第2話 Night Dreamer - Intermission
金曜の夜、gabbyで次のシーズンメニューについてトシさんと話し合っていた僕は、はたと気が付いた。
――上海ガニのシーズンが、終わろうとしている。
と言っても、上海ガニが食べたいわけではない。小ぶりで、身をとるのに根気が必要な上海ガニは、食べている間無言になりがちなので、人と食べるにはあまり向いていないんじゃないかと僕は思う。そうではなくて僕の目当ては、上海ガニのシーズン中にだけ出回る、
遅く起きてきたエイジをブランチに誘うと、行くというので、外苑前の上海料理店に、散歩がてら歩いて向かう。小籠包で有名なその店は、毎年10月から翌年の2月迄に限り、蟹味噌小籠包を出していた。
「朝食作ってくれたのに、起きなくて悪かったな」と言うエイジに、ううん、と首を振る。
「休みの日くらい好きなだけ寝ればいいじゃん。むしろ、ほっとしたよ。睡眠足りてないんじゃないかって心配だったんだ。冷蔵庫入れといたからさ、明日の朝にでも食べてよ。――エイジ、カニ大丈夫だよね?」
頷いたエイジは、僕を見た。「昼間っからカニ食うのか?」
「蟹味噌小籠包だよ。この時期しか食べられないんだ」
「上海ガニか。ギリギリだな」
「そうなんだよ。でもこの店は2月末迄扱ってて、味もすっごく美味しいんだ。今を逃すと10月迄待たなきゃいけないから、エイジにも是非食べてほしくって」
熱を込めて薦める僕に、エイジは笑って、「それは楽しみだな」と言った。
紅葉の季節は賑わう並木道も、落葉した今の時期はすっかり落ち着き、歩く人はまばらだった。昼になっても気温は上がらず、吐いた息は梢に向かって白く立ち上っていく。静かだな、と思ったその矢先、前方で数人の高い笑い声が響き、そちらに目を向ける。
向かいから、大学生くらいの五人の男女が
腕を掴み寄りかかったり、肘をぶつけ合ったりとふざけながら歩く、彼らの手に視線を向け、歩くペースをやや落とし、そのまますれ違う。
それから、顔を上げ、この間に少し先へ進んだマフラーのたなびくエイジの背中に、足を速めて追いついた。
店の外から見える入り口付近のメニューボードには、蟹味噌小籠包と大きく書いてあった。
店内は暖房がよく効いていて、暖かかった。案内された、通りに面した窓際の席に座る。
「蟹味噌小籠包は絶対として。焼き小籠包でしょ、
メニューを開いて嬉々として説明する僕に、エイジは笑って「お薦めに従うよ」と言うから、調子に乗って、僕の好きなものばかり頼んでしまった。
オーダーを取りメニューを下げていく店員を見送って、大きく開放的な窓の外に目を向ける。太陽は全く姿を見せず、景色は
店の中を見回し、エイジは言った。
「上海の朝食を思い出すな」
「上海、行ったことあるの?」
「ああ」と彼は頷いた。「仕事で2週間だけな。向こうの連中は朝食をしっかりとるから、連れられて、何度か一緒に店に行ったんだ。
「へえ~、いいね!屋台?」
「いや、屋台じゃなくて、オフィス近くの路面店だ。家族で経営しているような小さな店だがローカルの人気店とかで、いつ見ても行列が出来てたんだ。屋台はな、衛生面の問題で、今ではほとんど見かけないらしい。だが美食街と呼ばれる所に行けば、両端にずらりと飲食店が並んでるんだ。食べ歩きなんかはそっちで楽しめる」
彼の言葉に、食べ歩きしているエイジを思い浮かべ、ふふっと笑う。
「いいなあ。僕も見てみたい。街に勢いがありそうだよね」
「そういうダイナミズムみたいなのは」と、考えながらエイジは言った。「以前に比べたら、落ち着いてきてるだろうな。観光して回ったわけじゃないから狭い見聞での感想だが、見た限り、既に東京と同じかそれ以上に発展してきてる。都市としては成熟期に入ってるんじゃないかな」
肘をつき、長い指を組んで言うエイジは、普段僕が目にすることのない、オンタイムの彼の顔つきをしていた。かっこいいなと、素直に思う。
「海外にはよく行くの?」
尋ねた僕に、エイジは答えた。
「よく、の頻度がわからないが、年に数回だな。ほとんどがビジネスで、でなければ家族絡みだが」
エイジは生まれこそ日本だが、幼少期のほとんどを海外で暮らしている。母親はアメリカ人で、両親は今もL.A.にいるし、二人の姉もそれぞれ別の国に拠点がある。千葉の九十九里浜沿いにある小さな町で、ばあちゃんとのんびり暮らしていた僕とは、生まれも、育ってきた環境も、全く異なっていた。
「今思ったんだが、お前に見せたい景色や連れて行きたい店が、いくつもあるような気がするんだ。プライベートで行こうなんて思ってもみなかったが。そのうち、お前と旅行に出かけたいな」
そう言うエイジに、黙って微笑む。
「ダメか?」
「ううん。海外は……トシさんと相談だけど、国内なら、余程離島じゃなきゃ平気だよ」
僕の症状は、時に意識や短期間の記憶の消失を伴うことがある。最近ではめったに起こらないとは言え、万が一海外でそれが起こると、同行者に多大な迷惑をかける恐れがあった。
皆まで言わずとも、その辺りの事情を察しているのだろう。「国内でいいんじゃないか。何かあったらすぐにトシさんを呼べる方が、お前も安心だろうし」と言ったエイジは、優しい眼差しをこちらに向け、続けた。
「――本当は、俺は場所なんてどこでもいいんだ。一緒に景色を見て共に過ごせればそれでいい。きっとどこだって素敵だ」
青菜の炒め物やそら豆、焼き小籠包が運ばれてきて、最後に、湯気の立つせいろに入った、熱々の蟹味噌小籠包が登場する。
冷ましながら一つ食べ、「美味いな。今まで食べた中で一番な気がする」と言うエイジに、ドヤ顔で「でしょ?」と答える。
一つ頬張り、薄皮を破れば、中から蟹味噌のまろやかな甘味が加わった濃厚な蟹のスープがじゅわわっと滲み出てくる。蟹味噌入りの餡の肉汁とともに、旨味が口いっぱいに広がった。
「ん~。美味しい。ああ幸せ」とにんまりする僕の向かいで、エイジもまた笑顔を見せている。
テーブルいっぱいに並んだ料理に圧倒され、頼みすぎたかな、と思ったが、油っぽくないせいか、順調に箸が進み、皿は次々と空になっていった。
顔を上げ、前を見ると、さっきからずっとエイジはニコニコしていた。
「なんだか楽しそうだね」
「楽しいさ。俺の可愛い人が、いつにも増してご機嫌だから」
ためらいなく答えるエイジに、思わず振り返って辺りを見回し、近くに店員の姿を見つけて焦る。
「ちょっと!店員さんに聞こえるって」と小声で
ただでさえ、エイジは人目を引く。
「――そう言えばさっき、銀杏並木でサークルっぽいグループとすれ違ったじゃない?あの中に、腕組んで歩いてる男の子たちがいたの、気付いてた?」
思い出して口にした僕に、エイジは表情を変えることなく、いや、と短く答えた。
「本当は良くないけど、すれ違いざまに、つい観察しちゃったんだ。指輪、してた。お揃いのやつ。……ジェネレーションギャップなのかな……。ちょっと感動しちゃって。僕が大学生の頃は、普通の男女の集まりの中でああいうのって、怖くて絶対に出来なかったもん。最近、街中で、ごく自然に振る舞うオープンなカップルを見かけることが何度か続いてるんだよね。ここにきて、流れが急速に変わってきてる気がするな」
僕の話を聞いたエイジは、目線を宙に向け、考える素振りを見せた。「――この後、指輪見に行くか?」と真っ直ぐに微笑むから、顔をしかめ、「馬鹿」と返す。
「違う。そうじゃなくて、
エイジを相手に、珍しく熱弁をふるっていた。
僕自身は、秘密を抱えたまま無難な人生を送ることを、とうに放棄していて、ゲイであることをオープンにして働いているし(そう出来ることを最優先に職場を選んだ)、親しい友人は全員、僕がゲイであることを知っている。けれども勿論、世の中にはそう出来ない人がたくさんいて、彼らの日常に多数の困難と脅威が待ち受けていることも、理解しているつもりだ。だから、この潮流がこのままの勢いで続くことを、僕は今、切に願っている。
「混ざるってことは、最初は
「エイジは基本、
「まあ……わざわざ自分から説明することはないな」
それはそうだよな、と思う。僕と違って、エイジは女性にも性的関心を持つことが出来る。その状況であえてオープンにしなければならない理由は、特に見当たらない。
「尋ねられれば、偽ることはないけどな。誰も訊いてこないんだ。声をかけてくるような男でもない限り」そう言うエイジに「……へえ」と相槌を打つと、僕の視線に気づいた彼は、しまった、というような顔をちらりと見せたが、すぐに表情を戻して続けた。
「職場の話をするとな、うちの会社では、
滑らかな磁器のカップに入った、食後の生姜湯を手にして飲みながら、エイジは言った。何でもないことのような落ち着いた口調に、エイジらしいなと思い微笑む。
「そっか。ホームパーティーとか多そうなイメージだから、どうなのかなとは思ってたんだよね」
「パートナー同伴の席はそれほど多くない。話題を選ぶからな。同伴の場合は――アニュアルパーティーぐらいだが――、性別関係なくステディなパートナーを連れて来るだけだ」そう言って、エイジは僕の顔を見た。「俺なら、お前を連れて行く」
ドキりとし、少し目線を外す。
クローゼットと言っても、エイジは、本人が言うように周囲に説明する機会がないだけで、実際には僕なんかよりよっぽどオープンな男だ。例えば、彼のスマホのロック画面(ホーム画面もだ)には、僕とのツーショットが設定されている。一方、僕は今まで、周囲にオープンにしている相手と付き合ったことがないから、自分に関しては割とオープンだが、恋人としてパートナーと公の場に出たことはなかった。
――いや、違うな。
これは、マイノリティであるとかないとかじゃない。単に、覚悟の問題だ。
エイジが言うように、パーティーに同席するようなことになるのは、ステディな関係のパートナーだけだ。
そのことに怯む僕には、相手の人生に深く関与していく覚悟が、まだ、出来ていないのだと思う。
切り抜き的短編集 @McCoy
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