなんだろう?」


 グレゴリーの言葉にカイルは片手でガッツポーズをすると、


「よし、話は決まった。そうなれば行動あるのみ。さ、行くぞ!!

 お前たち、今日はもう訓練は終わりだ。片付けて仕事につけ!!」


 カイルはグレゴリノーの肩を掴んだまま、邸の中へと消えて行った。





 邸に戻りマリアに髪を揃えてもらったヘンリエッタは、両親とともに部屋で朝食を取った。お互いの無事は昨日確認済だが、切りそろえられた髪を見て母は再び涙した。


「あんなに美しい髪だったのに」

「お母さま、髪はまた伸びます。それに、剣の練習で邪魔だったのです。これですっきりしました」

「あなたはまた、そんなことを」

「それに、中々似合っていると思うのですが。どうでしょう?」

「あなたは何をしても美しいわ。短い髪も似合っていてよ」

「ふふ。ありがとうございます」


 昨日の事が嘘のように穏やかな時間。本来なら何の心配もなく過ごせているはずだったのに、神は時に悪戯をするものだ。


 ハソシオン辺境伯爵は外せない用事があるとかで、今日の晩餐で再びお目にかかると執事から連絡が入った。

 昨日の今日である。ヘンリエッタ親子だけでなく、使用人たちもゆっくりと休ませてもらう事にした。


 夕刻近く、侍女マリアの手によって晩餐用の支度を始めたヘンリエッタ。

 昨日の騒ぎでトランクもバラバラになってしまったが、それでも無事な物を持ち帰った。

 その中から一番上等なドレスを選ぶと、侯爵令嬢としての身なりを整える。

 今朝、切り揃えてもらった髪は顎ほどの長さになっている。男に掴まれ切った髪は耳ほどの長さで短いが、マリアが髪留めで上手く止めてくれたおかげでなんとか品位は損なわない程度に見えるようになった。


「お嬢様。なんだか若返ったみたいですね」

「そうかしら? 子供に戻るのも良いかもしれないわね。ふふふ」


 父が母をエスコートして晩餐会場へと進む中、今宵のヘンリエッタのエスコートはハソシオン辺境伯爵自らが名乗りを上げてくれた。

 晩餐会場の前で待っていると、廊下の後ろからコツコツと足音が聞こえる。

 ご挨拶をと振り向くと、そこには朝見かけた騎士とは別人が立っていた。


「トラント侯爵令嬢、お待たせいたしました。さあ、どうぞお手を」


 そう言って目の前に差し出された手とその顔を交互に見つめながら、


「ハソシオン辺境伯爵……さま?」

「はい。どうか、グレゴリーとお呼びください」


 ニコリと笑みを浮かべるその顔は、昨日と今朝見た時とは別人のようだ。髭モジャは綺麗にそり落とされ、ボサボサだった髪も綺麗に刈られ整えられていた。

 まるで違う風貌に言葉を無くすヘンリエッタに

「どうかされましたか?」と、視線を絡め覗き込んだ。

「失礼しました。まるで別人のようにおなりで、驚いておりました」


 慌てて視線を外し、うつむき加減に答えるヘンリエッタの様子にクスリと笑うと、


「普段は時間も無く身なりに構う事も無いのですが、今宵はあなたをお迎えするにあたり身だしなみを整えて参りました。人並みにはなっておりますでしょうか?」


 今朝までの彼は一言で言って『熊』のようだと言う表現がピッタリだったのに、今のグレゴリーは着ている物も一目で上等だとわかる物を身にまとい、どこに出ても恥ずかしくない紳士の姿だった。


「ええ、とても素敵だと思います」

「あなたの横に並ぶ男になれるよう、少しがんばりました。気に入っていただけましたか?」

「私など、そんな。誰が見ても好ましく思われると思いますわ」


 侯爵令嬢の鉄仮面は剝がれない。穏やかに笑みを浮かべ、そつなく答えるヘンリエッタにグレゴリーは作戦を変える。


「実は、女性のエスコートなどしたことがないのです。できれば私にご教授いただけると有難いのですが」

「まあ、そうなのですね? 私もお教えできるほどではありませんが、協力いたしますわ。

 まずは掌を上にしていただけますか? その手に私が添えさせていただきます」

「こうでしょうか?」

「ええ、それくらいで。私が手を添えますので、私の歩幅に合わせ少し前をお進みください。

できれば、時折視線をいただけると、令嬢を気遣う紳士のようで好感度がグッと上がるかと」

「なるほど、こうですか?」


 背の高いグレゴリーが見下ろすようにヘンリエッタを見つめる。その瞳が優しく、熱がこもっているように見え、ヘンリエッタは思わず頬を染めてしまった。


「ええ、そのくらいでよろしいかと。とてもお上手ですわ。エスコートが慣れていないなんて嘘のようですわね」

「お相手があなただからです。今宵、トラント侯爵令嬢であるあなたをエスコートできて夢のようだ」

「ふふ。お上手ですわね。どうぞ、わたくしのこともヘンリエッタと」

「……ヘンリエッタ嬢」

「はい。グレゴリー様」


 しばし見つめ合う二人の瞳は、優しさに溢れ穏やかだ。

 出会ってからまだ二日。それなのに気遣うこともなく、流れる空気はゆるやかで落ち着けるものだった。

 グレゴリーに手を引かれ晩餐会場へと進むヘンリエッタの手は、手袋越しに伝わる彼の手の逞しさを感じ少しだけ緊張していた。



 和やかに進む晩餐。その後はお酒を酌み交わしながら語らいの時間を迎える。



「そうですか、では隣国に嫁がれたご令嬢の出産祝いの帰りにあのようなことが……」

「ええ、留守番をしておる嫡男にはすでに跡取りがおりますが、やはり娘の子となると別ものですな。かわいいものでしたよ」

「主人たら、離れがたくて二日も滞在を伸ばしましたのよ」


「そうですか、それは楽しいひと時でしたでしょう」

「あとは末娘のヘンリエッタだけですが、この子は少しばかり変わっておりましてね。グレゴリー殿もおわかりでしょうが、何と言いますか……。まあ、少々変わっておるのですよ」


「お父様、少し飲みすぎではありませんこと? グレゴリー様が困っておられます」

「いやいや、こんなもんじゃないさ。こちらの地酒が旨くて、ついつい量が増えるな。

グレゴリー殿、今宵は朝までお付き合いくださるのでしょう? これも何かの縁だ。さあ、飲み明かしましょう!」


 トラント侯爵は上機嫌で酒を飲み、その後あっと言う間に酔いつぶれてしまった。


「もう、お父様ったら。だから申し上げましたのに。ちゃんとお部屋でお休みになってください」

 ヘンリエッタに肩を掴まれ、客間へと退いていく。

 それを横目に、母はグレゴリーにそっと耳打ちをした。


「ご迷惑をおかけして、ごめんなさいね。主人のことは心配しないで大丈夫よ。

もしご迷惑でなければ、もう少しヘンリエッタに付き合っていただけないかしら?

 先ほど主人が言っていた通り、あの子は令嬢らしからぬこところがあって、剣や技に興味が強い子なの。我が家では話し相手がいないから、付き合っていただけるとあの子も喜ぶわ」

「私でよろしければ、喜んで。遅くならぬうちに、部屋までお送りするとお約束します」

「ふふ、そこは心配していなかったわ。ありがとう。では、お願いしますね」


 ヘンリエッタと夫の後をついてゆっくり進むと、夫人は客間へと消えて行った。

 使用人と入れ替わりで客間から出て来たヘンリエッタ。彼女を廊下で待っていたグレゴリーを見つけると困ったように眉をひそめ、

「お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません。いつもはこんな酔い方はしないのですが」

「いえ、それだけ我が領地の酒を気に入っていただけたと言うことでしょう。それに、それだけ心を許してくださったということです。緊張や苦い酒では酔おうと思っても酔えるものではないから」

「そう言ってもらえると助かります」


 すっかりエスコートに慣れたグレゴリーがヘンリエッタの手を取り、歩を進める。

 先ほどの応接室とは違い、邸の奥にある温室まで連れて行かれた。


「我が邸にも温室があるんです。しかし、花を愛でるような女性がいないのでろくな花はないんですが。ただ、ここから眺める星はとても綺麗で、あなたにも見ていただきたいと思いました」


 手を引かれ温室に入り上を見上げると、ガラス張りの天井に降り落ちてくるほどの星が煌めいていた。王都のような都会ではなかなかお目にかかることができないそれは、昨日の晩ベランダで髪を切りながら目にしていたものだ。

 涙に揺らめき、その輝きで心が洗われるように感じた星空だった。


「ここならベランダと違って寒くはないはずです。ソファーで眠っても大丈夫ですよ」


「ベランダ?」


 ヘンリエッタの言葉に『はっ』と気が付いたグレゴリーは、慌てたように


「いや、あの。昨日、見回りで庭を歩いていたら、その姿が見えて……。

 申し訳ないことをしました。見るつもりはなかったのですが、つい目を逸らすことが出来なくなってしまい……。その、どう謝ったらいいか」


 オタオタと慌てる姿は、昨日剣を持ち戦っていた同一人物にはとても見えない。おもわず「ぷっ」と噴出したヘンリエッタ。

控えめにくすくすと笑っていた声は、次第に我慢ができなくなり令嬢らしからぬ笑い声とともに温室を響かせた。


「ヘンリエッタ嬢?」


 伺うように問いかけるグレゴリーの声には、心配の想いが籠っていた。


「あはは。そうですか、あれをご覧になっていたのですね?」


 目の淵に涙をためながらヘンリエッタが問いかける。


「その、申し訳ないことをしたと。すぐにあの場を離れるべきでした」


「いえ、グレゴリー様が気になさることはありませんわ。ご自分の邸ですもの、そこで無様な姿を晒した私こそ責められるべきです」


「そんなことは!」


「いいえ。昨日はあまりに綺麗な月明りで、勇気をもらったのです。今までの自分を捨て、新しい自分になる儀式でしたから。お陰様で吹っ切れましたわ」


「……新しい自分?」


 不思議そうな瞳で覗き込むように問いかけるグレゴリーに、ヘンリエッタは言葉を繋いだ。


「そうです、新しい自分。侯爵令嬢として生きることに疲れたのかもしれません。

 これからは煩わしいものを捨て、自分らしく生きたいと思っております」


「まさか、出家を?」


「出家? 神に仕えるということですか? まさか。そんな立派な生き方はできません。

 煩わしいドレスもヒールも脱ぎ捨てて、扇子をこれからは剣に持ち替えて生きられたらと……」


「剣を、ですか? 確かに短剣を携帯はしていたようですが、まさかそこまでとは」


「ふふふ。私は昔からお転婆で娘らしくなかったんです。兄は武よりも文才に長けておりましたので、反対だったら良かったのにと父がよく嘆いておりました」


「なるほど、そうかしれませんね。しかし、あなたのような方が剣に興味があるとは。

 いつ頃からですか? 何かきっかけでも?」


「いつ頃からでしょう? 兄が剣の練習をするのを横目でみながら、気が付いたら私も剣を握っておりました。そうしましたら、以外に筋が良いと褒められて調子に乗ったのかもしれません。それでも剣の稽古は織女教育などよりもはるかに楽しかったのです」


 グレゴリーは「ふむ」と少し考える、ふりをした。


「ヘンリエッタ嬢、どうでしょう? しばらく我がハソシオンの地でその腕をさらに磨かれては?」


「この地で?」


「ええ、お母上も仰っていた、その髪が伸びるまでの間だけでも。病気療養と言う名目でも良い。王都から遠く離れたこの地でなら、あなたが少しくらいお転婆をしても誰も目くじらを立てる者はおりません。その間、この地で剣技を身につけてみては?」


 ヘンリエッタはグレゴリーの言葉に目を輝かせた。

 王都に戻ったところで自分の居場所はないだろう。要らぬ噂を立てられ肩身の狭い思いをするよりも、この地でのびのびと過ごすことの方がさぞ楽しそうだ。

 ただ、ひとつだけ問題がある。


「私にとっては願ってもないお話ですが、両親がなんと言うか。それに……」


「それに?」


「私などがグレゴリー様のおそばにいては、婚約者の方に申し訳ありません」


「婚約者? ははは!! それは余計な心配をさせて申し訳ない。幸か不幸か私には婚約者がいたことは一度もないのです。ですからその点は心配ご無用」


「そうですか。でも、でしたらなおさらですわ、私も婚約者がおりません。決まった相手がいない者同士が一緒にいるなど、世間が許しません。

 それこそ大きなご迷惑をおかけすることになりますもの。やはり無理なお話です」


 婚約者がいないことを知りヘンリエッタは何故か少し安心した。だが、すぐにもっとよからぬ事に考えが結びつき、これ以上迷惑をかけられないと思いを打ち消した。

 このまま先を考えれば……、そのことを考えると自然に顔が緩みそうになる。そんな不思議な感覚を覚えていた。


 ヘンリエッタの言葉に少し俯き、何やら考え込んでいるようなグレゴリー。

 何かまずいことでも言っただろうかと、ヘンリエッタは不安になった。


 温室のベンチに少し距離をおき、腰かけていたふたり。

 グレゴリーは意を決したように立ち上がると、鉢植えに咲いていた赤い花を一輪摘んだ。

 そちらの方面にはまったく疎いグレゴリーだが、その花は知っている。

 ヘンリエッタの短くなった髪色と同じ「赤いチューリップ」の花をその手に持ち、彼女の前に進み出た。

 そして、ベンチに座るヘンリエッタの前に片膝をつき、赤いチューリップを彼女の前に差し出した。


「ヘンリエッタ嬢。昨日初めて見た時から、あなたの姿が目に焼き付き忘れられなかった。

昨晩のベランダでの姿も、守り切れなかった自分を責め続け顔を向けることも叶わないとさえ思った。だが、あなたのその姿を、声を聞く度にこの想いが引き戻されてしまう。

 こんな気持ちになったことなど、今まで誰にもなかったのに。

 あなたを帰したくないのです。誰にも渡したくないと強く思ってしまう。

 会ってまだ日も経っていないのに、何を言っているんだと思うでしょうが。

 ……、ああ、もう! まどろっこしい!」


 グレゴリーは頭をポリポリとかきながら少し照れたように笑った。


「すみません。こんなことに慣れていなくて、全然格好よくできない。

 素の、本当の俺の声を聞いてください。


 ヘンリエッタ嬢。どうか、俺の妻になってくれないだろうか。

 俺が君を守る。二度と危険な目には合わせないと約束する。

 そして、生涯君を愛し抜くと誓う。それだけは何があっても間違えたりしない。

 どうかこの手を取り、俺のそばにいてほしい」


 ヘンリエッタを見上げるように跪いたグレゴリーは、赤いチューリップを握る手を「ふんっ」と思い切り差し出した。


 突然のことに驚いたヘンリエッタだったが、照れながら差し出すその姿が可愛らしく映り、「ぶふっ」と笑いが込み上げてきた。


「ふふふ、ははは! グレゴリー様。途中までは素敵でしたのに、最後が残念でしたわね」


「あ……」


 『残念』の言葉にグレゴリーはがっくりと肩を落とし項垂れた。

 それはもう、見る影もないほどの落ち込みっぷりで、それを見てヘンリエッタはますますクスクスと笑い出した。


「男を足蹴にして、そんなに面白いですか?」


 ついムキになって不貞腐れたように食ってかかってしまった。

 そんなグレゴリーの手は、赤いチューリップを握りしめたまま膝の上へと置かれてしまっていた。

 ヘンリエッタは自らもベンチから立ち上がると、グレゴリーの前に同じく跪き、その手から赤いチューリップを取り上げた。


「グレゴリー様。お父様もお母様も、それにお兄様も手強いですわよ。それでも私を奪い取る覚悟はおありですか?」


 今度はヘンリエッタがグレゴリーの瞳を覗き込み、見上げるように問いかける。


 優しくほほ笑むその顔は、ほんのりと赤く染まり、瞳も少しだけ涙ぐんでいるようだった。




―・-・-




「ダメだ、ダメだ、ダメだ!! そんなもの、認めるわけにはいかん!!」


 ハソシオン邸の応接室で、ヘンリエッタの父トラント侯爵は、グレゴリーを前に突然立ち上がり大きな声を上げた。

 

「あなた。なんですか、大きな声を出してみっともない。お世話になった命の恩人に対する態度ではありませんわよ」


 夫人に窘められ、トラント侯爵は釈然としない顔をしながら渋々ソファーに座り直した。


「突然の申し出で、侯爵が驚かれるのも無理はありません。ですが、私の気持ちに揺るぎはありません。ヘンリエッタ嬢を私の妻に迎えることを、どうかお許しいただきたい」


 グレゴリーはトラント侯爵に頭を下げ、許しを請うた。

 ヘンリエッタは両親が並び座る長椅子の隣で、グレゴリーを見つめていた。その視線に気が付いたグレゴリーは表情を緩め、ヘンリエッタに微笑み返す。


「な!何を見つめ合っているんだ?この私の前で何を! 何をしておる!!」


 父のあまりの怒りようにヘンリエッタは冷静に「お父様。血圧が上がります。少し落ち着いてください」と、穏やかな声で訴えかけた。


「こ、これが落ち着いていられるか! こんな盗賊の出るような危険な場所に大事な娘を嫁がせられると思っているのか? 現に我々は命を狙われ、恐ろしい目にあったと言うのに、お前はこんな危ない土地に嫁ぐと本気で言っているのか?」


 父の言うことももっともだ。国境に位置するこの辺境の地は、常に争いごとが起こるのは当たり前。ひとたび戦闘が始まれば兵士のみならず、この地の者が皆巻き込まれるのは必至。

 親として、子を心配するのは当然のことだろう。


「娘は、ヘンリエッタは王族に嫁いでもおかしくないのだ。それを、こんな、こんな危険な土地になど……。しかも、我が領地からも、王都からも遠い。こんな場所など絶対に許さん!!」


 侯爵は大声を上げたかと思うと、突然ぷしゅ~っと音を立てたかのように項垂れ、椅子に座り込んでしまった。


「あらまあ、大変。ショックで力を落としてしまったようね。誰か、旦那様をお部屋にお連れしてちょうだい」


 夫人の言葉に、後ろに控えていたトラント侯爵家の使用人が侯爵を抱えるように席を立ち、その場を後にした。

 残された夫人も立ち上がり、グレゴリーとヘンリエッタに向かい


「あの人のことですから、正気に戻ればすぐにここを出立すると言いかねません。

それまで、二人でよく話し合っておくべきね。私とて、あなたを危険にさらしたいとは思っていないのですから。そこをはき違えないように。いいわね、ヘンリエッタ」


それだけを言うとヘンリエッタの返事を待たず、ふたりの前を去って行った。

母の後ろ姿を見つめながら、先行き遠そうなことを痛感するヘンリエッタだった。


「理解いただくのに早すぎたようだ。あなたにつらい思いをさせてしまったね」


「いいえ。私の気持ちが変わることはありませんもの。早い方が良いですわ。

 お気持ちをいただけて嬉しかったです。ありがとうございました」


 ヘンリエッタはグレゴリーを見つめ笑みをこぼした。



 二人は敷地の中を歩き、色々な話を互いにし始めた。

 駆り立てる想いは強く熱くても、二人は出会ったばかりなのだ。

 互いの事も、両家の家のことすらもわからないでいる。

 少しずつ距離を縮められれば良いと、そんな風に肩を並べ言葉を紡ぎあう。


 そんな二人の様子を窓越しに見つめる姿があった。

「あなた。一番手のかかる子を手放す寂しさは私も同じです。それでも、あの子が望んだ未来ですよ。邪魔をするものではないわ」

「わかっておる! ただ、ただ……」


 ヘンリエッタの父は窓越しに見る娘の笑顔を見つめていた。

 嬉しそうにはじけるほどの笑みを浮かべている。娘盛りの美しいヘンリエッタ。

 長女を隣国に嫁がせたからには、何としてもヘンリエッタは自国で婚姻を結ばせたいと思っていた。自分の手元の近い場に嫁がせ、今まで以上に甘やかし可愛がるつもりだったのに、ここ辺境の地はトラント侯爵領からも王都からも遠い。そんな寂しさが彼の胸を埋め尽くしてしまった。


「あなた」

「……、わかっている。大丈夫だ」


 侯爵は自分の腕におかれた妻の手を握り、そっと握りしめたのだった。









「グレゴリー殿」


 その日の晩餐でのこと。食前酒を傾けながらヘンリエッタの父はグレゴリーの名を呼んだ。彼の雰囲気に今までと違う雰囲気を察し、グラスを置くと真っすぐに視線を侯爵に向け、「はい」と返事をした。


「我が娘ヘンリエッタは、少しばかり変わっております。礼儀作法は身についてはいても、なにぶん普通のご令嬢達とは趣味も思考も違うようだ。

 そんな娘でも良いと? ハソシオン家は元々王家との繋がりもあるとお聞きしている。そんな家系に嫁ぎ、辺境伯爵の妻が務まるかどうか……」

「あなた!」


 随分と憔悴したような表情で語るその口ぶりが、あまりにも情けなく同情すら覚えるほどだった。

 娘を嫁がせるとはこんなにも打撃を受けるものなのかと、グレゴリーも胸を打つものがあった。


「侯爵。ヘンリエッタ嬢は変わってなどおりません。少々お転婆が過ぎるところはありますが、それもまたここ辺境の地では好ましいくらいです。

 戦時には私の代わりにこの地を、民を守ってもらわねばなりません。

 夫の後ろで泣いてすがり守ってもらうだけのご令嬢では務まらない。

 自分の意思で動き、自らの手に武器を持ち戦う心持ちこそが何よりも大切な事。

 ヘンリエッタ嬢はわがハソシオン家にとって、十分すぎるくらいの方です。

 そして何より。私が、私自身がヘンリエッタ嬢を妻に迎えたいと強く、心から願っています。彼女を愛する気持ちに嘘偽りはないと誓います」


 グレゴリーの思いに一片の曇りすらないことは初めからわかっている。

 それでも、親として過ごしばかり文句を言ってやりたいだけなのだ。

グレゴリーの真っすぐな瞳に見つめられ、侯爵もついに降参をした。


「わかった。二人がそれで良いなら、私が言う事は何もない。

 どうか、娘を頼みます」


 侯爵は向かいに座るグレゴリーに静かに頭を垂れたのだった。




~・~・~




 晴天の空の下、ヘンリエッタとグレゴリーは共に手を取り、神の名の元で晴れて夫婦になった。

 ハソシオン辺境伯爵の地で行われた挙式には領民も駆けつけ、和やかな中おこなわれた。

 王都で誰よりも華やかにと願った父の意見は真っ二つに切り刻まれ、それならば挙式など行わないと言うヘンリエッタの言葉に、父が折れた形だ。

 ならばせめてドレスくらいは豪華にとの願いも却下され、剣の練習を続けるヘンリエッタに似つかわしい、動きやすく軽やかなものとなった。

 ドレスの表面は大人しく華やかさは無くとも、その内面は恐ろしいほどに工夫が凝らされている。


「ヘンリエッタ。今日も短剣を?」

「ええ。もちろんですわ、グレゴリー様。毎日私の右足には短剣が忍ばせてあります。

 しかも、普段使いではなく夜会などの華美なドレスにも対応できるよう、脇に手を差し込める穴をつけておりますのよ。ほら!」


 ヘンリエッタは得意げにドレスの脇の穴に手を入れると、短剣を握り「カシャン」と音を立てた。


「これならドレスをまくらずに武器を取り出せますわ。グレゴリー様はこの私がお守りいたします。どうかご安心を」


 にっこり微笑むヘンリエッタの顔が眩しくて、グレゴリーは少しだけ眩暈を覚えた。


「そうか、ありがとう。でも、俺は自分の身は自分で守れるほどには強い自身もあるし、何より。妻になったヘンリエッタの事は、俺が守りたいと思っているんだけどね」


「……、あら。私も自分の身は自分で守れますわ。グレゴリー様の手を煩わせることはありません。お気持ちだけありがたくいただいておきますわね。ありがとうございます」


 見下ろす先には今しがた妻となったばかりのヘンリエッタの笑顔が咲き誇っていた。

 あれから婚約期間中もこの地に通い、剣の稽古……と言うより、指南を受けていた。

 元々才能はあったのだろう、女にしておくのはもったいないと思うほどには腕が良い。

 いや、良すぎて問題がある。


「まさか寝所には持ち来ないとは思うが……」


 ポツリと呟いたグレゴリーの声は多くの民の歓声に消え、ヘンリエッタに届くことはなかった。

 それでも、枕下やシーツの下は入念に探るようメイドに言いつけようと思うグレゴリーだった。



「グレゴリー様。私、あなたの妻になれて本当に幸せです」


 邪な考えをしていたグレゴリーに、不意に投げかけて来るヘンリエッタの笑顔。

 それは本当に幸せそうに光輝き、世界一の花嫁の姿を纏っていた。


「ヘンリエッタ、愛しているよ」

「グレゴリー様、私も愛しています」





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恋に弱気な辺境伯爵は、侯爵令嬢に愛を乞う 蒼あかり @aoi-akari

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